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まさかり
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鍵を開け、中に入ると言った。
「ただいま」
もちろん返事はない。
ずっと一人住まいだ。
倉木は居間に向かうと、そのままソファーで横になった。
疲れた。やっと一つ片付けたばかりだ。長かった。
その時、倉木のスマホが鳴った。
嫌な予感のままにでると、その予感は当たった。
「はい、わかりました」
――よりによって。
ようやく一つ終わらせた途端に、次の事件とは。
ここまで間が短いのは初めてだ。
現場に着くと、もう死体はなかった。
鑑識と一言二言交わした後、倉木は検死官のところへ向かった。
死体があるからだ。
部屋に入ってきた倉木を見つけ、検死官の大沢が手招きをした。
どうやらいつも以上に興奮しているらしい。
死体のところまで来ると、倉木は言葉を失った。
無言で死体を見つめている倉木に大沢が言った。
「すごいでしょう。長い事この仕事をやっていますが、こんなのは初めてですよ」
「……そうだな」
ベッドの上に力なく横たわる若い女の死体。
死因は一目で明らかだ。
その死体は頭が頭頂部から首の中ほどまで、左右に分かれて真っ二つとなっていたからだ。
黙っている倉木に大沢が言った。
「凶器はなんだと思います?」
「……日本刀か?」
「いえ、違いますね。頭が二つに切断されているだけではなくて、上にいくほど大きく広がっているでしょう。先端はカミソリのように鋭く尖ってはいますが、刃身部分がけっこう幅広のものでないと、こうはいきません。ですから日本刀ではなくて、斧でしょうね。それも刃先が丸みを帯びている林業用の大型の斧。つまり、まさかりである可能性が高いです」
「まさかりか……ところでガイシャの名前は?」
「持っていた身分証明書によると、黒田寛子という名前ですめ」
――黒田寛子?
倉木は改めてガイシャの左右に分かれた顔をじっくりと見た。右も左も顔が不自然にゆがみ、血も大量に付着していてわかりづらくなっていたが、それでもその顔に見覚えがあった。
――あの女だ!
倉木が高校生のとき、中学一年生だった妹が自殺をした。
遺書が残されており、その中に学校でのいじめが原因で死ぬと書かれていた。
そして自分をいじめた三人の名前も。
黒田寛子、坂下理子、小塚美乃の三人である。
もちろん倉木の両親が問題にし、一時はけっこうな騒ぎとなったが、学校側が結束して「いじめはなかった」と言い張って、結局なあなあのまま終わってしまったのだ。
母は娘を亡くした上に、学校側との長期にわたる醜い争いに疲れ果て、精神を病んだ。
そして学校側の言う「最後の話し合い」の帰りに車で反対車線に飛び出し、トラックと正面衝突をした。
即死だった。
倉木は父に育てられたが、その父も倉木が警察官になった途端、何の前触れもなく突然倒れ、救急車が到着する前に息絶えた。
倉木は十年以上経った今でも、妹そして母と父を殺したのは黒田寛子、坂下理子、そして小塚美乃の三人であると信じて疑わなかった。
「……倉木さん」
大沢が声をかけてきた。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも倉木さん、あまりにも怖い顔をしていたものですから。まるで鬼か般若のようでしたよ」
「……」
殺人事件は証拠集めと容疑者の絞込みが重要だ。
しかし犯人は証拠らしい証拠を残していなかったし、容疑者も誰一人浮かんではこなかった。
財布はそのままなので物取りの犯行には見えない。
だいたいただの物取りが、わざわざまさかりで頭を叩き割るなんて、ありえない。
そうなると怨恨の線だが、それも該当者が一人も見つからなかった。
半ば強引にこいつが犯人じゃないかと目をつけた人物も、完璧なアイバイがある始末。
事件発生十日目にして「もう迷宮入りか?」と冗談が囁かれる様になったとき、事件が動いた。
まさかりによる第二の殺人。
被害者は坂下理子だった。
――これは、やっぱり。
妹の自殺が関係しているのか?
もしそうなら一体誰が犯人なのか。
倉木は妹の葬式を思い出した。
同級生は何人も弔問に来たが、あの三人は来なかった。
倉木が三人を見たのは母がかなり強引に開かせた「話し合い」の場だった。
倉木と両親、担任の先生と教頭と校長、黒木寛子とその母、坂下理子とその父、小塚美乃とその母という顔ぶれで行われた。
平行線、水掛け論、なすり合いの応酬の末に、話し合いは決裂した。
そのときの三人はほとんどしゃべらず、私は完全に無関係ですと言う表情を最後まで崩さなかった。
あの顔は決して忘れることができない。今でも毎日思い出すぐらいだ。
半ば奇跡的なことなのだが、署ではこの事件と、黒木と坂下が中学時代に同級生であった事を関連付ける者は誰もいなかった。
十年以上前のことだからであろう。
署ではいまだに、若い女性を狙った連続殺人鬼の無差別な犯行、という見方が主流となっている。
でもいつかは誰かが目をつけてしまうことだろう。
それはまずい。
気づけば小塚美乃に関心を寄せるかもしれない。
そうなれば、倉木の描いた青写真が無駄になってしまうかもしれない。
倉木の描いた青写真とは、犯人に小塚美乃を殺害させ、その後で捜査中に〝たまたま〟通りがかった倉木が犯人を逮捕する、と言うものである。
時間があまりない。早速小塚美乃の住所を調べた。
小塚は黒田や坂下と違って市の中心から郊外へと引っ越していた。
とはいっても田畑だらけの田舎ではない。
新しめの住宅と郊外型大型店舗が多い新興住宅地である。
――夜だな。
いくらまさかりを使うような異様な犯人でも、昼間は行動を起こすまい。
現に黒田も坂下も夜に出歩いているところを襲われている。
この市では夜の女性の一人歩きは、比較的安全であるからだ。
郊外の住宅地となれば、その安全性はさらに増すことだろう。
倉木は毎晩小塚の家を張り込んだ。
ところが小塚は会社から帰宅すると、全く家から出ようとはしなかった。
買い物などの雑用は、一緒に住んでいる妹の小塚美里がやっている。
――これはもしかしたら……。
黒田と坂下が殺されたことで、今度は自分の番ではないかとおびえている可能性がある。
そうなるととても厄介なことになる。
小塚を殺させてから犯人を逮捕するという倉木の青写真がつぶれてしまう。
――待つしかないか。
今はただ待つしかない、のかもしれない。
その後の事は、その時に考えることにしよう。
十日ほど待ったが、何の動きもなかった。
倉木があせり始めた頃、小塚が動いた。
玄関から出てきたのだ。
しかし玄関で誰かともめている。
争う二人の声が聞こえてきた。
若い女の声。
妹の美里であろう。
どうやら美里が危険だと言っているのに、姉が強引に外出しようとしているようだ。
「もう、ほっといてよ!」
突然、美乃の大きな声が響いた。
それまでは近所の手前もあってか、多少押し殺し気味に話していたのだが、それが叫びにも近い声となって倉木の耳に届いてきた。
しばらく待ったが美里からの返事はない。
美乃は妹に背を向けて歩き出した。
美里は姉を見送っていたが不意に家に入ると荒々しく戸を閉めた。
――これが最後のチャンスになるかもしれない。
倉木は美乃の後をつけた。
――どこに行くんだ、あいつは?
車があるのに歩いて外出したので、てっきり近所に行くのかと思ったが、美乃はもうかれこれ三十分は歩いている。
その間倉木は、美乃とまわりに気を使い続けていたので、いささか疲れを感じるようになってきた。
その時美乃が、何の前触れもなく突然振り返った。
隠れる暇はない。
倉木はとっさにただの通行人のふりをしたが、美乃は倉木から視線を外さない。
――まずい。
倉木は尾行には自信があった。
それなのに気づかれてしまったのだ。
それは倉木が一瞬気を抜いた時である。
その一瞬を美乃は見逃さなかった。
普通の人よりも人の気配に敏感な人間がいる。
小塚はそのタイプなのだろう。
その上命を狙われているかもしれないと言う思いが、美乃をさらに敏感にさせていた。
もっと気をつけるべきだったのだが、もう遅い。
すると小塚が突然走り出した。
――どうする? それにしても尾行を気づかれたのは初めてだ。油断した。
倉木は追いかけることも考えたが、やめることにした。
下手に追いかけて騒がれでもしたら、状況はさらに悪化することだろう。
倉木は先の曲がり角を走りながら曲がって行く美乃を黙って見ているしかなかった。
その時である。
「きゃっ!」
短い悲鳴が聞こえ、すぐに静かになった。
――まさか?
倉木は走った。そして角を曲がると奴はいた。
見るからに大きな男が立っていた。
身長があるだけではない。
肩を中心に全身が筋肉で膨れ上がっている。
それはまるで筋肉の鎧を着ているかのようだ。
街灯もない町の外れではあるが、月明かりによって闇になれた倉木にはよく見えた。
男に続いて、美乃にも気づいた。
美乃は地面に仰向けに倒れていた。
その頭部には何かが深々と突き刺さっていた。
刃がゆるいカーブを描いた幅広の斧。
まさかりだ。
正にたった今殺人が行われたばかり。
倉木はじっと背を向けたまま立っている男に、小走りで近づいた。
すると男が倉木の方を振り向いた。
男の顔を見て、倉木の足が止まった。
見覚えがある。
そして思い出した。
金田太郎だ。間違いない。
何故今の今まで忘れていたのか。
倉木の妹が自殺する前に、妹に聞いた事がある。
彼氏がいるのだと。
その彼氏と将来結婚するとも言っていた。
倉木は子供のたわごとだと思ったが、少なくとも妹のほうは真剣だったようだ。
プリクラを見せてもらった。
妹と仲良く写っている男は、誠実な男に見えた。
その男と妹の葬式で会った。
全く無言で無表情なままの中学生の皮膚の下に、倉木は大きな悲しみと怒りを感じていた。
それにしても金田太郎。
成長した顔以外はまるで別人だ。
背は高いが男としては頼りないほどに線の細かったあの身体が、こうまで筋肉で肥大するとは。
――そうとうに鍛え上げたな。
倉木は思った。
何のために?
もちろん復讐するためだろう。
倉木を見る金田の顔は、あの時と同じく無表情であった。
倉木が金田に一歩ふみ寄る。
その時である。
「おねえちゃん!」
金田の背後から声がした。
こちらに走ってきた声の主は、金田のすぐ横をすり抜けて、倒れている美乃に話しかけた。
美里だ。
反対側からやって来たということは、姉の行き先を知っていて先回りしたのか?
「おねえちゃん! おねえちゃん! おねえちゃん!」
美里は泣いていた。
が、何かを思い出したように静かになると、金田を見た。
「やっぱりあなたね、金田さん」
深く静かな声だった。
そして全体重をかけて、姉の頭からまさかりを引き抜いた。
――まずい!
美里はなんとかまさかりを持ち上げようとしているが、その重さゆえになかなか持ち上げることが出来ないでいる。
あんな状態で金田に襲いかかっても、勝てるわけがない。
倉木は美里にかけよると、肩に手をかけた。
「やめろ」
が、次の瞬間、何かに頭をつかまれた。
「金田!」
その声が聞こえなかったかのように、金田は倉木を放り投げた。
倉木のけっして軽くない身体が宙を舞い、ブロック塀に勢いよくぶち当たった。
「ぐっ」
地面に尻から落ちた倉木はすぐさま起き上がろうとしたが、起き上がることが出来なかった。
背中と腰を強打したために強烈な痛みがある上に、下半身に全く力が入らない。
呼吸もほとんど出来ないでいた。
見れば美里がようやくまさかりを肩までかつぎ上げていた。
「よせ」
倉木はそう言ったつもりだが、声にはならなかった。
美里は金田の前に立つと、何かを叫びながらまさかりを振り下ろした。
避けるか何かをすると思われた金田だったが、全く微動だにしなかった。
避けなかったのだ。
まさかりは金田の首の付け根のところに当たった。
そして美里の腕力というよりもそれ自体の重さゆえ、金田の身体に深々と突き刺さった。
それには美里自身が驚き、まさかりから手を離した。
金田はまさかりを肩口につけたまま、まるでスローモーションでも見ているかのように、後方に倒れた。
「逃げろ」
か細いながらも声が出た。
その声に美里が我を取り戻し、その場を駆け出した。
倉木は美里の背中が見えなくなると、身体を起こしてみた。
まだまだ痛みはあるが、なんとか動ける。
そのままふらつきながら金田のもとにたどり着いた。
首の動脈でも切ったのだろうか。
傷口から血が止むことなく噴出し続けている。
今から慌てて救急車を呼んだとしても、まず助かるまい。
「よお、金田」
倉木は昔からの親友にでも話すように、声をかけた。
金田が倉木を見た。
「妹のかたきを打ってくれたんだな。礼を言う。ありがとう」
それを聞き金田は、小さくうなづいた。
「それにしてもおまえ、なんでまさかりを避けなかったんだ?」
金田は何も言わないままで少年のような顔で笑ったが、やがてゆっくりと目を閉じた。
終
「ただいま」
もちろん返事はない。
ずっと一人住まいだ。
倉木は居間に向かうと、そのままソファーで横になった。
疲れた。やっと一つ片付けたばかりだ。長かった。
その時、倉木のスマホが鳴った。
嫌な予感のままにでると、その予感は当たった。
「はい、わかりました」
――よりによって。
ようやく一つ終わらせた途端に、次の事件とは。
ここまで間が短いのは初めてだ。
現場に着くと、もう死体はなかった。
鑑識と一言二言交わした後、倉木は検死官のところへ向かった。
死体があるからだ。
部屋に入ってきた倉木を見つけ、検死官の大沢が手招きをした。
どうやらいつも以上に興奮しているらしい。
死体のところまで来ると、倉木は言葉を失った。
無言で死体を見つめている倉木に大沢が言った。
「すごいでしょう。長い事この仕事をやっていますが、こんなのは初めてですよ」
「……そうだな」
ベッドの上に力なく横たわる若い女の死体。
死因は一目で明らかだ。
その死体は頭が頭頂部から首の中ほどまで、左右に分かれて真っ二つとなっていたからだ。
黙っている倉木に大沢が言った。
「凶器はなんだと思います?」
「……日本刀か?」
「いえ、違いますね。頭が二つに切断されているだけではなくて、上にいくほど大きく広がっているでしょう。先端はカミソリのように鋭く尖ってはいますが、刃身部分がけっこう幅広のものでないと、こうはいきません。ですから日本刀ではなくて、斧でしょうね。それも刃先が丸みを帯びている林業用の大型の斧。つまり、まさかりである可能性が高いです」
「まさかりか……ところでガイシャの名前は?」
「持っていた身分証明書によると、黒田寛子という名前ですめ」
――黒田寛子?
倉木は改めてガイシャの左右に分かれた顔をじっくりと見た。右も左も顔が不自然にゆがみ、血も大量に付着していてわかりづらくなっていたが、それでもその顔に見覚えがあった。
――あの女だ!
倉木が高校生のとき、中学一年生だった妹が自殺をした。
遺書が残されており、その中に学校でのいじめが原因で死ぬと書かれていた。
そして自分をいじめた三人の名前も。
黒田寛子、坂下理子、小塚美乃の三人である。
もちろん倉木の両親が問題にし、一時はけっこうな騒ぎとなったが、学校側が結束して「いじめはなかった」と言い張って、結局なあなあのまま終わってしまったのだ。
母は娘を亡くした上に、学校側との長期にわたる醜い争いに疲れ果て、精神を病んだ。
そして学校側の言う「最後の話し合い」の帰りに車で反対車線に飛び出し、トラックと正面衝突をした。
即死だった。
倉木は父に育てられたが、その父も倉木が警察官になった途端、何の前触れもなく突然倒れ、救急車が到着する前に息絶えた。
倉木は十年以上経った今でも、妹そして母と父を殺したのは黒田寛子、坂下理子、そして小塚美乃の三人であると信じて疑わなかった。
「……倉木さん」
大沢が声をかけてきた。
「どうした?」
「どうしたもこうしたも倉木さん、あまりにも怖い顔をしていたものですから。まるで鬼か般若のようでしたよ」
「……」
殺人事件は証拠集めと容疑者の絞込みが重要だ。
しかし犯人は証拠らしい証拠を残していなかったし、容疑者も誰一人浮かんではこなかった。
財布はそのままなので物取りの犯行には見えない。
だいたいただの物取りが、わざわざまさかりで頭を叩き割るなんて、ありえない。
そうなると怨恨の線だが、それも該当者が一人も見つからなかった。
半ば強引にこいつが犯人じゃないかと目をつけた人物も、完璧なアイバイがある始末。
事件発生十日目にして「もう迷宮入りか?」と冗談が囁かれる様になったとき、事件が動いた。
まさかりによる第二の殺人。
被害者は坂下理子だった。
――これは、やっぱり。
妹の自殺が関係しているのか?
もしそうなら一体誰が犯人なのか。
倉木は妹の葬式を思い出した。
同級生は何人も弔問に来たが、あの三人は来なかった。
倉木が三人を見たのは母がかなり強引に開かせた「話し合い」の場だった。
倉木と両親、担任の先生と教頭と校長、黒木寛子とその母、坂下理子とその父、小塚美乃とその母という顔ぶれで行われた。
平行線、水掛け論、なすり合いの応酬の末に、話し合いは決裂した。
そのときの三人はほとんどしゃべらず、私は完全に無関係ですと言う表情を最後まで崩さなかった。
あの顔は決して忘れることができない。今でも毎日思い出すぐらいだ。
半ば奇跡的なことなのだが、署ではこの事件と、黒木と坂下が中学時代に同級生であった事を関連付ける者は誰もいなかった。
十年以上前のことだからであろう。
署ではいまだに、若い女性を狙った連続殺人鬼の無差別な犯行、という見方が主流となっている。
でもいつかは誰かが目をつけてしまうことだろう。
それはまずい。
気づけば小塚美乃に関心を寄せるかもしれない。
そうなれば、倉木の描いた青写真が無駄になってしまうかもしれない。
倉木の描いた青写真とは、犯人に小塚美乃を殺害させ、その後で捜査中に〝たまたま〟通りがかった倉木が犯人を逮捕する、と言うものである。
時間があまりない。早速小塚美乃の住所を調べた。
小塚は黒田や坂下と違って市の中心から郊外へと引っ越していた。
とはいっても田畑だらけの田舎ではない。
新しめの住宅と郊外型大型店舗が多い新興住宅地である。
――夜だな。
いくらまさかりを使うような異様な犯人でも、昼間は行動を起こすまい。
現に黒田も坂下も夜に出歩いているところを襲われている。
この市では夜の女性の一人歩きは、比較的安全であるからだ。
郊外の住宅地となれば、その安全性はさらに増すことだろう。
倉木は毎晩小塚の家を張り込んだ。
ところが小塚は会社から帰宅すると、全く家から出ようとはしなかった。
買い物などの雑用は、一緒に住んでいる妹の小塚美里がやっている。
――これはもしかしたら……。
黒田と坂下が殺されたことで、今度は自分の番ではないかとおびえている可能性がある。
そうなるととても厄介なことになる。
小塚を殺させてから犯人を逮捕するという倉木の青写真がつぶれてしまう。
――待つしかないか。
今はただ待つしかない、のかもしれない。
その後の事は、その時に考えることにしよう。
十日ほど待ったが、何の動きもなかった。
倉木があせり始めた頃、小塚が動いた。
玄関から出てきたのだ。
しかし玄関で誰かともめている。
争う二人の声が聞こえてきた。
若い女の声。
妹の美里であろう。
どうやら美里が危険だと言っているのに、姉が強引に外出しようとしているようだ。
「もう、ほっといてよ!」
突然、美乃の大きな声が響いた。
それまでは近所の手前もあってか、多少押し殺し気味に話していたのだが、それが叫びにも近い声となって倉木の耳に届いてきた。
しばらく待ったが美里からの返事はない。
美乃は妹に背を向けて歩き出した。
美里は姉を見送っていたが不意に家に入ると荒々しく戸を閉めた。
――これが最後のチャンスになるかもしれない。
倉木は美乃の後をつけた。
――どこに行くんだ、あいつは?
車があるのに歩いて外出したので、てっきり近所に行くのかと思ったが、美乃はもうかれこれ三十分は歩いている。
その間倉木は、美乃とまわりに気を使い続けていたので、いささか疲れを感じるようになってきた。
その時美乃が、何の前触れもなく突然振り返った。
隠れる暇はない。
倉木はとっさにただの通行人のふりをしたが、美乃は倉木から視線を外さない。
――まずい。
倉木は尾行には自信があった。
それなのに気づかれてしまったのだ。
それは倉木が一瞬気を抜いた時である。
その一瞬を美乃は見逃さなかった。
普通の人よりも人の気配に敏感な人間がいる。
小塚はそのタイプなのだろう。
その上命を狙われているかもしれないと言う思いが、美乃をさらに敏感にさせていた。
もっと気をつけるべきだったのだが、もう遅い。
すると小塚が突然走り出した。
――どうする? それにしても尾行を気づかれたのは初めてだ。油断した。
倉木は追いかけることも考えたが、やめることにした。
下手に追いかけて騒がれでもしたら、状況はさらに悪化することだろう。
倉木は先の曲がり角を走りながら曲がって行く美乃を黙って見ているしかなかった。
その時である。
「きゃっ!」
短い悲鳴が聞こえ、すぐに静かになった。
――まさか?
倉木は走った。そして角を曲がると奴はいた。
見るからに大きな男が立っていた。
身長があるだけではない。
肩を中心に全身が筋肉で膨れ上がっている。
それはまるで筋肉の鎧を着ているかのようだ。
街灯もない町の外れではあるが、月明かりによって闇になれた倉木にはよく見えた。
男に続いて、美乃にも気づいた。
美乃は地面に仰向けに倒れていた。
その頭部には何かが深々と突き刺さっていた。
刃がゆるいカーブを描いた幅広の斧。
まさかりだ。
正にたった今殺人が行われたばかり。
倉木はじっと背を向けたまま立っている男に、小走りで近づいた。
すると男が倉木の方を振り向いた。
男の顔を見て、倉木の足が止まった。
見覚えがある。
そして思い出した。
金田太郎だ。間違いない。
何故今の今まで忘れていたのか。
倉木の妹が自殺する前に、妹に聞いた事がある。
彼氏がいるのだと。
その彼氏と将来結婚するとも言っていた。
倉木は子供のたわごとだと思ったが、少なくとも妹のほうは真剣だったようだ。
プリクラを見せてもらった。
妹と仲良く写っている男は、誠実な男に見えた。
その男と妹の葬式で会った。
全く無言で無表情なままの中学生の皮膚の下に、倉木は大きな悲しみと怒りを感じていた。
それにしても金田太郎。
成長した顔以外はまるで別人だ。
背は高いが男としては頼りないほどに線の細かったあの身体が、こうまで筋肉で肥大するとは。
――そうとうに鍛え上げたな。
倉木は思った。
何のために?
もちろん復讐するためだろう。
倉木を見る金田の顔は、あの時と同じく無表情であった。
倉木が金田に一歩ふみ寄る。
その時である。
「おねえちゃん!」
金田の背後から声がした。
こちらに走ってきた声の主は、金田のすぐ横をすり抜けて、倒れている美乃に話しかけた。
美里だ。
反対側からやって来たということは、姉の行き先を知っていて先回りしたのか?
「おねえちゃん! おねえちゃん! おねえちゃん!」
美里は泣いていた。
が、何かを思い出したように静かになると、金田を見た。
「やっぱりあなたね、金田さん」
深く静かな声だった。
そして全体重をかけて、姉の頭からまさかりを引き抜いた。
――まずい!
美里はなんとかまさかりを持ち上げようとしているが、その重さゆえになかなか持ち上げることが出来ないでいる。
あんな状態で金田に襲いかかっても、勝てるわけがない。
倉木は美里にかけよると、肩に手をかけた。
「やめろ」
が、次の瞬間、何かに頭をつかまれた。
「金田!」
その声が聞こえなかったかのように、金田は倉木を放り投げた。
倉木のけっして軽くない身体が宙を舞い、ブロック塀に勢いよくぶち当たった。
「ぐっ」
地面に尻から落ちた倉木はすぐさま起き上がろうとしたが、起き上がることが出来なかった。
背中と腰を強打したために強烈な痛みがある上に、下半身に全く力が入らない。
呼吸もほとんど出来ないでいた。
見れば美里がようやくまさかりを肩までかつぎ上げていた。
「よせ」
倉木はそう言ったつもりだが、声にはならなかった。
美里は金田の前に立つと、何かを叫びながらまさかりを振り下ろした。
避けるか何かをすると思われた金田だったが、全く微動だにしなかった。
避けなかったのだ。
まさかりは金田の首の付け根のところに当たった。
そして美里の腕力というよりもそれ自体の重さゆえ、金田の身体に深々と突き刺さった。
それには美里自身が驚き、まさかりから手を離した。
金田はまさかりを肩口につけたまま、まるでスローモーションでも見ているかのように、後方に倒れた。
「逃げろ」
か細いながらも声が出た。
その声に美里が我を取り戻し、その場を駆け出した。
倉木は美里の背中が見えなくなると、身体を起こしてみた。
まだまだ痛みはあるが、なんとか動ける。
そのままふらつきながら金田のもとにたどり着いた。
首の動脈でも切ったのだろうか。
傷口から血が止むことなく噴出し続けている。
今から慌てて救急車を呼んだとしても、まず助かるまい。
「よお、金田」
倉木は昔からの親友にでも話すように、声をかけた。
金田が倉木を見た。
「妹のかたきを打ってくれたんだな。礼を言う。ありがとう」
それを聞き金田は、小さくうなづいた。
「それにしてもおまえ、なんでまさかりを避けなかったんだ?」
金田は何も言わないままで少年のような顔で笑ったが、やがてゆっくりと目を閉じた。
終
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完結決定済み
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