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本編
data08:初めてのことば ◆
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────,8
その後しばらく二ノリのようすを見ていたが、再び暴れ出しそうなことはなかった。
むしろ別人のように大人しくなって、ただアツキの頬の怪我を心配したり謝ったりを繰り返すばかりの二ノリに、一班メンバーは驚いたというかなんというか。
……謝るくらいなら暴れるなよというか。
なんだか腹が立ってきた、というより呆れてきたのは、ヒナトたちに対しては一言もないからかもしれない。
さっきから横でずーっと突っ立ってる三人のことなど、二ノリは眼中にないらしいのだ。
もうそれこそアツキしか存在していないかのような徹底ぶりでこちらには一瞥もくれない。
こういう状況を知っているような気がしたヒナトは記憶を辿ってみた。
……ああ、タニラだ。
ソーヤがいるときのタニラってだいたいこんな感じだった気がするわ。
「ニノりん、私のことはいいからソーくんたちにお礼言わなきゃ」
「あ、……うん、そうだな」
二ノリはアツキに言われてようやくそこに思い至ったようで、今さらやっとこちらを見る。
やっぱり顔立ちは幼げでかわいらしい感じだ。
しかしちょっと面倒くさそうな顔なのはどうかと思う。
「世話になった。……ところで、一班に迷惑をかけた覚えはないんだが」
「二ノリてんめぇぇえ、それがあんだけ暴れてた奴の言う科白かこのやろう! 俺殴られた!」
「ああ、それはすまない」
「絶対悪いと思ってねぇだろ!」
そしてこの態度もどうかと思う。
いや、もう「どうか」じゃなくて、はっきりと「悪い」。
これではソーヤが憤慨するのも無理はない。
どうやら精神的にはまだまだ外見どおりらしい御奉行は、明らかに邪魔なものを見る眼でヒナトたちを見ている。
ヒナトにとっては嫌なデジャヴだ。
花園には、というかソアにはこういう人間が多いのだろうか?
……そもそも花園の外をヒナトたちはよく知らないのだが。
困ったことに、恐らくこの中で最もニノリに対して影響力があるであろうアツキは、そういう二ノリの態度を諫めようとはしなかった。
せいぜいが「あらら」程度であった。それもどうかと思う。
思わず一班一同は顔を見合わせる。
わがままな子どもと彼を甘やかすお母さん、としか言いようのないこのふたり。
ある意味最悪の組み合わせではなかろうか。
「あのねニノりん、プリン食べちゃったのソーくんたちらしいの。それで来てくれたんだって」
「……なおさら謝礼も謝罪もする気になれんな」
「は?」
「それより俺とアツキは医務部に行く。それに二班に謝罪しなければならないし、部屋の片づけもある。
あんたたちは自分の仕事に戻れ」
二ノリはぺらぺらと一方的に言ってアツキの手をとった。
茫然としているヒナトたちの前を通り、そのまま一瞥もくれることなく、すたすたとオフィスから出ていく。
後に残っているのは荒れ果てた第三班オフィスと、その中央で立ちすくむ一班メンバーの、行きどころのない怒りともやもや感だけであった。
なんだったんだ……。
それまで黙っていたワタリが、はーあ、と溜息とも欠伸ともとれない声を出して立ちあがった。
いやこの状況で欠伸はないだろうが。
「ここに残っても意味ないし、戻ろっか」
「そうだな。あー痛てぇ……ったく、これだからかわいげのねーガキに関わるのは嫌なんだよ……」
制服の汚れを払いつつ二人は部屋を出る。
ヒナトも適当にひっくり返った机を戻し、まだ手にしたままだったプリンをそこに置いてから、急いで彼らに続く。
ドアを閉めた瞬間、急にどっと疲れが出てきた。
そこで、ほら、とワタリがポケットから手鏡を出してソーヤに見せる。
真上の蛍光灯を反射して、四角い鏡面がきらりと輝いた。
映り込むソーヤの顔をヒナトは本能的に直視できなかった。
一度聞いただけの殴打の音が、まだ耳の奥に残っているような気がしたからだ。
あの、身体の芯を竦ませる嫌な音。
「ソーヤも医務部行ったほうがいいんじゃない? 自慢の顔がひどいことになってるけど」
「うへー……。でも今行ったらあいつらと鉢合わせになるからやめとくわ。
ヒナ、戻ったら救急箱出せよ」
「はーい」
「ワタリも一応手冷やしとけよ。腫れてんぞ」
「……うわそれまさか口開けさせたときのですか?」
「まあそうだろうね。案外ヒナトちゃんて人遣い荒いよねー」
「う、ご、ごめんなさい」
ワタリに謝りながらヒナトは思った。
これからは不用意に給湯室のプリンを食べるのはよそう。
そのたびにこんな大騒ぎをしていたのでは、精神的にも肉体的にもヒナトたちがもたない。
それにいくらなんでも二ノリのあの態度は理不尽すぎる。
ソーヤは絶対このあとしばらく機嫌が悪いだろうし、そうなると秘書であるヒナトにも多大な負担が強いられるのは明白であった。
というかヒナトだって怒りたい。
さっきは先にソーヤに憤慨されてしまったので今は黙っているが、そうでなければ今ごろは何か一言叫んでいるところだ。
うう~もやもやする……。
ていうか! アツキちゃんも、もっとちゃんと二ノリくんを叱ろうよ!
ヒナトにはアツキの優しさがいまいち理解しがたかった。
立場の上では上司にあたるから厳しくできないのかもしれないが、相手は歳下だし、何よりアツキには随分懐いているように見える。
アツキの言うことなら聞くような気がする。
それにしても二ノリは変だ。
タニラに似ているところはもちろん、ありとあらゆる意味で変だ。
ソーヤはかわいげがないと言ったが、もうそういうレベルでは済まないと思う。
いくら優秀だからってあの性格で班長をやるのは無理だろう。
今は班員がアツキしかいないからいいものの、いずれ三人目の新しいソアが入ってくるだろうし、それで今のようにやっていけるとは思えない。
なんていうのか、ええと、あれだ。
ユウラの言葉を借りれば、「仕事に私情をはさむなよ」……でいいのか。
たぶんヒナトが言いたいのと似たような意味だと思う。
ちょっと違う?
「ソアってみんなああなのかな……」
思わずぼやいたヒナトに、ちょうど前を歩いていたワタリがちらと振り返った。
聞こえてしまったようだ。
「ああ、っていうのは?」
「え、いやその……性格とか変わってるなと……」
「かもしれないね、僕らは育った環境が特殊のようだし。でも二ノリは特別だ」
含みを持たせたワタリの言いかたに、ヒナトは少しむっとする。
その、いろんな意味で特別な部分が、今まさに気になっているのだ。悪い意味で。
そう思ったのが顔に出たのだろう、ワタリは苦笑まじりに続けた。
「あの子はいろいろ無理してるんじゃないかな。それが、ああいう表れかたをしてるんだと思うよ」
無理って何が?
さっぱり意味がわからず頭の上をはてなマーク畑にするヒナトだが、ワタリはそれ以上答えてはくれなかった。
たぶんワタリにもはっきりとはわからなかったのだろう。
ソアについてソア自身が知りえる情報は、仕事の中で眼にするいくつかのデータに限られている。
どういう過程で作られ、どういうものを与えられて育ち、どの段階まで発達しているか。
それも直接閲覧できるのは自分たちより下の世代、つまり現在「ガーデン」にいる子どもたちのことが大半だ。
だから二ノリについてもよくはわからないのだ。
ただ、少し下の世代であるにも関わらず、最年少でグリーンハウスのオフィス班長の座を与えられた天才少年である、ということぐらいしか。
……それ自体が無理のあることだと言われたら、ヒナトは少し納得できるかもしれない。
「ソーヤもある種、特別ではあるけどね」
そのときワタリのもらした小さな呟きを、ヒナトは聞き逃した。
・・・・・+
オフィスに戻ってからふたりの手当てをしたが、改めてみるとひどいものだった。
これまで怪我らしい怪我を見たことがなかったせいもあろうが、ウイルスだけでなくそういうものにも耐性のなかったヒナトには、どちらも耐えがたいものがあった。
どんな力で人を殴ったらこうなるのだ。
それに、それほどの力を人に向けられるものなのか。
わずかに手が震えるのを感じながら氷水を用意する。
冷やしたくらいでは消えないかもしれないが、とにかく何でもやってみなければ。
とはいえヒナトは手当てのしかたなど知らない。
救急箱に入っていた「応急処置マニュアル」なんかを読みながら、おっかなびっくりやるしかなかった。
相当不慣れな手つきだったろうから、ちょっとソーヤに笑われたって気にならなかった。
いや、むしろ、そんな精神的余裕がなかったとも言える。
「い、痛いですか?」
「何を今さら……そりゃ痛てーよ。でもなんで俺よりヒナのがショック受けてんだ」
「だだだ、だって」
だってすごく怖かったんです。
そう言うつもりだったが、言葉が続いてくれなかった。
ソーヤが、なんだかすごく温かい眼をして、ヒナトを見つめていたから。
「ヒナのおかげで二ノリに麻酔を使わずに済んだ。その点は褒めてやるよ、よくやった」
ぽんぽんとヒナトの頭を軽く叩きながら、ソーヤは笑っていた。
……また犬か何かみたいに。
そうは思っても、ヒナトには反論なんてできっこないのだ。
ソーヤのこんないい笑顔、それもこんな至近距離でなんて、そうそう見られはしない。
もちろんそれだけじゃない。
ソーヤに褒められた。
いつかきっと、と夢に見てきたことが今、現実で起こっている。
ヒナトが見上げた先にあるのは、もう何度も確かめているがやっぱり皮肉屋な班長さまの顔で、それはもう見間違えようがないし、たぶん空耳や聞き違えでもないのだと思う。思いたい。たまには思わせてほしい。
あ、どうしよう……ちょっと泣きそう。
恐怖で縮こまっていたヒナトの心が、急に熱い空気を吹き込まれたみたいになって、どんどん膨らんでいく。
どんどん軽くなる。
沈んだ気持ちも浮き上がっていく。
胸が熱い。
いっそ苦しい。
溢れ出てくる嬉しさで、全身の血管が詰まって破裂してしまうんじゃないかと、思うくらいに。
「ま、原因作ったのもヒナだけどな」
「次からは気をつけてね」
前言撤回。涙も引っ込んだ。
ヒナトは無言でソーヤの顔に湿布を貼りつけると、今度はワタリの手の腫れを冷やす行動にシフトした。
まだうっすらと二ノリのであろう歯型が残っている。こちらもかなり痛々しい。
腫れだけで血が出たりはしていないのが不幸中の幸いだ。
とはいえ、早くこの腫れをひかせないと、手作業ができないのでは仕事に差し支える。
ぶっちゃけ一班でいちばん仕事をしているのはワタリなのだから、この問題は切実だ。
困ったな、と俯き加減で考え込んでいたヒナトは、そのとき男子ふたりが顔を見合わせていたことに気がつかなかった。
「あとは自分でやるからもういいよ、ヒナトちゃん」
「……いや、でも、ほら、あたしが原因だったわけですしぃ……」
「なに拗ねてんだおまえは」
「べっつにー、いつもどおりですけどぉ……」
ぐぬう、我ながらちょっと子どもっぽいな。
と、思っても、どうしても変な喋りかたをせずにいられない。困ったものだ。
結局プラスマイナスゼロってことなの、これ。
いや、でも、怒られるのはいつものことじゃないか。
それに比べて褒められることなんてレア中のレア事態なのだから、ちょっとくらいプラスが勝っていてもいいと思う。
そういうことにしよう。
少し強引に気持ちを切り替え、ひとまず氷水と湿布と救急箱をワタリに渡して仕事に戻る。
……そういえば飲みものをぶちまけたとき、キャロラインにも少しひっかけてしまったんじゃなかったか。
ディスプレイの周辺をちょっと汚したぐらいだが、過去何度もコンピュータを(もちろん故意にではないが)葬ってきたヒナトとしては、これは充分警戒に値する。
「ソーヤさん、キャロちゃんがちゃんと動くかどうか見てください」
「いいけどまず自分で触ろうとは思わねーのか」
「……触ったら壊れそうな気が……」
「壊しそうの間違いだな。でもまあ学習してるようで何よりだ、よろしい」
「ぐっ……! こ、コーヒー淹れてきます!」
「今度はこぼすなよー」
ちょっとさっきの今でマイナス値ぐいぐい上げないでくださいよ!
とは言えず、ソーヤの茶化し声とワタリの苦笑いを背に受けながらヒナトは一班オフィスを出る。
じつはこぼした原因が、ソーヤに遅いと言われるのが嫌でちょっと速足になってみたから、というのは秘密だ。
上り階段をクリアして気を抜いたらオフィスに入った瞬間……というオチだった。
素早くこぼさず運ぶのってどうしてこう難しいのだろう。バランス感覚でも鍛えようか。
しかしどうやれば鍛えられるのかわからなかったヒナトは、うんうん悩みながら三階の給湯室に向かった。
ああ、またこの階に戻ってきてしまったのか、とまだ転がった植木鉢の残骸を見て思う。
扉のようすからして三班は片付け中のようだが、二班はもう業務に戻っているらしい。
さすが。
しかし給湯室の前にまで物が散乱しているのを見ると、それもヒナトがグーパンチで壊した植木鉢の破片も混ざっているので、少し手伝ってあげたほうがいいんじゃないかと思えてきた。
そりゃあ二ノリの態度は今でも腹立たしいが、……それも大元の原因はヒナトだし。
「あ、ヒナちゃん。さっきはごめんねぇ」
とかどうとか考えていたらアツキがやってきた。
オフィスの中がどうにかなったので、今度は外を片づけにきた、のだそうだ。
顔の腫れていた場所にはガーゼが貼ってある。
こうして箒とちりとりを持たせるとますますなんかこう、……世間でいうお母さんってこういう感じなのかな、と思う。
「ところで、明日って自由日でしょう? サイちゃんと繁華街行こうと思ってて、よかったらヒナちゃんも一緒にどうかなぁ」
「自由日? あ、そういえばそうだ!」
すっかり忘れていたが、花園のGHには自由日というシステムがある。
毎月一日か二日、数時間だけ外に出られるのだ。
決まった額のお小遣いも支給され、禁止されているもの以外なら、ほぼ何でも購入して持ち帰ることができる。
ヒナトはまだGHに来てから日が浅いので、じつは明日が初めての自由日だ。
恐らくアツキはそれで気を遣ってくれたのだろう。
外のことなんて右も左もわからないのだから、誰かと一緒に行動できたほうが心強い。
もちろんヒナトとしては願ったり叶ったりの提案だ。
「でもヒナちゃん、まだ服持ってないよね。私もサイちゃんも貸す準備できてるから、今晩選ぼう?」
「う、うん! えっと、サイネちゃんの部屋に行けばいいの?」
「そうだよ、待ってるからね~」
→
その後しばらく二ノリのようすを見ていたが、再び暴れ出しそうなことはなかった。
むしろ別人のように大人しくなって、ただアツキの頬の怪我を心配したり謝ったりを繰り返すばかりの二ノリに、一班メンバーは驚いたというかなんというか。
……謝るくらいなら暴れるなよというか。
なんだか腹が立ってきた、というより呆れてきたのは、ヒナトたちに対しては一言もないからかもしれない。
さっきから横でずーっと突っ立ってる三人のことなど、二ノリは眼中にないらしいのだ。
もうそれこそアツキしか存在していないかのような徹底ぶりでこちらには一瞥もくれない。
こういう状況を知っているような気がしたヒナトは記憶を辿ってみた。
……ああ、タニラだ。
ソーヤがいるときのタニラってだいたいこんな感じだった気がするわ。
「ニノりん、私のことはいいからソーくんたちにお礼言わなきゃ」
「あ、……うん、そうだな」
二ノリはアツキに言われてようやくそこに思い至ったようで、今さらやっとこちらを見る。
やっぱり顔立ちは幼げでかわいらしい感じだ。
しかしちょっと面倒くさそうな顔なのはどうかと思う。
「世話になった。……ところで、一班に迷惑をかけた覚えはないんだが」
「二ノリてんめぇぇえ、それがあんだけ暴れてた奴の言う科白かこのやろう! 俺殴られた!」
「ああ、それはすまない」
「絶対悪いと思ってねぇだろ!」
そしてこの態度もどうかと思う。
いや、もう「どうか」じゃなくて、はっきりと「悪い」。
これではソーヤが憤慨するのも無理はない。
どうやら精神的にはまだまだ外見どおりらしい御奉行は、明らかに邪魔なものを見る眼でヒナトたちを見ている。
ヒナトにとっては嫌なデジャヴだ。
花園には、というかソアにはこういう人間が多いのだろうか?
……そもそも花園の外をヒナトたちはよく知らないのだが。
困ったことに、恐らくこの中で最もニノリに対して影響力があるであろうアツキは、そういう二ノリの態度を諫めようとはしなかった。
せいぜいが「あらら」程度であった。それもどうかと思う。
思わず一班一同は顔を見合わせる。
わがままな子どもと彼を甘やかすお母さん、としか言いようのないこのふたり。
ある意味最悪の組み合わせではなかろうか。
「あのねニノりん、プリン食べちゃったのソーくんたちらしいの。それで来てくれたんだって」
「……なおさら謝礼も謝罪もする気になれんな」
「は?」
「それより俺とアツキは医務部に行く。それに二班に謝罪しなければならないし、部屋の片づけもある。
あんたたちは自分の仕事に戻れ」
二ノリはぺらぺらと一方的に言ってアツキの手をとった。
茫然としているヒナトたちの前を通り、そのまま一瞥もくれることなく、すたすたとオフィスから出ていく。
後に残っているのは荒れ果てた第三班オフィスと、その中央で立ちすくむ一班メンバーの、行きどころのない怒りともやもや感だけであった。
なんだったんだ……。
それまで黙っていたワタリが、はーあ、と溜息とも欠伸ともとれない声を出して立ちあがった。
いやこの状況で欠伸はないだろうが。
「ここに残っても意味ないし、戻ろっか」
「そうだな。あー痛てぇ……ったく、これだからかわいげのねーガキに関わるのは嫌なんだよ……」
制服の汚れを払いつつ二人は部屋を出る。
ヒナトも適当にひっくり返った机を戻し、まだ手にしたままだったプリンをそこに置いてから、急いで彼らに続く。
ドアを閉めた瞬間、急にどっと疲れが出てきた。
そこで、ほら、とワタリがポケットから手鏡を出してソーヤに見せる。
真上の蛍光灯を反射して、四角い鏡面がきらりと輝いた。
映り込むソーヤの顔をヒナトは本能的に直視できなかった。
一度聞いただけの殴打の音が、まだ耳の奥に残っているような気がしたからだ。
あの、身体の芯を竦ませる嫌な音。
「ソーヤも医務部行ったほうがいいんじゃない? 自慢の顔がひどいことになってるけど」
「うへー……。でも今行ったらあいつらと鉢合わせになるからやめとくわ。
ヒナ、戻ったら救急箱出せよ」
「はーい」
「ワタリも一応手冷やしとけよ。腫れてんぞ」
「……うわそれまさか口開けさせたときのですか?」
「まあそうだろうね。案外ヒナトちゃんて人遣い荒いよねー」
「う、ご、ごめんなさい」
ワタリに謝りながらヒナトは思った。
これからは不用意に給湯室のプリンを食べるのはよそう。
そのたびにこんな大騒ぎをしていたのでは、精神的にも肉体的にもヒナトたちがもたない。
それにいくらなんでも二ノリのあの態度は理不尽すぎる。
ソーヤは絶対このあとしばらく機嫌が悪いだろうし、そうなると秘書であるヒナトにも多大な負担が強いられるのは明白であった。
というかヒナトだって怒りたい。
さっきは先にソーヤに憤慨されてしまったので今は黙っているが、そうでなければ今ごろは何か一言叫んでいるところだ。
うう~もやもやする……。
ていうか! アツキちゃんも、もっとちゃんと二ノリくんを叱ろうよ!
ヒナトにはアツキの優しさがいまいち理解しがたかった。
立場の上では上司にあたるから厳しくできないのかもしれないが、相手は歳下だし、何よりアツキには随分懐いているように見える。
アツキの言うことなら聞くような気がする。
それにしても二ノリは変だ。
タニラに似ているところはもちろん、ありとあらゆる意味で変だ。
ソーヤはかわいげがないと言ったが、もうそういうレベルでは済まないと思う。
いくら優秀だからってあの性格で班長をやるのは無理だろう。
今は班員がアツキしかいないからいいものの、いずれ三人目の新しいソアが入ってくるだろうし、それで今のようにやっていけるとは思えない。
なんていうのか、ええと、あれだ。
ユウラの言葉を借りれば、「仕事に私情をはさむなよ」……でいいのか。
たぶんヒナトが言いたいのと似たような意味だと思う。
ちょっと違う?
「ソアってみんなああなのかな……」
思わずぼやいたヒナトに、ちょうど前を歩いていたワタリがちらと振り返った。
聞こえてしまったようだ。
「ああ、っていうのは?」
「え、いやその……性格とか変わってるなと……」
「かもしれないね、僕らは育った環境が特殊のようだし。でも二ノリは特別だ」
含みを持たせたワタリの言いかたに、ヒナトは少しむっとする。
その、いろんな意味で特別な部分が、今まさに気になっているのだ。悪い意味で。
そう思ったのが顔に出たのだろう、ワタリは苦笑まじりに続けた。
「あの子はいろいろ無理してるんじゃないかな。それが、ああいう表れかたをしてるんだと思うよ」
無理って何が?
さっぱり意味がわからず頭の上をはてなマーク畑にするヒナトだが、ワタリはそれ以上答えてはくれなかった。
たぶんワタリにもはっきりとはわからなかったのだろう。
ソアについてソア自身が知りえる情報は、仕事の中で眼にするいくつかのデータに限られている。
どういう過程で作られ、どういうものを与えられて育ち、どの段階まで発達しているか。
それも直接閲覧できるのは自分たちより下の世代、つまり現在「ガーデン」にいる子どもたちのことが大半だ。
だから二ノリについてもよくはわからないのだ。
ただ、少し下の世代であるにも関わらず、最年少でグリーンハウスのオフィス班長の座を与えられた天才少年である、ということぐらいしか。
……それ自体が無理のあることだと言われたら、ヒナトは少し納得できるかもしれない。
「ソーヤもある種、特別ではあるけどね」
そのときワタリのもらした小さな呟きを、ヒナトは聞き逃した。
・・・・・+
オフィスに戻ってからふたりの手当てをしたが、改めてみるとひどいものだった。
これまで怪我らしい怪我を見たことがなかったせいもあろうが、ウイルスだけでなくそういうものにも耐性のなかったヒナトには、どちらも耐えがたいものがあった。
どんな力で人を殴ったらこうなるのだ。
それに、それほどの力を人に向けられるものなのか。
わずかに手が震えるのを感じながら氷水を用意する。
冷やしたくらいでは消えないかもしれないが、とにかく何でもやってみなければ。
とはいえヒナトは手当てのしかたなど知らない。
救急箱に入っていた「応急処置マニュアル」なんかを読みながら、おっかなびっくりやるしかなかった。
相当不慣れな手つきだったろうから、ちょっとソーヤに笑われたって気にならなかった。
いや、むしろ、そんな精神的余裕がなかったとも言える。
「い、痛いですか?」
「何を今さら……そりゃ痛てーよ。でもなんで俺よりヒナのがショック受けてんだ」
「だだだ、だって」
だってすごく怖かったんです。
そう言うつもりだったが、言葉が続いてくれなかった。
ソーヤが、なんだかすごく温かい眼をして、ヒナトを見つめていたから。
「ヒナのおかげで二ノリに麻酔を使わずに済んだ。その点は褒めてやるよ、よくやった」
ぽんぽんとヒナトの頭を軽く叩きながら、ソーヤは笑っていた。
……また犬か何かみたいに。
そうは思っても、ヒナトには反論なんてできっこないのだ。
ソーヤのこんないい笑顔、それもこんな至近距離でなんて、そうそう見られはしない。
もちろんそれだけじゃない。
ソーヤに褒められた。
いつかきっと、と夢に見てきたことが今、現実で起こっている。
ヒナトが見上げた先にあるのは、もう何度も確かめているがやっぱり皮肉屋な班長さまの顔で、それはもう見間違えようがないし、たぶん空耳や聞き違えでもないのだと思う。思いたい。たまには思わせてほしい。
あ、どうしよう……ちょっと泣きそう。
恐怖で縮こまっていたヒナトの心が、急に熱い空気を吹き込まれたみたいになって、どんどん膨らんでいく。
どんどん軽くなる。
沈んだ気持ちも浮き上がっていく。
胸が熱い。
いっそ苦しい。
溢れ出てくる嬉しさで、全身の血管が詰まって破裂してしまうんじゃないかと、思うくらいに。
「ま、原因作ったのもヒナだけどな」
「次からは気をつけてね」
前言撤回。涙も引っ込んだ。
ヒナトは無言でソーヤの顔に湿布を貼りつけると、今度はワタリの手の腫れを冷やす行動にシフトした。
まだうっすらと二ノリのであろう歯型が残っている。こちらもかなり痛々しい。
腫れだけで血が出たりはしていないのが不幸中の幸いだ。
とはいえ、早くこの腫れをひかせないと、手作業ができないのでは仕事に差し支える。
ぶっちゃけ一班でいちばん仕事をしているのはワタリなのだから、この問題は切実だ。
困ったな、と俯き加減で考え込んでいたヒナトは、そのとき男子ふたりが顔を見合わせていたことに気がつかなかった。
「あとは自分でやるからもういいよ、ヒナトちゃん」
「……いや、でも、ほら、あたしが原因だったわけですしぃ……」
「なに拗ねてんだおまえは」
「べっつにー、いつもどおりですけどぉ……」
ぐぬう、我ながらちょっと子どもっぽいな。
と、思っても、どうしても変な喋りかたをせずにいられない。困ったものだ。
結局プラスマイナスゼロってことなの、これ。
いや、でも、怒られるのはいつものことじゃないか。
それに比べて褒められることなんてレア中のレア事態なのだから、ちょっとくらいプラスが勝っていてもいいと思う。
そういうことにしよう。
少し強引に気持ちを切り替え、ひとまず氷水と湿布と救急箱をワタリに渡して仕事に戻る。
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「いいけどまず自分で触ろうとは思わねーのか」
「……触ったら壊れそうな気が……」
「壊しそうの間違いだな。でもまあ学習してるようで何よりだ、よろしい」
「ぐっ……! こ、コーヒー淹れてきます!」
「今度はこぼすなよー」
ちょっとさっきの今でマイナス値ぐいぐい上げないでくださいよ!
とは言えず、ソーヤの茶化し声とワタリの苦笑いを背に受けながらヒナトは一班オフィスを出る。
じつはこぼした原因が、ソーヤに遅いと言われるのが嫌でちょっと速足になってみたから、というのは秘密だ。
上り階段をクリアして気を抜いたらオフィスに入った瞬間……というオチだった。
素早くこぼさず運ぶのってどうしてこう難しいのだろう。バランス感覚でも鍛えようか。
しかしどうやれば鍛えられるのかわからなかったヒナトは、うんうん悩みながら三階の給湯室に向かった。
ああ、またこの階に戻ってきてしまったのか、とまだ転がった植木鉢の残骸を見て思う。
扉のようすからして三班は片付け中のようだが、二班はもう業務に戻っているらしい。
さすが。
しかし給湯室の前にまで物が散乱しているのを見ると、それもヒナトがグーパンチで壊した植木鉢の破片も混ざっているので、少し手伝ってあげたほうがいいんじゃないかと思えてきた。
そりゃあ二ノリの態度は今でも腹立たしいが、……それも大元の原因はヒナトだし。
「あ、ヒナちゃん。さっきはごめんねぇ」
とかどうとか考えていたらアツキがやってきた。
オフィスの中がどうにかなったので、今度は外を片づけにきた、のだそうだ。
顔の腫れていた場所にはガーゼが貼ってある。
こうして箒とちりとりを持たせるとますますなんかこう、……世間でいうお母さんってこういう感じなのかな、と思う。
「ところで、明日って自由日でしょう? サイちゃんと繁華街行こうと思ってて、よかったらヒナちゃんも一緒にどうかなぁ」
「自由日? あ、そういえばそうだ!」
すっかり忘れていたが、花園のGHには自由日というシステムがある。
毎月一日か二日、数時間だけ外に出られるのだ。
決まった額のお小遣いも支給され、禁止されているもの以外なら、ほぼ何でも購入して持ち帰ることができる。
ヒナトはまだGHに来てから日が浅いので、じつは明日が初めての自由日だ。
恐らくアツキはそれで気を遣ってくれたのだろう。
外のことなんて右も左もわからないのだから、誰かと一緒に行動できたほうが心強い。
もちろんヒナトとしては願ったり叶ったりの提案だ。
「でもヒナちゃん、まだ服持ってないよね。私もサイちゃんも貸す準備できてるから、今晩選ぼう?」
「う、うん! えっと、サイネちゃんの部屋に行けばいいの?」
「そうだよ、待ってるからね~」
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