鬼姥

ツヨシ

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鬼姥

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頭上で梢がざわざわと鳴いている。

尾形はふと、夜空を見上げた。

幸いにも満月だ。

星々も満天に輝いている。

ここの空は、東京とは違う。

それは幼い頃に見てすっかり忘れていたプラネタリウムを、久しぶりに思い出させる見事なものだった。

だが程なくして再び足元に視線を落とした。

足場はお世辞にも良いとは言えない。

眼を見開いてしっかり見ておかないと、なにかにけつまずいてしまう恐れがある。

しかし人工的な照明が一切ないこの場所で、闇になれた眼があるとはいえ何とか地面を見ることが出来るのは、うっそうと生え茂った木々の隙間から顔を覗かせているあの満月とあの大勢の星のおかげに他ならない。

常に足場を確認しておかなければならないほどに、この山道はひどいものであるのだから。

道とは言っても、その昔に山岳修行の山伏が使っていた道であり、今となっては地元のお年寄りでさえ誰一人知る者がいない、忘れ去られた過去の遺物である。

舗装されていないのは当然として、細く険しく高低差も激しく、もだえ苦しんでいる蛇の体のようにうねうねと際限なく曲がりくねり、あちこちに崖から落ちてきたのであろう大小さまざまの岩が転がっており、獣道のほうがはるかにましではないかと思われる道である。

場所によっては狭い道の真ん中に、小さな木が生えているところさえある。

ところどころに、水の流れた跡なのだろう、太い血管のような深い溝が、我が物顔で走っている。

人なりなにかの動物なりが、苦もなく歩けるようなしろものではない。
 


「おい! いったいいつになったら、人里につくんだよ」

突然に後方から声がした。

綾野である。

尾形は何も答えない。

振り返ることもなく、前方を見据えたまま歩いている。

「もう、こんなところで道に迷ってしまって。おまけに夏だと言うのにここは、やけに寒いぞ。風邪でもひいたら、どうするんだ。大会にさしつかえるじゃないか」

やはり尾形は無言のままだ。

しかし綾野は黙らなかった。

「まったく、お前なんかと山ごもりなんかするんじゃなかったよ。……とにかくお前のせいだぞ。どうしてくれるんだ!」

それに尾形がようやく反応した。

ゆっくりと振り返り、綾野の眼を射ぬいた。

「うるさいぞ! 静かにしろ」

綾野はその瞬間固まったが、やがておおげさに大きく両手を広げると、尾形に向かってあいそ笑いを差し出した。

尾形は何も言わずに綾野を見ていたが、再び前に歩き出した。

綾野が黙って後に続く。



尾形と綾野は都内の大学に通う空手部の学生である。

そして前年に、歴史も権威もある空手の全国大会において尾形が準優勝、綾野が四位入賞を果たしていた。

今年四回生の彼らは、今まで誰一人として成し遂げることのなかった初の学生優勝と言う栄誉を目指し、大会の翌日からそれこそ死に物狂いの稽古に励んできた。

山で修行しようと言い出したのは綾野のほうからだった。

強くなるには強い相手ととことん練習するのが一番だと考えたからだ。

そして尾形は十分に強い。

尾形も綾野と同じ思いだった。

綾野も申し分なく強い。

そして二人で深い山に分け入って、それこそ血のにじむ様な修行を重ねていたのだ。

しかし都会育ちで山に不慣れな二人は、一週間の山ごもりを終えて村はずれにあるバス停に向かう途中で、道に迷ってしまったのである。

いつどこでどう迷ったのかは、今となってはまるで検討がつかない。

おまけに戻ろうにも、もと来た道さえ何処だかわからなくなっていた。

もちろん方角も。

ただ仮に方角がわかったとしても、どの方角に何があるかさえも、もはやわからないのだ。

そのために今日の昼ごろから、道とは言えないような道を、男二人でひたすらさ迷い続けていた。

その間、綾野が尾形に愚痴をこぼし、尾形がたしなめて綾野がしばらくおとなしくなる。

やがて思い出したかのように綾野が再び文句を言い出し、尾形がまた征する。

そんなことを何度も繰りかえしていた。

そして二人の目に写るものは、いつまでたっても何処まで歩いても、細く暗く途切れ途切れに続く一本の山道ばかりであった。



険しい山の細道は、いつ果てるともなく延々と伸びている。

尾形は先ほどからその道を見ながら、ずっと同じことを考えていた。

闇の中に続くその道は、周りを高い木々でおおわれている。

昼でも仄かに暗い木のトンネルだ。

尾形はその道を歩いていると、しだいに怪物か何かの巨大な顎の中に自ら進んで入って行っているような奇妙な予感を、感じはじめていた。

そう思うようになってから、もうずいぶんと時間が経っている。

しかし何故そんな感覚を覚えるのかは、尾形自身にもわからなかった。

ただ感じているだけである。

綾野のほうは、ただ周りの暗さと寂しさと、自分が今どこにいるのかまるでわからないという単純な理由で、母親に見捨てられた幼子のような不安にかられていた。

が、もうそろそろ愚痴をこぼす元気さえなくなってきていた。



それからどれくらい歩いただろうか。

もはやもうどれだけ歩いたのかさえ皆目わからなくなってきた頃、それが何の前触れもなく、突然二人の視界に飛び込んできた。

それは前方に見える小さな光である。その光は明らかに人の手によるものに見えた。二人は思わず顔を見合わせた。

「おい」

尾形が言った。

「ああ」

綾野が答える。

綾野は答えると同時に、走り出していた。

尾形がそれに続く。



その光は、最初はわりあい近くにあるように感じられたのだが、思ったよりも遠くにあり、なかなかたどり着くことができなかった。

しかし当然のことながら、二人とも走るのを止めようとはしなかった。

途中からさびれた修験道からも外れて雑木林の中を走ることになったが、もちろんそんなことを気に病んでいる場合ではない。

そして光の近くまで来て、ようやくそれが一軒の家の窓から漏れている明かりだとわかった。

古くてとても大きな屋敷である。

特にその高さは、家というより城と言ったほうがふさわしいほどだ。

その屋敷は壮大な外観を見せながら、二人の前に黒々とそびえ立っていた。

そして尾形の視線の高さくらいに、屋敷の大きさから比べるとやけに小さな窓がぽつんとひとつあり、明かりはそこからもれていた。

綾野が先に、続いて尾形が、その屋敷の玄関と思われる引き戸の前に座り込んだ。

そこで二人とも肩で息をしながらお互いの顔を見て、いつしか笑い出していた。



二人で地面に座り込んだまま笑っていると、不意に大きな音をずりずりと響かせながら、引き戸が開いた。

「こんな夜中に、いったい誰じゃね!」

その声の主は、中の明かりで体がシルエットになっていてよくは見えなかったが、低くしわがれた声から判断すると老婆であると思われた。身長はかなり低く、子供のようにも見える。

「夜分遅くに、すみません。道に迷ってしまって」

尾形が言った。

「ここは、どこでしょうか」

綾野が続く。

その影はしばらく黙って二人を見ている風だったが、やがて口を開いた。

「そんなところでは、なんじゃろうから、とにかくおぬしら中に入れや」

そう言うと、自ら先に屋敷の奥に入った。

二人はお互い顔を見合わせた後、その言葉にしたがった。



中に入ったとたん、二人とも妙な家だと感じた。

玄関が六畳ほどの土間になっており、そこから先は、岩のような体ではあるがあまり身長の高くない尾形の腰ぐらいのところに、床が広がっている。

全て板張りで、太い丸柱が何本か見えるが、壁やしきりといったものはいっさいなく、一階全体が一つの大きな部屋になっている。

その広さはゆうに百畳以上はあるように思えた。

そして部屋の中央あたりに、急で狭い階段が、まるで後から慌てて付け足したかのように、ぽつんとある。

時代劇に出てくるようないろりがその階段からすこし離れた所にあり、そのいろりの左右にふたつ、小さな行灯が置いてあった。

それが、その大きな部屋にあるものの全てだった。

そしてこの屋敷の何よりも奇妙なことは、その天井の高さだ。

目測だが、それは十メートルちかくありそうだった。

二人ともどういった理由でこんなにも天井がはるか上にあるのか、まるで想像がつかないでいた。

二人が家の中を、特に天井を、穴が開くほど見ていると、その二人を見ていた老婆がすうっと二人から離れ、土間に置いてある古い木箱を踏み台にして、トンと床の上に上がった。

そしていろりのところまで歩いて行き、ふり返って二人を見た。

行灯の光を受け、初めて老婆の姿がはっきりと見えた。

老婆の背はやはり低かった。

百三十センチに少し足りないくらいか。

しかしその体は、長い間農業などの肉体労働をこなしてきたのだろうか、全体的に細身ながらかなり力強く見える。

――そうとう、きたえこんでいるな。

尾形はそう感じた。

老婆の着ている年季の入った着物は濃い紫色をしており、ところどころに二人には何の花かわからない小さな白い花が、ちりばめられている。

細い帯は、真っ黒だ。

着物に関する智識が豊富とは言えない尾形には、時代劇にでてくる金持ちの商人の子供が着るようなものに見えた。

そしてその顔は、人間の顔にこれほどまでにしわを刻むことができるのだろうかと思うほどに、鋭利な刃物で切った切り傷のように深い無数のしわが、顔じゅうを縦横無尽に走りまわっている。

顔の皮膚の色は、かなり黒い。

日に焼けているにしても、不自然なほどの黒さである。

それは東洋人と言うよりも、黒人の肌と言ってよかった。

髪は昔の女の子のようにおかっぱ頭で、大きく細い目は、目じりがかなりつりあがっている。

小さな鼻は上を向いており、細長い鼻の穴がふたつ、こちらを向いていた。

そして、老婆の顔の中で一番特徴的なのはその口で、それは信じられないほどに大きかった。

綾野が一瞬、口が耳まで裂けているのかと思ったくらいだ。

一般的な人間の口の両端を、後からわざわざ一気に切り裂いたもののようにも見える異様な口。

そしてそのばかでかく薄い唇に、真っ赤な紅をべったりとつけていた。

それは全くもって、悪い冗談としか思えなかった。

二人が黙って見ていると、老婆が言った。

「何をしとるんじゃい。おぬしら、はよう上がってこんかい」

そう言われて二人はようやく、床の上にはい上がった。

そして老婆の手まねきに従い、いろりのところまで進んだ。

老婆は二人の顔をゆっくりと見比べると言った。

「で、食べるもんは、たっぷりあるでな。好きなだけ食うたらええぞ。それと、おぬしらが寝るところは、二階じゃ」

どうやら二人にご飯を食べさせてくれて、その上泊めてくれるつもりのようだ。

綾野が調子よく頭を下げる。

「いやあ、どうもありがとうございます。見ず知らずの者に、こうまで親切にしていただいて」

「かまわんよ。おぬしら道に迷ったんじゃろ。ここのところずっと一人で、たいくつしておったところじゃっからな。ちょうどよかった」

尾形がその言葉に少し驚く。

「それじゃあおばあさんは、こんな山奥でこんな大きな家に、たった独りで住んでいるんですか?」

「そのとおりじゃが。それがどうしたと言うんじゃ」

「でも、おばあさん独りじゃ、何かと不便なのでは」

「そんなことは、ないわい。一人でも十分やっていけるわ。それにこんな年寄りでも、時たまじゃが、いろいろとかまってくれるもんがおるからのう。心配にはおよばんぞ」

「お子さんとか、親戚のかたでしょうか」

綾野がそう口をはさむと、老婆は「ふぉっふぉふぉっ」と笑った。

「お子さん? そんなもんではないが。まあ身内といえば、身内のものじゃな。これ以上はないというくらいの身内じゃな」

そう言うと再び「ふぉっふぉっふぉっ」と大きく笑った。

そしてラジオのスイッチでも切ったかのように一瞬で静かになると、少し間をおいてから静かに言った。

「まあ、立ち話もなんなんでな。わしはこれからおぬしらの、めしの支度をするでな。その間二階で待っておれや。階段を上がって広いほうの部屋じゃ。ふとんは押入れにあるからな。好きに使うとええぞ」

そう言うと、入り口とは反対側にある壁の方へと、すたすたと歩き出した。

そしてそこにある、老婆の背丈よりさらに低い小さな引き戸を引き開けて、外に出て行った。

二人はそのまま老婆の出て行った先を見ていたが、やがて疲労を引きずりながら二階へと上がって行った。



階段を登ったところに、小さな踊り場があった。

そこの板間の奥に、一本のろうそくが床にじかに置いてある。

そのろうそくにはすでに火がついていて、それは火をつけてから、あまり時間が経っていないもののように見えた。

踊り場の左右に部屋が二つ存在していた。

右の部屋はさほど広くなく、六畳ほどだろうか。

天井も普通の住宅と変わりのない高さだ。

床は一階と違い、古ぼけてあちこちささくれだった畳がしいてある。

〝死んだ部屋〟 という言葉が、尾形の頭の中に浮かんできた。

そして左の部屋だが、その部屋はかなり広かった。

あくまで目測であるが、五十畳くらいはありそうだ。

それでも一階の部屋の半分にも満たないだろうが、無駄に広いことにはかわりがない。

この部屋は一階と同様に、床が総板張りである。

そして天井が同じくかなり高い。

やはり十メートル近くあるように見える。

入り口を入ってすぐ横のところに、一階に置いてあったのと同じ行灯が置いてあった。

それには、まだ火がつけられていなかった。

そして奇妙なことに、どちらの部屋にも窓というものが一つも存在しないのだ。

「まあ、寝る部屋が広すぎて困るということは、ないよな」

綾野がそう言いながら部屋に入り、尾形がその後に続く。

尾形は行灯にライターで火をつけた。

尾形も綾野もタバコは吸わないが、山ごもりのために持ってきたものだ。

それから尾形は入り口の戸をゆっくりと閉めた。

二人はそのまま行灯の近くにあぐらをかいて座った。

「それにしても」

綾野はそういった後、黙ってしまった。

尾形がその後を続けた。

「妙な家だと」

「そうそう、妙な家だぜ、ほんとに」

二人とも日本の歴史や文化については、専門家ほどではないにしても、人並みの知識はあった。

時代劇もテレビや映画で結構見ている。

それでも二人の記憶のどこにも、このような家は全く覚えがなかった。

特に一階が床と柱と四方の壁だけで、仕切りが全くないこと。

いろりはあるが、炊事場も風呂場も、見た限りにおいては何処にも見当たらないこと。

窓は一階にある小さな窓ただひとつしかない。

入り口に当たる引き戸も、屋敷の規模と比べると、やけに小さい。

一般的な民家の入り口のほうが、ずっと大きいくらいだ。

壁以外の面積を極端に減らしたその構造は、まるで要塞のようだ。

それにもまして、一階とこの部屋と天井の高さは、尋常ではなかった。

奇妙を通り越して、異様ですらある。

「でもまあ、いいじゃないか。家の造りが変だからと言って、家にとって食われるわけじゃあないし」

綾野が努めて明るく振舞う。

「まあ、それはそうだが」

そう言った後、尾形は気がついた。

綾野も同じであることを。

尾形はこの家に入った時から、いいようのないいびつな重い空気を感じ取っていた。

彼の格闘家としての本能が、そう感じさせていたのだ。

それと同じものを、綾野も感じているのだということを。

尾形はおもむろに立ち上がり、壁のほうに歩いていった。

そして、木造りの古い壁を軽く拳で二度ほど叩いた。

コン、コン

予想外の軽く硬い音がした。

その音は綾野には、尾形が普通の民家の壁を叩いた音とは思えなかった。

何かが明らかに違っている。

尾形は黙って壁を見つめていたが、今度はもう少し強く、ひとつ叩いた。


コン

やはり同じく軽く硬い音がした。

壁全体ではなく、壁の表面の一部だけが鳴っているような音だ。

――なんだ? あの音は。

困惑している綾野をしりめに、尾形は腰を深く落とし、正拳突きの構えをとった。

そして慢心の力で、それを殴りつけた。

コン

先ほどよりも大きな音だが、やはりそれは軽く感じられた。

見れば壁の殴りつけられた部分が、尾形の拳の形に浅く凹んでいる。

しかしそのくぼみのまわりの壁には、何の変化も見られなかった。

綾野は、何故、先ほどから妙な不自然さを感じているのか、ようやく気がついた。

尾形の剛拳で壁を力強く殴れば、普通の壁であれば壁自体に穴が開くはずだ。

仮に壁が硬く、尾形でも穴を開けることがかなわないという事態なら、その時は壁全体が揺れ動き、その音が大きく響くはずだ。

ましてやこれほど巨大な壁であれば、揺れと音の響きは小さな壁と比べた場合より、よりいっそうその効果を表さなければならない。

なのにそれがまるでないのだ。

尾形は綾野のところに帰ってきて、あぐらをかいて座った。

そして一言つぶやいた。

「やはりな」

綾野が聞いた。

「おい、どういうことだよ?」

「壁だ」

「壁?」

尾形が、床も上から軽く叩く。

コン、コン

同じ音がした。

「おそらく床も」

「だから、いったいどういうことだよ」

「壁、そして床も。それらに使っている木が、とにかく硬くぶ厚い。おそらく天井もそうだろう。むこうの小さな部屋を除いてだが」

綾野は先ほどからの不可解を、ようやく理解した。

壁があまりにも厚く重く頑丈なために、尾形の拳の力が、壁全体ではなく殴りつけた部分にしか伝わらなかったのだ。

しかしそうなれば新たな疑問がわいてくる。

「でも、どうして?」

尾形は何か考えているようだったが、やがて口を開いた。

「その理由は俺にも、さっぱりわからんがな。ただひとつだけ言えることは、この屋敷が、人が住む家としては不自然なほどに、堅固にできているということだ」

綾野は何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。

尾形も無言のまま自分の腕を枕にしてごろりと横になると、高い天井を見つめた。

やや遅れて綾野がそれに習う。

二人ともそのまま、じっと天井を見ていた。



どれくらい時間が経ったろうか。

不意に木戸が開いて、老婆が入ってきた。

その手には、直径が一メートルはあろうかという、ばかでかい鉄の弦鍋を持っている。

老婆は手をぴんと真横に伸ばしてその弦鍋の取っ手を持っていた。

おそらく手を下げると、鍋が体にあたるからだろう。

そして静かにこちらに歩いてくると、二人の間にそろりと鍋を置いた。

歩いている様子からは、からっぽの鍋でも持っているように見えた。

だが実際にはその中は、大量の肉、大量の野菜、そしてあふれんばかりの汁で満たされている。

「さあ、好きなだけ、食べろや」

それだけ言うと、すっと部屋を出て、戸をぴしゃりと閉めた。

不思議なことに、足音が全くと言っていいほど耳に届いてこなかった。

綾野は鉄鍋をじっと見つめていたが、やがて立ち上がり、そのなべの取っ手を持ち、持ち上げてみた。

「重い」

身長百九十センチ以上、体重九十五キロ。

そして幼少のころから空手で体を鍛え続け、やや細身ながら鋼のような筋肉を有する綾野が、鍋を持ち上げるのに苦労をしている。

なんとか汁をこぼさないように水平に持ち上げることはできているが、その鍋を持つ右手が、小刻みに震えている。

「いったい何キロあるんだあ、こいつはぁ」
 
けにかん高い声で言った後、鉄鍋を下ろした。


尾形はしばらく鍋を見つめていたが、やがてその中にある箸を見つけて取り出すと、食べ始めた。

「とても全部は、食べきれそうにないな」

そう言いながら綾野にも食べるように、あごで合図をした。

綾野も尾形の横に座って食べ始める。

そして綾野は最初の肉を口にした途端、大きな声で言った。

「うまい!」

そう言うと尾形の方ににじり寄り、顔を近づけてきた。

「うまいぜ、この肉。信じられないぜ。こんな肉があるなんて。うまいだろう。……えっ、なに、まだ肉食ってなかったのか。早く食ってみろよ。ほんとにうまいぜ」

尾形はそれまで、野菜しか食べていなかった。

野菜から先に食べるのが、尾形のいつもの習慣である。

その野菜でも、めったにおめにかかれないほどの、うまさだったのだが。

尾形は急かす綾野に言われるがままに、肉を一切れほおばった。

「……」

言葉がでなかった。

尾形は少なくとも生まれてこのかた、こんなにもおいしい肉、いやこれほどまでにもうまい食べ物を食べた記憶がなかった。

牛、豚、鶏、いやそれ以外のどの肉ともまるで違う。

やわらかくて口の中でとろけるさま、そして口の中にほわほわ広がるそのうまさは、とても言葉で言い表せるものではない。

さっき食べた野菜のうまさも、この肉の味が野菜に染みこんでいるからに、ほかならない。

もう尾形も綾野も野菜など口にしなくなった。

二人の食べるペースが急激に上がった。

最初に見たときにはたとえ二人がかりであっても、肉だけでもとても食べきれるものではない、と思っていたが、野菜だけを残して肉は全部きれいにたいらげてしまった。

満腹感と言いようのない幸福感に浸りながら、二人はいつしか薄ら笑いさえ浮かべていた。

尾形が一息ついていると、綾野が言った。

「尾形、これいったい、なんの肉だろう? こんなにうまい肉は食べたことがないぞ。ちょっとあのばあさんに、聞いてみようかな」

尾形が少し考えた後で答える。

「そんなよけいなことはせずに、朝になったら、さっさと出て行ったほうがいいかもな」

「尾形ぁ、それはないぜ。ひょっとしたらこの肉、また食べられるかもしれないぜ。俺ちょっくらばあさんに、聞いてくるわ」

綾野は言い終わるか終わらないうちに、尾形が止めるのも聞かずに部屋を出て、下におりて行った。

尾形が仕方なく後を追う。

綾野は階段を降りきってすぐところで止まり、あたりを見回した。

尾形が床から一段手前の段のところで止まる。

そこには老婆はいなかった。

玄関の真向かいにある小さな木戸は、開いたままだ。

綾野がとびきりの能天気な声を出した。

「おーい、ばあさん、どこにいるんだい。でてこーい」

「おい、もう上がろうぜ」

その時尾形は何かの気配を感じた。

見るとあの老婆が、確かについさっきまで誰もいなかったはずの階段の横に、すっと立っていた。

「いったい、なにをやっとるんじゃ? おぬしらは」

真横に伸ばしたその手には、さっきまで二人が食べていた、あの大きな弦鍋を持っている。

野菜と汁はまだ入ったままだ。

「いやいや、おばあさん。さっき食べた肉があまりにもうまかったものですから、いったい何の肉か聞こうと思って、降りてきたんですよ」

やや興奮しながら、綾野が言った。

頭が肉のことでいっぱいのようだ。

その時尾形は、全く別のことを考えていた。

尾形は肉などのことより、この老婆が何処をどう通って二階にあったはずの弦鍋を持って来て、今こうしてここに立っているのか。

その事のほうが知りたかった。

老婆は二人の顔を見比べていたが、やがて綾野の方に顔を向けた。

「この辺で、時たま取れるけものの肉じゃ。でも最近は、とんと見かけんようになったがのう」

綾野が一歩老婆に近づく。

「そんなに珍しい動物なんですか」

「この辺ではな。よそではどうかは知らんが」

「そうすると、今日俺たちがその動物の肉を食べられたのは、とっても運がよかったんですかね」

「そうじゃな。実は裏山の奥に、洞窟があるでな。入り口は狭いが、奥がずっと深くてのう。そこの一番奥に置いとくと、夏でもけっこうもつもんでな。今日おぬしらが食べたやつも、半月ばかり前に捕まえたものじゃ。それでもそいつは、十年ぶりくらいに捕ったものじゃがな」

綾野がさらに老婆に近づいた。

「その肉は、まだありますか」

老婆が、にたり、と笑った。

「残念じゃが、もうないな。わしとおぬしらで、全部食ってしもうたわい。じゃが今日、半月ぶりにあやつを見かけてのう。しかも、生きのいいのが二匹もじゃ」

「そうすると明日また、俺、その肉食べられますか」

「いや、まだ捕まえておらんでな。でも捕まえるのは、赤子の手をひねるより造作もないことじゃよ」

まだ何か言おうとする綾野を、尾形が押しとどめた。

「おい、初対面のご老人に、あんまりずけずけ聞くもんじゃない。食べるもん食べたんだから、さっさと寝ようぜ。おばあさん、どうも申しわけありません。こいつバカなんです」

「おいおい、それはないだろう」

尾形はそれには答えなかった。

そして老婆はただ尾形の顔を、じいっと見つめているだけである。

「それじゃあ、おばあさん、ごちそう様でした。ありがとうございました。これで失礼します。おやすみなさい」

そう言って尾形は、まだ未練たっぷりの綾野の腕を取って、二階へと上がって行った。



「何だよ、もう少しで何の肉か、はっきり聞けたのによう」

部屋に入るなり文句を言い始めた綾野をさとすように、尾形が言った。

「まあ、待て。とにかくだ、あのばあさん、ただものじゃないぞ。これ以上深くかかわらないほうが、いいと思う」

「ただものじゃないというなら、なにもんだと言うんだ」

「それはわからんが、並みの人間じゃないことは、確かだ。とにかく何度も言うが、これ以上深くかかわらないほうが、いいような気がする」


その言葉のどこかが、綾野のカンに触ったようだ。突然声を荒げた。

「それじゃあ、なにかい。これ以上かかわると、危ないとでも言うのか。あのばあさんが、俺たちを襲ってくるとでも言うのか。で、この俺が、あんなばあさんに負けるとでも言うのか。俺を誰だと思ってるんだ。あのばあさんがもし襲ってきたら、遠慮なくボコボコにしてやるぜ」

尾形が努めて静かに答えた。

「しかし少なくとも腕力では、おまえよりあのばあさんのほうが、断然上だぞ」

綾野はようやく気がついた。

尾形は鉄鍋のことを言っているのだ。

綾野もさすがにこれはおかしいと思いはじめた。

綾野より腕力のある男は、日本中探しても、そうそういない。

それなのに身長一メートルそこそこ、体重もかなり軽いと思われる上に、ひょっとしたら百歳を超えているのではないかと考えられる老婆のほうが、綾野より腕っ節が強いのである。

「……確かにな」

綾野が小さな声で、つぶやいた。

「とにかく何度も言うが、あのばあさんにかかわらないほうが、いいと思う。あまりにも人間ばなれしている。いや、ひょっとしたら……」

尾形が、その先の言葉を飲み込む。

それに綾野が、再び過激に反応した。

「おいおい、ひょっとしたらって、なんだよ。ひょっとしたら、あれは人間ではないとでも言うのか? あのばあさんは人間ではなく、やまんばだとでも言うのか」

「やまんば?」

「おまえだって子供のころ、読んだことがあるだろう。昔のおとぎ話だよ。旅人が山道で迷っていると一軒の家があって、泊めてもらって寝ていると、夜中に刃物を研ぐ音が聞こえてきて、って言う例のあれだよ」

「……やまんばか」

「そうだよ。やまんばの話だよ。そんなものがほんとにいると思っているのか。どうなんだよ、尾形」

尾形はその問いに答えなかった。ただ考えていた。

「バカバカしい。もう寝るぞ!」

綾野はそう言って、押入れから布団を引き出してその上に横になると、ものの十秒もたたないうちに、本当に高いびきをかきはじめた。

尾形はそのまま思案していたが、やがて布団を出して行灯の火を消すと、横になった。

尾形はしばらく眠れなかった。

しかし今日一日の疲れと、十分に食べた肉の満腹感が、尾形の体に迫ってきた。

尾形はいつの間にか眠りについた。



尾形は夢を見ていた。

夢の中であの老婆と戦っていた。

老婆の強さは尋常ではなかった。

尾形は何度も倒されそうになった。

尾形はあせっていた。

どうにかしないと、やられてしまう。

どうにかしないと、なんとかしないと。

夢の中の老婆は、どんどん強力になっていき、その姿もみるみる人間ばなれしたものへと変化していった。

その姿はまさに怪物そのものであった。



不意に何かが聞こえてきたような気がした。

最初は何の音か、わからなかった。

夢うつつのまま聞いていた。

そのうちに尾形の意識が、だんだんとはっきりしてきた。

音は一定の間隔をおいたまま、まだ続いている。

尾形は音に集中した。

そして尾形が完全に目を覚ました時、その音がはっきりと尾形の耳に届いた。

シャァーーーッ

そう聞こえた。

シャァーーーッ

また聞こえた。

尾形は急いで起き上がると、綾野のそばに行った。

「おい、綾野」

低いが力強い声だ。

「うーん、なんだよう。もう食えないよう」

「おい綾野、起きろ」

尾形は綾野の体を、激しくゆさぶった。

綾野がゆっくりと体を起こす。

「何だよお。どうしたんだ、おい。せっかくいい気持ちで、寝ていたところなのに」

「聞いてみろ」

「はあ?」

「いいから、とにかく聞いてみろ」

綾野はまだ半分寝ていたが、言われるがままに尾形と同じように、右耳に手をあてた。

シャァーーーッ

綾野はその大きな目をさらに見開いた。

思わず尾形の顔を見る。

シャァーーーッ

また聞こえた。

「いったいなんなんだよ、あの音は」

「さあな。俺には刃物を磨いでいる音のように、聞こえるけどな」

「するとやっぱり、あのばあさん」

「綾野、行灯のところに行け。そして何かあったら、すぐに火をつけるんだ」

尾形はそう言って、綾野にライターを渡した。

綾野は素直に従い、行灯の横で片ひざを立てて座り、ライターをいつでも火がつけられるように構えた。

尾形は、そのまま布団の上に立った。

その時、ぴたりと音がやんだ。

真の闇にくわえて静寂があたりをつつむ。

その音はもう聞えなくなっていた。

二人は待った。

これから何かが起こることを、心の底から確信していた。

そして今は、待つしかなかったのだ。



二人は待った。

待っている間、時間はやけに重く、ゆっくりと過ぎていく。

そして、どのくらい待ったのかもうわからなくなった時に、天井で――ゴトリ――と小さな音がした。

その瞬間、尾形は上も見ずに、反射的に真横に飛びのいた。

次の瞬間、なにかが天井からどたと落ちてきた。

綾野がすかさず行灯に火をつける。

見れば老婆が布団の上に、一人しゃがんでいる。

そしてその手には、大きな包丁のようなものを、持っていた。

それは先が扇形に広がった中華包丁のような形をしていた。

しかしよく見てみると、それは包丁ではなく斧であった。

刃の部分だけでも老婆の身長の半分以上はありそうな長さで刃先が日本刀かカミソリのように鋭い、ばかでかいまさかりである。

そしてそれは、さっきまで尾形が立っていた布団に、突き刺さっていた。

「ほほう、おぬしらわしが来ると、よくわかったな」

何の感情も抑揚もない声だ。

尾形は天井を見た。

天井のぶ厚い板の一枚が外されている。

綾野が吠える。

「おい、ばばあ。そいつで俺たちを、いったいどうするつもりだ!」

老婆は綾野の問いには答えず、まさかりを頭上にかかげると、全く足音を立てずに綾野の方に近づいていった。

それはまるで、暇つぶしに近所をぶらぶらと散策しているような、そんな歩き方であった。

そして綾野のそばまで来ると立ち止まると、恐ろしいほど何の前触れも殺気もないままに、そのまさかりを素早く振り下ろした。

尾形には一瞬、そのまさかりが綾野に当たったように見えた。

だが綾野は瞬時に後ろに飛びのき、その刃先を避けていた。

まさかりはそのまま床に突き刺さった。

老婆は床に刺さったまさかりをすっと抜き、綾野の方に顔を向けた。

「ほほう、あれを避けるとはのう。殺気などは完全に消し去っていたというのに。おぬし、見かけによらず、なかなかやるのう。これは久々に楽しめそうじゃわい」

綾野が再び叫ぶ。

「おい、ばばあ、俺たちをいったい、どうするつもりだ!」

老婆が微かに笑い始めた。

「食うんじゃよ」

「食う?」

「人間の肉がなによりもうまくてのう。だから食うんじゃよ。おぬしらもさっき食ったから、わかるじゃろうて」

――あれは、人間の肉だったのか。

尾形はそう思った。

綾野も同じ思いなのだろう。

気分が悪くなったのか、手で口を押さえて前のめりになり、少し吐いた。

その時、老婆が刃物を頭上高くかかげて、すうっと綾野に近づいて行った。

尾形がとっさに足元にあった枕を投げつけると、枕は老婆の背中に当たり、老婆が尾形のほうを振り返った。

気づいた綾野が、老婆からさっと離れる。

老婆は蝋人形のごとくの無表情で、二人をゆっくりと交互に見ていたが、不意に、にたああああっ、と笑うと言った。

「さてと、どちらから先に、料理してやろうかのう」

そのセリフに、二人の全身に虫唾が走った。

映画やテレビではありふれたおなじみのセリフだ。

しかしこの場合は、本当に料理するつもりなのだ。

「二匹いると、めんどうじゃからのう。早いとこ一匹片付けんとな」

老婆はそう言うと綾野のほうに向きなおり、凶器を再び頭上にかかげた。

次の瞬間、床の上で――トン――と音がしたかと思うと、老婆が信じられないスピードで、綾野に向かって飛んでいった。

そうまさに、飛んだのである。

普通人間がジャンプする時は、一旦ひざを曲げてそして伸ばすという一連の動きをするものだ。

しかし老婆のひざはぴんと伸びたままで、そんな動きは微塵もなかった。

そして老婆が綾野に凶器を振り下ろそうとした瞬間、綾野もまた信じられない動きをした。

体を左に傾けてその刃をよけながら、同時に右ひざを思いっきり蹴り上げた。

普段の綾野より数段すばやい動きだ。

綾野の右ひざはもののみごとに老婆の顔面を直撃した。

「俺は追い詰められるほど、本領を発揮するタイプだ。もし命がけの戦いをやったなら、一番実力が出るぜ」

尾形は、前に綾野がそう言っていたのを思い出していた。

それは、はったりでもなんでもなかったことを、たった今尾形は確信した。

綾野の右ひざをもろに受けた体重の軽い老婆は、勢いよく吹っ飛んで後ろの壁に大きな音をたてて背中でぶつかった。

そして脳天から床に落ち、そのままぴくりとも動かなくなった。

尾形は老婆が死んだと思った。

綾野の右ひざ蹴りをカウンターでまともに顔面にくらったら、大の大人でも死なないほうが不思議なくらいだ。

綾野は――やったぜ――と言わんばかりの顔で振り返り、尾形を見た。

そして老婆に近づいて行った。

老婆は完全にその動きを止めていた。まさかりを手にしたまま、うつぶせに倒れている。

綾野がさらに近づこうとした時、尾形が叫んだ。

「危ない!」

尾形は何故叫んだのか、自分でもわからなかった。

しかしその声で、老婆に近づこうとしていた綾野が、その動きを止めた。

次の瞬間、綾野の目の前を一つの閃光が走った。

老婆が信じられない速さで立ち上がり、刃物を綾野めがけて横にはらったのだ。

その切っ先は、綾野の服と少しばかりの腹の肉を切った。

綾野が慌てて後方に飛びのく。

傷はそんなに深くはなかったが、血が少し流れ出している。

「きさまーっ!」

綾野は怒りにまかせ、老婆に向かっていった。

その時、老婆の足元で再び――トン――と、音がしたかと思うと、老婆が軽く五メートルは真上に飛び上がった。

それを見ていた尾形が気づいた。

老婆はひざを全く曲げることなく、両足の指をもち上げそして下ろすというわずかな動きだけで、あの跳躍を成しとげているのだ。

そしてもう一つ、気がついたことがあった。

それは、何故この屋敷が異常なまでに頑丈にできているのか、ということである。

その答えは、あの人間ばなれした筋力と運動能力を持つ老婆が、何の制約もなく自由に動き回れるように造られているのに、他ならない。

薄い床ではあの超人的な跳躍の衝撃に耐え切れずに、ぬけてしまうだろう。

そして壁も同様の理由で、厚くなっているものと考えられる。

そしてこの大きな屋敷に小さな窓がひとつだけしかないのは、おそらく獲物を逃がさないようにするためなのだろう。

高い天井もふくめて、つまり全てはあの老婆がここで戦うため、いや、あの老婆が思うぞんぶん暴れまわって人を殺すために、この屋敷はこのように建てられているのだ。

ここはまさに、人間の屠殺場そのものなのだ。

老婆は落ちてくると同時に、綾野の頭をめがけてまさかりを振り下ろした。

綾野は左手で刃物を横から振り払うと、同時に右の拳を落ちてくる老婆の顔面に、思いっきりたたきつけた。

老婆はあわれなほど吹っ飛び、再度壁にたたきつけられた。

そして床に落ち、再び動かなくなった。

尾形が綾野のそばに歩み寄る。

そして二人で老婆を見ていたが、全く動く気配がない。

綾野が呆けた調子で、まるで独り言のようにつぶやいた。

「こんどこそ、死んだかな?」

「人間ならば、生きていられるはすがない。人間ならば」

尾形が言い終えるか終えないうちに、老婆の体がゴムまりのように宙を舞い、そのまま床の上に立った。

口と鼻から少しばかり人と同じ赤い血が流れていたが、その顔は笑っていた。

綾野が吼える。

「きさま、人間じゃないな!」

「ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ。そうかもしれんな。おぬしの言うとおりかもしれんでな。で、なんじゃい。もし人間ではないと言うなら、いったいぜんたい何じゃと、言うんじゃ」

「やまんばか!」


尾形がそう言うと、老婆はその細い目を大きく見開き、その顔に歓喜の表情を浮かべた。

「ほほう、やまんばかい。えらく懐かしい響きじゃのう。ほんに懐かしいわい。そう言えばはるか昔に、そう呼ばれたこともあったわ。じゃがのう、自分でも自分が何なのかは、まるでわからんのじゃ。気がついたらこの姿でこの屋敷におったわい。それからかれこれ数百年生きておるが、おかげさまでこのとおり元気でのう。お前らの肉を食えば、もっともっと元気になるんじゃが。ちょびっとだけでいいから、食わせてくれんかのう」

「ふざけんな、くそばばあ。食えるもんなら食ってみろ!」

綾野が怒鳴る。

そこには少々腕におぼえがある者でも、思わずひるんでしまうほどの迫力があった。

しかしやまんばは少しも動揺はしてはいなかった。

先ほどとはうって変わり、とてつもなく冷たい眼でじっと綾野を見ている。

そしておもむろに大きく口を開けると笑いはじめた。

「ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ。その元気じゃよ。その元気がいいんじゃよ。元気な者を食えば、わしも、もっともっと元気になるというもんじゃ。嬉しいのう。では、そろそろいただくと、しようかのう」

やまんばはそう言うと、入り口のほうへ走った。

綾野により近く、尾形からは綾野の体に隠れて見えなくなる位置である。

そして全く動きを止めないままに、綾野に向かって低く飛んできて、手にしたまさかりを斜めに振り下ろした。

綾野は自分の腰のあたりに振り下ろされた刃物を左手ではらい、同時に右のひざで蹴り上げた。

やまんばは木偶人形のように数メートル後方に飛ばされた後、床にどたりとうつぶせに落ちた。

そして両手をついて起き上がろうとしたやまんばの顎を、綾野は走りこみながら下から全力で蹴り上げた。

やまんばは再び後方に吹っ飛び、一回転して壁にぶちあたり、跳ね返って床の上に大の字に倒れた。

綾野はやまんばに向かって再び走った。

そしてやまんばの頭の方にしゃがみこむと、刃を持った右手の上に自分の右ひざを乗せ、左手の上に左ひざを乗せて座りこんだ。

綾野は自分の両足の間にあるやまんばの顔をのぞきこむと、尾形が今までに一度も見たことのない鬼夜叉のような形相で、にたあ、と笑った。

それを見てやまんばが同じように、にたあ、と笑い返した。

綾野はそれにかまわずに、やまんばの腹をめがけて正拳突きを振り下ろした。

そしてそのまま、左右の拳を打ち続けた。

尾形はそれをただ見ていた。綾野がこのまま、やまんばを殺してしまうことを願っていた。

綾野は考えられないほどのスタミナで、殴り続けた。

やまんばも逃げられないのか、あるいはもう死んでしまったのか、全く動こうとはしない。

綾野はそれでも、殴って、殴って、殴って、ひたすら殴り続けた。



かなりの時間が経ったと思われるころ、綾野がようやく殴るのを止めた。

十分に疲れ切っている。

よろけながら立つと、尾形に顔を向けた。

「ばばあ、やっつけたぜ」


やまんばの着物の前が完全にはだけて、その胸と腹をあらわにしていた。

胸も腹も皮膚がずたずたになり、内側から折れた肋骨と思われるものが何本もとび出している。

人間と同じものに見える内臓も半分ほどが外にはみ出しており、綾野はご丁寧にも、とびだした内臓まで破壊しつくしていた。

やまんばは白目をむいて、動かなくなっていた。

綾野は立ち上がり、何も言わずに尾形の方に歩いてきた。

その顔は、やまんばの返り血で真っ赤に染まっている。

たぎっている綾野は、もともと大きな目をよりいっそう大きくしていた。

まるでその顔の中に、目だけが存在しているかのように見えた。

綾野はその目で尾形を見た。

尾形も何も言わずに、綾野の肩に手をおいた。

綾野が〝ふう〟と、大きく息を一つつく。

二人ともその体勢にままでしばし休んでいた。

しかし何の前触れもなくやまんばが突然起き上がり、次の瞬間、綾野に向かって飛んで来た。

尾形はやまんばを背にしていた綾野を肩で突き飛ばすと、同時にやまんばの顔面にカウンターの右拳を叩きつけた。

やまんばは床を数回転がった後、壁際ですっくと立ち上がった。

「おやおや、今度はもう一人の男かや。おぬしもそいつに負けずに、なかなかにカンがええのう。今日はわしが今まで生きてきた中で、一番の日かもしれんなあ。ほんに、こんなにも生きのいいえさを、二匹もいっぺんに食えるとは。嬉しいのう」

そう言うと、横に転がっていたまさかりを拾い上げた。

そして腹から垂れた内臓の残りをずるずると引きずり、時にそれを自分の足で踏みつぶしながら、二人の方へ歩いてきた。

綾野の顔面がみるみる蒼白になっていく。

「うわーーっ」

綾野はそう叫ぶと、やまんばに向かって走った。

やまんばは再び綾野に向かって飛ぶと、右手に持った刃物を振り下ろした。

綾野はそれを左手ではらい、同時に右の拳を突き出した。

綾野の拳が、惚れ惚れするほど見事にやまんばの顔面をとらえた。

やまんばは後方にふっ飛んだ。

しかし、空中でくるりと一回転すると、その足で壁を蹴り、再び綾野に向かって飛んで来た。

綾野が振り下ろされる刃物に備えて構える。

やまんばがまさかりを振り下ろそうとしてきた時、綾野はそれを左手で弾きとばそうとした。

しかし次の瞬間、やまんばは持っていた凶器を離すと、その手で綾野の左手をつかんだ。

と同時に、左手を綾野ののどもとへつき出した。

綾野の動きがぴたりと止まった。

「危ない!」

尾形が叫んだ時には、やまんばは右手も綾野ののどもとへもっていき、両手でその首をしめあげていた。

尾形が二人に向かって走る。

しかしその直後、尾形に向かって、何か丸いものが飛んできた。

尾形はそれを右手ではじき飛ばした。

重くて硬いものをたたいた感触が、その手に残った。

それは、しばらく床の上をごろごろ転がっていたが、やがて止まった。

それが何であるか気づいた時に尾形は、寸でのところではきそうになった。

それは、綾野の首であった。

見ると頭をなくした綾野の体は、そのままつっ立っていたが、やがて首から血しぶきを上げながら、ゆっくりと倒れていった。

やまんばは、綾野の体の横に立った。そして耳まで裂けた口を大きく開け、尾形が生まれて一度も聞いたことがないような、耳ざわりな甲高い声で笑った。

「イヒーーッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ」

ほどなくして、やまんばは笑うのをやめた。

真顔でやけにゆっくりと顔を傾けると、尾形の顔を下から覗きこむように見て、見る者を凍りつかせるような笑いを浮かべた。

「やっと一人になりおったわ。いやあ、思ったより苦労したわい。さてと、ずいぶんとおぬしを待たせてしまったようじゃの。ほんに悪かったのう。で、ようやくおぬしの番じゃな」

「きさまっ、不死身か!」

やまんばは何も答えず、足元の凶器を拾うと、尾形に向かって歩き出した。

尾形が思わず後ろにさがる。

しかし壁に背中をさえぎられた。

やまんばが全く歩調を変えずに尾形に向かって歩いて来る。

それは最初に見た、まるで近所を散策しているかのような、歩き方である。

――いざという時に、後ろにさがれないのは危険だ

そう判断した尾形は、やまんばに向かって数歩歩み寄った。

やまんばが――ほほう――と、軽い驚きの表情を見せて止まった。

二人がともにその動きを止めた。

そしてそのまま睨み合いが続いたが、ややあって、やまんばが口を開いた。

「おぬし、なかなかたいしたきもったまを、持っとるようじゃのう」

「あたりまえだ。俺は綾野のようには、いかないぜ。来るなら来てみろ、この化け物め!」

「いやはや、これほどの男を見たのは、ざっと数えて四百年ぶりくらいかのう。しかし、あやつは刀を持っておったが、おぬしは残念じゃが何も持っとらんのう」

「うるさい、黙れ。そんなものなくても、きさまをぶち殺す!」

やまんばは、何も聞かなかったかのように無言で尾形のほうへ歩き出し、再びなんの前触れもなく、突然飛んだ。

尾形のほうではなく、尾形から見て右側の壁に向かってである。

そして、空中でくるりと体を反転させるとその壁を蹴り、正面にある壁に向かって飛び、その壁も体を反転させて蹴った。

その動きはまさに、弾丸そのものであった。

あまりのスピードに尾形が目で追えたのは、そこまでだった。

尾形はやまんばが視界から消えた瞬間、とっさに床に伏せた。

左側からやまんばが飛んできて、身を伏せた尾形の頭の上を通り過ぎる。

尾形はあわてて起き上がり、やまんばの飛び去った方に目をむけると、そいつはすでに床の上に立っていて尾形を見ていた。

気がつけば、浅い切り傷が尾形の首の後ろに、横一直線に走っていた。

「おやおや、もうちょっびっとで、首を落とせるところじゃったのに。いやー惜しかったのう。しかしまあ、あれも避けるとは。ほんに、たいしたもんじゃのう、おぬしは。嬉しいのう。わくわくするわい」

やまんばはそう言った後、まさかりをぼとりとを床に落とすと、何の殺気も見せないまま、今度は尾形のほうに向かって飛んで来た。

その両の手は前に突き出され、まさに尾形ののどもとを掴まんとしている。

尾形はやまんばの右手を左手で、左手を右手ではらい、同時にやまんばの顔面に向けて頭突きをくらわそうとした。

しかし尾形の頭は、やまんばの顔には届かなかった。

やまんばが左のかかとで、尾形の右ひざを蹴っていたからだ。

尾形の右ひざに、今まで経験したことがないような痛みが走った。

やまんばは背中から尾形の前方に落ち、バネが弾けるように一回転して立った。

「イヒーーッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ、ヒッ」

やまんばが、再びあのぞっとするような金属的な笑い声を、あげた。

尾形の右足に、全く力が入らなくなっていた。

強い痛みがある上に、同時に感覚もマヒしている。

おそるおそる触ってみた。右ひざの皿の骨がこなごなに砕けている。

尾形は一瞬、気が遠くなりそうになった。

立っているのがやっとだ。

やまんばがまた、にたり、と笑った。

「それでは思うように動けまいて。残念じゃがおぬしには、もう勝ち目はないのう。まさに万事休すじゃな」

そう言うとまさかりを拾い上げ、その刃先を異様に長い真っ赤な舌で、べろりべろり、と舐めまわした。

「しかしまあ、さっきの奴といいおぬしといい、これほどまでにこのわしを手こずらせた人間は、そうはおらんぞ。ほめてやるわい。しかしそれもこれが限界のようじゃな。もう遊びは終わりじゃ。そろそろ死ぬか」

そう言うと床を蹴って、左の壁に向かって飛んだ。

そしてそのまま正面の壁、さらに右の壁へと、再び弾丸のように飛んで行った。

尾形が目で追えたのは、そこまでだった。

さらに天井で〝トン〟と音がした瞬間、尾形は左足一本を床に残して、後方に倒れこんだ。

尾形のもって生まれた闘争本能が、そう体を動かせたのだ。

尾形の視界は上になり、天井から猛スピードで落ちてくるやまんばと、目があった。

やまんばはまさかりを手から離し、両手を尾形のほうに突き出したまま、落ちてきている。

尾形の目には、まさかりがやまんばの手を離れ、やまんばの横を通って、より天井に近づいていっているように見えた。

しかし実際は、やまんばの落ちるスピードがまさかりの落ちるスピードよりも速くて、まさかりがやまんばに追い抜かれているのである。

尾形にはそのさまが、まるでスローモーションでも見ているかのように見えた。

そしてやまんばがより近くまで迫った瞬間、尾形は床に残っていた左足で、思いっきり床を蹴った。

その次の瞬間、すでに感覚のなくなっている右足で、落ちてくるやまんばを巻き込むように蹴った。

それはサッカーのオーバーヘッドキックの体勢に似ていた。

そして尾形の死んでいたはずの右足は、みごとにやまんばの体を捕らえた。

やまんばの体はふっとび、後方の壁に激しく叩きつけられた。

尾形も勢いあまって、その壁の近くまで転がった。

そしてなんとか立ち上がろうとしていた尾形の眼前に、まさかりが落ちてきた。

尾形が壁のほうを振り返ると、やまんばは頭を下にした体勢で、自らの血のために背中が壁にはりついていた。

そして壁にへばりついたまま、ずるりずるりと下に落ちていっている。

尾形はまさかりを拾い上げると左足一本で立ち、まさかりを両手に持ちなおすと、肩ごしに大きく振りかぶった。

そしてそのまま全体重をかけて、やまんばの首のところに刃物を振り下ろした。

ガツン

生き物に金属製のまさかりをぶつけたとはとても思えないような、重く大きな音が響いた。

同時に尾形の両手には、かなり硬いものを叩いたような感触が残った。

見ればまさかりは、やまんばの首に深々と突きささっている。

尾形は刃物を抜き、もう一度思いっきりまさかりをやまんばの首めがけて振り下ろした。

血しぶきがあがり、やまんばの首は胴体を離れて床に落ちた。

その体はまさかりで斬られたときの反動のために宙を舞い、一回転して尾形の右肩のところに落ちてきた。

その時尾形の右腕に、激しい痛みが走った。

見れば首をなくした胴体が、両手で二の腕のところをがっしりとつかみ、そのまま万力のような力でぎりぎりと締め上げているのだ。

尾形は激しい痛みに耐えながら、自分がまだ左手にまさかりを握っていることに、気づいた。

そのまさかりを勢いよく振り下ろすと、ちょうどやまんばの両手首のところに当たった。

やまんばの体は二つの手首だけを残して、床の上に落ちた。

しかし尾形の腕の痛みは、さらに増していく。

二の腕に残った両手首が、より強い力で尾形の手を締め上げているのだ。

ボキリ

骨の砕ける音いやな音が、尾形の耳に響いた。

尾形はまさかりを捨て、その二つの手首を力まかせに引きはがした。

床に落ちてもその手は、しきりに五本の指を動かしていた。

見れば首をなくしたやまんばの体のほうは、尾形を探しているのか、両手首のなくなったうでを前に突き出して、左右にひらひら振っている。

尾形は笑った。

ケタケタと笑った。

笑いながらまさかりを拾った。

全てが悪い夢のような気がした。

全てがふざけた冗談のように思えた。

そしてケタケタと馬鹿笑いしながら、やまんばの体めがけてまさかりを振り下ろした。



尾形は、ふと我に返った。

気がついた時には全身血まみれで、壁に背をつけて左足一本で立っていた。

床といわず壁といわずあたり一面、血で真っ赤に染まっている。

比喩ではなく、文字どおり血の海だ。

そしてやまんばの体は血の海の中にあった。

大小さまざまの肉片や骨らしきもの、そして内臓の一部と見られるものが、あちらこちらに散らばっている。

そのおびただしい数の肉片の中には、一本の指であるとわかるものもあった。

そいつはひくひくと小刻みに動いていたが、やがてゆっくりとその動きを止めた。

全身の力が抜けて、尾形は床に座りこんだ。

何も考えられなかった。考えたくもなかった。

右足は動かず、右腕も折れている。

その腕は二の腕の本来関節がないところで折れ曲がり、白い骨が二本、肉を裂いて突き出していた。

傷の大きさのわりには出血はそれほどひどくはなかったが、重くて鈍い痛みがあり、右手も全く動かなかった。

気が遠くなりそうだ。

尾形はこのままずっと眠りたいと思った。

ずっとずっと眠っていたいと思った。



「お見事!」

いきなり声がした。

尾形は反射的に身構え、声のする方を見た。

そこにはやまんばの首がころがっていた。

首は青白く血の気がなかったが、その目は尾形をしっかりと捉えている。

「おいおい、そんなにあわてんでもええがな。いくらわしでも、体がのうなっては、どうすることもできんがな」

尾形は構えをといた。そして片手片足で床をはいながら、やまんばの首にゆっくりと近づいて行った。

尾形がやまんばのところにたどり着くと、やまんばが言った。

「まあそれにしても、ようやったなあ、おぬし。わしが一人の人間に倒されるとは、全く考えてもみなかったわ。ほんに、たいしたもんじゃよ」

尾形が黙って見ていると、やまんばがそのまま続けた。

「まあわしも、今まで何百年も生きてきたが、こうやっておるのに、もうあきあきしていたところじゃったんじゃよ。これでちょうどよかったのかも、しれんのう。おぬしには、感謝せにゃあならんかのう」

尾形は思わずやまんばの顔を覗きこんだ。

「今まで生きてきたって。おい、ひょっとしておまえ、死ぬのか。不死身じゃなかったのか」

「いくらわしでも、体がのうなってしまっては、生きてはいけんがな。もう時間の問題じゃよ」

「そうか、おまえ、死ぬのか」

尾形は視線を下に落とした。

やまんばは――おやっ――といった顔をした後、初めて少女のような顔でにっこりと微笑んだ。

「なんじゃい、おぬし。もしかして、わしが死ぬのがさびしいんかい。これはほんに、意外じゃったのう。それにしてもおぬしも、とことん人がええのう。おぬしのような男に殺されるんなら、わしも本望というものじゃよ。ありがとうな」

尾形とやまんばは何も言わずに、しばらくお互いを見ていた。

そのうちにやまんばが、目を半分ほど閉じた。

「それじゃあ、おぬし。せいぜい、たしゃで暮……ら……せ……よ……」

そう言いながらやまんばが、ゆっくりとその目を閉じた。

そして口も動かなくなった。

尾形はやまんばの首に、体を近づけた。

そしておそるおそる首に触ってみたが、まるで反応がない。

そのままやまんばを見ていたが、やがて部屋を見わたした。

綾野の体と首が転がっている。

「綾野」

泣きたい気分だったが、泣けなかった。

力なく立ち上がると、壁をつたいながら、部屋を出た。



外はいつの間にか、夜が明けているようだ。

階段の下のほうから、薄明かりがもれていた。

かすかに小鳥の鳴き声も聞こえてくる。

尾形は階段の壁にもたれかけながら、左足一本で降りていった。

傷ついた体を気づかいながら慎重に降りていったつもりだったが、不自由な体の上に極度の疲労が重なり、どうにもふんばることができず、階段の途中で倒れた。

そしてそのまま階段を転げ落ちていき、一階の床で顔面をしたたかに打った。

もう、どうでもいい、もう、どうにでもなれ、という気持ちから、そのままなるがままに、体をあずけていた。



突然、尾形は何かを感じた。

――いる。

尾形は気がついた。

確かにそこに〝いる〟と。

尾形は片手で上半身を起こした。そして、目の前にいるそいつを見た。

目の前には、やつがいた。

さっきとまったく同じ姿の、やまんばが。

しかし尾形には、直感でわかった。

――こいつは、さっきのやつと、同じやつではない。

さっき殺したやまんばと全く同様の存在ではあるが、さっき殺したやまんばが生き返ったものではない、ということを本能で感じてとっていた。

尾形は理解した。

――こいつが、さっきのやまんばが言っていた〝身内のもの〟か。

そいつは尾形を見ていた。

そして笑っていた。

笑ってはいたが、その眼だけは微塵も笑ってはいなかった。

そこにはあからさまな殺意が宿ってる。

尾形は片手片足で立ち上がると、なんとか身構えた。

そしてそのやまんばを見て、さらに部屋全体を見わたした。

そいつは、いや、そいつらは、広い一階の床全体を埋めつくしていた。

そのやまんばの数は数十、いや、百はゆうに超えているだろう。

みんな尾形を見ていた。

みんな同じ姿をし、同じ顔をし、同じ眼をして笑っていた。

尾形は「おう!」と一声叫ぶと、何のためらいもなくやまんばの大波の中に、その身を投げこんだ。



      終
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