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4 ヴァンパイアは子供、それでいて大バカ

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 翳のカーテンを踏み、隠し扉に手を当てる。力を入れると次の瞬間には本の樹海に佇んでいる。道の終着点には、制服を纏ったヴァンパイアが座している。白い照明を自ら浴びていくように歩く僕に、立花は本を閉じて組んでいた足を解いた。
「今日はいつもと違うね。告白でもする気?」
「告白するのは君だよ」
「とうとう変なこと言いだしたね」軽口の応酬を横切り、ポケットに入れたスマホの液晶を書斎机の上にさし出した。立花はそれを目にして、瞬きを静かにすると、乾いた笑い声で鳴いた。静謐の澱が本の樹海に張った根の部分からあふれ出てきて、僕と彼女を沈ませる。照明は海中みたく頼りないまま、かろうじて互いの姿がわかるだけの明るさを保っている。
「ストーカーよね、これ。通報していい?」
「できるものならどうぞ」立花は席を立つと「参ったなぁ」と小声で言った。観念したように“夜の街で色白の少女がピンクの看板を下げた店に入るところ”が映った液晶を僕に手渡して、机のうえに足裏を置くとそのまま身を乗り出し、僕の前にすとんと降りる。薔薇色の唇に雪のような指をあてる。ばれちゃったら仕方ないな。
「私、ヴァンパイアじゃなくてサキュバスなんだ」
 おどけた声で言う彼女は笑っても泣いてもいない。果たして澱が書斎を満たし、ふたつの息の泡だけが列をなして上がっていく。腕をまえに掲げると当たる距離は見かけよりずっと長く、そのくせして互いの容姿や性格、思いは形をもって触れられる。踏み出すように問いだす。
「いつから、こんなことを?」
「父さんが死んでからずっと。内田家の人からはお金なんて一銭も送ってもらえなかったし、この家も失いくなかったからしょうがなかった」
「なんで風俗なんだよ」僕は語気を荒げる。
「そこらのバイトじゃ足りない」彼女も呼応して声を張り上げる。
「なんで誰にも相談しなかったんだよ!」
「こんなこと相談できるわけない!」
 慟哭はそこらの本で反響して降り注いでくる。大雨に打たれたみたいに身体は強張っている。ふたりの泡がまじりあいひとつになって上昇していくのを横目に、僕は彼女の手を強引に掴んだ。今度はちゃんとバトンを渡せられるように力いっぱい、立花は短い悲鳴をあげる。筋肉質の肌色の手と今にも折れそうな色白の手が溶け合い、僕はふりかえり走り出した。静止の命令を右から左へと聞き流し、隠し扉を足で蹴飛ばすと薄暗い廊下を駆けぬける。光の波に足が浸って、玄関扉を開くと陽光が大波となって押し寄せてきた。背後で甲高い声が聞こえた。そのままコンクリートを靴下のまま横断し、雑草が腰のあたりまで伸びきった空き地に、少しの加減をくわえて立花を放り投げた。草に半身を呑み込まれた少女は、大きく胸を上下させていた。
「ほら立花、日光の感想をどうぞ」
 彼女は不満げな顔をしていたが、逡巡をするように唇をぼそぼそと動かしたのちに、ため息をつくと日に手をかざした。
「……いた、きもちいい」
「やっぱヴァンパイアじゃないじゃん。あと、君に色気なんてないからサキュバスでもない」
「失礼だね」少女は日光に身を晒しながら、指の間にのぞけた僕を見ていた。
「君は、ただの子供だよ。その年で頼ることを知らない子供だ」
「じゃあ、どうしろっていうの」
「母さんに頼んだ。とりあえずは俺の家で住むことになったから。家とかもろもろは内田家の人に死んでも吐き出させてやるって息巻いてたよ」
 突如、立花は笑い出した。口を限りなく開け、疲れては深呼吸してまた笑ってを繰り返した。訝しげな眼を向けると、彼女はいやさ、と息を吸った。
「こんな簡単に解決するなんて、私バカだなって思って」
「大バカだよ」しばらくのあいだ、立花は雑草の臭いを堪能するように転げまわった。横切った人々は僕たちに一度、目をやっては再び歩き始めた。昼の鐘が鳴ったときにようやく「ちょっと、手貸して」と言われた。手を差し伸べると、彼女は体を起こそうとしてまた雑草の中へと呑まれた。みると膝が笑っていて、生まれたての小鹿みたいだった。
「私、走ったの生まれて初めてかもしれない」
「え、まじで」呆然としている僕に立花は言った。
「ほんとだ、私まだまだ子供だ」
 色白の肌は日光に透かされて淡い赤を浮かしている。薔薇色の口からは荒れた息がしきりにこぼれ、天に昇っては空気に溶け込んでいった。少女はやっと僕の手を借りて立ち上がると口の端をあげた。
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