凶風

ツヨシ

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凶風

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静かな夜の海から始まった。

その日屋馬町の夜の海岸を、一人の男が歩いていた。

海岸とは言っても砂浜ではなく、波が打ちつけるごつごつした岩の海岸である。

その男は左手で肩からさげた小さいクーラーを支え、右手に釣竿を持っている。

どうやら釣り人のようだ。

両手がふさがった状態で、険しい岩の上を器用に歩いていた。

そのうちに男は小さな砂浜に出た。

――とりあえずここにするか。

夜空は東京では見られないほどのいっぱいの星で、おまけに満丸の月が浮かんでいる。

雲ひとつなさそうだ。

真夜中とは言え慣れた目には、不自由はない。

男はクーラーを置くと、釣竿を構えた。

その時である。

目の前の数え切れない星たちと満月が、一瞬にして消えた。

――なんだあ?

雲が陰ってきたなんてレベルではない。

目の前が完全に闇となっていた。

男は訳がわからずにその真っ暗な闇を、ただ見ていた。

――えっ?

その時男の目には、目の前の闇が動いたように見えた。



澄みわたった青い空から、ヘリコプターが小さなヘリポートに降りてきた。

着陸すると中から一組の若いカップルが出てきた。

「どうもありがとうございました」

へリを運転していた西口一康が明るく声をかける。

カップルは西口に軽く一礼をすると、少し興奮した様子で何事かを話しながら、ヘリポートの前にある鉄筋コンクリート平屋建ての建物の中に入って行った。

その建物の屋根の下あたりに「周遊ヘリ乗り場」「お土産」「記念撮影」「展望台」「お食事処」「お手洗い」といった看板が、建物の端から端までびっしりと埋め尽くしている。

西口はヘリのエンジンを止めると、ヘリを降りた。

「西口さん、お疲れ様です。三十分休憩したら次のフライトですよ」

向井真里菜が声をかけてきた。

周遊ヘリの受付をやっているまだ二十歳の女性だ。

寿退社した三十台半ばの女性に代わって、有限会社屋馬周遊ヘリに先月入社したばかりであるが、お人形のように整った顔立ちと明るく元気なキャラクターで、地元では早くも屋馬観光協会のイメージガールにしようという話が持ち上がっている。

その向井に西口が答えた。

「三十分かあ。朝から飛びっぱなしだよ。せめて一時間は欲しいなあ」

「西口さん、何を言ってるんですか。お仕事、お仕事」

向井は西口の方を叩くと、受付へと小走りに戻って行った。

「まったく」

――嫁も子供もいなけりゃ、絶対に手を出していたな、あの娘。

西口はそう考えながら、ヘリのキーをさっきから黙って待っている整備員の遠野に渡した。

もう初老と言っていい年齢で、不自然なほど寡黙ではあるが、整備の腕は確かだ。

その遠野が、約一ヶ月ぶりに口を開いた。

「西口」

「なんですか」

「おかしい」

「おかしいって、ヘリがですか」

「キャンセルだ」

「えっ」

遠野は何も答えずにヘリに乗り込むと、エンジンをかけた。

こうなると何を聞いても返事が返ってきたためしがない。

西口は慌てて受付へと走った。

「向井君」

「はい、なんですか」

「ヘリの調子がおかしいらしい。あとの客はキャンセルだ。ここも閉めて、今すぐに社長のところへ行って、そう報告してくれ」

「はい、わかりました」

向井は受付の小さなシャッターを閉めると、横のドアから出てきて、営業休止の看板をかけると西口に言った。

「あちらに次のフライトを予定されたお客様がいます。その方には西口さんのほうから説明してくださいね」

「ああ、わかった」

小走りで従業員用の駐車場へとむかう彼女の後姿を見ながら、西口は考えた。

――俺が話すのかい。

西口は接客と言うものを基本的に苦手としていた。

ヘリの運転が彼の仕事だ。

普段ヘリの中では客のほうもやや緊張していて、少々のことは気付かないでいてくれる。

しゃべる内容も判で押したようにいつも同じだ。

しかし地上は別だ。

ましてや客の予定をキャンセルするなんて。

かと言って自分以外でここにいるのは遠野だけだ。彼は考えるまでもなく論外である。

――しまった。お客のキャンセルを先に頼めばよかった。

西口は客を見た。

ど派手なかっこうの若いカップルだった。

――しかたない

西口は重い足取りで、原色まみれの二人に向かって歩いていった。



山の中腹にあるヘリポートから下ったところの海岸線沿いのところに、地元の人間から〝船着き場〟と呼ばれているところがある。

その昔は本当に対岸の島に渡るための船が出ていたところだったのだが、島にあった炭鉱が閉山になると、定期船もその姿を消した。

炭鉱の男達もその家族もいなくなり、昔からいるわずかな数の漁師達が唯一の住人となった。

古い家屋の大半が空き家または廃屋であり、ちょっとしたゴーストタウンとなっている。

釣り客はさして多くなく、町にひとつしかない宿をとる人はもっと少ない。

フライト時間二十分の周遊ヘリの客が寄り付くこともなく、結果店舗は一軒しかなかった。

そこの女主人が三隅ちか子である。

女主人と言ったが家族がいるわけではなく、一人住まいだ。

炭鉱があった時代に彼女の両親が店を構え、二人が死んだ後、彼女が受け継いでいる。

顔は人並みだが、昔はこの町では貴重な若い独身女性であったため、けっこう炭鉱の男達に人気があった。

彼女もそれにのぼせ上がっていたが、炭鉱の閉鎖とともに誰も相手にしなくなり、その結果年を追うごとにどんどんと気難しくなっていった。

そのため余計に相手にされなくなり、七十五歳のいかず後家として町に君臨していた。

その彼女の唯一の楽しみは、裏山での山菜取りである。

お店が暇な時、とは言ってもほとんど暇なのだが、趣味と実益を兼ねて山から食べられる草を取ってくるのだ。

これを二十年近く続けているため、今ではどんな植物が食べられるかおいしいか、いつ何処に何が生えているかを、完全に把握していた。

ただこのあたりの山は、全て国有林だ。

許可なく山の資源を勝手に取ることは許されない。

しかし彼女は全く気にしておらず、まわりの人達も自分には関係がないと、黙認していた。

そして三隅ちか子がいつものように山菜を取りに山に分け入ったある日、見慣れない人影を見た。

その男は髪がぼさぼさ、おまけに濃いぶしょう髭であるために顔がよくは見えないが、年齢は五十を超えたあたりに見えた。

体つきは細身で、その身長がかなり低い。

突風が吹いたらふき飛ばされそうな男である。

そして着ている服は薄汚れ、それも年季の入った汚れ方をしていた。

誰が見ても長い間洗濯などしていないと一目でわかる。

そんな男が今彼女の前を歩いているのである。

――あれはもしかして、ホームレスとか言うやつじゃないの。

それは絵に描いたようなホームレスであった。

しかしこんな寂れた町にホームレスなど今まで存在したことがなく、彼女もその昔、遊びに行った都会のガード下でしか見たことがなかった。

――あいつ、どうしてこんなところに。

相手は後ろにいる彼女の存在に、まだ気がついてはいないようだ。

彼女は気付かれないようにその後をつけた。

勝手知ったる他人の山。

慣れない男に気付かれずに後をつけることなど、彼女にとってはそう難しいことではない。

そのまま後をつけていると、やがて男が道から外れてゆるい崖を登っていく。

――この先は、たしか。

彼女の予想は当たった。その先には洞窟がある。

人為的に作られた小さな洞窟だ。

入り口はさして広くはないが、中はワンルームマンションくらいはゆうにある。

炭鉱が出来た当初に非常食を溜め込むために作られたと言う噂はあるが、屋馬町では二番目の年寄りとなってしまった三隅も、何のために作られたのかは知らない洞窟だ。

その洞窟の中に男は入っていったのだ。

彼女にはよそ者であるはずのこの男が、何故洞窟の存在を知っているのかが不思議ではあったが、今はそんなことはどうでもいい。

――私の山にいつの間にか知らない男が住み着いている。

三隅ちか子にとってこの山は、三隅ちか子の山であった。

彼女は入り口が見えて相手からは見えにくいところで、男が出てくるのを待った。

男はなかなか出てこない。

彼女は辛抱強く待った。

こういう時の三隅は我慢強い。

いや、執念深いと言ったほうがいいだろう。

そうして待ち続けていると、ついに男が出てきた。

――あいつ、この私をすいぶんと待たせたね。

男はそのまま山を登って行った。

おそらく食料を調達に行ったのだろう。

三隅は男の姿が見えなくなるのを待ってから、洞窟の中に入った。

――やっぱりだ。

中にはランプ、鉄鍋、毛布、そしてダンボールなど、人が生活している跡が残されていた。

――あいつ、いったいどうしてくれよう。

彼女は近くに転がっている鉄鍋を睨みつけていた。



中丸真治は少なからず困惑していた。

駐在所でのんびりしているところに、彼がよく知る、そして出来れば会いたくはない老女が、血相をかえて飛び込んで来たからだ。

そして口から泡を吹きながら、同じことを何度も訴えている。

内容は信じられないことに、彼女の山にホームレスが住み着いているとのことだった。

都会ならともかく、こんな田舎にホームレスがいるということにも少々驚いたが、それ以上に中丸巡査を驚かせたのは、その山を三隅ちか子が〝私の山〟と何度も言い張っていることだ。

ろくに返事も出来ないままに彼女の言い分を聞いていた中丸巡査であったが、やがて口を開いた。

「あのう、さっきから何度も私の山と言ってますが、あれは国有林ですよ。あなたの山ではないでしょう」

その言葉にさすがの三隅老女もはっとしたが、そんなことで引き下がるような女ではなかった。

「それじゃあ国有林に勝手に人がすみついているのは、いったいどうなのよ」

「それは私一人では判断しかねますが」

「あの男は家賃も払わずに勝手にお国の土地に住み着いて、おまけに料金も出さずに国の土地のものを勝手に取っているんですよ。犯罪者じゃないですか。今すぐに逮捕するのが当然でしょう」

その言葉に中丸が今まで以上に反応した。

三隅の顔を凝視していたが、やがておもむろに言った。

「でも三隅さんも国有林から勝手に山菜を取っているでしょう。私がここに駐在するずいぶん前から。そうすると、あなたも逮捕しないといけないですね」

三隅はどちらかと言えば観察力にとぼしい中丸が気づくほど〝しまった!〟という顔をしたが、それでも黙ってはいなかった。

「ふん、やっぱり問題の人だね、あんたは。あんたに話しても、なんにもならんね。時間の無駄無駄」

そう捨て台詞を残すと、町に一つしかない駐在所を出て行った。

中丸は、自分が影で〝問題の人〟と呼ばれているのは知っていたが、面と向かって言われたのは初めてだった。



ヘリの整備は会社の小さな格納庫の中で行われた。

整備は遠野で、立会いは社長の岩元敬一郎と運転手の西口だった。

「西口、何か気がつかなかったのか」

岩元が西口に聞く。

これでもう何度同じことを聞いてきただろうか。

「いいえ、何も気がつきませんでした」

これも何回目の全く同じ返答だった。

岩元は西口を責めているのだ。

かき入れ時の日曜日の午後の客を、みんなキャンセルしてしまった。

風評被害を含めると、経済的損失は少なくはない。

ただ本来なら責められるべきは整備士の遠野である。

西口はヘリの運転のみで、整備は全て彼に任せてあった。

しかし岩元は、先代の社長より仕え、先代社長の同級生である遠野には、少々言いづらい。

かといって黙っていることも出来ず、西口に八つ当たりしているのだ。

――あいかわらず、小さい男だ。

西口は思ったが、もちろん口には出さない。

――こんな時に向井君がいてくれたら、この場の雰囲気も少しは和むのだが。

しかし受付嬢、それも入社したての二十歳の女性がこんな時間にこんなところにいる理由は何もなかった。

そんなことを考えていると、遠野が突然作業を止めてこちらに歩いてきた。

「よくなった」

それだけ言うと、後片付けをし始めた。

さすがの岩元も口を出してきた。

「遠野さん、いったいどこが悪かったんだい」

遠野はそれを無視した。

と言うよりまるで無反応だった。

岩元は見るからにいらついている。

そして西口に言った。

「西口! 何処が悪いのかわからんのか。この役立たずが」

「そんなの私にわかるわけがないだろう。整備の給料も出さないくせに、偉そうに言うな。この大バカ野郎が」

と西口は言いたかったが、実際に出た言葉は「社長、どうもすみません」だった。



草野安治はいつものように早く目覚めた。

今日もいい天気だ。

ミカもミヨもミミも喜んでいるに違いない。

朝ごはんはおろか、一杯の水を飲むこともなくパシャマから作業着に着替えると、いそいそと牛舎へと向かった。

草野安治はここ屋馬町では唯一の農業家である。

さして広くない田畑と、三頭の乳牛を飼っていた。

その三頭は、独身で人づきあいがよくない彼にとっては唯一の友、と言うよりも家族といってよかった。

その愛しい子供たちに会うために、朝一で牛舎に出向いているのだ。

牛舎は家から少し離れているが、むかう途中の細道がまた楽しい。

草野は牛舎の横にたどり着くと大きな声で言った。

「おはよう、ミカ、ミヨ、ミミ。今日もいい天気だよ」

そう言いながら牛舎の正面に回った草野の動きが、そこでぴたりと止まった。

――えっ?

牛舎の横壁は二本の丸太なのだが、それが見事に叩き折られている。

そして中に牛は二頭しかいなかった。

「ミカ、ミカがいない!」

彼はそのまま牛舎を見つめていたが、やがてはじかれたように振り返ると、ものすごい勢いで走りだした。



中丸巡査は再び困惑していた。

草野安治が激しく飛び込んできたかと思うと、「ミカが誘拐された!」とまくしたてたからだ。

中丸は〝ミカ〟と言う名前に聞き覚えがなかった。

この町の住人はさして多くない。

とある理由で都会から左遷されて以来、十年以上ここにくすぶっている彼は住人の名前を全て把握していたが、そこにミカと言う名前は存在しなかった。

しかも誘拐だと。

本当ならば大事件である。

しかしミカが何者かわからないうえに、興奮状態の草野の言い分がよくわからずに、困惑していたのだ。

それでも何度も言い張る草野の言葉尻から、ようやくミカが牛の名前であることが理解できた。

「ミカと言うのは、牛の名前だったんですか」

「だからさっきから何度も言ってるだろう。うちの大事なミカが、誘拐されたって」

「誘拐だなんて。人間のことかと思うじゃないですか」

「誘拐は誘拐だろうが」

すったもんだの挙句、とにかく現場に行くことになった。

屋馬町はさして広くない。

牛舎まで歩いてそれほどはかからない。

二人で歩いている間中、草野は「うちのミカが、うちのミカが」と言い続けていたが、中丸は相手にしないようにした。

相手にしないようにしていたが、あまりにもうるさいので限界が来て「少し静かにしろ」と言いそうになった時、牛舎に着いた。

「これは、いったい」

三頭しかいなかった牛舎はさして広くないが、その横壁は二本の太い丸太で形成されていたようだ。

その太い丸太が、見事にへし折られていた。

それは一撃のもとにへし折ったものに、中丸には見えた。

もちろん人間が素手で出来る芸当ではない。

そんな人間はいない。

ただどうやって折られたのかが、全くわからない。

もし切ったと言うのであれば、のこぎりかチェーンソーだが、丸太を一撃でへし折る道具など、見たことも聞いたこともない。

「ほら、どうみても誘拐でしょうが」

後ろでやかましい草野に、よっぽど「牛泥棒だ」と言ってやろうかと思ったが、そこはこらえた。

とにかく犯罪には違いない。

「それでは本部に連絡します。現場保存の意味もありますから、あなたはもう家に帰ったほうがいいでしょう」

まだなにか言い足りない顔の草野を残して、中丸は派出所へと帰っていった。



中丸の連絡を受け、本部から刑事や鑑識やら警察関係者が、牛小屋に出向いてきた。

しかし数日たっても捜査において、特に進展と言うものはなかった。

丸太が二本へし折られ牛が一頭いなくなったと言うのに、足跡やなにか器具を使った痕跡、その他物的証拠というのもが一切見つからなかったからである。

犯人のやったことはけっこう大掛かりであるにもかかわらず、現場に何一つ残っていないということはかなり不自然なことであり、その点においては興味深い事件である。

しかし誘拐されたのが人ではなく牛であり、当然身代金の請求もないことから、警察はさぼっているとは言えないが、本腰を入れて捜査しているとも言えなかった。

この早い時点で警察内部において、「どうせ迷宮いりだよ」との声が大半を占めるようになっていた。

そんなこととは露知らず、草野は警察をあてにしながらも独自にミカの行方を追っていたが、こちらのほうも全く何も出てこなかった。


小さい町のことである。

牛泥棒の件はその日のうちに町の隅々まで行き渡った。

町中の人が暇に任せて入れ替わり立ち代り、草野の牛舎を訪問してきた。

そして折られた丸太に驚き、誘拐を連発する草野にさらに驚き、そそくさと帰っていった。

もちろんいなくなった草野の牛を心配する者など、誰一人いなかった。

一度見たらそれで終わりである。

しかし何故か三隅ちか子だけが、人一倍興味を持っていた。

それが草野にはふに落ちなかった。

現に何度も訪ねてきては、事件の状況などを根掘り葉掘り聞きにきている。

同じことを何回も言っても、また訪ねて来るのだ。

――ひょっとして、あいつが犯人なんじゃないか?

と草野が思わず勘ぐったほどだが、あの小柄な老女にそんなことが出来るとは、とても思えなかった。


三隅ちか子が夜の通りを歩いている。

それは捜査のためだった。

彼女が捜査しているのは牛泥棒の件である。

そして容疑者として目を付けているのは、裏山に住みついた得体の知れない浮浪者である。

現に彼女は毎日のように山に入っては浮浪者を見張っていた。

そして暗くなってその男が洞窟の中のランプを消すまで、それが続いていた。

夜の通りを歩いているのは、その日の捜査が終わり山から下りて家に帰る途中なのである。

そして彼女がいつものように屋馬宿屋の手前にさしかかった時のことである。

屋馬宿屋というのは、屋馬町にある唯一の旅館である。

旅館と言っても少し大きめのただの民家をそのまま使っているだけの宿屋だ。

部屋は三つあるが、三つとも空いている時のほうが多い旅館だ。

その屋馬宿屋から、二人の人間が出てきた。

月明かりのみではっきりとは見えないが、どうやら若いカップルのようだ。

そのまま中むつまじく、三隅ちか子の前を歩いている。

――カップルとは、珍しいね。

屋馬宿屋の客は、ほとんどが釣り客である。

カップルなど、屋馬の主である彼女もほとんど見たことがない。

二人はその先の防波堤の切れ目の所から、そこにある小さな砂浜へと降りていった。

その切れ目から道をはさんだ反対側に、三隅ちか子の家がある。

彼女は玄関の鍵を開け、中に入る前に振り返って、そのカップルを見た。

二人は砂浜の中央あたりに腰をおろし、前方を見ていた。

その先には海、そして夜空には多くの星がまたたいている。

三隅は薄明かりの中にもかかわらず、二人が手を取り合っているのを見逃さなかった。

――ふん、お熱いことで。

彼女は若き頃一時期、炭鉱の男達にちやほやされたが、特定の男性と付き合ったことがなく、本当に好きな男の人にはふられていた。

彼女は自分の過去を振り返り、目の前の二人をとても怖いものがそこにある目で見ていたが、やがて家の中に入ると玄関の戸を閉めた。

その時である。

――なに?

彼女は何かの音を聞いたような気がした。

それは風の音に似てはいるが、風の音ではない。

そして次の瞬間

「うわっ」

「きゃっ」

二人の短く小さな声、悲鳴らしきものが聞こえてきた。

――なんだい?

三隅は戸を開けた。

そして二人の姿を確認しようとしたが、さっき座っていた場所には見当たらない。

三隅ちか子はいつも玄関先に置いてある懐中電灯を掴むと、砂浜へと向かった。

砂浜には二人の足跡が残されていた。

その先には二人が座った跡もあった。

ただやはりそこには誰もいなかった。

三隅は懐中電灯の光を行ったり来たりさせていたが、そのうちに奇妙なことに気がついた。

砂浜には二人が歩いて行った跡があり、座った跡もしっかりと残されている。

そしてそこには人の姿は見当たらないのに、そこから戻ってきた跡も、何処かへ向かった跡も、全くなかったのである。


次の日、屋馬宿屋はちょっとした騒ぎになっていた。

一週間ぶりにして唯一の客である男女二人組みが、忽然と姿を消したからだ。

当然宿代はまだ支払われてはいなかった。

宿屋のおかみが「料金を踏み倒して逃げた」と騒いだため、まず中丸が出向いていった。

そいておかみをなだめると同時に、本部に連絡を取った。

本部からやって来た二人は、牛泥棒の時と同じメンバーだった。

おかみには気がつかれないように、おざなりに捜査が行われたが、それでもいくつかわかったことがあった。

まず財布や携帯電話などの貴重品、あるいは免許書など身分を証明するものは一切残されていない。

そのためおかみが「逃げた、逃げた」と騒いでいたのだが、警察の見解は違っていた。

まずは二人が一泊しか予定していなかったことだ。

一泊であれば、荷物はそう多くはないはずだ。

小さなバックに全て入るくらいの荷物しかなくても不思議ではない。

その荷物をちょっと出かける時に持って出たとしても、なんら不自然ではない。

だいいちこの宿屋は、普通のホテルにはあるような荷物を預けるシステムが存在しない。

ちゃちな鍵しかない部屋に貴重品を置いて出ることは、都会育ちの人間であれば不安に思ったはずだ。

したがって料金を踏み倒したと言うより、二人で夕食をとって風呂に入った後、外に出たところで何らかのトラブルに巻き込まれたと考えたほうが、つじつまが合う。

それが証拠に貴重品はなかったが、下着類、男のパンツやシャツはともかく、女のブラジャーやショーツまでが部屋に残されていた。

料金を踏み倒すつもりなら、下着だって持ってでるだろう。

たいして荷物にはならないし、ある種の証拠を残していくことになるからだ。

逃げる犯罪者の心理からすれば、かなりおかしいことになる。


中丸は、自分の目の前で何の連慮もなく大きな声でしゃべる本部から来た二人の会話を、嫌でも聞いていた。

「やっぱり何かあったみたいですね」

「状況から見てそうだろうな。そう考えるしかないだろう。例えば女が、夜の海ってとってもロマンチックね、とかなんとか言って、二人でのこのこと出かけたとしよう。貴重品などはバックや男のポケットの中なんかに入れて。そして女が岩場で足を滑らす。そして助けようとした男ともども、海の中にざっぶん。それでおしまい。なんてことが考えられるな」

「じゃあ、海をさらいますか」

「バカか、おまえは。海をさらうのに、どんだけ人手と手間とお金がかかると思ってるんだ。こんな何の根拠もない憶測だけで、海をさらいましょうと署長に言ったら。それこそ大目玉だぞ」

「じゃあ、どうします」

「なにもしないさ。逃げたんじゃないことは、ほぼ間違いない。でも二人とも消えてしまった。そうなると、二人の家族からいずれ、捜索願が出るだろう。そうなればその担当者が調べるだろう。よしんばどざえもんがどこかに流れ着いたとしても、やはりそっちの担当者が調べるだろう。俺たちはなにもしなくて、いいんだ」

「だとしたら、あの大騒ぎおかみは、どうします」

「あんなヒステリーばばあ、ほっとけ」

二人はそういった後大笑いをし、中丸には一言の挨拶もなしに、本部へと帰っていった。


三隅ちか子は例の二人が足跡も残さずに消えたことを、誰にも言わなかった。

もちろん警察にも。

三隅にとっては牛が盗まれたことも、見知らぬ二人が消えたことも、完全に他人事だった。

彼女が関心あることはただ一つだった。

それは例の浮浪者のことである。

彼女は浮浪者に関しては、とてつもなく負の感情を抱いていた。

故に二つの事件に強く興味を示しているのは〝あの男がやったのではないか〟という思いだった。

それは本当のところ、あの男が犯人ではないか、ではなくて、なにがなんでもあの男を犯人にしたてあげたい、と言う強い欲望が彼女の心の奥底にある、というのが真実である。

しかしそのことに彼女自身が全く気づいていない。

彼女は本気で浮浪者が犯人だと思い込んでいた。

――あいつめ、いったいどうしてくれよう

三隅ちか子は、自分の山を荒らしているあの男が、憎くて憎くてしかたがないのである。


香田陽子は屋馬町では数少ない若い人妻である。

この万年嫁不足の町で彼女を射止めた香田友人は、漁師仲間からたいそううらやましがられていた。

おまけに結婚した時は友人が三十四歳で、美佐子が二十二歳の時だった。

干支が同じでちょうど一回り違っていた。

そのことが嫁不足の漁師町の独身仲間から嫉妬をかい、夫の友人はしばらくの間居心地の悪い思いを強いられていたが、それもようやく最近おさまりつつある。

結婚二年後に生まれた友樹ももう二歳になる。

人並み、いや人並み以上に我が子を溺愛する母親になっていた。

その日夫が漁に出かけた後、彼女はいつものように友樹を庭に出し、家の中で掃除を始めた。

最近の彼女の日課である。

庭の周りはぐるりブロック塀で囲まれており、門を閉めれば友樹が外に出ることはない。

家事の邪魔にならないし、こまごまといろんな物がある家の中よりも安全だ。

友樹も庭がお気に入りのようで、ほおっておくと、いつまででも一人で遊んでいる。

――手のかからない子で、本当によかったわ。

ついでに言えば、家事を終えた後庭に出て、友樹と形ばかりの追いかけっこをした後、我が子を強く抱きしめることが最近の彼女のマイブームであった。

そしていつものように一通り片付けた後、サンダルを履いて庭に出た。

「友樹、どこにいるの。お母さんが捕まえちゃうぞ」

庭はさして広くない。

香田陽子は家の角を曲がる度に両手を大きく広げて「わっ!」「わっ!」と、そこにいる可能性のある友樹を脅かして歩いた。

しかし庭を一周したにもかかわらず、友樹の姿が見当たらない。

――変ねえ。

最初は友樹と自分が同じ方向に歩いているからかと思った。

もう一度庭を一周し、ついでに門も確認した。

門はしっかり閉まっている。

そして友樹はどこにもいない。

――おかしいわねえ。いつからこんなにも早く歩けるようになったのかしら?

彼女の頭の中には、自分と友樹が同じ方向へ歩いている、と言う考えがこびりついていた。

――よし、こうなったら。

彼女は軽く走りはじめた。いくら女性とは言え、二歳の男の子よりは断然速いはずだ。そして庭を一周した。友樹はいない。もう一周した。まだいない。そしてもう一度。さらにもう一度。それでもいない。

いつしか香田陽子は全力で庭をぐるぐる回っていた。

何度も何度もまわっていた。

そして突然立ち止まると、大きく叫んだ。

「ともきーーーーーっ!」

その声はご近所じゅうに、響きわたった。


中丸巡査も今回ばかりは、浮浪者や牛泥棒、そして消えたアベックの時のように、なあなあですますわけにはいかなくなっていた。

なにせまだ二歳の子供が、母親がちょっと目を離した隙に、消えてしまったからだ。

それは本部からきた連中も同じである。

だいたい来た人数が三倍になっている。

おまけに最初に来た二人は、その中でも完全に下っ端扱いをうけていた。

ひと通り捜査をして戻って来た時、その中でもやり手でベテランを絵に描いたような刑事が、中丸に聞いてきた。

「最近ここいらでは、変なことが連発しているそうじゃないか」

「はあ、この前は牛泥棒、そしていなくなったアベック、そのうえに今回子供が行方不明になっていますから」

「それについて、なにか心当たりはないのか」

「いえ、別に」

その時、入り口の方に顔を向けていた中丸の目の隅に何かが映った。

よく視れば、そこに三隅ちか子が仁王立ちしている。

――えっ、あいついったいどうするつもりだ?

中丸の不安をよそに、三隅はもうこれ以上人が入りきれないほど満員の派出所に、強引に分け入ってきた。

嫌でも気がつきベテラン刑事が聞いた。

「えっと、あなたはいったい」

三隅ちか子は何の迷いもなく言った。

「あいつがやったのだ。あいつがやったのに違いない!」

そこにいる何人かが思わず耳をふさぐほどの大きな声が、狭い空間に響きわたった。
 

「で、結局どうなった」

西口が聞く。中丸が答える。

「どうもこうもないさ。あのバカ女、全部山に住みついた浮浪者がやったんだと、言い張ったんだ。最後までね」

「最後までね…」

「ああ、最後までだ。ベテランの刑事も、対応に困っていたよ。とにかくすさまじいの一言だった」

二人は屋馬町の漁師町側にある唯一の喫茶店で話をしていた。

ただ喫茶店と言っても、ラーメンも出てくれば、牛丼もメニューにある。

もちろんインスタントだが。

西口が再び聞く。

「で、いったいなにを根拠にあの男がやったと、言い張ってるんだ」

「なにも根拠などないさ。ゼロだ。あるとすればあの男が山に住み着いてから一連の事件が起こっているが、それだけで連行するわけにもいかんだろう。だいいちあれだけのことを、あの男一人で出来るわけがないと言うのが、本署から来た連中の意見だ。俺もそう思うな」

「あの男一人では無理か」

「ああ、無理だろうな。あいつ、かなりの年配だ。おまけに体も小さく細い。あれを一人でやるには、特に牛泥棒がそうだが、ほとんど人間ばなれした力が、必要だろうな」

西口は少し考えていたようだが、やがて言った。

「で、国有林に住み着いていることも含めて、結局何のおとがめもなしか」

「そうだな。だいたい浮浪者というものは、公共の場所に住み着いているものだ。都会は特にそうだが。誰にも迷惑はかけてないようだし、山は広いし、男は一人だし。法的手段をもちいて山から追い出すには、ちょっと理由が足らないだろう。それが上の見解だし、俺もそれがいいと思う」

「そうか」

「たださっきも言ったように。男が現れたのと事件が起こり始めたのは、時期は一致している。俺にも一応、とりあえず気に留めておくようにと、オフレコの指示が出てはいるが、本署も俺も、それにはほとんど期待はしていない」

「わかった。で、あの女のほうは」

「ああ、あのバカね。あれもそのままだ。ただこれ以上騒ぐようだったら、なんだかの注意はしてやらんといかんだろう」

西口はそのまま黙った。彼も本署や中丸と同じだ。あの浮浪者は事件には関係ないと考えていた。ただ時期が一致していることは、少し気にはなっていた。

「おっ、そろそろ見回りの時間だ」

中丸が時計を見て立ち上がり、伝票を取った。西口が制する。

「おい、俺が誘ったんだ。俺が払うよ」

「もう三回も連続で、おごってもらっている。今回は俺が払うよ」

そしてレジへと向かった。


西口、いや有限会社屋馬周遊ヘリは急に忙しくなった。

香田友樹が突然消えたからだ。全国ネットのテレビ局が大挙して押しかけ、あちこちをカメラで撮りまくる。

その一つが、屋馬町を上空から捕らえた映像だ。

ニュースを流すとき、一つ押さえておけば映像のバリエーションが広がる。

普段はヘリを現場まで飛ばしてもらうのだが、そうなると結構お金がかかる。

だからいつもはどうしても必要と思われる時にしか空撮はやらない。

が、ここ屋馬町には最初からヘリコプターが待機しているのだ。

長距離を飛ぶ必要がないため、料金が安く上がる。

正確に言えば、普段のフライトと同じ金額で、それはちょっとした小金持ちが苦もなく払える金額だ。

そんな事情で、普段は週に唯一の休みである水曜日だというのに、西口は朝からフル回転で飛んでいるのだ。

西口は、香田友樹が失踪したのが火曜日であることを恨んだ。

西口の不満をよそに、屋馬町はいつになく活気付いていた。

唯一の喫茶店は食材がなくなるほどに繁盛し、宿も数日間は満員札止め。

海に近いため、海からの映像を望む報道陣もいて、漁師までが臨時収入を得ていた。

これほどまでに華やいだのは、炭鉱の閉鎖以降初めてのことだろう。

たとえ数日間とはいえ。


もちろん警察はそれどころではなかった。

報道が、牛泥棒やカップルの失踪を嗅ぎつけ、友樹ちゃん行方不明とセットで報道したので、前の二件もおざなりにするわけにはいかなくなったからである。

特に叩き折られた牛小屋の二本の丸太はインパクトがあり、「屋馬町の怪事件、ミステリー」として何度も放送され、ついでに草野の「うちのミカが誘拐された!」は、草野のキャラクターのおもしろさも手伝って、けっこう全国ネットの電波に乗ったものである。

まさに、大騒ぎお祭り騒ぎだったのだ。


嵐の数日間が過ぎ、西口は一週間遅れの休日をいただけることになった。

しかし報道陣のほとんどはかき消すようにきえたものの、無名だった屋馬町が連日全国ネットで取り上げられた事実は消えない。

当分は今までよりも観光客が増えるだろう。

岩本敬一郎はいつになく上機嫌で、遠野はいつも以上に不機嫌になっている。

向井真理奈だけがいつもと同じ、と言いたいところだが、彼女は彼女で〝美しすぎる受付嬢〟として紹介されたために、明らかに彼女目当ての男達が訪れるようになり、ファンレターまで届くようになっていた。

小さなプロダクションだが、芸能界入りまで薦めてきたところもあったそうだ。

「でも断りました。芸能界なんて全然興味がありませんから」

と笑いながら言っているが、ストーカーまがいのファンもいるらしくてけっこう大変なのだが、それを一言も愚痴らないのが彼女の良さか。

――ほんと、嫁や子供がいなけりゃ、絶対に手をだしていたな。

西口は改めて思った。

手を出さない理由は、嫁が怖いわけではない。

西口が真理奈に手を出せば、西口の嫁や子供はもちろんの事、真理奈自身を傷つけてしまう。

向井真理奈を誰よりも大切に思っている西口に、そんなことが出来るわけがないのだ。


男が山道を歩いている。

ただ道とはいっても、人の造った道ではない。

獣道だ。

その髪はぼさぼさで、服は汚れ放題に汚れている。

ふと立ち止まり、横の木を見つめ、素早い動きでその木の裏にまわった。

そのまま動かない。

やがて男が歩いてきた方向にある小さな木ががさがさと揺れた。

その木の枝と枝の間から顔をのぞかせたのは、三隅ちか子である。

――あれっ、あいつ、どこ行った?

足元のくぼみに気を取られ、数秒間目を離したすきに、男がいなくなってしまったのだ。

三隅はあせった、まさか見失ってしまうとは、微塵も考えてなかったからである。

最初は警戒して顔だけ出していたが、何度見ても男の姿が見当たらないために、ゆっくりと木の陰から全身を出して、やがて男の消えたほうに向かって歩き出した。

――いったい、どこへいったんだい、あいつは?

子供のころから数え切れないほど歩いた〝自分の庭〟で、まさかよそ者を見失ってしまうなんて、ありえない。

そのまま歩いていたが、ふと何かの気配に気づいて立ち止まり、顔はそのままで目だけを動かして左方を見た。

男がいた。

怖い顔で三隅を見ている。

「あんた、いったい俺に、何の用だい?」

小さい身体に似合わず、はっきりとした力強い声だった。

「い、いや、なんでもないよ」

言い訳にならない言い訳をして、三隅は振り返りもせずに、あたふたと山をおりて行った。


その日、高柳親子はいつものように、日が昇る前に港を出た。

快晴だ。

日が昇らなくても月と星々がそれを教えてくれる。

こんな日は大漁になる場合が多い。

慣れた猟場へと小さな船を走らせた。

猟場に着くと網をおろす。

網をおろした後は、しばらくはやる事がない。

二人とも横になってやり過ごすのが日課だ。

やがて日が昇ってきた。

日が昇りきると、まず一回網をあげる。

高柳修二は身を起こした。

見れば父親は眠り込んでいるようだ。

「おやじ」

声をかけた。

だが反応がない。

高柳修二は振り返って太陽の位置を確認すると、もう一度声をかけようとした。

「……」

父親は、小さな船の上から姿を消していた。


派出所に高柳修二が飛び込んできたのは、まだ早朝のころだった。

「おやじが船からいなくなった」

当然、海に落ちたと考えるのが通常だが、高柳は断固としてそれを否定したのだ。

おやじは身体がでかい。

普通の人間でも目の前で船から海に落ちれば、大きな音がするし水しぶきも上がる。

ましてやおやじなら、なおさらのこと。

しかし水の音など全くしなかったし、水しぶきも上がらなかった。

船の上から忽然と消えたのだ、と言いはった。

「ただ……」

高柳は言った。

「ただ……なんですか?」

中丸が聞くと、小さな声で言った。

「風の音を聞いた」

「風の音?」

「そう、あの時、太陽を振り返った時に、風の音を聞いたんだ。それも普通の風の音じゃない。なんと言うか……船の上だけに強い風が一瞬吹いたような。……うまくはいえないが、そんな感じだ。とにかく強い風だった。なのに後から考えれば、海は全然荒れることなくべた凪だったし、船も揺れなかった。が、確かに船の上には、強い風がそれも一瞬だけ吹いたんだ」

「……」

中丸はとにかく高柳をなだめすかし、家に帰らせた。

そして本署に連絡を取った。

海に落ちた漁師がいます、と。

他に何をどう言えばいいだろうか。


前回ほどではないが、また屋馬町が騒がしくなった。

押しかけた野次馬と報道陣で。テレビでは再び屋馬町のことが取り上げられている。

地方の海で中年の漁師が一人行方不明になったくらいで、いつもならこんなバカ騒ぎにはならないが、不可解な牛泥棒、アベックの失踪、二歳の子供がいなくなり、漁師が一人消えた。

これほどまでに立て続けのために、これら一連の事件を無理からでも結び付けようとしているのだ。

〝屋馬町の怪奇〟などとワイドショーで、まるで安っぽい怪談話かなにかのようにして、放送している。

地元の漁師と警察は海に出向いて高柳の捜索をし、その様子を捉えるべく報道陣のチャーターした船舶が混ざり合い、海がかってないほどの賑わいを見せている。

しかしヘリコプターの乗客は、民間人(野次馬か?)が少し増えた程度で、マスコミ関係の客は誰一人いなかった。

ニュースを見ると、屋馬町の全景と称して前に撮った映像を使い回ししている。

ヘリコプターには乗らないくせに、インタビューという名目で、競い合うように向井女史にカメラとマイクを向けていた。

彼女は今や、へたなアイドルよりも有名人だ。


派出所は刑事で溢れかえっていた。

普段は中丸一人で、時に応援が来てもあわせて二人しかならないところに、約十人もの警察関係者が出入りするようになっていたからである。

もう牛泥棒以外は本気で解決するつもりだった。

なにせ日本中が見ているのだ。

手は抜けない。

そんな刑事のバーゲンセール状態のところに、性懲りもなくのこのこやってきた女性がいた。

三隅ちか子である。

「あの浮浪者がやったんだ」

もちろん門前払いをくらった。


ここのところヘリをいつになく酷使し続けていたが、ようやく落ち着き始めたので、西口は遠野に声をかけた。

「今のうちに徹底的に整備しといてくださいね」

遠野は何も答えなかったが、行動は開始した。


そのうちに刑事達はまだけっこう残っているが、マスコミは逆に誰もいないという状態となった。

報道は鮮度が命だ。

過去に起こり、何の進展もない事件にしがみついているような視聴者は、ほとんどいない。


三隅ちか子はあいも変わらず浮浪者を追いかけまわしていた。

――あいつがやったんだ。あいつに絶対に間違いない。

あの男が憎かった。

だから単純に、全てあの男のせいだと思っていた。

根拠も証拠もまるでない。

ただ信じていた。

あの男が無罪だとしたら死んで詫びを入れるか、と聞かれたら、自信たっぷりに何のためらいもなく承諾したことだろう。

それほどまでに確信を持っていたのである。

死ぬのは人一倍怖にもかかわらず。

ただ自分の都合のいいように思い込んでいるだけだが、誰が何と言おうとその考えを変えることはできない。

ただ一つ、前とは変わったことがある。

それは前と比べれば、ストーカー行為がかなり慎重になったことだ。

一度見つかり、軽く脅された。

なにせ相手は太い丸太二本を苦もなくへし折り、若いカップルをあっという間に連れ去り、母親が数旬目を離したすきに子供を誘拐し、沖の船の上にいる漁師を一瞬で海に引きずりこんだのだ。

人間技ではない。

と言うより、そんなことが出来る人間がいるはずがないのだが、三隅の〝あいつが犯人だ。間違いない。〟の確信の前では、そんなことは取るに足らない些細なことだ。

とにかく何をするのかわからない。

怖い。本当に怖い。

ゆえに慎重に慎重を重ねて〝追跡調査〟を遂行し続けているのだ。

そんなにも怖いのなら、追跡なぞ止めればそれで済むことなのだが、そんな考えも三隅の頭には微塵も浮かんではこなかった。

男の行動は単純だ。

洞窟に住み、山菜を取り、針金で作った奇妙な仕掛けで小動物を捕獲し、湖まで足を伸ばして簡素な道具で釣りをする。

一日の大半が食料調達にあてられ、それ以外は洞窟でごろごろしているだけである。

本日、特に異常なし、の日々だ。

それでも三隅はひたすら待っていた。

自分の目の前で男が残虐かつ卑劣な行為を重ねることを。


捜査は続いていた。

特に香田友樹の失踪事件は念入りに調べられていた。

あとはそれなりの力の入れ具合か。

ただその中でも牛泥棒は、ほとんど放置である。

そんな中でも中丸は、一切何もしていなかった。

いや、何もさせてもらえなかったと言うのが、正しい言い方であろう。

捜査の中心、というより全ては、本署からやってきた連中がやっていた。

中丸には〝とりあえず、いつもどおりにしておいてくれ〟と言う命令が下っただけだったからだ。

それはそれで、いい。

中丸は、やっかいな事件に自ら首を突っ込んでゆく気には、とてもなれなかった。

好きにするがいいさ。

そういうわけで中丸には、今捜査がどの程度進んでいるかが、さっぱりわからなかったのである。

――ひまだなあ。

一人でいるときは大してひまだとは思わなかったが、何人もの男達が派出所を中心にしてこま鼠のように忙しく動き回っているのを見ると、自分がいかにひまであるかが実感できた。

―何かすることはないかな?

中丸はなんでもいいから、何かがしたかった。


数日たっても何も出てこなかった。

町の人も一部の例外を除いて、普段の生活に戻っていた。

一部の例外とは、愛するミカを誘拐された草野であり、浮浪者を追い掛け回している三隅の二人だ。

が、この二人が合流する事はなかった。

三隅が「牛泥棒はあの浮浪者だ」と訴えたとき、草野がまったく相手にしなかったからである。

理由は「あんなやつにあんなことが、できるものか」である。

孤立無援の三隅をサポートする人物は、誰一人いなかった。


遠野がヘリの整備をしている。

西口はそれをずっと眺めていた。

遠野がヘリの整備をするのは仕事だし、いつものことだ。

ただいつもと違うのは、その時間だ。

定期的な整備なら、それほど時間はかからない。

にもかかわらずいつもの倍以上の時間が経過しているのに、まだ整備が終わらないのだ。

だとすれば、どこかに不具合でもあるのか。

いや、遠野の様子からは、そんな雰囲気はまるで感じられない。

何か不具合でも見つかれば、それこそ鬼か般若のような顔でその箇所を凝視するのだが、遠野の顔はいつもの顔、つまり鉄面皮だ。

なのに時間だけがだらだらと過ぎてゆく。

――なんだろう?

西口は今日のような遠野を見たことがなかった。

そのまま見続けていると、どうやらようやく終わったようだ。

「お疲れ様」

それにたいして遠野は何も言わず、顔だけを西口に向けた。

いつものことだ。

ただいつもと違うことがあった。

そんな時遠野は、西口の顔をどうだと言わんばかりにしっかりと見るのが普通だが、今日に限ってその目は西口を捕えておらず、少し視線が泳いでいた。

そんな遠野をみるのも初めてだった。

遠野は目が泳いでいたが、普段どおりのしっかりとした足取りで、そのまま外に出て行った。


何もない日々が続く。

刑事達は何人かうろうろしているが。

そんなある日、休憩室でくつろぐ西口を、向井が呼びに来た。

「西口さん、早く、今すぐ来てください!」

――客か? 客ならそんなにあわてなくてもいいようなものだが。

向井の後をついてゆくと、いきなり目の前に原色まみれのカップルが現れた。

――ええと、どこかで。

すぐに思い出した。前にヘリの調子が悪くなって、予約したのにキャンセルしてもらった二人だ。

あの時西口が丁重に断ると、男は殴りかからんばかりの勢いで罵詈雑言を浴びせかけ、女もキンキン声でわめき続けたカップルだ。

「おい、おっさん。今度は飛べるんだろうな」

横柄な口調で男が言った。

「はい、もちろんですとも」

と、西口。

それを聞いて男は、底意地の悪さを絵に描いたような顔で笑った。


ヘリに乗り、決まったコースを飛ぶ。

ヘリポートから屋馬町上空を飛び、その先の岬の方から山へと回りこみ、ヘリポートに帰ってくる。

ところが、さして高くない屋馬山の頂上を旋回してヘリポートに帰ろうとした時に、後部座席の派手派手男が声をかけてきた。

「おい、あの湖の上を飛んでくれよ、おっさん」

屋馬山の反対側に湖がある。

湖といっても、池に毛が生えた程度のものだが。

普段はそこまでは飛ばない。

飛行時間の問題だ。

短時間でより多くの客をさばいた方が、収益が上がる。

それに長時間飛ぶからといってその分の料金を引き上げたら、客が寄りつかなくなるだろう。

「いや、でもお客さん、あそこはコースに入っていないもので」

「うるせえ! 前に俺たちをキャンセルしたろう。その穴埋めをしろってんだよ!」

後ろから頭を小突かれた。

――おいおい、ヘリを操縦している人間の頭をたたくなんて、こいつ、どうかしているぞ。

断ったらまた小突かれそうだ。

強くたたかれたら、操縦にも支障がでると言うのに。

バカか、こいつは。

西口はあきらめた。

幸い次のフライトの予定はない。

「わかりました。今回だけ特別ですよ」

「わかりゃあ、いいんだよ。なっ」

「ねーーっ」

――死ぬまで二人でやってろ。

湖に向かった。


西口自身、湖の上を飛ぶのは初めてのことだった。

コースに入っていなかったし、調整のためにお客なしで飛ぶ事もあるが、その際にも飛んだことはなかった。

わざわざ立ち寄るほどの湖ではないことを知っていたからだ。

案の定、後ろの二人はなにやら言いはじめている。

「なんだあ。遠くから見たときは、もっときれいな湖かと思ったのに」

「そうよ。なんなのよ、あのちんけな湖は」

「そうだよ。なんで俺たちがあんなカスみたいな湖を、眺めなきゃいけないんだ」

―飛べと言ったのはおまえらだろう。

もちろん口には出さない。

「おい、おっさん。もう戻っていいぜ。早くしろよな。俺は忙しいんだ」

「はい、わかりました」

その時である。

突然視界の端になにか大きなものが飛び込んできて、あっという間に視界から消えた。

目で見えないほどのスピードでどこかに飛んでいってしまったのか、あるいはその場で煙のように消え去ってしまったのか。

どちらとも断定できない、感じだった。

―何だ、今のは?

後ろの二人はちょうど反対側を見ていたために、気づかないでいた。

西口に見えていたのはほんの一瞬だった。

一瞬だったが、それが何であるかは確認したつもりだ。

それは西口の見間違いでなければ、鳥だった。


ヘリポートに戻り、バカ二人を送り出した後、西口は考え込んだ。

―もし、あれが鳥なら。

その大きさは、いったいどれくらいになるだろう? 

飛んできたものを、瞬間目でとらえただけだ。

しかしその一瞬は、目の端にしっかりと焼き付けたつもりだ。

鳥だ。間違いない。

そしてその大きさが、かなり大きいことはわかる。

ただ、鳥のバックが雲ひとつない空だったので、比較になるものがなく、その大きさが今ひとつわからない。

だが翼開張三メートルもあり、空飛ぶ鳥としては世界最大のワタリアホウドリよりも大きいような気がした。

本当に大きな鳥なら、西口が見たこともないほどに大きな鳥ならば、最近の屋馬町での奇妙な事件の説明がつくのではないかと。

――だが、まてよ。

考え直した。

いくら大きな鳥だとしても、幼い子供はともかく、身体の大きい成人男子をかっさらう事ができるのだろうか。

あとカップル二人同時に連れ去る事なんて、果たして可能なのだろうか。

牛小屋の丸太にしてもそうだ。

いくら大きくても、ただの鳥に太い丸太をへし折ることなんて、とてもじゃないが出来そうにはない。

それに加えて、牛小屋とカップルの時は目撃者がいなかったが、子供と漁師の時は、すぐそばに人がいたのだ。

おまけに共に日中の出来事であり、漁師にいたっては息子のすぐ目の前である。

それなのに誰も大きな鳥などは見ていない。

近くにいる人に姿を見られることなく、子供や猟師を連れ去ることができるのだろうか?

――いや、できないな。

そう、できるはずがないのだ。


何かつかめないかと西口は、ネットで空飛ぶ大きな鳥について調べてみた。

するといろんな鳥が山ほど載っていた。

まず、東方見聞録に出てくるルクだが、これは数百メートルもあるらしく、もちろん現実的ではない。

記述例が多いのは、サンダー・バードである。

元々はネイティブ・アメリカンに伝わる伝承だが、現在も目撃例が多くある。

スー族に伝わる伝説ではワキンヤンといい、常に夫婦二匹で行動し、嘴と鉤爪だけの存在なのだそうだ。

1977年に十歳の少年を持ち上げて連れ去ろうとした大鳥が、サンダー・バードと言われている。

鳥は自分の体重よりも重いものを持ち上げることは出来ない。

十歳の白人少年よりも体重が重くて空を飛べる鳥は、この地球上には存在しないことになっている。

アメリカでは南北戦争時代に、怪鳥が何匹も撃ち落されている。

1865年にアリゾナで撃ち落された怪鳥は翼を広げると十メートルもあり、その写真が現存している。

見たところ、鳥というよりもプテラノドンに代表される翼竜そっくりだ。

西口は専門家ではないが、本物っぽく見える死体の模型を作ることはそう簡単ではないと考える。

しかし写真に写っているものは、本物の生物の死体にしか見えない。

1890年にアリゾナのカーボーイが撃ち落した怪鳥も写真が現存する。

これは五メートルくらいのものだが、やはり本物の翼竜の死体にしか見えない。

仮に本物ではないとしたら、十九世紀に素人が、どうやってこんなものを作ったのだろうか。

あと巨大で空を飛ぶものと言えば、パプアニューギニアのローペンがいる。

文明人には1944年に陸軍騎兵のデュアン・ホジキンスが目撃したものが最初とされているが、もちろん現地の人々にはお馴染みで、ローペンもパプアニューギニア語である。

これまた完全に翼竜タイプで、大きさは3メートルから12メートルと巨大。

近年ではビデオや写真も多く撮られている。

チリのサンティアゴには、タギュア・タギュア・ラグーンという長い名前の巨鳥がいる。

1784年に生け捕りにされたものは、羽を広げると18メートルにもなったそうだが、太古の伝説とまでは言わないが、記録が古くてどこまで真実なのかは不明。

3.6メートルもある大きな耳が特徴なのだとか。

実際に化石が発見されたものでは、五百万年前まで生息していたアルゲンダビスがいる。

アルゼンチンで発掘されたこいつは完全に鳥形で、コンドルに近い姿をしているが、翼開張が八メートルもある大鳥だ。

他にも細かいのがいくつかあるが、ネタ元が怪しいものが多く、あまりあてにはならない。

今までの中から候補を選ぶとしたならば、アメリカのサンダー・バードか同じくアメリカの翼竜。

それ以外ではパプアニューギニアのローペンかアルゼンチンのアルゲンタビスあたりが候補か。

それらのどれかが、あるいな西口の知らないなにかが、わざわざ日本までやって来たとでも言うのか。

日本には妖怪のたぐいはともかく、現実的な巨鳥の記録はいっさいない。

――それにしても。

仮にそんなばかでかい鳥が飛び回っていたとしたら、なぜ今まで騒ぎにならなかったのか。

その点がどうしても解せない。


中丸が、この世に時間と言うものが存在する事を強く実感しながら、派出所の隅の椅子に座って何もしないでいるところに、いきなり西口が入ってきた。

「あれ、西口さん。どうかしましたか?」

「……」

西口は何も言わない。中丸がもう一度尋ねると

「いや、なんでもない」

と言うやいなや、そそくさと出て行った。

――うん? 何だ、今のは?

とけげんな顔で西口の後姿を見ていたが、それもほどなくしてやめると、さっき眺めていた窓から見える青々とした山々に目を移した。


西口は派出所まで行った事を後悔した。

―とてもじゃないが……

言えるはずがないのだ。最近起こっている一連の事件の犯人は、全部ばかでかい鳥が犯人ですよ、なんてことは。

荒唐無稽であるうえに、西口自身がそれを信じていないのだから。


三隅ちか子がポリタンクを持って山道を歩いている。

もうすぐ目的地だ。

目的地はそう、あの浮浪者が住む洞窟だ。

午後二時過ぎ。

この時間は、浮浪者がいつも昼寝をしている時間だ。

長きにわたるストーカー行為により、三隅はそのことを知っていた。

三隅の足取りは、老婆が重いポリタンクを持っていると言うのに、やけに軽い。

目的地に着いた。

例の洞窟の入り口。

三隅はポリタンクのふたを開けると、洞窟の入り口を中心に、枯葉の堆積する地面の上に灯油をぶちまけた。

この山は落葉樹が多い。秋の真っ只中の今、そこに灯油をまいて火をつければ、驚くほどよく燃える事だろう。

三隅のやろうとしている事は、放火であり殺人である。

しかし本人にその気はまったくない。

〝私〟の山を荒らす者は絶対的な悪である。

死んでも仕方がない。

いや、死ぬのが当然なのだ。

殺人どころか邪悪な存在に正義の捌きを下すものであり、天の神に対してもなんら恥じる事はない。

いや、むしろ天の神より、ほめられてしかるべき行為であると。

天の神が味方であれば、警察に捕まることすらないだろう。

よしんば何かの間違いで逮捕されたとしても、この私は極悪人を成敗したのだからたいした罪にもならず、知人や親族はもちろんのこと、日本中の人たちから大いに賞賛を受けるはずだ。

考えるまでもなく、全くもってありえないことだが、三隅ちか子はそう信じて疑わなかった。

悪を倒す者は完全に正しく、常に美しいのだと。

ポリタンクを空にした後、三隅は少し距離をとり、ジッポのライターに火をつけ、それを灯油まみれの落ち葉の中に投げ入れた。

予想以上の勢いで炎が上がった。

――ざまあみろ。私の山を食い物にする外道め。これでおまえも最後だ。

火のまわりが速い。

三隅はあわててその場を立ち去ろうとした。

しかしどれほども歩かないうちに、ガチンという大きな音を聞いたと思ったら、右足首に強烈な痛みを感じた。

――なに?

見れば右足が、イノシシ用のトラバサミに挟まっている。

――なんだって!

この山でトラバサミを使う者は、屋馬町にはいない。

条例で禁止されているからだ。

もちろん三隅も使った事はない。だとすれば……。

――ちきしょう! あの男が、こんなものを……。

突き刺すような痛みに耐えながら、三隅はトラバサミをはずそうとした。

しかしこれ以上は出せない限界まで両手に力を入れても、トラバサミはびくともしない。

イノシシが暴れても外れることのないように作られた代物だ。

やせ細った老女の力では、外せるわけがない。

三隅は必死でトラバサミと格闘していたが、ふと背中に熱を感じた。

振り返ると、燃え上がる炎がまるで生きているかのように、三隅ちか子に迫ってきている。

――くそっ、なんだって私がこんな目にあわなきゃならないんだ。私がいったい何をしたというんだ!

もう炎は目前だ。

三隅は絶叫した。

「助けて! 誰か助けて!」

しかしその声は、誰にも届かなかった。


「西口さん、お仕事ですよ」

休憩していると、不意に真奈美に呼ばれた。

予定はない。飛び込みの客だ。

「はいはい」

やる気のなさを全身で表現しながら、ヘリポートへ向かう。

真里菜も特にやることがないのか、ついて来た。

彼女が手すきなら、接客はなるべく彼女に任せてある。

無愛想なおっさんと比べると、相手に与える印象が段違いだ。

おまけに彼女は今や、有名人だし。

が、ヘリポートまであと少しというところで、誰かが叫んだ。

「火事だ!」

見ればここから少し離れた山手で、もくもくと煙が上がっている。

「真里菜ちゃん、みんなを避難させて」

「はい」

山を見上げる人たちに駆け寄り、一人一人声をかけてゆく。

若いのにしっかりしているし、責任感もある。

本当にいい子だ。

あの火がここまで来るのかどうかはわからないし、来るとしても多少の時間的余裕はあるだろうが、避難させておくにこしたことはない。

その時、西口の横を誰かが走り抜けていき、見慣れたベンツに乗り込むと、そのまま走り出した。

社長だ。

――二十歳の娘が残ってみんなを避難させているというのに、社長が真っ先に逃げてどうする。

社長の車はこちらに向かって歩いてくる遠野の横を通りすぎ、そのまま外のカーブを曲がって見えなくなった。

遠野は西口をじっと見た後、無言のまま身振り手振りで人々を誘導し始めた。

――社長は逃げたが、若い娘とじいさんがみんなを避難させている。俺もやらないと。

西口も避難誘導をはじめた。


「やっと終わったな」

「はい」

「……」

今ここに残っているのは、西口と真里菜と遠野だけだ。

「じゃあ、俺たちも逃げるか。火がここまで来るとは限らないが、念のためだ。俺は一応ヘリを、ここから空港の待機所へ移動させておくから」

「わかりました」

「……」

西口がヘリへ、真里菜と遠野が自分の車へ向かおうとした時だ。

「あっ!」

真里菜が大きな声をあげた。

見れば山のほうを、ただでさえ大きな目をさらに大きくさせて、凝視している。

西口も見た。

そこには奴がいた。

前に見た大きな鳥。

カラスにも似た真っ黒い身体の。

炎が上がっている場所から少し離れた上空で、大きく羽をばたつかせながらその場に留まっている。

山火事から避難して、上空に飛び立ったようだ。

しかし驚くべきは、その大きさだ。

前回は青空をバックに一瞬見ただけなのでその大きさがよくはわからなかったが、今回は木々のすぐ上にいるために、比較になるものがあり、その体長がいかほどのものかわかった。

それはどう見ても、両の羽を広げた長さが、二十メートルを超えていた。

あまりのことに三人ともただ黙って見ていると、巨鳥が動いた。

こちらに向かって真っ直ぐ飛んできたのだ。

「真里菜ちゃん、逃げろ!」

真里菜と遠野は走った。

西口は反対側にあるヘリにむけて走った。

ヘリに着いた西口がふり返ると、ちょうど真里菜が何かにつまずいて、地面に倒れ込むところだった。

先を走っていた遠野は気づかずそのまま走り続け、二人の距離はどんどん離れてゆく。

西口の見ている前で、巨鳥が真里菜に向かって突っ込んで来た。

「真里菜ちゃん!」

真里菜は打ち所が悪かったのか、すぐには起き上がることが出来ない。

西口は真里菜に向かって走った。

しかし巨鳥がすぐそばまで迫ってきていた。

とても間に合う距離ではない。

――くそっ、間に合わない!

その時、パンパンと乾いた音が二つ響いた。

見れば中丸が、走りながら拳銃を構えていた。

「俺はもう二度と逃げないぞ。俺は問題の人なんかじゃないぞ!」

そう叫んでいた。

一旦身をかわした巨鳥だが、Uターンをすると、今度は中丸にむけてその巨体を飛ばした。

中丸は逃げなかった。

迫り来る巨鳥にむかって拳銃を撃ち続けた。

巨鳥は弾が当たったのか一瞬身をよじったが、それでも迷うことなく中丸に向けて突っ込んできた。

「あぶない!」

間に合わなかった。

中丸の身体が宙に浮いている。

そして中丸の腹から背中へ向けて、一メートルはゆうにある巨大な鉤爪が貫いていた。

中丸を捕まえたまま巨鳥は海へと飛んだ。

ようやく西口が真里菜に追いついた。

「中丸さんが……」

「わかっている。車はかえって危ない。真里菜ちゃんは館内に逃げるんだ」

「……」

「早く!」

「……はい」

真里菜が建物へ走り出したのを見届けると、西口はヘリへと走った。

走りながら見てみると、凶鳥が足を振りまわしている。

貫かれた中丸の身体が足からはなれ、海に落ちる。

――中丸巡査……

西口は、頑固で気の荒い漁師達や、三隅のような変人が多い屋馬町の中では、家族と真里菜をのぞけば中丸巡査を一番好いていた。

気が弱いが、優しい男だと。

その中丸が殺されてしまったのだ。

あの黒いばけものに。

――くそっ!。

西口は後先何も考えないままに、ヘリに乗り込んだ。

凶鳥は身をひるがえしてこちらに向けて飛んでくる。

――中丸の敵討ちだ。

エンジンをかけ、ヘリを上昇させた。

そして巨鳥に向かって飛んだ。

が、凶鳥はそのままヘリに体当たりを仕掛けてきた。

すんでのところでヘリをかわし、西口はこみ上げてくる怒りから我にかえった。

巨大な怪物。黒い全身はカラスに似ているが、嘴と鉤爪はまるで鷲だ。

――どうする?

あの巨体だ。まともにぶつかったならば、こんなヘリなどひとたまりもないのは明らかだ。

――どうする?

考えているところに、凶鳥がこちらに向かって飛んできた。

まるで獲物を狙う金剛鷲のように。

――ええい、こうなったら。

西口は山に向けてヘリを飛ばした。

凶鳥がみるみる追いついてくる。

――くそっ、なんて速さだ。

サイクリックススティック(操縦桿)を思いっきり前に倒し、コクティブレバーを強く握り締めた。

――来る!

コクティブレバーを引き上げた。急上昇……しなかった。

――なんだって?

巨鳥が目の前だ。

ぶつかる。

もう駄目だ、と思った瞬間、ヘリが急上昇した。

――危なかった。それにしても……。

西口は遠野がいつもと違って自信なさげで、何か迷っているような様子だった事を思い出した。

――あいつ、なにかおかしいことに気づいたんだな。でも結局わからなかったので、そのまま放置したんだ。なんてやつだ。

海側へ大きく流れたヘリを、インメンマルターンで百八十度Uターンさせた。

見れば凶鳥がヘリと平行に飛んでいる。

狙っているんだ。この俺を。

―そう何度もチャンスはないぞ。

山の奥、火の手が上がっているさらにその先を目指した。

山の頂付近には、巨大な蛇のように高圧電線が西から東に延びている。

なんとか高圧電線までたどり着き、そこでホバリングさせてヘリを固定した。

――成功させるためには、ぎりぎりでかわすしかない。たのむぞ、遠野。

凶鳥は向きを変え、ヘリに向かって一直線に飛んでくる。

やはり速い。

西口はサイクリックススティックとコクティブレバーを左右の手で握りしめ、備えた。

――まだだ。

どんどん近づいてくる。

――まだだ。

もう目前だ。

――まだだ。

あと少しで凶鳥の身体がぶつかる寸前。

――今だ。

西口はサイクリックススティックを力強く倒し、同時にコクティブレバーを限界まで引き上げた。

普段なら絶対にやらない操縦だ。

願いは届いた。

ヘリコプターが瞬時に反応し、急上昇する。

凶鳥はそのすぐ下をかすめ、そのまま高圧電線に突っ込んだ。

予想以上の火花が大量に飛び、次に巨体のあちこちから煙があがった。

――やったぞ!

凶鳥の巨体がみるみる炎に包まれてゆく。

そして引っかかっていた電線から離れて木の上に落下し、そのまま燃え続けている。

――中丸、おまえの仇はとったぞ。

軽い満足感と重い疲労を覚えながら、西口は山を越えてその先にある小さな砂浜へとヘリを飛ばした。


浜辺にヘリをとめ、ヘリを降りた。

見れば砂浜に丸太がうちあげられている。

西口はその丸太に腰をおろした。

疲れていた。無理もない。

今までの人生において命がけで何かをやったなんてことは、なかった。

初めてのことだ。


しばらく首をたれていたが、ふと何かを感じて頭を上げた。

――?

気づいた。自分の足元の先の砂浜の上に、一メートルはあろうかという鉤爪が、何本も突き刺さっている。

それは鉤爪だけで、他には何もなかった。

が、もう一つ気づいた。その鉤爪の上、西口の頭よりもはるかに高いところに、何かが浮いていた。

それは最初正面から見ているがために何なのかがよくわからなかったが、やがて何であるかに気づいた。

それは巨大な嘴だった。

鷲のそれに似た嘴だけが、宙に浮いているのだ。

――なんだって?

思わず立ち上がろうとして中腰になった時、巨大な嘴が猛烈な勢いで飛んできた。

そしてそのまま西口の胸のあたりを深々と貫いた。

――……

嘴が西口の身体から抜けて、高い位置にもどる。

するとみるみるうちに、巨大な真っ黒い鳥がその姿を現した。

両羽を広げると、二十メートルを越す大きな鳥が。

――そうか、おまえ、ワキンヤンだったのか……。

ネイディブアメリカンのスー族に伝わるサンダー・バード。

嘴と鉤爪とだけの存在で、常に夫婦二匹で行動するもの。

中腰の西口が力なく座り込み、頭を下げ、そして動かなくなった。

ワキンヤンはそれをじっと見ていたが、やがて身体がかき消すように消えて嘴と鉤爪だけとなり、残った嘴と鉤爪もゆっくりとその姿を消した。


       終
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