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霧島レイコ編
洗い流せない薔薇と、素肌の消毒
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久我さんのマンションに着くと、彼は無言のままバスルームへ直行した。
バタン、と粗雑に扉が閉まる音。
続いて、シャワーの水音が激しく響き始めた。
私はリビングに取り残されたまま、立ち尽くしていた。
彼の背中は怒りで震えているようだった。
霧島レイコに付けられた「マーキング」。
それが、彼にとってどれほどの屈辱なのか、私には痛いほど分かった。
彼は香りに対して誠実で、そして潔癖なほど純粋だから。
「……浅見! タオルを持ってきてくれ」
バスルームから悲痛な叫び声が聞こえた。
私はハッとして、リネン庫から新しいバスタオルを掴み、扉を開けた。
そこには、シャツを脱ぎ捨て、シャワーを頭から浴びている久我さんがいた。
湯気の中、彼は執拗に自分の首筋をボディタオルで擦っていた。
皮膚が赤く爛れるほど強く。
「落ちない……ッ。あの女、何てしつこい香料を使っているんだ」
「久我さん、やめてください! 肌が傷つきます!」
私は思わず駆け寄り、彼の手からタオルを奪い取った。
彼の首筋は真っ赤に腫れ上がり、痛々しい。
それでも、あの人工的な薔薇の香りは、湯気と混じり合ってまだ微かに鼻を突く。
まるで呪いだ。
「放っておけ。……この匂いが残っている限り、僕は僕じゃなくなる」
「だめです。そんな乱暴にしても、香りは落ちません」
彼は濡れた髪のまま、荒い息を吐いて私を睨んだ。
その瞳は充血し、傷ついた子供のようだった。
天才調香師としてのプライドを、土足で踏み荒らされた絶望。
私は覚悟を決めた。
着ていたブラウスの袖をまくり、彼が愛用しているサンダルウッドのボディソープを手に取る。
「私がやります。……だから、力を抜いてください」
泡立てた両手を、彼の首筋に這わせる。
優しく、円を描くように。
彼の強張っていた筋肉が、私の指の温度に触れて少しずつ弛緩していく。
「……美緒」
「霧島さんの匂いなんて、私が全部追い出します。……だから、自分を傷つけないで」
シャワーのお湯が、私の服を濡らすのも構わずに洗い続けた。
薔薇の香りが薄まり、石鹸の清潔な香りと、彼自身の持つ体臭が戻ってくる。
ああ、この匂いだ。
私が愛している、久我さんの匂い。
「……足りない」
不意に、彼が私の濡れた手首を掴んだ。
「え?」
「石鹸の匂いだけじゃ、上書きできない。……お前の匂いが欲しい」
彼は濡れた腕で私を抱き寄せると、そのままシャワーの下へと引きずり込んだ。
頭上から降り注ぐお湯が、私の服も髪も瞬く間に濡らしていく。
「く、久我さん、服が……!」
「構うもんか。……肌と肌じゃないと、匂いは移らない」
彼は私の濡れたブラウスの胸元に顔を埋めた。
冷えた身体を温めるように、必死に擦り寄ってくる。
「……いい匂いだ。落ち着く」
「っ、遥さん……」
「もっとだ。もっとお前の匂いで、僕の全身を包んでくれ。……あの女の痕跡なんて、1ミリも残らないように」
彼は私の首筋に吸い付き、牙を立てるように強く口づけをした。
痛い。でも、その痛みが嬉しい。
これは消毒だ。
彼についた悪い虫を追い払い、私だけのものだと証明するための儀式。
「浅見、僕の背中に爪を立てろ」
「そんなこと……」
「いいから! ……痛みで記憶を塗り替えるんだ」
彼の切羽詰まった声に押され、私は濡れたシャツ越しに彼の背中に腕を回し、爪を立てた。
ギュッ、と抱きしめ合う力が強まる。
シャワーの音が、私たちの荒い呼吸を隠すように降り注ぐ。
「……そうだ。お前は僕のものだ。霧島なんかじゃない」
彼は私の濡れた髪をかき上げ、瞳を覗き込んだ。
そこにはもう、迷いも絶望もない。
あるのは、燃えるような執着と、私への渇望だけ。
「ここから出してやる。……ベッドに行こう」
「でも、まだ身体が……」
「濡れたままでいい。……今すぐ、お前と一つになりたい」
彼は蛇口を乱暴に閉めると、私を抱きかかえるようにしてバスルームを出た。
床に滴る水滴などお構いなしに、彼は私をベッドへと放り投げる。
薔薇の香りはもうしない。
部屋に満ちているのは、二人の熱と、混ざり合った愛の匂いだけだった。
翌朝。
私は久我さんの腕の中で目を覚ました。
昨夜の激情が嘘のように、彼の寝顔は穏やかだった。
首筋には、私が洗い流した痕と、彼自身がつけた赤いキスマークが残っている。
(……勝った)
私は小さくガッツポーズをした。
霧島レイコがどんなに高級な香水をかけても、心までは奪えなかった。
彼が最後に求めたのは、私だったのだ。
安心して二度寝をしようとした時、枕元のスマホが震えた。
久我さんのスマホだ。
画面に表示された通知を見て、私の血の気が引いた。
『着信:霧島レイコ』
そして、メッセージのプレビューが表示される。
『昨夜は楽しかった? ……でも残念。私が仕込んだのは、ただの香水じゃないの』
え?
どういうこと?
恐怖で固まっていると、隣で久我さんが呻き声を上げて目を覚ました。
「……ん、頭が痛い……」
彼は眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえている。
ただの二日酔いじゃない。顔色が悪い。
「久我さん? 大丈夫ですか?」
「なんだか、嗅覚がおかしい。……鼻が、詰まったように重い」
彼は自分の手の匂いを嗅ぎ、愕然とした表情で私を見た。
「……何も、匂わない」
「え?」
「お前の匂いも、コーヒーの匂いも……何も感じないんだ」
嘘でしょう。
調香師にとって、嗅覚は命だ。
それが失われるなんて。
スマホの画面で、霧島さんのメッセージが冷たく光っていた。
彼女は一体、あの香水に何を混ぜたの――?
バタン、と粗雑に扉が閉まる音。
続いて、シャワーの水音が激しく響き始めた。
私はリビングに取り残されたまま、立ち尽くしていた。
彼の背中は怒りで震えているようだった。
霧島レイコに付けられた「マーキング」。
それが、彼にとってどれほどの屈辱なのか、私には痛いほど分かった。
彼は香りに対して誠実で、そして潔癖なほど純粋だから。
「……浅見! タオルを持ってきてくれ」
バスルームから悲痛な叫び声が聞こえた。
私はハッとして、リネン庫から新しいバスタオルを掴み、扉を開けた。
そこには、シャツを脱ぎ捨て、シャワーを頭から浴びている久我さんがいた。
湯気の中、彼は執拗に自分の首筋をボディタオルで擦っていた。
皮膚が赤く爛れるほど強く。
「落ちない……ッ。あの女、何てしつこい香料を使っているんだ」
「久我さん、やめてください! 肌が傷つきます!」
私は思わず駆け寄り、彼の手からタオルを奪い取った。
彼の首筋は真っ赤に腫れ上がり、痛々しい。
それでも、あの人工的な薔薇の香りは、湯気と混じり合ってまだ微かに鼻を突く。
まるで呪いだ。
「放っておけ。……この匂いが残っている限り、僕は僕じゃなくなる」
「だめです。そんな乱暴にしても、香りは落ちません」
彼は濡れた髪のまま、荒い息を吐いて私を睨んだ。
その瞳は充血し、傷ついた子供のようだった。
天才調香師としてのプライドを、土足で踏み荒らされた絶望。
私は覚悟を決めた。
着ていたブラウスの袖をまくり、彼が愛用しているサンダルウッドのボディソープを手に取る。
「私がやります。……だから、力を抜いてください」
泡立てた両手を、彼の首筋に這わせる。
優しく、円を描くように。
彼の強張っていた筋肉が、私の指の温度に触れて少しずつ弛緩していく。
「……美緒」
「霧島さんの匂いなんて、私が全部追い出します。……だから、自分を傷つけないで」
シャワーのお湯が、私の服を濡らすのも構わずに洗い続けた。
薔薇の香りが薄まり、石鹸の清潔な香りと、彼自身の持つ体臭が戻ってくる。
ああ、この匂いだ。
私が愛している、久我さんの匂い。
「……足りない」
不意に、彼が私の濡れた手首を掴んだ。
「え?」
「石鹸の匂いだけじゃ、上書きできない。……お前の匂いが欲しい」
彼は濡れた腕で私を抱き寄せると、そのままシャワーの下へと引きずり込んだ。
頭上から降り注ぐお湯が、私の服も髪も瞬く間に濡らしていく。
「く、久我さん、服が……!」
「構うもんか。……肌と肌じゃないと、匂いは移らない」
彼は私の濡れたブラウスの胸元に顔を埋めた。
冷えた身体を温めるように、必死に擦り寄ってくる。
「……いい匂いだ。落ち着く」
「っ、遥さん……」
「もっとだ。もっとお前の匂いで、僕の全身を包んでくれ。……あの女の痕跡なんて、1ミリも残らないように」
彼は私の首筋に吸い付き、牙を立てるように強く口づけをした。
痛い。でも、その痛みが嬉しい。
これは消毒だ。
彼についた悪い虫を追い払い、私だけのものだと証明するための儀式。
「浅見、僕の背中に爪を立てろ」
「そんなこと……」
「いいから! ……痛みで記憶を塗り替えるんだ」
彼の切羽詰まった声に押され、私は濡れたシャツ越しに彼の背中に腕を回し、爪を立てた。
ギュッ、と抱きしめ合う力が強まる。
シャワーの音が、私たちの荒い呼吸を隠すように降り注ぐ。
「……そうだ。お前は僕のものだ。霧島なんかじゃない」
彼は私の濡れた髪をかき上げ、瞳を覗き込んだ。
そこにはもう、迷いも絶望もない。
あるのは、燃えるような執着と、私への渇望だけ。
「ここから出してやる。……ベッドに行こう」
「でも、まだ身体が……」
「濡れたままでいい。……今すぐ、お前と一つになりたい」
彼は蛇口を乱暴に閉めると、私を抱きかかえるようにしてバスルームを出た。
床に滴る水滴などお構いなしに、彼は私をベッドへと放り投げる。
薔薇の香りはもうしない。
部屋に満ちているのは、二人の熱と、混ざり合った愛の匂いだけだった。
翌朝。
私は久我さんの腕の中で目を覚ました。
昨夜の激情が嘘のように、彼の寝顔は穏やかだった。
首筋には、私が洗い流した痕と、彼自身がつけた赤いキスマークが残っている。
(……勝った)
私は小さくガッツポーズをした。
霧島レイコがどんなに高級な香水をかけても、心までは奪えなかった。
彼が最後に求めたのは、私だったのだ。
安心して二度寝をしようとした時、枕元のスマホが震えた。
久我さんのスマホだ。
画面に表示された通知を見て、私の血の気が引いた。
『着信:霧島レイコ』
そして、メッセージのプレビューが表示される。
『昨夜は楽しかった? ……でも残念。私が仕込んだのは、ただの香水じゃないの』
え?
どういうこと?
恐怖で固まっていると、隣で久我さんが呻き声を上げて目を覚ました。
「……ん、頭が痛い……」
彼は眉間に皺を寄せ、こめかみを押さえている。
ただの二日酔いじゃない。顔色が悪い。
「久我さん? 大丈夫ですか?」
「なんだか、嗅覚がおかしい。……鼻が、詰まったように重い」
彼は自分の手の匂いを嗅ぎ、愕然とした表情で私を見た。
「……何も、匂わない」
「え?」
「お前の匂いも、コーヒーの匂いも……何も感じないんだ」
嘘でしょう。
調香師にとって、嗅覚は命だ。
それが失われるなんて。
スマホの画面で、霧島さんのメッセージが冷たく光っていた。
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2021.08.13
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