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千年狩り ドラゴンの子 下巻

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二階堂は嫌な予感を感じていた。

それもとても強い予感である。

最初は、龍夜がドラゴンの子と呼ばれる存在に殺されてしまうからかと思ったが、やがてこの嫌な予感は、龍夜には関係が無いことに気がついた。

二階堂はゆるく椅子に座った。

一旦気持ちを落ち着かせると、そこでさらに神経を集中させる。

龍夜でないとしたら、悪い予感の対象が魍魎丸ではないかと考えたが、それも違うような気がする。

しかし二階堂が探れば探るほど、それは危険を意味する予感であると、確信が増していくばかりだ。

――危ない。

ある種の大きな危険が、二階堂の知っている誰かに迫っている。

それは間違いない。

しかし龍夜でも魍魎丸でもない。

――危ない。それは確かだ。間違いない。でも龍夜でも魍魎丸でもない。するといったい、誰が危ないというのだ?

二階堂はさらに意識を集中させた。

そのうちに何かが視えてきた。

――なるほど。そういうことか。

二階堂は椅子から立ち上がった。



ゆづきはいつもの日本間で、一人静かに座っていた。

正座をし、両手で印を結び、感覚を研ぎ澄ませていた。

ゆづきは探っていた。

その相手はもちろんドラゴンの子である。

――なんとしてでも、あやつの弱点を探り当てなければ。

その一点に集中していた。

ゆづきは徐々に、これまで以上にドラゴンの子を、その力を感じるようになっていた。

そして知れば知るほど、驚きと恐怖が増すばかりだった。

――強すぎます!

ゆづきがドラゴンの子を感じれば感じるほど、その力の強大さ、そして異様さを知る事になる。

なにしろその底がまるきり視えない。

強いと言うことははっきりとわかるが、あまりにも深すぎて、何処まで強いのかさえ掴みきれないでいるのだ。

一度はその強さをある程度わかっていたつもりだったが、それが完全に間違いであることに気がついた。

それはまるで、冥界へと続く果てしない地獄の底を覗いているかのように、ゆづきには感じられた。

――弱点どころではありません。あまりにも強すぎます!

ゆづきの心は、折れる寸前まで追い詰められていた。

しかしそれでもゆづきは、ドラゴンの子から自らの意識を離さなかった。

――なんとしてでも……なんとしてでも。

ゆづきの顔からは尋常でない汗がとめどなく流れている。

おまけにその小さな体が、小刻みに震えていた。

ドラゴンの子にむけて、自分の全ての意識を、全身全霊でぶつけていた。

――なんとしてでも……なんとしてでも……龍夜様のために!



外では強い風が吹き荒れていた。

その強風の中、神社の外で影が動いた。

影は二つあった。

大きな影と、小さな影。

その二つが静かに神社に忍びよっていた。

しかしゆづきは、近づくその影に全く気づいていなかった。

吹き叫ぶ風のせいもあるが、それ以前に、その意識の全てをドラゴンの子に奪われていたためである。

やがて二つの影は神社の前に立った。



その日、龍夜がちょっとした用事をすませて神社に帰ったころには、真夜中に近い時間となっていた。

前の戦いで龍夜が魍魎丸を投げた時に、魍魎丸の柄の部分が少し壊れてしまったので、なじみの刀匠のところへ行って直してもらっていたのだ。

龍夜と魍魎丸を何故かえらく気に入ってくれているその刀匠が、気を利かせて特に念入りに直してくれたのはありがたいが、そのおかげで家に帰るのが予定よりもずいぶんと遅れてしまったのだ。

龍夜はいつものように石段の下にバイクを停めて、いつもなら歩いて登る石段を、今日は二段とばしで駆け上がった。

ゆづきが心配していると思ったからだ。

そして庭に出て神社を見た時、龍夜の動きが止まった。

――ない?

なにもなかった。
 いつもならここまで来れば、何もせずとも自然に、ゆづきの大きくて優しく暖かい気を感じることができる。

ところが今は、その龍夜の大好きなゆづきの柔らかい気が、全く感じられなかった。

龍夜は走った。

そのまま入り口の戸を蹴破って、ゆづきがいつも座っている部屋に入った。

ゆづきはやはり、そこにはいなかった。

龍夜はあたりを激しく見回した。

するといつもゆづきが座っている場所の後ろの壁に、一枚の貼り紙があることに気がついた。

龍夜は荒々しくそれを引きはがして読んだ。

そこには達筆な字で、こう書かれていた。
 

 〈小僧へ。

 娘はあずかった。返して欲しければ、我が屋敷に来るがいい。もし来なければ、娘の命はなきものと思え。

                         ドラゴンの子〉


『ドラゴンの子』。そう書かれた文字を見た瞬間、龍夜の体の中に激しい怒りがこみ上げてきた。

龍夜は魍魎丸の柄を高々とさしあげると、大きく叫んだ。

「魍魎丸! 出て来い!」

「おう」

激しい紫の炎とともに魍魎丸が姿を現わした。

龍夜が再び叫ぶ。

「探せ! ゆづきの気を探せ!」

「わかった」

龍夜もある程度はゆづきの気を感じ取ることができる。

しかしその点においては、土地神と妖怪が合体した魍魎丸のほうが、一枚も二枚も上手である。

「まだか! 魍魎丸、早くしろ!」

「ちょっと待て。意識を集中させんといかんのじゃからな。早く見つけてほしくば、ちっと静かにしておれ」

龍夜は待った。

龍夜には一分が一時間にも感じられていたが、何も言わずに魍魎丸を高々とさし上げたまま、体をぴくりとも動かさずにいた。

魍魎丸を握る手に汗が浮き出してきている。

そしてその顔にも、粘っこい汗が滲み出ていた。

そして龍夜にとってはとてつもなく長い時間が過ぎたと思われた時、魍魎丸が叫んだ。

「見つけたぞ!」

「どこだ!」

「西じゃ。ここから真っ直ぐ西の方角じゃ」

「でかした。行くぞ」

神社を出て走る龍夜に、魍魎丸が言った。

「行くのはいいが、果たしておぬしとわしとで勝てるのかのう」

「行く。たとえ勝てないとしても、俺は行く。俺は死んでもいい。しかしゆづきはこの命に代えても、必ず助ける!」

「……わかった。仕方がないのう。おぬしがそう言うのならな。こうなれば、このわしもとことんつきあうぞ」

「じじいも死ぬかもしれないぜ」

「なに、おぬしとなら、わしはかまわんぞい」

「なに言ってやがる。こんなくそじじいと心中なんて、まっぴらごめんだぜ」

「ぬかせ、こいつめ」

龍夜はバイクにまたがった。

魍魎丸の刃が、そのすがたを消す。

龍夜は魍魎丸の柄をズボンの後ろのポケットに力強く刺しこむと、そのままヘルメットもつけずにバイクを急発進させた。

バイクは夜の闇の中を爆走した。



暗く湿っぽく、それでいて豪華な宮殿のような部屋。

男が独り大きな黒いソファーに座っている。

伯爵である。

突然女が入ってきた。リリアーナである。

リリアーナが言った。

「あいつらが来ます!」

「来るか」

「はい、もうすぐです」

「そうか、わかった。今すぐにヴォルフガングとクリフトフを呼んで来い」

「はい、伯爵様」

軽く一礼してリリアーナが部屋を出る。

伯爵はその後ろ姿をじっと見送った。伯爵は冷たく笑っていた。



ややあって、二人の男が部屋に駆け込んできた。

「お呼びでしょうか、伯爵様」

「なんなりとお申し付けください、伯爵様」

伯爵はソファーから立ち上がり、二人を交互に強く指さしながら言った。

「よいか、二人とも。一度しか言わないから、よく聞くのだ。あいつらがもうすぐやって来る。決っして油断するな。最初から全力であたれ。そしてどんな手段を使ってもよいから、必ずやつらを一人残らず殺せ!」

「わかりました、伯爵様」

「必ず殺します、伯爵様」

二人は深く一礼をすると、走って部屋を出て行った。



一台の大型バイクが、中世ヨーロッパの宮殿のような大きな洋館の前に停まった。

龍夜である。

その長い黒髪が激しく乱れていた。

龍夜はバイクから降りると、手ぐしで軽く髪を整えた。

魍魎丸が言った。

「こんなところに、こんな大きなお屋敷があるとはのう」

「この屋敷は前にテレビで見たことあるぜ。名前は忘れたが、どっかのごりっぱな財閥の御曹司とやらの家だぜ」

「そうか、ちっとも知らんかったわい」

「ああ、働きもせず親の脛を出っ歯でかじりまくり、親の金で建てた屋敷を自慢げにマスコミに披露していたお坊ちゃまの屋敷だ。間違いない」

「さすればそのお坊ちゃまとやら、殺されてしまったのかのう」

「それはないぜ。そんなことをすれば、今頃大騒ぎになってるぜ」

「と言うことは……」

「おそらく今は奴らの仲間だ。ただやつらに住処を提供するだけの駒だぜ」

「そうか」

「ああっ、お坊ちゃまのことはどうでもいい。それよりゆづきだ。ここまでくればさすがに俺でもゆづきの気が十分感じ取れる。間違いなくこの中にいるようだな」

「ああ、おるわい。しかも無傷でいるようじゃな。心の気はさすがに少し乱れておるようじゃが、体の気は全く乱れておらんな」

「そのようだな。やつらゆづきを連れ去ったが、荒っぽい真似は一切しなかったようだな。その点だけはとりあえず感謝しておこうか」

「なにをのん気なことを言っておる。やつらそのうちに、ゆづきを殺すやもしれんぞ」

「わかってるさ。それじゃあ行こうか」


龍夜は屋敷の真ん中にある一番大きな扉、正面玄関と思われるところに向かって歩き出した。

魍魎丸が慌てる。

「おいおぬし、正面から行くつもりなのか?」

「どうせ俺が来るのは、わかっているさ。奴らが呼んだんだからな。今さらこそこそしてもはじまらんぜ」

「まあ、そうじゃな。おぬしの言うとおりじゃ」

龍夜がズボンの後ろポケットから、魍魎丸の柄を取り出す。

「はなから全開でいくぞ。おまえももう出て来い」

柄の先から紫色の炎と共に、魍魎丸がその姿を現わした。



龍夜は魍魎丸を右手に持つと、正面玄関の前に立った。

そしてその大きな扉を押した。扉は音もなくゆっくりと開いた。

龍夜は中に入って行った。

正面は広い吹き抜けのホールとなっていた。

中央に二階に上がる幅広の階段が見える。

右に一つ大きな扉があり、左に二つ小さなドアがあった。

「左だな」

龍夜が言った。

「そうじゃ」

魍魎丸が答える。

龍夜は左に向かって歩き出した。その時である。

階段の裏から、一人の男が出てきた。

いかにも高級品といった感じのスラックスに、これまた値だけは張りそうなド派手なトレーナーを着ていた。

それは龍夜には、人が服を着ているというよりも、人が服に着せられているように見えた。

「うわさをすればなんとやら。さっき言ったお坊ちゃまだぜ」

「あいつがそうか」

「ああ」

その御曹司は、顔色が少し青白いことを除けばごく普通の若い男に見えた。

そしてこちらに向かって静かに歩いてくる。

そしてその顔に恐ろしいまでに表情というものがない。

まるで蝋人形が歩いているようである。

しかし二人の前まで来たとき、その顔が一変した。

眼がつり上がり、それ以上に口の両端が限界を超えてつりあがる。

そしてその口からは、何か獣の唸りに似た声が漏れてきた。

――ああいうの、昔見たことあるぜ。

龍夜は思い出していた。

――あの時のあいつと、同じだ。

その昔、龍夜が八歳のことである。

山からの帰りに、見るからに異様な犬に出くわした。

歯をむき出して低く唸り、よだれをだらだらとたれ流しながら近づいてきた大型犬である。

それが狂犬病に冒され、飼い主をかみ殺した雄のセントバーナードであると龍夜が知ったのは、後のことである。

その犬に似ているのだ。

表情、特に眼が。

そして身体全体から発するオーラが驚くほど似ていた。

そこにあるのはただひとつ、野性的な狂気のみだった。

――同じ失敗を繰り返すわけには、いかないな。

あの時、龍夜は剣の修行のため、山に入っていた。

手には選りすぐりの硬い樫の木から作られた木刀を持っていた。

子供用ではなく大人が使うもので、祖父の代から三代にわたって受け継がれてきたものだ。

そして突然襲いかかってきたセントバーナードの眉間めがけて、龍夜は全体重を乗せた木刀を振り下ろしたのだ。

並の子供、いや並の大人でも勝負は明らかだ。

木刀一つでは狂犬病のセントバーナードに、まず勝つことはできない。

だが龍夜は並の八歳児ではなかった。

その一撃で龍夜より大きなその犬は地面にぶったおれ、二度と起き上がることはなかった。

しかし龍夜はあの時、無駄に犬を殺してしまったことを後悔していた。

――こいつは吸血鬼になりたてだ。だったら何とか助けられるかもしれない。

見れば御曹司はいつの間にか両手を床につけ、四つんばいになっていた。

「がるるるるるる」

顔は人間だが、声は畜生だった。

そして二本の手で床を強く叩き、同時に二本の足で床を蹴った。

人間ではとうてい不可能な高さまで飛び上がると、そのまま龍夜に向かってナイフのようにすとんと落ちてきた。

龍夜はほとんど動かなかった。

ほんのわずかだけ身体を左に避け紙一重のところでかわすと、御曹司が着地した瞬間、その首に向けて魍魎丸をすぱんと振り下ろした。

御曹司はそのままうつ伏せに床に倒れ、動かなくなった。

魍魎丸が言った。

「まだ息があるようじゃな」

「ああ、みねうちだ。気絶させただけだぜ……で、じじい、こいつの気だが、どんな感じだ? 特に今までの奴らに比べて」

「うむ、人間でない邪悪なものに操られてはおるが、まだほとんど人間の気じゃな。そこがいままでの奴らと、大きく違うようじゃな」

「やっぱりそうか。で、こいつは吸血鬼になってまだ日が浅い。親玉を倒したら人間に戻ると思うか」

「必ずとは言えんが、戻っても不思議ではないのう」

「そうか」

龍夜は再び、あの犬を思い出していた。

――あいつの代わりといっちゃあなんだが、こいつだけは助けてやりたいぜ。

龍夜はそのまま御曹司を見ていた。

その時である。

――来る

龍夜が飛んだ。

次の瞬間、何かがさっきまで龍夜のいた場所を、一瞬で駆け抜けた。

それはとてつもない速さで移動したかと思うと急に止まり、龍夜のほうに振り返った。

それは狼であった。

いや正確には狼ではない。

そいつは首から上は完全に狼となっていた。

しかもその頭は通常の狼よりもひとまわりは大きものであった。

しかし顔以外の裸の上半身は、狼と言うよりほどんど人間と言ってよい姿である。

ただ人間と大きく違うところがひとつあった。

それは全身に濃い灰色の深い毛がはえていることだ。

そしてその体の中でも、胸板の厚さと首と肩まわりの筋肉の発達が、尋常ではなかった。

それは人間がいくらボディビルで鍛え上げたとしても、これほどの筋肉を身につけることは、到底不可能であろうと思えるほどの筋肉の量である。

下半身には黒い皮のズボンをはいていたが、その上からでも上半身と比べると、ほっそりとしていることが見てとれた。

その足の丸みは人間の足に近い膨らみ方をしていたが、その関節の曲がり方は、明らかに四足動物の後ろ足のそれである。そして何よりその身長が、ゆうに二メートルは超えていた。それほどの巨体でありながら、先ほどは疾風のような速さで龍夜の横を駆け抜けて行ったのだ。

そしてその巨大な狼の右手には、一振りの剣が握られていた。

それは西洋流の両刃の剣で、それもバスタードソードと呼ばれている剣である。

バスタードとは私生児を意味する。

刺突型の剣と切斬型の剣との両方の特性をもち、雑種、混血の剣ということからその名がついた。

名が示すとおり両手でも片手でも使用でき、斬るにも突くにも適している。

それだけに自分の手足のように使いこなすにはかなりの熟練を要するが、もし使いこなすことが出来れば、これほど実践的な武器は他に無い。

前に戦ったカルロスと言う男が使った大鎌とは対極にある武器である。

それを構えて狼男が言った。

「やはり弱い人間を吸血鬼にしても、戦力としては役に立たないようだな。伯爵様のおっしゃるとおりだ」

「出やがったな」

「おうっ、我が名はヴォルフガング。きさまとあい交えること、楽しみにしていたぞ。小僧、神妙に勝負しろ!」

龍夜がその半獣半人の男を鋭い眼で見据えた後、にやりと笑った。

「一対一でか」

「一対一だと言いたいところだが、もうわかっているだろう。もう一人いることを」

「うん、僕ちゃん、それ知ってるよ」

「こいつ、ほんとにふざけた野郎だ。その減らず口、きけないようにしてくれるわ。クリフトフ、出て来い!」

その声に答えるように、上から何かが音もなく落ちてきた。

そして亡霊のようにふわりと移動し、龍夜の後ろに立つ。

ヴォルフガングの立っている位置とは真反対の方だ。

そいつは姿かたちはヴォルフガングとほぼ同じだった。

ただわずかばかりだがヴォルフガングに比べると、体が全体的に丸みをおびている。

人間で言うと、やや小太りといったところか。

そしてさらに違うところは、その身長である。

ヴォルフガングと比べてかなり低く、仮に日本人の女性と比べたとしても、低いほうにあたるくらいの身長しかなかった。

そしてそいつは右手にはモルゲンスタイン、左手にはマン・ゴーシュを持っていた。

モルゲンスタインはモーニングスター(明けの明星)とも呼ばれている武器で、鉄の棒の先に無数の棘がはえた鉄球がついている武器である。

相手の体にあたれば棘が肉にささり、同時に鉄の玉で骨を砕くというしろものだ。

そして左手のマン・ゴーシュは、龍夜にとってはさらに注意を要する武器である。

基本的には鋭利な刃先で相手を貫く短剣であるが、刃のつけねの両側に、日本の十手の根元にあるような敵の剣を受け止める特殊なくぼみが、左右に二つついている。

敵が下手に切りつけてそのくぼみに刃先が入れば、そのままひねって相手の剣をへし折ることができるという、異形の武器だ。

使いこなすには、双方ともにバスタードソードと同様、かなりの熟練を要する武器である。

しかしクリフトフと呼ばれるその男は、それを右手と左手に一つずつ持っているのだ。

龍夜が二人を交互に見た。

「前回に引き続き、あいも変わらずまたデコボココンビかい。しかし体力勝負の前の奴らと違って今回は、二人とも構えが見事にさまになっているな。どう見ても、強ええぜ。まいったなあ。勝つのはそうとう厳しいかも」

魍魎丸が言った。

「龍夜よ。人間はどうせみな、一度は死ぬんじゃから。でもその前に、やることはちゃんとやっとかんとのう」

「いいこと言うぜ、くそじじい。ほんと、そのとおりだぜ。ここは当たって砕けろだ。気合入れて行くぜ!」

そして龍夜は、魍魎丸にだけ聞こえるように、小さな声で言った。

「俺の考えていることは、わかっているよな。チャンスは一度しかないぞ。失敗すれば二人ともあの世行きだぜ。くれぐれもタイミングを間違えるなよ」

魍魎丸が答える。

おう、わしにまかせとけ――

龍夜は体をクリフトフの方にむけた。そして走った。

「クリフトフ、行ったぞ」

「まかせろ」

クリフトフはモルゲンスタインとマン・ゴーシュを構えなおした。

――さて、どうくる。

基本的には、マン・ゴーシュで魍魎丸を受け止めた後、マン・ゴーシュをひねってその刃を折り、それと同時にモルゲンスタインを龍夜の頭に叩き込むのが定石である。

決まれば龍夜と魍魎丸を同時に倒すことができる。

しかしクリフトフは考えた。

――あの小僧は、すでに仲間を三人も殺している。それも自分は何のダメージを受けることなく。身体能力はもちろんのこと、その剣術の腕の方もなかなかたいしたものだ。あいつならそれくらいの戦術など百も承知だろう。

ヴォルフガングはしばらく走る龍夜を黙って見ていたが、ふと勝機を感じ、龍夜に向かって走った。

龍夜がクリフトフとやりあっているその隙に、後ろから攻撃をしかけようと考えたからである。

龍夜は魍魎丸を上段に構えると、真っ直ぐにクリフトフに突っ込んで行った。

そしてそのまま魍魎丸を、クリフトフの頭上めがけて思いっきり振り下ろした。

――なんだと、バカな。いや、バカかこいつは。

クリフトフはマン・ゴーシュで魍魎丸を受けた。

魍魎丸はマン・ゴーシュの刃上を火花を発しながら滑り、根元にあるくぼみの中にすぽりとはまった。

と同時に、龍夜が魍魎丸でマン・ゴーシュを力強く押した。

マン・ゴーシュは魍魎丸に押されかけたが、クリフトフが踏ん張り、魍魎丸を下から力いっぱい押し返した。

一瞬、龍夜が魍魎丸を押す力とクリフトフがマン・ゴーシュを下から突き上げる力が、同じとなった。

――今だ!

クリフトフはマン・ゴーシュをひねって、魍魎丸の刃を折ろうとした。

それと同時にモルゲンスタインを龍夜の頭をめがけて横殴りに振った。

次の瞬間、魍魎丸がマン・ゴーシュを押す力が、突然なくなった。

マン・ゴーシュを下からめいいっぱい押し上げていたクリフトフの体が、マン・ゴーシュとともに軽く浮いた。

下を向いたクリフトフの目の端に魍魎丸が見えた。

それは刀の柄の部分だけとなっていて、刃の部分が完全に消えていた。

龍夜はクリフトフと逆に、マン・ゴーシュを押していた魍魎丸の刃がなくなったために、その上半身が前のめりに倒れていった。

そしてクリフトフより身長が高い龍夜の頭が、クリフトフのあごの下まで下がってく。

クリフトフが力強く振り回したモルゲンスタインが、龍夜の頭上をかすめて空しく通りすぎた。

その時クリフトフの目の下で、紫色の光が強く輝いた。

次の瞬間、クリフトフの腹を激痛が襲った。

――なにっ?

見れば、さっきは完全に消えていたはずの魍魎丸の刃が再びその姿を現わし、クリフトフの腹を真っ直ぐ貫いていた。

――しまった!

クリフトフは気がついた。自分の油断をつかれたことを。

マン・ゴーシュの使い手にとって一番隙が出来る時、あるいは喜びに体が震える瞬間は、敵を倒した時でもなく、相手の武器をへし折った時でもない。

それはマン・ゴーシュで相手の刃物を完全に捕らえた時なのだ。

クリフトフはリリアーナの水晶玉を通して、龍夜がカルロスとドウシャンの二人を相手に戦っているのを見ている。

その時、魍魎丸の刃の部分が現れたり消えたりするのを、その目でしっかりと見ていた。

――あの奇々怪々な武器には、十分注意をはらわなければならない。

そう心に強く刻んでいたはずだった。

ところがマン・ゴーシュで魍魎丸を捕らえた瞬間、そのことを完全に忘れてしまったのだ。

魍魎丸が言った。

「あとがつかえているんでのう。さっさとに吸わせてもらうぞい」

その言葉のとおり魍魎丸は、クリフトフの血を全て一気に吸いとった。

龍夜が素早く魍魎丸を引き抜く。どたりと倒れたクリフトフの体は、数瞬後真っ白い灰へと変化していった。

龍夜は振り返り、猛スピードで迫り来るヴォルフガングに備えて、魍魎丸を構えなおした。龍夜は思った。

――やったぞ、うまくいったぜ。これで残るはあと一人だ。

次の瞬間ヴォルフガングが龍夜に追いつき、バスタードソードを両手で持ち、全体重を乗せて振り下ろしてきた。

「きさま! よくもクリフトフを」

龍夜がバスタードソードを魍魎丸で受ける。

ガツン

龍夜が予想していた以上の大きな音がした。

そして龍夜の体は振り下ろされたバスタードソードの衝撃に押され、上半身が後方に流れた。

龍夜はバランスを崩し、後ろに倒れそうになった。

そこをヴォルフガングがバスタードソードで、たて続けに攻撃をしかけてきた。

その動きは龍夜には、剣術というよりもなにかしらの舞踊を踊っているかのように見えた。

見ようによっては、一級の大道芸人が道具を使って見せるパフォーマンスにも、見えなくもない。ヴォルフガングはバスタードソードを右手、左手、両手と、目にも止まらぬ速さで次々と持ち替えながら、右から左から、上から下からと、矢継ぎ早に剣を振ってきた。おまけに時折不意に、突きも混ぜてきている。

龍夜はその連続攻撃を、魍魎丸で受けることで精一杯だった。

崩れかけている体のバランスを立て直す暇など、まるでなかった。

反撃など論外である。

後方に倒れるぎりぎりの状態で、さがりたくもないのに徐々に後ろに後退し続けている。

まさに防戦一方であった。

――これはものすごく、やばいぜ。このままではやられてしまう。

そう不安がよぎった龍夜は、ふとあることに気がついた。

それは自分がクリフトフと同じ過ちを犯してしまっていたことである。

クリフトフの最大の敗因は、マン・ゴーシュで魍魎丸を捕らえた瞬間に喜びのあまりに心に隙が出来たことだが、龍夜はそれと同様の過ちを繰り返していたのだ。

一対二で戦う時、一人しかいない戦力の側の人間が一番気を抜くのは、二人を倒した時ではない。

二人のうち一人を倒した時である。

クリフトフを倒した瞬間ほんの一瞬ではあるが、龍夜の心の中にわずかな隙ができた。

そのごく小さな隙を、今目の前にいるヴォルフガングにつけ込まれたのだ。

――自業自得かい。とかなんとか言ってる場合じゃないぜ。このまま好き放題に攻撃されているだけじゃあ、いつかは本当にやられてしまう。

一流のダンサー、あるいはパフォーマーのように素早くそして華麗に動くヴォルフガングを見て、龍夜は考えた。

――こうなったら、一か八かしかない。失敗したら確実に殺されるが、このままでも結果は同じだぜ。

龍夜はヴォルフガングがバスタードソードを両手で上段に構えた瞬間、力を込めて上半身を強く固めた。

そして下半身のほうはそれとは逆に、全ての力を抜いて脱力状態にした。

そこへヴォルフガングがバスタードソードを力強く振り下ろして来る。

バスタードソードと魍魎丸が激しくぶつかった。

次の瞬間、ヴォルフガングが我が目を疑う事が起きた。

ヴォルフガングはバスタードソードが魍魎丸で受けられるところは、はっきりと見た。

ところがその直後、龍夜の姿が一瞬にして目の前から消えたのだ。

――なにっ?

次にヴォルフガングが見たものは、二本の棒のようなものが、下からせり上がってくるところである。

ヴォルフガングは一瞬、それがいったいなんであるのか、まるでわからなかった。

そしてそれが龍夜の二本の足が逆さまになっているものだと気がついた時には、すでに龍夜が魍魎丸を構えた状態で目の前に立っていた。

――おのれっ小僧、こしゃくなまねを。

この時になってはじめて、ヴォルフガングは龍夜がどう動いたのかがわかった。

下半身の力を全て抜いていた龍夜は、バスタードソードの振り下ろされた力を利用して、床に向かって背中から一気に倒れた。

そしてそのまま背中、肩、頭を使って体を一回転させて、ヴォルフガングの前に再び立ったのだ。

龍夜が言った。

「ふう、これでやっと最悪の状態は、まぬがれたな。危なかったぜ」

「おい、小僧、なかなかあじなまねをしてくれるじゃないか」

「へえーっ、俺が今何をやったのか、もう気がついたのかい。あんたやっぱり、才能あるわ。でも俺が一回転している間は、さすがにそれがわからなかったようだな。あの瞬間に見抜かれたら、何も出来ずに一方的にやられていただろうな。あんたの背が高くてほんと助かったぜ」

身長が高い者が自分より低い者を攻撃するときは、やや見下ろすかっこうになる。

しかしそれでも目の前の相手が瞬時に床に倒れればそれを目で追うことは、背の低い者と比べればやはり難しいであろう。

身長のある者は背の低い者より、下方に対して基本的に死角が大きいからである。

龍夜はそのことを言っているのだ。

ヴォルフガングは龍夜の言った意味を、全て瞬時に理解した。

――うれしいぞ、うれしいぞ、この小僧。ここまでこの俺を楽しませてくれるなんて。思ってもみなかったぞ。

ヴォルフガングの全身の血が、熱くたぎっていた。

彼は遠い昔を思い出していた。

吸血鬼となるその前は、ヴォルフガングは彼の祖国のドイツにおいて、王からも国民からも厚い信頼を受けていた地位も名誉もある騎士だった。

それは勇者と呼ばれて、生きる伝説となっていたほどだ。

敵と正々堂々と戦い、正々堂々と倒す。

一度もおくれをとったことはなかった。

騎士としての自分に大きな誇りを持っていた。

そのナイトの誇りが何百年かぶりに、今よみがえって来ている。

――こいつとは剣だけで、フェアな勝負を貫きたいものだ。

しかしヴォルフガングは伯爵から、〝どんな手段を使ってもいいから、やつらを必ず殺せ〟と命を受けていた。

今の彼の主は、残念なことに祖国ドイツの王ではない。

伯爵が今の彼の主なのだ。

不幸にして吸血鬼となった者は、伯爵に逆らうことが出来ない心と体になってしまうのである。

それがヴァンパイア一族の犯すことの出来ない掟なのだ。

彼の心の中にある種の悲しみのようなものが芽生えはじめていた。

それは彼が吸血鬼になって以来、久しく感じたことのなかった人間らしい感情である。

しかしヴォルフガングは鉄の意志で、その湿った心を振り払った。

そして龍夜の目を鋭い眼で見据えた。

「おい小僧、お前は本当にたいした奴だ。尊敬に値すると言っても、決して過言ではない。私のこれまでの人生においても、お前が最高の剣の使い手だ。お前のような奴とは正々堂々と剣だけの勝負がしたかった。しかし伯爵様は言われたのだ。どんな手を使ってもお前を殺せと。私は残念なことに伯爵様の命令には逆らえない。どんな手を使っても、剣以外の手段を使ってでも、お前を必ず殺す。……どうかこんな私を許してくれ」

龍夜は少なからず驚いた。

仮にも吸血鬼と呼ばれる存在が、こんなにも真っ当なことを言うとは想像もしていなかったからである。

しかもこの男は今、剣だけではなくそれ以外の手を使ってでも龍夜を殺すと、自ら言っているのだ。

剣だけでもよく言って龍夜と同等、へたをすれば龍夜より勝っているかもしれないのに、その上に剣以外のなにかの攻撃をプラスすると宣言しているのである。

――こいつはおそらく吸血鬼になる前は、ひとかどの人物だったのに違いない。その男が剣以外の何かを使うと、わざわざ敵であるこの俺に言っている。しかし剣以外の、いったい何を使うと言うのだ。

龍夜にはわからなかった。

見たところバスタードソード以外の武器はどこにも見当たらない。

隠剣のようにどこかに隠している可能性もあるが、いくら探してもやっぱりその様なものは何も目にとまらなかった。

「では小僧、まいるぞ」

龍夜がそんなことを考えていると、ヴォルフガングが言った。

そしてバスタードソードを構えて龍夜にむかってきた。

それは先ほどと同じく、惚れ惚れするほどの見事な連続攻撃である。

すでに下半身が安定している龍夜だったが、それでもヴォルフガングの攻撃をしのぐだけでせいいっぱいであることに、なんら変わりはなかった。

――くそっ、さっきよりはずいぶんましにはなったが、それでもやっぱりそう簡単には反撃の隙を与えてくれそうにはないな。しかしこいつこの状態から、いったい何をどう仕掛けるつもりなんだ?

ヴォルフガングは両手でバスタードソードを上段に構えると、力強く振り下ろしてきた。

龍夜が魍魎丸でそれを受ける。

二人の動きが一瞬止まった。

その時である。

なにかが横から飛んできて、龍夜の左側頭部に当たった。

強い力だ。

龍夜はその勢いに負けて、よろけて再び体のバランスを崩した。

そこへヴォルフガングが待ってましたとばかりに、バスタードソードの連続攻撃を仕掛けてきた。

龍夜は下半身のバランスをくずしたまま、ヴォルフガングの嵐のような攻撃を受け続けた。

――なんてこった! せっかく捨て身で体勢を整え直したのに、あっと言う間にもとに戻っちまった。これはまじでやばいぜ。……いやそんなことよりも、さっき俺の頭を横から叩いたもの。あれはいったいなんだったんだ。

そう考えながらも防戦一方の龍夜に対して、今度は右側頭部を何かが強く叩いた。

龍夜はさらにバランスを崩して、床の上に倒れた。

「死ね!小僧」

ヴォルフガングが龍夜にむかって、バスタードソードを突きたててきた。

龍夜は床に転がったまま体を横に回転させて、その刃をなんとか避けた。

そしてそのまま床の上を素早く転回し、その体勢のまま片手で床をはじくと、すっくと立ち上がった。

龍夜は少し離れた場所で硬い石の床に突き刺さったバスタードソードを抜いているヴォルフガングを見た。

それは一見前と、どこも変わっていないように見える。

しかし一つだけ前とは大きく変わっているところがあった。

それはヴォルフガングの尻尾である。

通常狼の尾はそれほど長くはない。

ヴォルフガングの尾も最初はそれほど長くはなく、とても攻撃に使えるようなしろものではなかった。

ところが今のヴォルフガングの尾は、まるでムチか何かのように長く延びていた。

今のその尾の先端は、ヴォルフガングの頭の上よりかなり高いところにある。

そしてその尾の先端が、ゆらゆらと左右に揺れていた。

「尻尾か! この狼野郎」

その龍夜の声を聞いたヴォルフガングが笑った。

顔が狼なのでその表情はわかりにくいはずなのだが、その時のヴォルフガングは確かに笑っていた。

「そうさ小僧。この俺には剣での攻撃に加えて、尾での攻撃が可能だ。そのことが何を意味するかは、おまえなら言わずともわかっているだろう。もう遊びは終わりだ。決めさせてもらうぞ。覚悟しろ!」

ヴォルフガングが向かって来た。

相変わらずのバスタードソードによる連続攻撃であるが、龍夜はやはり受け専門で、反撃の機会をつかめないままであった。

――くそっ。こんなことしているうちに、尻尾の攻撃が必ずまた来る。

攻撃はすぐさまやってきた。

ヴォルフガングの太く長いその尾は、今度は龍夜の脳天めがけて、真っ直ぐに振り下ろされた。

それは先ほどとは比べ物にならないほど強烈な一撃だった。

龍夜の身体に電気が稲妻のように走り、その全身がしびれる。

龍夜の手から魍魎丸が離れて床に落ちた。

「とどめだ!」

ヴォルフガングがバスタードソードで突いてきた。

龍夜はまだ思うようにならない体をなんとか回転させてその刃をかわしたが、避けるのでせいいっぱいだった。

龍夜は回りながら床にうつ伏せに倒れた。

「龍夜!」

床に落ちていた魍魎丸が飛んだ。

そしてヴォルフガングの体を貫こうとした。

しかしその魍魎丸を、十分にしなっていたヴォルフガングの尾が、上から垂直に襲ってきた。

「ぐわっ」

魍魎丸は激しく床に叩きつけられた。

「くそっ」

魍魎丸は再び飛ぼうとした。

しかし、するりと伸びてきたヴォルフガングの尾が、すばやくその柄に巻きついた。

「くそっ、離せ! こいつめ」

魍魎丸は必死で暴れたが、ヴォルフガングの尾が柄にしっかりと絡みつき、全く動くことが出来なくなっていた。

「いくら暴れても、無駄なあがきだ。おまえは後でゆっくりと始末してやる。まずはこの小僧からだ」

ヴォルフガングはそう言うと、まだ不自由な体ながらもなんとか起き上がろうとしていた龍夜の背中の上に、どすん、と馬乗りになった。

「おまえは本当にたいした奴だった。おまえとは剣のみで真剣勝負をしたかったと、心の底から思ったぞ。しかしこれも運命だ。しかたがない」

ヴォルフガングはバスタードソードを両手で逆手に持つと、それを龍夜の背にむけて構えた。

「それじゃあ小僧。今度こそ、死ね!」

その時である。

バン、バン、バン、バン、バン、バン

重く乾いた音が、連続してホールじゅうに響きわたった。

「なにっ?」

ヴォルフガングはその体のバランスを崩した。

そして倒れそうになりながらなんとか踏ん張っているヴォルフガングの腰と龍夜の背中との間に、隙間ができていた。

――今だ!

龍夜は右手で床を強く叩いた。

龍夜の体はくるりと反転し、仰向けとなった。

その時すでに、龍夜は両手を構えていた。

その拳は軽く握られ、両手の人差し指だけが、ぴんと真っ直ぐ伸びていた。

そして龍夜は上半身を起こすと同時に、その両の人差し指をヴォルフガングの両目の中に、思いっきり突っ込んだ。

「ぐわーーーっ!」

龍夜の二本の人差し指は、根元まで完全にヴォルフガングの目の中に入っていった。

そしてその指先は、ヴォルフガングの脳にまで達していた。

魍魎丸を捕らえていたヴォルフガングの尾の力が、すっと抜けた。

「今じゃ! きさま、よくもやってくれたな」

魍魎丸は飛んだ。そしてヴォルフガングの背中から腹へと突き抜けた。

その時魍魎丸の刃先が、龍夜の右頬をかすめた。

傷は浅かったが、龍夜の頬から血が少し流れだしている。

――おいおい、このままじゃ魍魎丸が、俺の血まで吸ってしまうぜ。

龍夜が指を抜き、頭を左にかわす。

「死ね!」

魍魎丸はそう叫ぶと、ヴォルフガングの血を一気に吸った。

クリフトフの血を一気に吸ったのは、後ろからヴォルフガングが迫ってきていたからであったが、今回は腹いせに一気に吸ったのだ。

血を吸い尽くされたヴォルフガングは、やがて灰の塊となった。

その灰が崩れて魍魎丸とともに龍夜の体の上に落ちてきた。

龍夜は魍魎丸を右手で持つと立ち上がり、残った体の灰を左手で払いのけながら、魍魎丸に向かって怒鳴った。

「このバカ! くそじいい! おまえもう少しで、俺の顔面を貫くところだったぞ。ちっとは気をつけろ!」

「すまん、すまん。少しばかし、慌てていたもんでのう」

「今度やったら、ただじゃすまないからな。わかったか!」

「わかった、わかった。悪かった。そう怒るな」

「本当に気をつけろよな。……で、それはさておいて」

龍夜は首だけを動かして、横を見た。

そこには男が一人立っていた。

その手には拳銃が握られている。

二階堂進である。

「やっぱり、あんたか」

二階堂が龍夜に歩み寄ってきた。

「ああ俺だ。危ないところだったみたいだな」

「おおっ、うそ、大げさ、まぎらわしい抜きで、危ないところだったぜ。あんたが助けてくれなかったら、こんな色気のないくそじじいと心中事件になっていたところだ。礼を言う。本当にありがとう……おいこら魍魎丸、こちらにおられるお方は、おまえの命の恩人だぞ。黙ってないでおまえも、さっさとお礼を申し上げないか」

「わかった。確かに命の恩人じゃ。二階堂さんとやら、お礼申し上げる」

「よしよし、魍魎丸はいい子だ……で、おっさん、こんなところに何しに来たんだ」

二階堂は苦笑いした。

「命の恩人になっても、おっさんは変わらんのか……まあそんなことはいいとしてだ、カンだよ、カン」

「聞くだけやぼだったな。さすが異能力者だ。俺の身に危険が迫っていることを、察知したわけだな」

「おまえじゃない」

「へっ? 俺じゃないって」

「なんじゃあ、わしかあ。残念じゃったのう、龍夜。刑事さんはおまえなんかより、わしの方が好きみたいじゃな」

「魍魎丸でもない」

「なんじゃと、わしじゃないじゃと」

「だったら、誰だい?」

「残るは一人しかいないだろう」

龍夜と魍魎丸が同時に言った。

「ゆづきか!」

「そうだ、ゆづきだ」

「おっさんはゆづきの身の危険を感じて、こんなへき地の山奥深いド田舎の字大字まで、わざわざやって来たって言うのか」

そう言った龍夜は、二階堂には何故かとても嬉しそうに見えた。

「そうかあ、そうだったのかあ。おっさんやっぱり俺の思ってたとおり、ロリコンだったんだな。危ねえ、危ねえ……ちょっとお、冗談だよ。そんなににらむなよな。そんなことより、とにかくこれはものすごくいいことを聞いた。おっさんはゆづきの危機を感じ取れるというわけか。いやあーっ、ほんとによかったぜ」

龍夜がぽんぽんと二階堂の肩を叩く。

二階堂が聞いた。

「何がそんなに、よかったんだ?」

「まあ、その話は後だ。今はゆづきを助けるのが先だ」

「で、そのゆづきは何処にいる?」

その二階堂の言葉を聞いた龍夜は、なぜかひどく驚いているように見えた。

ややあって龍夜が言った。

「……おっさん、ゆづきの危機は感じ取れるのに、ゆづき自身の気は感じ取れないのかい?」

「そうだが……それがどうかしたか?」

「あっちゃーっ、まったくなんて異能力なんだ」

「なにが、あっちゃーっ、だ。いったい何をそんなに驚いている」

魍魎丸が口をはさむ。

「まあ言ってみれば、一流の懐石料理はうまく作れるが、カップラーメンはうまく作れない、みたいなもんじゃな」

龍夜が続いた。

「そうそう、マウンテンバイクの競技で優勝するのに、ママテャリはうまく乗れない、みたいなもんだな」

「そういうものなのか」

「そういうものじゃ」

「うん、そういうもんなんだ……まっ、それはそうとして、俺も魍魎丸もおっさんと違ってゆづきの気は感じられるぜ」

「でもおぬしとわしとでは、ミサイルと竹やりくらい違うぞい」

「うるっせえなあ、じじい。こんだけ近ければ、ほとんど変わらないだろうが……って、こんな事でもめてる場合じゃなかったな。それじゃあゆづきを助けに行くぜ」

龍夜は歩き出した。

玄関ロビーの左のほうに二つの扉が見える。

龍夜はその奥の扉の方に歩いて行った。

二階堂が何も言わずに龍夜の後について行く。

龍夜は扉の前に行き、その扉を開けた。

そこは暗く細い廊下である。

龍夜はその廊下を進んで行った。

二階堂が後に続く。龍夜は一つめの扉の前を通り過ぎ、奥にある二つめの扉の手前で立ち止まった。

「うーん、ここだな」

龍夜は壁の一点を見つめると、そこに向かって魍魎丸を突きたてた。

「ぎゃっ!」

壁の向こうから、高く短い叫び声が聞こえてきた。

龍夜は何事もなかったかのように、ドアノブに手をかけた。

「うんっ? なんだあ。いっちょまえに、鍵がかかっているじゃないか。偉そうに。そういうことなら、せーので、はい」

掛け声とともに、ガテャリ、と鍵の開く音がした。

龍夜はただドアノブを掴んでいただけだというのに。

――なんだ? 今いったい何を、どうやったんだ……こいつ、こんなわけのわからん手品を使って、俺のマンションの鍵も開けたんだな。もしこいつが本気で泥棒しようと思ったら、まさにやりたい放題だ。

二階堂はそう思った。

龍夜は二階堂の思いに気づかないまま鍵の開いたドアを開け、部屋に入った。

続いて二階堂が中に入る。



そこはうす暗くて、この屋敷の大きさから見ればあまり広くない、と言うよりかなり狭い部屋である。

二階堂は部屋に入ってからまず、魍魎丸の突き刺さっているあたりを見た。

そこには女がいた。

胸のところが大きく開いた黒いドレスを着た、白人の豊満で若く美しい女である。

その女は壁を背にして立っていた。

そして魍魎丸がその女の胸のところを、後ろから真っ直ぐに貫いている。

魍魎丸の刃は先ほどよりさらに赤く染まっていた。

二階堂が見ている目の前でその女は白い灰となり、崩れて床の上に落ちた。

「おう、ゆづき。こんなところにいたのか。かくれんぼはもう終わりだぜ。この龍夜様が助けに来てやったぞ」

二階堂が龍夜の方を見ると、部屋の奥にある小さなクローゼットの中にいたゆづきを、龍夜が助け出しているところである。

ゆづきは手と足を縛られ、さるぐつわをかまされていた。

龍夜はいったん外に出て魍魎丸を引き抜くと、それを使ってあっという間に、手足の紐とさるぐつわを残らず切って落とした。

「龍夜様!」

ゆづきが龍夜に抱きつく。

「おうおう、ゆづき。さぞ怖かったろうな、かわいそうに。ごめんな、助けるのが遅くなってしまって。ちょっと農道が混んでたもんでな」

「龍夜様。必ず助けに来てくれると、信じておりました」

ゆづきはその大きな目から、大粒の涙を流していた。

その顔は、これまでに二階堂が見てきた十歳の少女らしからぬ大人びた顔ではなく、まるで三、四歳の子供のような幼く無邪気な顔で泣いていた。

龍夜は優しくゆづきの背中をさすっている。それはまるで優しい父親とそれに甘える幼子のように、二階堂には見えた。

しばらくすると、龍夜がしっかりとしがみついているゆづきをゆっくりと体から離し、その顔を覗き込んでにっこり笑った。

「ゆづき、あと一人残っている。とんでもない化け物がな。お前だけでも逃げろ」

「いやです! ゆづきはけっして龍夜様のおそばを、離れませぬ。死ぬ時はいっしょでございます!」

「ばかやろう! もし仮に俺が死んで、お前まで死んでしまったら、九龍の血はどうなるんだ。お前だけは、なにがなんでも生き延びろ!」

「……」

ゆづきは何も言わなかった。

ただその大きな目にいっぱい涙をためたまま、龍夜の目を見つめている。龍夜がまた優しく言った。

「ゆづき、お前はいい子だ。俺を困らせるな。わかってくれるよな」

「……はい」

「そうか、わかってくれたか。ありがとう。おいおいそんな目をするな。俺は必ずあいつをやっつけて、お前のところに帰ってくる。必ずだ。俺を信じろ。それともゆづきは、この俺の言うことが信じられないのか」

「いいえ……ゆづきは龍夜様の言うことなら、全て信じます」

「よしそれじゃあ何も心配せずに、今すぐここから逃げろ」

「はい……龍夜様」

「それっ、行けっ、ゆづき!」

ゆづきはゆっくりと歩き出した。

そして入り口のところで涙を浮かべた目で龍夜の目をじっと見つめた後、部屋を出て行った。

龍夜はゆづきの出て行った入り口をしばらく見つめていたが、やがて言った。

「ふうっ、行ったな。とにかく最低限の目的は達成したぞ」

「ゆづきを助けることだな」

「おうよ。まあ、あとはおまけみたいなもんかな。って、そういうわけにもいかないんだよなあ、これが」

「おい、ちょっと聞いていいか。何故壁の向こう側から、あの灰になった女の立っていた場所がわかったんだ」

「気だよ」

「さっき言っていた、あれか」

「そうだ。ゆづきは視る力を持っている。そしてさっきの女も同じ力を持っていた。二人の気は、びっくりするくらい似ていたぜ。少なくとも〝視る〟力だけは、二人ともほぼ同じだったみたいだな。ただゆづきの気は柔らかくて優しくて暖かい。しかしあの女の気は、ほとんどゆづきの気と同じなのにもかかわらず、針のように鋭く、そして氷のように冷たかったんだ。だからすぐにわかったぜ」

「そうか、わかった。気を探る力とは便利なものなんだな。ついでに聞くが、ゆづきを逃がしたのはいいが、ここは人里からはかなり離れているぞ。十歳の少女の足で、一人で無事にこの夜の山道を帰ることができるのか」

「その点は全く心配はないさ。確かに十歳の少女だが、りっぱな九龍一族の娘だ。ああ見えても走るのはべらぼうに速い。普通の大人が全力で百メートル走るよりずっと速いだろうな。おまけに何時間でも疲れることなく、走り続けることが出来るんだ。フルマラソンを走らせたら、軽く二時間を切るだろうな。だからここからなら一時間も走れば、無事にお家に帰ることが出来るだろう」

「なるほどな。九龍一族とは、やはりたいしたものだな。……って言うか、フルマラソンで軽く二時間を切るだと! 十歳の少女がか。そんなに速いんなら、オリンピックにでも出たほうがいいんじゃないのか」

「おっさん、何をバカなことを言ってるんだ。それなら俺のほうが断然速いぜ。二時間どころか楽に一時間を……いやいやそんな問題じゃなくて、九龍一族はそんなものには全然興味がないんだ。もののけ狩りが全てなんだ。だいたい有名人なんかになったら、もののけ狩り師としてはあれやこれやどれやと、いろいろと差し障りがあるだろうしな」

「そうか、残念だ。日本の金メダルが一つ増えると思ったんだが」

「おいおいおっさん、まだわかっていないようだな。ゆづきもそうだが、もし俺がオリンピックに出たなら、金メダル一つどころか十や二十は楽勝でいけるぜ。もちろん全部ぶっちぎりの世界新記録でな。それが九龍一族というものさ。もう一度念のために言っとくが、九龍一族は金メダルなんかとはまるで違う次元に生きているんだ」

「わかった。九龍一族がどういうものか、少しばかりわかったような気がする。で、お前、これからどうするんだ」

「決まってるさ。ここの親玉を、ぎっちょんぎっちょんにしてやるぜ……そんで、おっさんはどうするんだ」

「お前につきあうさ」

「やっぱりな。おっさんはそう言うと思ってたぜ。ただし命の保障は全然出来ないけどな。それでもいいのかい」

「それでもいいさ。俺は今、猛烈に血がたぎってるんだ。こんなことは生まれて初めてだ。もし今逃げたら、仮に生き延びたとしても、一生後悔し続ける人生になるだろう。そんな人生を送るくらいなら、ここで命がけの大勝負をやるほうがずっとましだ。その結果、たとえ死ぬことになってもな」

「いってくれるぜ、おっさん。かっこいいじゃん。ロリコンの公務員のくせによ。じゃあいっしょにやっつけに行くか。あの化け物を」

「おう、行こうか」

二人は部屋を出た。

そしてそのまま玄関ロビーに向かった。



龍夜はロビーの中央で立ち止まり、目の先にある大きな扉をじっと見つめている。

二階堂が小声で聞いた。

「あの中にいるのか」

龍夜が扉を見たまま答えた。

「ああ、あの中にいるな」

「いったい何者だ?」

「だから言ったろう。ドラゴンの子、だって」

「そのドラゴンの子、がわからん」

「そうだな。おっさんも、もうすぐ死ぬかもしれないし。言っておいたほうがいいだろう」

「そう、俺には聞く権利がある」

「またあ、権利だなんて。これだから公務員は……って、今はやめとこうか。あいつはドラゴンの子。そんでもってルーマニア人だ。この二つでわからないかい?」

「全然わからんなあ」

「もう一度だけ言うぜ。ドラゴンの子、そんでルーマニア人。これだけ聞けば、ホラーマニアなら誰でもすぐにわかるぜ」

「俺はホラーマニアなんかじゃないぜ」

「あれっ? そうだっけ? ロリコンでスプラッターホラーマニアで、女子高生のブルマフェチだとばっかり思ってたけど」

「おいおい、今はそんな軽口はどうでもいいから、早く教えろ」

「せっかちだなあ。せっかちは女の子に嫌われるぜ。で、話を戻すと、おっさんもあいつのことは十分知っているはずだが」

二階堂がその首を小さくかしげた。

「……いや、最初にドラゴンの子、と聞いてからさんざん考えたが、皆目わからん」

「実は日本人なら、と言うより日本だけじゃなくて世界中で有名だけど、知らない人はほとんどいないだろうぜ。なにせ映画やテレビや小説なんかで、いやというほど出てくるし。とは言っても映画なんかに出てくるあいつと、実際あの扉の向こうにいるあいつとでは、ずいぶんと違うけどな。現実のあいつのほうが、比べものにならないほどはるかに強力で凶悪で、とことんやばい存在だぜ」

「そんなにやばいのか」

「ああ、とんでもなくやばいな。まさに怪物やもののけの、王の中の王だぜ」

「それで、そいつはいったいなんなんだ」

「おっさん、ドラゴンの子をルーマニア語で言うと、なんて言うか知っているか」

二階堂は彼の癖なのか、また小首をかしげた。

「……知らん。俺はルーマニア語なんて、一言も知らんしな」

「俺だってルーマニア語なんて、ほとんど知らないさ。ただ一つ、ドラゴンの子だけは特別だ。いやでも知っている」

「だからそのドラゴンの子とは、どういう意味だ」

龍夜は二階堂に近づいた。そして耳元で小さな声で言った。

「ドラゴンの子をルーマニア語で言うと、〝ドラキュラ〟さ」

「ドラキュラ!」

「そう、その名は〝ドラキュラ〟さ。怪物やもののけの、王の中の王だぜ。最も邪悪な存在ただ一人だけが名乗ることが出来る、まさに悪魔の名前だぜ」

「……」

「これでわかったろう。さっきも言ったけど、映画のドラキュラなんかより、はるかに強力で凶悪で、とことんやばい存在だぜ」

「そいつが、あの扉のむこうにいるのか」

「ああ、いるさ。あそこにな。まったく、東洋の東の端にある島国で、地道に小さなことからこつこつともののけ狩り師をやっていたって言うのに。なにを好き好んでヨーロッパのもののけの王の中の王と、戦わなきゃいけないんだ。ほんと運が悪いぜ。……って、愚痴ってる場合じゃないよな、今は。おっさん、とにかく行くぜ」

「ちょっと待て」

二階堂が、マグナム44の銃弾を補充しはじめた。

「おっさん、ちょっと聞いていいか。なんで日本の刑事がそんなぶっそうなものを、持ち歩いてるんだい」

「ある組織から押収した、大事な証拠物件だよ。もちろんみんなには内緒で持ってきたものだがな」

「なるほど。おかげで助かったぜ。日本の刑事が普段持っているようなちゃちな銃弾では、あのバスタードソード野郎の体を、あそこまで動かすことはできなかったろうな。で、それを持ってきたのも、ありがたい夢のお告げってやつかい?」

「そうだ。正確に言えば、夢ではなくて起きている時のカンだが」

「そんなことはどうでもいいだろ。いちいち人の冗談に律儀に反応するなよな。これだから公務員ってやつは。ただ一応言っとくけど、さっきはそのマグマムのおかげで助かったが、ドラキュラ相手に果たしてどこまで通用することやら」

「ないよりは、少しはましだろう」

そう言いながら二階堂は銃弾を詰め終えた。

「まあ、ないよりはほんのちょびっとだけ、ましかもしれないな。で、準備はできたようだな。おっさん、そろそろ行くぞ」

「おう」

龍夜は扉の前に立った。

黒く大きな観音開きの扉がそびえ立っている。

二階堂が続いて扉の前に立つ。龍夜は力を込めて扉を押した。

扉は音もなく開いた。


そこは暗くて広くて湿っぽく、なおかつ豪華な部屋だった。

中世ヨーロッパの宮殿を思わせる豪勢な内装で、ドーム形の天井の高さもそうとうに高い。

正面にあきれるほど大きな窓はあるが、そこは黒く分厚いカーテンで覆われている。

そしてその広い部屋の中にあるものは、奥の隅に高さが三メートルはありそうなろうそくの燭台が左右に二つ、そして奥の真ん中に――おそらく皮製だろう――真っ黒な大きなソファーが一つ。

ただそれだけだった。

そしてそのソファーの真ん中に、白人の男が独り座っていた。

そしてそれは、老人としか言いようのない男だった。

あれが仮に人間だとしたならば、その年齢はゆうに百は超えているに違いないだろう。

その顔には深いしわが、鋭い刃物で切り刻んだかのように無数に走っていた。

そしてなにより問題なのは、その肌の色である。

透き通るように白いという言葉は、肌の美しい女性に対して使う言葉だ。

しかしそれとは全く違う意味で、その肌は透き通るように白かった。

その白は、たとえ白人の肌だとしても、異様な白である。

そしてその白は、まるで死人の肌のように白かった。

そしてその白は、生気というものを完全に捨て去った上に、相手の生気まで奪いかねない白だった。

男が立ち上がった。

身長は二メートルに少し足りないくらいか。

腕も足も胸板も体のありとあらゆるところが、人間としては不自然なほどに細い。

服は濃い赤色のワイシャツを着て、薄い灰色のスラックスのようなものをはいている。

靴は黒い革靴である。

男が言った。

「ようこそ我が屋敷へ、我が部屋へ。ところでおまえたち、本当にたいしたものだな。ここまでやって来るとは。特にそこの小僧。まさか我が下僕達が全て倒されてしまうとは、さすがのこの我も夢にも思っていなかったぞ」

低くて力強くて、そしていったいどのような声帯があのような声を発しているのかと考えてしまうほど、異様に大きく響く声である。それはまるで、巨大なスピーカーから聞こえてくるような声だった。

「……」

「……」

龍夜も二階堂も何も言わなかった。

いや言うことができないでいた。

目の前にいるドラゴンの子と呼ばれている男を、ただじっと見ているだけである。

気を感じることができる能力を持つ龍夜や魍魎丸はもちろんのこと、その能力についてはないに等しい二階堂までが、その男の体から発せられる強大で凶悪な何かを感じとっていた。

再び男が言った。

「お初にお目にかかる。我が名はもう知っているだろう。ドラキュラだ。ところでおまえたちの名は、なんという。ぜひとも聞きたいものだな」

「……俺の名は、九龍龍夜だ」

「二階堂進だ」

「くりゅうりゅうやと、にかいどうすすむか。それがおまえたちの名か。覚えておこう。その名は我が一族を苦しめたものの名として、今後長きにわたって伝えられることであろうぞ。とても名誉なことだぞ、おまえたち。喜ぶがいい。もちろんこの我が後世に、我の新たな下僕達に伝えるのだがな。ただ、まさか聖騎士団もいないこんな小さな島国で、おまえたちのような連中と戦うことになるとは、考えてもみなかったぞ」

龍夜が叫ぶ。

「きさま! 何故この日本くんだりまで、のこのこやって来た!」

「何故? だと。これはこれは異なことを聞くものだな。我は吸血鬼だ。人間の血を吸うために、決まっているではないか」

「そうじゃない! なんで自分の国を捨ててまで、この日本に来たのかと聞いているんだ」

「それはな小僧、ヨーロッパはもう何百年も住んだからな。いいかげん飽き飽きしてしまったという訳だ」

「いや、だから、そうじゃなくてえ、何でわざわざこの日本を選んだのかと聞いてるんだよ。このタコが!」

「どうして日本を選んだのか、だと。なんだ、そんなつまらぬことを聞いておるのか。その答えは実に簡単なことだ。地球儀を回して、それに向かって我がダーツの矢を投げた。たまたま矢が刺さったところが日本だったのだよ。しかしよくもまあこんな小さな国に刺さったものだと、我ながら感心しておったところだ」

「……」

日本を選んだ理由があまりにもくだらなく、あまりにも想像とかけ離れていたために、さすがの龍夜も何も言うことができなかった。

そんな龍夜を無視するかのようにドラキュラが一人で話を進める。

「で、他に何か聞きたいことは、あるのか……なにもないようだな。では話はもう終わりだ。とにかくおまえたちにはきっちりと礼を返してもらわないと、この私の気がすまないものでね。二人ともその礼は、その命で返してもらうぞ」

ドラキュラはゆっくりとワイシャツを引き裂いた。

そしてそれを投げ捨てると頭を上にあげて、両手を天に向かってさし上げた。

「ふうっ!」

ドラキュラが気合を入れると獣人化が始まった。

体じゅうからぞろりぞろりと太い狼の毛がはえてきて、顔を中心にどんどんその姿を変えていく。

二人が思わず見つめているその前で、ドラキュラが狼人間となるまでにそれほど時間はかからなかった。

その姿は、基本的にはヴォルフガングやクリフトフと、あまり大差はない。

ただ一つだけ大きく違っているところがあった。

それはドラキュラの体毛の色である。

その毛は、血のように真っ赤に染まっていた。

ドラキュラがゆっくりと顔を下ろし、二人を獣の眼で見た。

「さて、いよいよ決着をつける時がやってきたようだな。どちらからでもいいから、さっさとかかってくるがいい。それとも二人いっぺんに、お相手してやろうか。そのほうがてっとり早くていいかもしれんな」

「きさま、おとなしく黙って聞いてりゃいい気になりやがって。この野良犬が。これでもくらいやがれ!」

二階堂がマグナム44を構える。

そして一発撃った。

一発だけ撃ったのは、相手の出方を見ようと思ったからに他ならない。

しかしその一発の弾丸は、二人の予想をはるかに上回る結果をまねいた。

パシッ

何か音がした。

鋭くて部屋中に響く大きな音である。

龍夜も二階堂も、その音を何処かで聞いたことがあるような気がした。

見ればドラキュラが、いつの間にか右手を自分の胸の前に差し出している。

そしてその深く真っ赤な毛で覆われた長い五本の指は、全て閉じられていた。

おもむろにドラキュラがその指を開いた。

何かが指の間からぽろりともれる。

それは堅い石の床の上に落ち、小さな音をたてた。

それは信じられないことに、マグナム44の弾丸だった。

ドラキュラは放たれた44マグナム弾を、素手でつかんでいたのだ。

「……まさか。いくらなんでも、そんなことはありえない」

二階堂は焦った。

再びマグナム44を構え直すと、ドラキュラに向けてもう一発撃った。

パシッ

再びあの音がした。

今度はドラキュラの手は、その顔の前にあった。

二階堂にはその動きはあまりにも速くて、全く見ることができなかった。

そしてドラキュラの手はまた握られていた。

その指をドラキュラが開いた。

コン

と音がして、再び弾丸が床の上に落ちた。

激しく動揺している二階堂をしりめに、龍夜が口を開いた。

「なるほど、わかったぞ」

「何がわかったんだ?」

「あの音の正体さ」

「あの〝パシッ〟という音か」

「ああ、あの音は物体のスピードが、音速を超えた時に鳴る音だ」

「音速? ……だって」

「ああ、そうさ。おっさんだって、あの音はどこかで聞いたことがあるはずだ。テレビやなんかでな。俺が最初に聞いたのはまだ小さい頃に、たしか小一くらいだったが、近所に来たサーカスを見に行った時だったな」

「ムチの音か?」

「そうだ、ムチの音だ。そう俺の知っている限り、手動で音速を作りだすことのできる、唯一の道具だ」

「手動で音速を作り出すことの出来る唯一の道具か……」

「そのとおりだ。ムチ使いがムチを振る。そしてムチを逆にふり戻した時、ムチの先端が一瞬で向きを変える。その瞬間に先端のスピードが音速を超える。その時に、あの音がするんだ。あの音はムチで床を叩いて出していると思っている人もいるようだが、ムチで床を叩いてもあんな音はでない。あの音は空中で鳴っているんだ」

二階堂は何も言えなかった。

二階堂とて刑事である。格闘術はそれなりにマスターしている。

ドラキュラの動くスピードが音速以上、つまり時速千二百二十五キロを超えると言うこと。それが何を意味するのかは、十分すぎるほどわかっていた。

格闘技ではよく、「心」「技」「体」、という言葉が使われる。

まず「心」。――つまり精神力。闘争心を含むその人の性格、あるいは思考パターンや人間の器の大きさなども、その意味の中に含まれる。もちろん大事なことである。

そして「技」。――つまり技術、テクニック。これも欠くことのできない要素である。

そして一番基本的な要素である「体」。――これは普通三つの要素に分かれている。

第一に力、すなわちパワー。

重要な要素だ。

そして防御力、あるいはタフネスさ。

これも無視は出来ない項目である。

そして最後に速さ、すなわちスピード。

実は体の三要素の中では、この速さが一番大事な要素であるのだ。

いくらパワーがあったとしてもその攻撃が遅ければ、相手にその攻撃が当たることはない。

逆にスピードが速ければ、相手がその攻撃を避けることが出来ない。

そして攻撃する側の体の大きさが同じであれば、その攻撃が速ければ速いほど、そのパワーもまさに加速度的に増していくのだ。

つまりドラキュラが音速で動けると言うことは、少なくとも二階堂が戦った場合においては、二階堂の全ての攻撃は受けられるか避けられ、逆に二階堂はドラキュラの攻撃を全部受けることになるのだ。

しかも音速に伴って生まれたとてつもない破壊力を持った、その攻撃を。

この事実の前にはパワーやタフネスさはもちろんのこと、心とか技とか言った言葉ですら、何も意味をなさない。

二階堂は生まれて初めて心の底から戦慄していた。

強いということは龍夜から聞いてはいたが、ドラキュラ力は二階堂の想像をはるかに上回っていた。

あまりにも自分とドラキュラの次元が違いすぎる。

――こんな化け物と、いったいどう戦おうと言うのだ?

二階堂の足がわずかながら震え始めていた。

その時龍夜が言った。

「それにしても、やっこさん、ものすごくタフな体をしているぜ」

二階堂の足の震えが止まった。

「タフな体?」

「ああ、タフな体だ。なんだおっさん、知らねえのか。物体が音速を超える時、どういうことが起きるのかを」

「詳しくは、知らんな」

「物体が音速を超える瞬間、あるものを突き破らなければならないんだ」

「あるもの、とは?」

「空気の壁、音の壁、そのままずばり音速の壁。いろんな言い方があるが、その時、物体が音速の壁を超える時、超える物体は超高密度の空気の壁を、突き破らなければならないんだ。その時の衝撃は、かなりすさまじいものだ。ジェット戦闘機の初期の頃、音速の壁を超えた戦闘機はその瞬間に、のきなみ空中でばらばらになってしまったそうだ。普通の飛行機よりはるかに丈夫に造られていたはずの、金属の塊がだぜ」

「そうなのか」

「ああ。もし普通の体の人間が、音速を超えるパンチを放つことができたとしたならば、その代償としてその拳は、バラバラになっちまうだろうな」

「骨が折れるのか」

「折れるなんてそんな生易しいもんじゃないぜ。骨は細かく粉砕され、皮膚はズタズタになり、肉は小さくミンチになるだろうな。つまり拳そのものが文字通り木っ端微塵になって、なくなってしまうだろうな」

「そんなにすごいのか、音速の壁とは」

「ああ、音速の壁とは、それほどすごいものなんだ。ただの空気の壁なんだけどな。しかしあいつは、自らの体を音速で動かしているというのに、少しもダメージがない。だからタフだと言ったんだ。人間の体とはまるっきり造りが違うようだぜ」

「……」

絶句している二階堂を龍夜はしばらく見ていたが、やがて何事もなかったかのように話を進めた。

「で、おっさん、もう気がついているかい。あいつのことだけど」

「……うん? ああ、あれか。とっくに気がついているさ」

二人はドラキュラのその態度の事を言っていた。

ドラキュラは、自分の目の前で二人が一切行動を起こさずにただ延々と話をしているだけだと言うのに、攻撃はおろか、なんの動きも見せようとはしなかった。

両腕をだらりと下げたままで、一人静かにたたずんでいるだけなのだ。

「おっさん、あれ、どう思う」

「あれは……待っているな」

「なにを」

「俺たちが攻撃してくるのを」

「当たり。でもどうして」

「それは……」

「残念、時間切れ。椅子が回ってしまいました。おっさんには、わからないんだろうなあ。俺にはわかるぜ。日本のもののけにも、たまにだけどああいった輩がいるんだ」

「どういうやつだ?」

「仮に相手に好きなだけ攻撃をさせておいて、その攻撃を全て受けたとする。すると受けられた相手は、どうなると思う」

「……まいった、と、思うかな」

龍夜の声が思わず大きくなる。

「おいおい、いったいなに言ってんだよ、おっさん。ほんと、バカじゃねえの。これは全日本なんとか大会とかいった、試合なんかじゃないぜ。殺し合いだぜ。そのあまりにもリアルな戦いの中で、相手に対して自分の攻撃がまるで通用しないとわかれば、その時攻撃した側はどう思うかって聞いてんだよ」

二階堂が、ややあって答えた。

「……絶望感、かな」

「ピンポン、正解。淡路島日帰り旅行が当たりました。おめでとうございます。そう絶望感、そして恐怖心だ。ああいう輩は性格悪いもんで、人間の絶望とか恐怖とかいったものが、ものすごく大好きなんだ。人によっては奴にまだ何の攻撃もされてないのに、命乞いをする奴もでてくるかもしれないな。そうなればああいった奴には、至福の喜びだろうな。だから待ってるんだ。俺たちの攻撃を。そして俺たちの絶望感と恐怖心を」

「嫌な野郎だな」

「ああ、とことん嫌な野郎さ」

「攻撃してこないんなら……逃げたら……やっぱりダメだろうな」

「ああ、逃げた時点で、相手には絶望感と恐怖心があると思って、喜ぶだろうな。そうなればあいつにとって、目的は達成したわけだし、黙って見逃してくれるほどは優しくはないし、間違いなく後ろから一気に叩き潰されるだろうな」

「やはりな。……それじゃあ逃げてもダメだと言うんならあんな奴と、いったいどう戦おうというんだ」

「ああ、おっさんでは無理だ。残念だがてんで役に立たないな。こうなれば一か八かだが、俺と魍魎丸でやるしかない」

「なにを?」

「音速で動ける相手には、こちらも音速で対向するしかないんだ。それ以外の方法はありえないぜ」

ドラキュラを見ながら話していた二階堂が、思わず龍夜の顔を見た。

「えっ? お前、そんなことができるのか?」

「俺一人ではとても無理だ。魍魎丸の助けがいる」

魍魎丸が会話に加わる。

「つまり、こういうわけじゃな。龍夜は人間ばなれした速さを持っておるが、音速まではとうていいかん。このわしも、わしだけで動こうと思えば動けるし速さにも自身があるが、いくらわしでも音速は無理じゃろうな」

「だから二人で力を合わせるのさ」

「いったいどうやって」

「簡単なことさ。仮に俺が魍魎丸を右に振るとしよう。その時魍魎丸も自分自身の力で右に動くんだ」

「馬力が二つというわけじゃな」

「もちろん、俺と魍魎丸の息がぴったりと合わないと、できないけどな」

「それならだいじょうぶじゃろう。わしと龍夜の仲ならな」

「俺とじじいの仲だから、ちょっと心配なんだぜ」

「うるさいわい。おぬし、やるのかやらないのか。どっちなんじゃ」

「もちろんやるさ。正直言うと、あんまりやりたくはないんだけどな。でもこうなったら、仕方がないぜ」

龍夜の曇った顔を見て、二階堂が聞いた。

「本当は、やりたくないのか?」

「当たり前だぜ。いいか、音速を超えるのは魍魎丸の刃先、つまり円の一番外で俺からは一番遠い部分だけだが、それを根元で振り回しているのは、俺自身の両腕だぜ」

「まあ、普通の人間ならば一振りで、肩から先の骨が全部ばらばらになるじゃろうな」

「俺は普通の人間じゃないから、一振りでそうなることはないが、それでも相当なダメージをくらうぜ」

「そうじゃな。早いとこ決めないと、龍夜の腕がいかれてしまうじゃろう」

「でもほかに、これといって方法はないだろうし」

「ないじゃろうな」

「じゃ、そういうことで。おっさん、ちょっくら行って来るぜ。いい子にして待っててね」

浅く笑った龍夜に、二階堂は力なく返した。

「ああ……わかった」

龍夜はドラキュラのほうに歩み寄って行った。

ドラキュラのほうは相変わらず両手をだらりと下げたまま、人形のように立っている。

龍夜が魍魎丸を上段に構える。

しかしそれは、普通の上段の構えではなかった。

上段は通常は頭の上で構えるものだが、龍夜の腕は背中のところまでまわされており、魍魎丸の刃先は床の近くまでのびていた。

龍夜自身の体も後ろに弓のように大きく反っている。

それは〝これからそのまま上から打ち込みますよ〟と大々的に宣伝しているような構えであり、それ以外の行動は絶対にとることができない構えでもある。

それでもドラキュラは、ただ力なくつっ立ったままであった。

目は一応龍夜を見てはいるが――できそこないのオブジェをなんの興味もなくただ見ている――そんな印象だ。

それはどう見ても、軽く一休みしているとしか思えない態度であった。

龍夜が言った。

「よお、ドラキュラさんよ。こんな状態じゃフェイントもへったくれもねえぜ。これからあんたのどたまに魍魎丸を力いっぱい振り下ろすから、受けられるもんなら受けてみやがれ」

龍夜は体を前に倒すと同時に、魍魎丸をドラキュラの脳天めがけて振り下ろした。

パシッ

パシッ

音速を超えた音が二つした。

二階堂には魍魎丸が叩き込まれるところは、あまりにもそのスピードが速かったために、まるで見ることができなかった。

次に二階堂が見たものは、魍魎丸がドラキュラの額の一歩手前で止まっているところだった。

それはドラキュラがその右手一本で、振り下ろされた魍魎丸の動きを止めていたのだ。

龍夜は心底驚いた。

魍魎丸を避けることはあっても、まさかその手で受け止めようとは、頭の片隅にもなかったからである。

幾多のもののけの身体を切り裂いてきた魍魎丸である。

仮に手で受け止めようとしようとしたならば、その手はぶった斬られてしまうだろうと考えていた。

しかし目の前の現実は違っていた。

魍魎丸はなんの武器も持たないドラキュラのその右手で、いとも簡単に受け止められてしまったのである。

正確に言えば、それは手のひらや指ではない。

それは爪であった。

ドラキュラの長さが二十センチはあろうかと思われる黒く光る鋭い爪が、魍魎丸の動きを止めたのだ。

龍夜が言った。

「びっくりしたぜ、本当に。まさかよけもしないで受け止めてしまうとは、全く考えてなかったぜ。それにしてもあんた、えらく固い爪を持ってるな。魍魎丸でも斬れないなんて」

魍魎丸が続く。

「わしもほんとに驚いたわい。体の一部とは言え、このわしに斬れないもののけが存在するなんて、思ってもみなかったわい」

ドラキュラも続いて言った。

「我も今、少々驚いているところだ。まさかこの世に、我と同じ速さで攻撃してくるものが存在しようとは、思ってもみなかったわ。ただ残念なことに、我のほうがまだ少しばかり速いようだがな。でも嬉しいぞ。こんな戦いができるなんて。本気で戦える相手が今我の目の前にいるなんて。ドラキュラとして生を受けて数百年も経つが、こんなことは初めてだ。で、次はいったい、何を見せてくれると言うのだ」

龍夜は魍魎丸を構えたまま、少し後ろに下がった。

魍魎丸が聞く。

「龍夜、大丈夫か」

「うーん、正直ものすごく腕がいてえぜ。特に肩のところが。でもまだ少しは戦えそうだ。とりあえず、次は横回転でやってみるぜ」

「うまくいくかのう」

「体のひねりを加えられる分だけ、上からよりは速いはずだ。まっ、ぐちぐち考えてる暇があったら、とにかくやってみたほうがいいと思うぜ」

「わかった。やってみるか」

龍夜は魍魎丸を横に構えると下半身を踏ん張り、上半身をひねりはじめた。

その時二階堂は、龍夜のその細い身体が常人と比べて、異様と言っていいほど柔らかいことに気がついた。

まるで骨など存在しないかのようにも見える。

それはゴム人形をひねったものにも似ていた。

龍夜はそのまま野球のバットスイング、いやそれ以上の回転を加えて、魍魎丸を横に振った。

パシッ

パシッ

再び音速を超える音が二つした。

しかし魍魎丸は、またもやドラキュラの爪にその動きを止められていた。

「ふむ。小僧、確かにさっきよりは少しは速くなったぞ。もう少しで止めそこなうところだったわ。しかしそれでも、我よりはわずかばかりだが遅いようだな。それで次は、どうしようというのだ。いったいどのようにして、我を楽しませくれるというのだ」

龍夜が再び少し下がる。魍魎丸が言った。

「あれでもだめだったか。それで龍夜、腕のほうは大丈夫なのか?」

「えーん、、お父ちゃん、さっきよりももっと痛いよう」

「……そうか。それで、次の手はあるのか」

「バットスイングがだめなら、ゴルフスイングがあるさ。パワーだけならあれが一番だぜ。見てのとおり、相手は受ける気満々だしな」

「やるのか」

「やらいでかい! それじゃあファイト一発、いくぜ!」

龍夜は魍魎丸をゴルフのクラブのように構えた。

そして柔らかい体でプロゴルファー以上に体をひねると、十分に上半身を回転させてから、下から魍魎丸をドラキュラに向けて、思いっきり打ち込んだ。

パシッ

パシッ

再度、音速を超える音が二つした。

そして魍魎丸は、またもやドラキュラの爪で受け止められていた。

しかしさっきと少しばかり違う感触に気がついた龍夜が、魍魎丸の刃先を見た。

すると魍魎丸の刃先は、ドラキュラの爪にしっかりと食い込んでいた。

「なんだと!」

ドラキュラ思がわず叫ぶ。

その体は怒りのためか、わなわなと震えている。

「小僧! よくも……よくもこの我の大事な爪を、傷つけてくれおったな。許さんぞ!」

パシッ

音速を超える音がした。

それはドラキュラが左手で、龍夜が魍魎丸の柄をつかんでいる手を強く叩いた音である。

あまりの痛みと勢いに、龍夜は思わず魍魎丸をその手から離してしまった。

パシッ

再び音がした。

今度はドラキュラが、龍夜の胸のあたりをアッパー気味に殴りつけた音だった。

二階堂は目を疑った。

龍夜の身体がこちらに向かって飛んでくる。

そしてその体は二階堂の頭上を軽く越えて、入り口近くまで飛ばされて行った。

高さはゆうに七、八メートルはあっただろう。

とてもじゃないが、人間の身体が何かの衝撃を受けたために飛ぶ高さではない。

龍夜の身体はそのまま石造り床の上に思いっきり叩きつけられた。

「龍夜!」

二階堂が龍夜に駆け寄る。

「大丈夫か、龍夜」

「うーん」

龍夜はなんとか起き上がろうとしていた。

その時である。

パシッパシッパシッパシッパシッパシッパシッ

音速を超える音が、連続して聞こえてきた。

二階堂が音のするほうを見た。

龍夜も上半身を起こして、音のするほうを見た。

二階堂には最初、それはいったい何が起こっているのか、よくわからないでいた。

ドラキュラの胸の前あたりに魍魎丸が浮いている。

そして魍魎丸は浮いた状態のまま、ものすごい速さで上下に小刻みに動いていた。

さらに見続けて、二階堂はようやく気がついた。

それは魍魎丸がドラキュラの音速の攻撃を――正確に言えば硬く黒い爪による攻撃を――上からそして下からと連続して受けているところである。

魍魎丸が浮いているのは、自身の力で浮いているのではなかった。

下に落ちる暇もなく攻撃を受け続けているので、浮いているだけである。

パシッパシッパシッパシッパシッパシッパシッ

何回その音が続いたろうか。

時折小さな声ではあるが、鋭い悲鳴のようなものが聞こえてくる。

その声の主はまぎれもなく魍魎丸のものである。

龍夜がなんとか立ち上がり、細く搾り出すように言った。

「こいつは、いけねえ」

その時突然、音速を超える連続音が聞こえなくなった。

見ればドラキュラは攻撃するのをやめていた。

空中に浮いていた魍魎丸が床の上に落ちた。

それは刃の部分が消えて、柄の部分だけになっていた。

「あちゃーーっ、やばいぜ。魍魎丸がやられちまったぜ」

「まさか、死んだのか」

「いや、死んではいない。わずかばかりだがまだ気が感じられる。気を失っているだけだ。ただダメージがかなり大きいな。あの様子じゃ再び日本刀となって戦うまでには、ちょっとばかし時間がかかりそうだぜ」

「時間がかかるって、どれくらいだ?」

「うーん、二、三、ってところかな」

「二、三分か」

「いやいや、二、三日だな」

「そんなにかかるのか!」

「ああ、少なくとも今回の戦いにおいて、魍魎丸が再び参戦することは、じぇんじぇんなくなっちまったな。ドラキュラが二、三日待ってくれるんなら、話は別だけど。交渉しても多分無理だな、こりゃ」

「それじゃああの化け物相手に、どうやって戦うんだ。まさか……素手でか?」

「素手じゃあ絶対無理だ。百回やったら、百回負けるぜ」

「それじゃあーー」

「慌てるな、おっさん。まだ手がなくなったわけではないぜ」

「どんな手が?」

「武器を造る」

「武器を造る……だって?」

「そう、武器を造る……ただそれには、言いにくいんだけど、ちょっとばかし時間がかかるんだな、これが」

「ちょっとばかしって、どれくらいだ」

「それが、まるでわかんねえ」

「なんだって!」

「とにかく俺が武器を造っている間、なんとかあいつの動きを止めといてくれ」

「いったい……どうやって?」

「うーん、それはおっさんにまかすぜ」

「無茶言うな!」

「うるせえ! ごちゃごちゃうるせえぜ、おっさん。このままじゃあ二人ともお陀仏なんだ。これにかけるしか、他に方法はないんだぜ。やるのか、やらないのか、いったいどっちなんだ!」

「……わかった。自信はないが、できる限りやってみよう」

「よっしゃぁ、話は決まったな。それじゃあがんばってね。素敵なおじさま」

そう言うと龍夜は左ひざを床について中腰に座ると、右のひじを曲げて硬く握った拳を自分の額に当てた。

そして目を閉じると、小さな声でなにやら呪文のようなものを、ものすごい速さで呟きはじめた。

ドラキュラはその間、床に転がった魍魎丸の柄を見ていた。

倒したという実感がないことはないが、気を見る能力がほとんどないために自信が持てないでいたのだ。

この日本刀の刃物が突然現れたリ消えたりすることは、リリアーナの水晶玉を通して知っている。

おまけに飛ぶこともできる。

だから油断して魍魎丸に背を向けた時に、後ろから襲われることを警戒していた。

しかししばらく様子を見た後、ようやく魍魎丸が再びその姿を現わすことがないと確信した。

ドラキュラが顔を上げて二人を見る。

その眼の中には激しい怒りの炎があった。

ドラキュラはもともと凶暴で残忍だが、そのうえとてつもなくプライドが高かった。

自分はヨーロッパ一、いや場合によっては世界一の怪物だと自負していた。

自分を傷つける者など、この世に誰一人いないと考えていた。

ところが今夜龍夜と魍魎丸に、自慢の爪に傷をつけられてしまったのだ。

中には半分以上横に切れ目が入ってしまった爪もある。

――よくも我の体に傷をつけてくれたな。あいつら、絶対に許さん!

もうこれ以上遊ぶつもりはなかった。

絶望と恐怖を感じる暇もなく、一瞬で葬りさるつもりでいた。

二人は少し離れた場所にいた。

一人は立ってこちらを見ている。

二階堂である。

その二階堂の表情には、戸惑いと恐怖の色が見てとれる。

そしてもう一人、ドラキュラの爪に傷をつけた張本人は片ひざをついて目を閉じ、そして右手の拳を額に当てて何かを懸命に呟いていた。

――あの小僧、いったい何をやっているのだ? まあいい、どうせすぐに殺すのだから。何をやっていたとしても、もう関係あるまい。

ドラキュラが二人に向かってゆるりと歩き始める。

二階堂はドラキュラがこちらに向かって歩いてくるのを、ただ見ていた。

――どうする?

二階堂は思わず龍夜に声をかけた。

「おい、奴がやって来るぞ。まだか。早くしろ!」

その声に対する反応は、なかった。

龍夜は相変わらず目を閉じ拳を握りしめて、なにかをぶつぶつと呟くばかりである。

――ええいっ、こうなったら、もうやけくそだ。

二階堂は歩き始めた。

こちらに歩いてくるドラキュラのほうに向かって。

その手にはしっかりとマグナム44が握られていた。

ドラキュラは少しばかり驚いた。

明らかに怯えていたと思われた男が、こちらに向かって表面上は平然とした顔で歩いて来るではないか。

しかしドラキュラが戸惑っていたのは、ほんの短い時間である。

やがてドラキュラは鼻で笑った。

――こやつ、単なるはったりか。それとも我に勝てるとでも本気で思っているのか。どちらにしても、こいつは傑作だ。

ドラキュラはその歩みを止めなかった。

このままでは二人の対決はもうすぐかと思われた時、二階堂が真横に走った。

そして壁際まで来るとドラキュラに向かって叫んだ。

「やーいやーい、この野良狼、バカ狼。くやしかったら、ここまで来てみろ」

ドラキュラはしばしの間二階堂を横目で見ていたが、やがて龍夜に眼を向けた。

――ふん、やはりな。あやつにこの我と戦う力なぞ、微塵もない。あんなつまらん奴は後まわしだ。先に小僧のほうを始末してくれるわ。

ドラキュラがそのまま龍夜に向かって行く。

そしてもう少しで龍夜にたどり着けると思った時、ドラキュラの後頭部に何か冷たいものがあたった。

――なんだ?

その直後

バン

乾いた大きな音が、広い部屋中に響きわたった。

「ぐわっ!」

何か硬く小さなものがドアキュラの頭蓋骨を突き破り、その脳に傷をつけ、そして再び頭蓋骨に穴を開けて、外へと出て行った。

限りなく不死身に近いドラキュラのことである。

それぐらいでは死に至るようなことはない。

しかし全くダメージがないかと言えば、嘘になる。

強烈な痛みがドラキュラの頭を襲った。

「くそっ!」

ドラキュラは振り返った。しかしそこには誰一人見当たらない。

次の瞬間、今度はドラキュラの右目を何かが覆った。

バン

再び乾いた大きな音が響く。

「ぎやっ」

その時、ドラキュラの短かった尾が、急に長く伸びた。

そしてその尾が、ドラキュラの周りをなぎ払った。

「うわっ」

ドラキュラが声のほうを見ると、そこには二階堂が倒れていた。

――こいつ、いったいどうやって?

二階堂はすでに起き上がろうとしている。

そこをドラキュラの尾が上から襲った。

「ぐっ!」

二階堂は頭に攻撃を受けて、苦悶の表情を浮かべて床に倒れ、体をよじった。

その足にドラキュラの尾が巻きつく。

二階堂の体はそのまま上に落ち上げられた。

その高さはドラキュラの頭より高かった。

そしてドラキュラが、大きく反動をつけて尾を振った。

「わっ!」

二階堂は飛んだ。

人間の身体が飛んでいるとは思えないほどの激しい速さで。

その体は石造りの壁に強く叩きつけられ、床に落ちた。

二階堂はそのままぐったりと動かなくなった。

ドラキュラは少なからず驚いていた。

ドラキュラには気を感じる能力はほとんどなかったが、かわりに狼になったその耳は人間の何十倍、いや何百倍もの聴力があった。

ドラキュラが少し前に二階堂を見た時は、二人の距離はある程度離れていた。

その状態で二階堂が近づいて来たとしたならば、硬い石の床を革靴で歩くその足音が聞こえないはずはない。

百歩譲って、仮に特殊な技術かなにかでその足音を完全に消すことができたとしても、人間ほどの大きさのものが近づいて来たとするならば、その体が空気を切るわずかな音がドラキュラに聞こえてきたはずだ。

足音でもかなり困難と思えるのに、その上に空気を切る音まで消すことができる人間など、どこにもいるはずがなかった。

しかし現に二階堂は、足音をたてずにその上に空気を切る音さえも消して移動し、身をかがめてドラキュラの背後にまわっていたのだ。

――まさかこんな人間がこの世に存在するとは、全くもって信じられんことだ。本当に驚いたぞ。でもまあよいわ。あやつはもう死んだのだからな。あと小僧一人だ。それにしても頭が割れるように痛いわ!

無理もなかった。

ドラキュラの頭を44マグナム弾が、二発も貫通していたのだから。

おまけに右目を潰されてしまっている。

ドラキュラの怒りは頂点に達していた。

――まっておれよ、小僧。今すぐあの世とやらに、送ってくれるわ。

見れば龍夜は、相変わらずの姿勢でいた。

拳を額に当て、目を閉じて何事かを小さな声で呟いている。

それは周りの音は何も聞こえておらず、目を閉じているせいもあって何も見えておらず、ただ一心不乱に何かを念じている。

そういう様子に見えた。

ドラキュラは龍夜の前に立つと、左手を構えた。

その鋭く長い爪を龍夜の心臓に突き刺すつもりなのだ。

「小僧、いったい何をやっているかは知らんが、そんなことはもうどうでもよいわ。これで終わりだ。死ね!」

その時である。

「お待ちなさい!」

突然声がした。

ドラキュラは声のするほうを見た。

観音開きの大きな入り口のところに小さな人影が、一人ぽつんと立っている。

それは部屋の明るさよりも玄関ロビーのほうが明るいために、完全に黒くシルエットとなっていた。

やがてその影は部屋の中に入ってきた。

その影はゆづきであった。

ゆづきは龍夜を見た。

――龍夜様、何をやっておられるのかは、このゆづきにはわかります。でもまだなのですね。お急ぎください。ゆづきもなんとしてでも、できるだけ時間をかせぎます。

ドラキュラはゆづきをまじまじと見た。

そして思わず笑い出した。

ゆづきは何も言わずに、ただ笑うドラキュラを見ていた。

ドラキュラはそのうちに飽きてきてしまったのか、笑うのを止めた。

そして言った。

「誰かと思えば、こんな小娘がのこのこやって来るとは。この我も、とことんなめられたものだな。しかし小娘、覚悟するがいい。我にむかって来る者は、たとえそれが赤子であろうとも、遠慮なくひねりつぶしてくれるわ」

「言いたいことは、それだけですか」

「何だと?」

「覚悟をするのは、あなたのほうです」

「ほほう、おまえ、なかなか言うではないか。ほんの小娘のくせに。それならお手並み拝見といこうかな」

ドラキュラはゆづきが何かをしてくるのを待った。

しかしゆづきはその場に立ったままで何もせずに、ただじっとドラキュラを見ているだけである。

しばらくお互いに見つめ合った後で、ドラキュラが言った。

「くそう、まだ頭が割れるように痛いわ。おいっ、小娘! 我は今すこぶる機嫌が悪いのだ。お前が何もしてこないというのなら、こちらから行かせてもらうぞ」

ドラキュラがゆづきの方に歩いてくる。

龍夜のすぐ横を通りすぎて、さらにゆづきに近づいて行った。

その時ゆづきが右手を左袖の中に、左手を右袖の中に入れた。

そして両手を袖から出した時、ゆづきの手の中に何かがあった。

それはお札である。ゆづきは梵字の書かれたお札を、左右の手に一枚ずつ、人差し指と中指で挟んで持っていた。

それを見てドラキュラが言った。

「ほほう、それは確か、お札とかいうものだな。そんなただの紙切れを、いったいどうしようというのだ?」

「こうするのです」

ゆづきは二枚のお札を一度に投げた。

それは十歳の少女がただの紙切れを投げたとはとても思えないほどのスピードだった。

お札がまるで弾丸のように、ドラキュラに向かって飛んでいく。

しかしドラキュラのほうが速かった。

ドラキュラは、猛スピードで飛んできたお札を余裕で避けた。

お札はそのままドラキュラの後方に飛んで行った。

それを見てゆづきが言った。

「さすがは、ドラゴンの子、でございますね。この至近距離で放った九龍のお札を、いとも簡単に避けてしまうとは」

「ふん、あんなもの仮に当たったとしても、痛くもかゆくもないわ。わざわざ避けてやったのは、我の速さをお前に見せて、お前が我と戦って勝つことは万に一つも有りえぬということを教えてやったにすぎぬわ」

「確かにその動き、想像を絶する素早さでございます」

「とにかく外れて残念であったな、小娘」

「いいえ、まだ終わってはおりませぬ」

「何だと」

その時ドラキュラは、背中と腰に何かが張り付いたことに気がついた。

そしてその張り付いた何かが、突然大きな炎を発して燃え上がった。

「ぎゃぁ!」

ドラキュラはあまりの熱さに慌てて床を転がり、その炎を消した。

ドラキュラが起き上がるとゆづきが言った。

「ですから申し上げましたでしょう。まだ終わってはおりませぬ、と」

ドラキュラは唸った。

それの唸り声は狼の唸り声そのものであった。

そしてドラキュラが、今度は人間の声で吼えた。

「熱かったぞ! 本当に熱かったぞ! おのれ小娘、いったいどうしてくれようぞ」

ドラキュラはゆづきに歩み寄ろうとした。

するとゆづきが、再び両手でお札を取り出して構えた。

ドラキュラが叫んだ。

「投げてみろ! この小娘が」

ゆづきはお札を投げた。

ドラキュラがお札を楽々避け、そして振り返った。

猛スピードで飛んでいた二枚のお札は、ドラキュラに避けられた後も少しばかりそのまま飛んでいたが、やがて空中でぴたりと止まった。

そして再びドラキュラにむかって来た。

ドラキュラがそれを避けるとまたも空中で止まり、再度ドラキュラに向かって飛んでくる。

ドラキュラはもう一度お札を避けた。

「何度やっても同じだ、小娘」

お札は空中でまたもやぴたりと止まった。

ドラキュラはもう一度自分にむかって飛んでくるであろうお札を見ていた。

その時ドラキュラの背中にまた何かが張り付いた。

それは最初に張り付いたお札と同じ感触だった。

――しまった。

背中を向けているドラキュラに向かって、ゆづきが新たなお札を投げたのだ。

九龍のお札が激しく燃え上がる。

しかしドラキュラは目にも止まらぬ速さで床を転がって、その火を消した。

そして起き上がると、ゆづきをとてつもなく怖い眼で見た。

するとさっきまで空中で止まっていたお札が、今度はドラキュラの首に張り付き、再び激しく燃え上がった。

「ぎゃっ!」

ドラキュラはまたもや床に転がって、炎を消そうとした。

しかし今度ばかりは、首のところで燃えている火を、うまく消すことができなかった。

背中と肩の筋肉が異常に膨れ上がっているがために、首がうまく床に接しなかったからである。

ドラキュラはそれでもしつこく何回も床を転がっていたが、やがて無駄だと悟ると素早く立ち上がり、その火は自らの手のひらでごりごりと押し消した。

その時にはドラキュラは、腰、背中、首と、体の後ろの部分ばかりがかなり燃えていた。

ドラキュラはゆづきを見た。

ゆづきは再び両手を袖の中に入れて、構えている。

その眼は少しも臆することなく、しっかりとドラキュラを捕らえていた。

ドラキュラが再び叫んだ。

「投げてみろ! この小娘が。確かに熱いが、我の命を奪うまでにはほど遠いわ。何百枚と投げようと、無駄なあがきだ!」

ドラキュラの身体は激しい怒りにわなわなと震えていた。

そしてゆづきを追い込むかのように、わざとゆっくりとゆづきに近づいて行った。

やがてその距離はしだいに縮まり、ドラキュラはついにゆづきの目の前に立った。

ドラキュラはしばらく様子を見ていたがゆづきは動かず、両手を袖の中に入れたままである。

ややあってドラキュラが気づいた。

「……ほほう。おい小娘、きさまはもう、お札を持っておらぬな。その構えはただのはったりであろうが」

「……」

「やはりそうか。そういうことなら遠慮なくやらせてもらうぞ」

パシッ

音速を超える音がした。

ドラキュラの尾がムチとなって真上からゆづきを襲う。

その尾はゆづきの脳天と後頭部に、ばちん、と大きな音をたてて当たった。

膝ががくんと崩れて、ゆづきはそのまま棒ぎれのように床に倒れこんだ。

ゆづきは完全に意識を失っていた。

「ふうっ、いまいましい小娘め。とどめをさしてくれるわ」

ドラキュラは尾に力を込めた。

尾が、毛も筋肉もそして骨までもが収縮し、硬く密度の濃いものになっていく。

そしてその尾は、やがて針となった。

金属のように硬くて鋭い先端を持つ、長さが一メートルはあろうかというばかでかい針がその姿を現わした。

そしてその巨大な針は、ゆづきの心臓に狙いを定めていた。

ドラキュラが冷たく言い放つ。

「死ね、小娘」

その時である。

ドラキュラはその体に何か大きな衝撃を受けて、床に倒れた。

そして起き上がろうとしたドラキュラに向かって上から何か硬く細長いものが、再び襲ってきた。

「ぐわっ」

その衝撃を体に受けながらも、ドラキュラは自分を襲ったものが何であるかを、しっかりと確認した。

それは二階堂だった。

二階堂が部屋の隅にあった高さ三メートルはあろうかというろうそくの燭台の端を、両手でつかんで振り回していたのだ。

「まさか? 信じられん。きさま、さっき死んだはずではなかったのか」

二階堂が燭台を構え直した。

「うるさい! この野良犬野郎が。俺の身体は昔っから、人並みはずれて頑丈にできてるんだ。あれくらいで死んでたまるか」

二階堂は再び燭台を振り回した。

しかしそれはドラキュラには当たらなかった。

ドラキュラは燭台を避けると同時に、二本の足で立った。

「ふん、やっぱり避けやがったか。なにくそ」

二階堂は燭台を再びドラキュラにむけて振り回した。

ドラキュラは今度は避けなかった。

燭台の動きがドラキュラの手前でぴたりと止まった。

見ればドラキュラが、燭台の端を右手で掴んでいる。

「くそっ!」

二階堂は全身の力を込めて、燭台を動かそうとした。

しかし燭台は、大岩に埋まってしまったかのようにぴくりとも動かなかった。

逆にドラキュラが、右手一本で燭台を振り回した。

「うわっ」

二階堂の身体は、自分が力いっぱい掴んでいる燭台に振り回される形となった。

二階堂の手は燭台から離れ、身体はその勢いで床に強く叩きつけられた。

床に倒れた二階堂にむけて、ドラキュラが燭台を投げつけてきた。

二階堂は慌てて床を転がり、その燭台を避けた。

しかし気がついた時にはドラキュラが自分のすぐそばに立ちふさがり、二階堂を見下ろしていた。

「きさまも本当に驚かせてくれるわ。しかし今度こそ最後だ。二度と立ち上がることがないよう、さらに激しく叩きつけてやろうぞ。死ぬがいい!」

ドラキュラの長い尾が硬い針からしなやかなムチに戻り、大蛇のように二階堂の首に巻きついてきた。

二階堂の身体が尾によって高く持ち上げられる。

そしてドラキュラは尾を数回振って勢いをつけると、二階堂を天井めがけて投げつけた。

高さ十メートルはあろうかと思われるドーム型の石造りの天井に、二階堂のその身体は、まるで砲弾のごとく叩きつけられた。

そして天井の一部を壊した後、そのままの勢いで石の床に落ちてきた。

ゴオオオンンン

生身の人間の身体が硬い石の床の上に落ちてきた音とはとても思えないほどの大音響が、広い部屋の隅々にまで響きわたった。

そして二階堂はうつ伏せに倒れたままで、全く動かなくなってしまった。

「ふうっ。今度こそ本当に死んだだろう。もしこれで生きていたなら、それはもう人間ではない。それにしても、ただの人間が我にこれほどまでも手間をとらせるとは、まったくもっていまいましいわ! しかしこれでようやくあの生意気な小娘に、とどめをさせるというものだ」

ドラキュラはゆづきの前まで行くと、尾を再び巨大で鋭利な凶器と化し、ゆづきの心臓に狙いを定めた。

「死ね! 小娘」

ドラキュラの尾がゆづきの心の臓をめがけ、弾丸よりも早く突き進んで行く。

その時である。

パシッ

パシッ

音速を超える音が二つ響いた。

と同時にドラキュラは、その尾に強い痛みを感じた。

「何だ?」

見れば自分とゆづきの間に、いつの間にか龍夜が立っていた。

龍夜はまわりをゆっくりと見わたして、まず倒れているゆづきを見て、次に二階堂を見た。

そして最後にドラキュラの目をしっかりと見据えた。

「ふうっ、どうやらぎりぎり間にあったみたいだな。さあ、もののけの王の中の王よ。これで二人っきりになったぜ。悔いのないよう、心おきなくやりあおうぜ」

ドラキュラは驚いていた。龍夜の、そのあまりの変貌ぶりに。

龍夜の右肩のまわりと右腕全体が、淡い赤色の炎のようなものに包まれている。

そしてなによりも龍夜のひじから先の部分が、大きく変化(へんげ)していた。

それはもはや、人間の腕とは呼べないものになっていた。

その腕は一匹の龍となっていた。

龍夜のひじから手首までの部分が龍の首、手首から先が龍の頭と変化している。

細長い龍の頭の部分は、龍夜の頭ほどの大きさがあった。

その龍の顎がドラキュラの尾を捕らえていたのだ。

ドラキュラには、まるで悪い夢でも見ているかのように思えた。

人間の体の一部が龍になるなど、とても考えられることではない。

龍夜が言った。

「どうだ、かっこいいだろう。見てのとおり龍だぜ。そう言えばあんた、ドラゴンの子、だったっけな。これはまさに日本の龍とヨーロッパのドラゴンの戦いだぜ。歴代もののけ戦記においても、永遠に伝説となる名勝負になるぜ。それなのに観客が誰一人いないなんて。ものすごく残念だぜ。もしテレビで放送したなら、ボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチなんかめじゃない、高視聴率まちがいなしの世紀のビックイベントになるのになあ」

「……」

「どうした、ドラゴンの子よ。あまりのことに驚いて声もでないか。黙ってつっ立っているだけじゃあ、つまらんぜ。それならこっちからいかせてもらぞ!」

竜の顎がドラキュラの尾を離した。

そして龍夜が赤い龍の右手を振り回した。

ドラキュラはそれを左手で受けたが、はじかれてしまった。

龍夜が再び振り回した龍の手を、ドラキュラが今度は右手で受けたが、これもまたはじかれた。

「ぬうっ」

次はドラキュラがしかけてきた。

巨大な針と化した尾を龍夜の頭に狙いを定めて、突き刺してきた。

しかしその尾も龍の右手で叩き落された。

その間、二人の動きが全て音速を超えていたため、――パシッ――という音速を超える音が絶え間なく響いていた。

二人は自然に距離をとり、相手を見た。

――この小僧の赤き龍の腕、我と同じく音速を超えて攻撃をしかけてきた。おまけにその速さ、わずかばかりだが我よりも速い。

ドラキュラは戸惑っていた。

こんなことはドラキュラの長い人生においても、初めてのことである。

しかしそのうちに、徐々に冷静さを取り戻していった。

――確かに龍の腕はかなりのものだ。しかしそれは一本しかないではないか。ならばこうしてくれるわ。

ドラキュラがじわり龍夜に近づく。

そして左手を思いっきり龍夜にむけて振り下ろした。

赤い龍の手がそれをはじいた。

ドラキュラの左手ははじかれたが、龍の手にドラキュラの左手が当たった時、ほんの一瞬ではあるが龍夜の右手の動きが止まった。

その時狙い定めたように、ドラキュラの右手が赤い龍の手を掴んだ。

そして次の瞬間、はじかれていたドラキュラの左手が赤い龍を掴んだ。

ドラキュラは両手で拝むようなかっこうで、龍の手をつかむことに成功していた。

龍夜は右手の赤い龍はもちろんのこと、全身の力を使ってドラキュラの両手を振り払おうとした。

しかしその手はぴくりとも動かなかった。

ドラキュラもおのれの全ての力を使って踏ん張り、龍夜の手を離すまいと死に物狂いでつかんでいた。

龍夜の龍の力とドラキュラの両手の力は、全くの互角だった。

龍夜が言った。

「俺の右腕とあんたの両手は、同じ力みたいだな。こう着状態だぜ。どうするよ、ドラゴンの子さんよ」

それを聞いてドラキュラが笑った。

その狼の顔は明らかに笑っていた。

「こう着状態だと。ふざけるな! お前にはもう武器はないが、我にはまだあるのだ。もう忘れたのか、この愚か者めが!」

ドラキュラの頭上に、巨大な針がその姿を現わす。

「あちゃーーっ。すっかり忘れてたぜ。おたく、かわいい尻尾があったんだな」

「そうだ。お前はもう動けまい。これが最後だ。死ね!」

巨大で鋭利な凶器が龍夜にむかって飛んでくる。

それは龍夜の顔面に狙いを定めていた。

龍夜がわずかながらなんとか体をひねり、首を傾けてそれを避ける。

しかし針の先が、龍夜の左の頬をかすめて行った。

龍夜の左の頬から血が流れはじめる。

それは偶然にも、ヴォルフガングとの戦いの際に魍魎丸によって傷つけられた右の頬と全く同じ傷が、左の頬にできていた。

それを見てドラキュラが言った。

「赤き龍の手は動けないようだが、そのほかは少し動けるようだな。これは大変失敬した。頭などという動きやすくて的の小さなものを狙った、我の失敗であった。では宣言しよう。今度はお前の胸を狙うことにした。果たしてお前に避けることができるかな」

鋭い凶器が再びドラキュラの頭上に現れた。

「それではいくぞ。今度こそ本当に最後だ。死ね! 小僧」

パシッ

パシッ

ドラキュラの大針が龍夜の胸めがけて走ったと思われた直後に、音速を超える音が連続して二つ響いた。

そしてドラキュラは、その尾に強い痛みを感じてた。

見れば針の尾が、何かに受け止められている。

受け止めていたものは、龍夜の左腕であった。

その腕は肩のまわりから腕にかけて、淡い青い色の炎に包まれていた。

そしてひじから先が、右腕と同じく龍に変化している。

龍はその顎で、その鋭い牙で、ドラキュラの尾をしっかりととらえていた。

龍夜が言った。

「あれっ、俺言わなかったっけ。それはそれは、大変失礼こいたぜ。見てのとおりなんとか一匹龍を造り出せたおかげで、そのコツが完全にわかっちまったんだ。もう一匹造るのはけっこう楽勝だったぜ」

龍夜がそう言い終えた途端、左腕の青い龍の顎がドラキュラの尾の先端を噛み切った。

「ぎゃっ」

ドラキュラの悲鳴をよそに、龍夜は青い龍をドラキュラの首にめがけて放った。

龍の大きく鋭い牙が、ドラキュラの首を捕らえた。

「ぐふっう」

ドラキュラの首から血が吹き出してきた。

ドラキュラの赤い龍をつかんでいる力が緩んだ。

赤い龍はドラキュラの両手を振り払うと、青い龍とは反対側からドラキュラの首を噛んだ。

「これで終わりだ、化け物め!」

肉が裂け、骨が砕ける音がした。

それは二匹の龍が左右から同時にドラキュラの首を噛み切った音だった。

その首は宙を舞い、そして床に落ちた。

次の瞬間――パシッ――という音がして、ドラキュラの尾が横殴りに龍夜を襲った。

龍夜はそれを赤い龍で弾き飛ばした。

「往生際がわるいぜ、このやろう。おとなしくしやがれ」

龍夜はドラキュラの太い首の切れ口のところに、二匹の龍の腕を差し込んだ。

二匹の龍の頭は、ずぼずぼとドラキュラの体の中に入っていた。

最初はもがいていたドラキュラの体と尾の動きが、やがてぴたりと止まった。

するとドラキュラの身体左側のいたるところから、細くて強い赤色の無数の光が、まるでレーザービームのようにその体の中から次々と飛び出してきた。

同様に体の右側から、何本もの強く輝く青の光が次々と現れた。

ドラキュラの体の中では赤い熱風と青い冷気が、激しく竜巻のように渦巻いていた。

「やめろーーーっ!」

床に落ちたドラキュラの首が叫ぶ。

龍夜がその首を鋭いまなざしで制した。

「うるせえ! きさまはこれで終わりだ。だから言っただろう。俺の名は九龍龍夜だと。九龍一族の中でも、その名の中に「龍」の文字を二つ刻む、唯一の男だ!」

龍夜は二匹の龍を大きく左右に振った。

ドラキュラの体が完全に右半身と左半身とに分かれて、大きく舞い上がる。

二つの体は遠く離れた右と左の壁にぶち当たり、そして床の上に落ちた。

やがて二つは残された首と共に、真っ白い灰となった。



男は目覚めた。

どのくらい眠りについていたのだろう。

かなり長い時間だったような気がするし、逆にほんの短い間だったような気もする。

目覚めたことには間違いはないが、なぜか頭がはっきりとしなかった。

まるでまだ深い霧の世界の中にでもいるような感じだ。

ここが何処なのか、わからない。

自分が誰なのかも、思いだせないでいた。

――ここはいったい何処なんだ? 俺はいったい誰なんだ?

男は思い出そうとしていた。

しかし何ひとつ思い出せないでいた。

そんな男の耳に声が聞こえてきた。

その声はこう言っていた。

「ゆづき、しっかりしろ。もう大丈夫だぞ。ゆづき」

男は声のするほうを見た。

そこには少年がいた。

両膝をついて座っている。

年は十五、六歳ぐらいだろうか。

長い黒髪で大きな眼の、そっとするほど美しい少年であった。

男は、この少年とは何処かで会ったことがあるような気がした。

しかし何も思い出せないでいた。

少年の呼びかける先に、少女がいた。

その少女は神社の巫女が着るような服を着ていた。

少年の腕に抱かれて、ぐったりとした状態で目を閉じている。

年は十歳くらいだろうか。

目を閉じているが、それでもその少女の美しさは十分に伝わってきた。

男はこの少女も、何処かで見たことがあるような気がした。

「ゆづき、安心しろ。ドラゴンの子はこの俺がやっつけたぞ。ゆづき」

少年のその声が耳に届いたのか、少女がゆっくりと目を開けた。

少年に勝るとも劣らない大きな眼に大きな黒い瞳である。

少女の目は最初ぼんやりと宙をさ迷っていたが、やがて自分を抱いている少年に気がついた。

「ああ、龍夜様。よくぞご無事で」

少女が少年の首に抱きつく。

少年はそのまま少女を、まるでお姫様のように抱き上げると立ち上がった。

「ゆづき、もう大丈夫だ。ドラゴンの子は、この俺がやっつけたぞ」

「ああ、龍夜様」

少女の目から、大粒の涙が流れ出した。

その時少年は、少女の唇に口づけをした。

男はその姿をとても美しいと思った。

心の底から愛し合う男と女に見えた。

そのまま二人はしっかり抱き合っていたが、やがて少年がゆっくりと少女を床におろした。

少年が言った。

「ところで、あのおっさんは、どうなった?」

そう言って男の方に顔を向けた。

少女も男を見る。

すると少年の頬がみるみる赤く染まっていくのが見えた。

少女にいたっては、顔中真っ赤になって下をむいてしまった。

少年がかん高い声で言った。

「なんだあ、おっさん。黙って見てたのか。おっさんも人が悪いぜ。このすけべぇ! ものすごく恥ずかしいじゃねえか」

少年が男に近づいてくる。

その時、男の頭の中にあるもやもやが、一気にすうっと晴れた。

――思い出した。ここはドラキュラの館。そしてこの俺は、二階堂進だ!



龍夜が二階堂に歩み寄った。

「おっさん、無事だったんだな。気が感じられたので、死んではいないとは思ってたけど。よくもまあーー」

龍夜は天井を見上げた。

石造りの高い天井の表面が軽く人型に壊れている。

次に龍夜は床を見た。

やはり硬い石の床が、わずかではあるが人型に押し込まれていた。

「よくもまあ、あれで生きてたもんだぜ。普通の人間なら、間違いなく十回は死んでるぜ」

「見てたのか」

「ああ、見てたぜ。武器ができて目覚めた時、ちょうどおっさんが天井に投げられているところだったんだ。そりゃもうものすごいスピードで天井にぶち当たり、その反動でこれまたとてつもない勢いで床に落ちてきた。これは絶対に死んだなと思ったが、それでも気がわずかに残っていた。だから死んでないとわかったんだ。こいつは人間じゃねえ、と思ったぜ」

「実は俺は、子供の頃から人並みはずれて体が丈夫なんだ。小さい頃だが、おじさんの家の裏山にある崖から落ちたことがあった。高校生の時に、酔っ払い運転の大型トラックにはねられたこともある。ともに普通の人間なら確実に死んでいたと医者に自信たっぷりに言われたが、一日で退院したんだ」

いつのまにかゆづきが龍夜の横に寄り添っていた。その顔はまだ赤みが少し残っていたが、それを隠そうともせずにゆづきが言った。

「やはり、でございますね」

二階堂が聞いた。

「何が、やはり、なんだ?」

「おっさんのことさ。ゆづきは最初からうすうす気がついていたみたいだが、俺は床に落ちても生きているおっさんを見て、ようやく気がついたんだよ」

「だから、何に気がついたんだ?」

「おっさんの家に、家系図はあるか」

「そんな上等なものは、うちにはないが」

ゆづきが言った。

「あれば、間違いのないことでしょう」

龍夜が言った。

「ああ、間違いないぜ」

二階堂が言った。

「だから、何が間違いないんだ」

龍夜がさらに二階堂に歩み寄ってきた。

そして言った。

「おっさんの何代か前の先祖に、間違いなく九龍の名前があるはずだ」

「?えっ!」

「はい、間違いございません、二階堂様。二階堂様は、九龍一族の力を受け継ぐ正統な末裔でございます」

「よかったなあ、おっさん。仲間ができて。俺も嬉しいぜ。でもできればこんな小汚いおっさんじゃなくて、若くてきれいなねえちゃんだったら、もっとよかったんだが……って、冗談だよ、ゆづき。そんなににらむなよ」

「……この俺が……九龍一族……」

「はい、二階堂様は九龍一族でございます」

「ほんとによかったな、おっさん。これでこれまでの退屈な人生と、おさらばできるぜ。今後ともよろしくな」

龍夜は右手を差し出した。

二階堂がその手をしっかりと握る。

「ああ、九龍一族としては新参者だが、末永くよろしくな」

「はーい、じゃあ新米君。これからは大先輩の言うことは、なんでも聞くんだぞ」

「もう、龍夜様ったら」

龍夜は笑った。

ゆづきも笑った。

そして二階堂も笑った。



部屋がノックされた。

「入れ」

「はい」

二階堂が入ってきた。

署長はいつものように、身と首を乗り出して迎えた。

「何だ」

二階堂が署長のすぐ目の前まで歩いてきた。

「署長、例の件ですが、解決しました」

「解決しただと?」

「はい、もう解決しました」

「で、犯人は、何処だ」

「いません」

「いない、だと?」
「はい、もう何処にもおりません」

「ひょっとして……もう捕まえられないのか――」

「はい、もういませんから、捕まえることはできません。したがって本件は、捜査続行が不可能になりました。捜査終了、したがって解決です」

署長のまんまる眼がさらに見開かれた。

「理屈は少々強引だが、どうやら――」

二階堂を凝視した。

「とにかく本当みたいだな」

「はい、本当です。間違いありません」

署長は椅子に深々と座った。

「……もう捜査は必要ないか」

「はい」

「でも、ふりだけはしとかんと、いかんぞ」

「わかっています」

「じゃ、お守りを続けてくれ」

「了解しました」

二階堂は頭を下げ、部屋を出ようとした。

それを署長が呼び止める。

「おい、二階堂君」

「何ですか?」

「なんと言っていいか……君は最近、何かいいことでもあったのか?」

「わかりますか」

「それぐらい、わからいでか。私を誰だと思ってるんだ! で、何があった?」

「まことに残念ながら、それは極度に個人的なことですので、署長にも申し上げることはできないのです」

「……そうか」

「申し訳ないのですが」

「……いや、別に謝らなくてもいい。じゃ、お守りを頼むぞ」

「はい、わかりました」

二階堂は再び頭をさげ、出て行った。

署長はほとんど毛のない頭をぼりぼりかくと、小さく呟いた。

「二階堂、おまえどうやら、いい仲間ができたようだな」

その顔はどこか嬉しげで、同時に寂しげだった。



その日も龍夜とゆづきは、龍夜の部屋である板張りの六畳間で、お昼のいわゆるワイドショーを見ていた。

二人は学校には行かない代わりに、普段からけっこうテレビを、特に報道番組をくまなく見ているのである。

それは、ごくまれにではあるが、もののけに関するものが流れることがあるからだ。

もちろんテレビ局はそうとは知らずに流しているが。

ゆづきが〝視る〟ことができるが、情報量は多いに越したことはない。

龍夜はぼんやりとテレビを見ていた。

今日もいつものようにもののけ関連のニュースはなさそうだと感じていた。

その時、その龍夜の目がテレビに釘付けになった。

「うん?」

ゆづきも気がついた。

「龍夜様、あの方です」

「そうだ、あいつだぜ」

龍夜が思わず微笑む。

画面には、左右に頭の悪そうな二人の若い女をはべらせて、大きな屋敷の前で馬鹿面さげて笑っている、あの御曹司が映っていた。



あの戦いからちょうど一週間が過ぎた。

龍夜達の住む古い神社の前に一人の男が立っていた。

二階堂進である。

二階堂は神社をみつめていたが、やがて中に入っていった。

日本間にゆづきが座っている。

「お待ちしておりました、二階堂様」

「おう、元気そうでよかった。ところで龍夜は? 魍魎丸もいないみたいだが」

「所用があり、でかけております」

「そうか。ひょっとしてもののけ狩りか」

「はい、左様でございます」

「また心配ではないのか」

「いいえ、今回は大丈夫でございます」

「そうか。まあ龍夜なら、心配させるほどの強い敵は、そうそういないかもしれんな。それにしても不在とは残念だ。会いたかったんだが」

「またいつでもお会いできます」

「そうだな」

「では早速、始めましょうか」

二階堂がここにやって来たのは、新人もののけ狩り師として学ばなければならないことが、いろいろとあるからだ。

とはいっても初日の今日は龍夜の不在もあって、いつのまにか雑談に近いものになっていった。



二階堂が明らかに言いにくそうに、ゆづきに言った。

「それで、ちょっと心配なんだが。俺は残念なことに、龍夜ほどは強くない。本当にもののけ狩り師として、やっていけるのか」

ゆづきが笑って答える。

「二階堂様、私ももののけ狩り師を名乗っておりますが、とてもとても龍夜様のように戦うことはできません。もののけ狩り師といっても、さまざまな人がおります。たとえば二階堂様は、龍夜様にない能力をお持ちでございます」

「たとえば? 体の丈夫さとか――」

「もちろん、それもございます。龍夜様も普通の人と比べるならば、その体は比べものにならないほどに丈夫ではございますが、おそらく二階堂様のほうがそれよりもさらに上でございましょう。それ以外に、もっと大事なことがございます。二階堂様は、ドラキュラの館におりました〝視る〟力を持つリリアーナとか申す女を、覚えておられると思いますが――」

「ああ、あの綺麗な女だな。もし吸血鬼でなければちょっとよろしくしたいくらい、とびきりいい女だったが。で、あの女がどうかしたか?」

「はい、あの女は視る力を持っておりました。それもそうとうに強い力だと思われます。それで龍夜様、魍魎丸、そしてこのゆづきのことは、あの女にかなり広きにわたって、視られてしまったのでございます。私達は、みな、おのれの力を隠す術を持っているにもかかわらずです。ところがリリアーナと申す女は、こと二階堂様に関しては、全く〝視る〟ことが出来なかったのでございます」

「えっ? そうだったのか?」

「はい、そうでございました。二階堂様が己の存在を、そして己の力を、完全に隠し通したからでございます。あの女が気づかずに、私が二階堂様の力に気がついたのは、ただ単に同じ九龍一族であったからにすぎません。でなければこの私も、二階堂様の力には一切気づくことができなかったでしょう」

二階堂の目が、少し泳いだ。

「……ええと……」

ゆづきは軽く笑うと、そのまま話を続けた。

「それともう一つございます。あの時、ドラキュラと戦っている時ですが、私は二階堂様が全ての気配を消し去って、ドラキュラに近づいていくのを感じました。気や足音はもちろんのこと、空気の流れすら一切乱すことなくドラキュラに近づいていきました。その力は、九龍一族の術としてはっきりと感じましたこの私が、最初素直に信じることができなかったほどに、実に見事なものでした。ともに己の存在を完璧に消し去る力でございます。私も龍夜様も、とてもあのような能力はもちあわせてはおりませぬ。二階堂様だけが持つ、摩訶不思議な力でございます」

「……そうだったかな……よく覚えていないんだが」

「無意識のうちにやったのでございます。意識をして修業をつめば、もっと高い能力となることでしょう」

「……そうか。では、また教えてもらうぞ」

「はい、承知いたしました。それにこれは、特に龍夜様が喜んでいることなのでございますが、二階堂様はこのゆづきの危機を感じとる能力がございます」

「そういえば、俺がゆづきの危機を感じ取ってドラキュラの館にやって来たと言ったら、龍夜がやけに喜んでいたのを覚えているが」

「はい、とても喜んでおりました。龍夜様は、魍魎丸もそうですが、気を感じる能力はございますが、〝視る〟力はございません。私には幸いなことに、微力ながら備わってはおりますが。しかし視る力を持つ者は、こと自分のことに関しては、残念ながら全くわからないのでございます。そういう宿命を持って生まれてきたのでございます。ですからリリアーナとか申す女も、自分の危機を感じることができないがために、あのようにあっさりと龍夜様に殺されてしまったのです」


「そうか、それでか。あの女は〝視る〟力を持っていると聞いていたのだが、それがなんであんなにも簡単にやられてしまったのか、少し不思議に思っていたこところだったんだ。これでようやくわかった。そういえばこの俺も、今までけっこう危ない目に会ってきたが、自分自身の身の危険を感じ取ったことはただの一度もなかったな」

「はい、龍夜様と魍魎丸の危機にかんしては、この私が多少なりともわかります。しかし私自身の危機を感じとる者が、今まで誰もおりませんでした。そこへ二階堂様が現れたので、龍夜様は喜ばれたのです。〝これでゆづきも今までよりは少しは安心してすごすことができる〟と申しておりました」

「龍夜はゆづきが心配なんだな」

「はい、龍夜様はご自分のことよりも、この私のことの方をより気にかけておられます。本当に心の優しいお方でございます」

「そうか。なんだかうらやましい限りだな」

「はい、とてもありがたいことでございます」

二階堂はそれ以上何も言えなくなった。ただ黙ってゆづきを見ていた。その視線が恥ずかしかったのか、ゆづきが珍しく慌てる。

「ええっと、あのう、その、……それで……二階堂様、他に何か聞きたいことはございますでしょうか?」

「そうそう忘れていた。龍夜がドラキュラを倒したのは知ってるが、いったいどうやってあの化け物をやっつけたのだ? 俺はあの時気を失っていたから、何があったのか皆目わからないんだ」

「龍夜様から、何かお聞きになっておりませぬか」

「いや、聞いたんだが。〝ひ・み・つ・〟とか言って、教えてくれなかったんだ」

「もうほんとに、龍夜様らしいですわね。とは言ったものの、あの時は私も魍魎丸も、みな気を失っていましたが。龍夜様の話によりますと、右手を火龍、左手を水龍に変化させて戦い、ドラキュラを倒したそうです」

「火龍? 水龍? とは」

「はい、九龍一族に代々伝わる秘術でございます。肉体の一部を、龍に変化させるのでございます」

「えっ! そんなことが、できるのか?」

「はい、そうです。とは言いましても、誰にでもできるという訳ではございません。龍夜様のお父様もおじい様も、もののけ狩り師としてかなり優秀な方でございましたが、その二人でさえこの秘術を成しとげることは、ついにかないませんでした」

「そうか、それほど難しいことなのか。それにしても体の一部を龍にするとは……とても信じられないが」

「その昔九龍の民は、本物の龍と交わったそうでございます。その時に龍の血が、一族の血と混じりあったと伝えられております。とは言っても千年も前のことですので、今となっては真実の程は確かめようはありませぬが」

「千年も前の真実の程はともかく、龍夜が九龍一族でも簡単にはできない龍への変化を成しとげたというのは、間違いないわけだな」

「はい、さようでございます。その昔、九龍一族の千年にもわたる歴史において、火龍もしくは水龍を出現させたという伝説のもののけ狩り師は、何人かは存在しておりました。ところが火龍と水龍、二匹同時に変化させたのは、私の知る限りにおいては、龍夜様ただお一人だけでございます」

「ふーん、聞けば聞くほどあいつ、ああ見えてたいしたもんなんだな。正直ちょっと悔しいな。でもそんな便利な秘術、どうして最初から使わなかったんだ」

「それは最初から使うことができなかったのでございます。なぜなら龍夜様は、龍変化の秘術を会得するための修行は積んでおりましたが、あの時まで一度も成しとげたことがなかったのですから」

二階堂の声が思わず大きくなる。

「なんだって! じゃああの時初めて、成功したのか」

「はい、左様でございます。それだけ龍夜様が、追い詰められていたということに、なるのでございましょう。その点につきましては、ある意味ドラキュラに感謝しなければならないかもしれません。あれほどまでに強大な敵と戦ったからこそ龍夜様も秘術を会得し、より強くなることが出来たのでございますから」

「そうだったのか。だからこの俺に〝武器を造るのにどれだけ時間がかかるのかわからない〟と言ったんだな」

「どれだけ時間がかかるかわからないと言いますより、時間をかけても出来るかどうかさえも、わからなかったのでございます」

「そりゃあ、完全な賭けだな」

「はい、完全に賭けでございました」

「わかった。いろいろ教えてくれて、ありがとう。とりあえず今日のところは、このくらいでいいかな。なにせ仕事を途中でおっぽりだして来ているものだから。早く帰らないと、また笹本君にぐちぐち言われるもんでね」

ゆづきが小さく笑った。

「あのお若い刑事さんですね」

「そう、あの若造の刑事だ。それもわかるんだな」

「そのくらいは、わかります」

「視る力か」

「はい、そのとおりでございます」

「まったく、ゆづきに隠れて悪いことはできんな。まっ、とにかく今日はこのへんでな。また来るからな」

「はい、お待ちしております、二階堂様。いつでもお好きなときに、おいでくださいませ」

二階堂が立ち上がり、入り口へと向かう。しかし入り口に手をかけたところで立ち止まり、振り返った。

「そういえば、もう一つ気になることがあった。聞いてもいいか?」

「はい、なんなりと」

「実は俺は、龍夜とゆづきが抱き合っているところを、二度ほど見ているんだ。で、最初見た時は、二人はとても仲の良い父親と娘のように見えた。ところが二回目に見た時は、心の底から愛し合う男と女のように見えたんだ。そこで質問なんだが、龍夜とゆづきは、いったいどういう関係なんだ?」

ゆづきは最初、黙っていた。

しかしややあってから、小さく搾り出すように言った。

「……それは……いくら二階堂様でも……お答えは……できませぬ」

そう言ったゆづきの顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。



       終
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