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捌 上野ノ妖ノ章

捌ノ玖 ひとときの休息と、旅立ち

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 安永と政信は依頼が片付いてすぐ、庵に帰っていきました。
 フェノエレーゼはというと、足が折れているのに加えて怪我もしたので、村にとどまり療養することにしました。
 ナギはしばらく旅を続けるよう安永に言われたため、フェノエレーゼに同行することを決めました。

 キツネを助けたあと、手当てをされるのに衣を脱ぐと、右足にあった呪の紋様が薄れていました。

“フェノエレーゼが愛を知らなければ呪は解けない”
 頭では理解できなくても、旅をする中でフェノエレーゼが感じる何かは、確実に呪を解くきっかけになっているようです。

 そうしてはや一月。
 野山はすっかり新緑でうまり、カッコウの鳴き声が初夏の到来を告げます。
 うららかな日差しのもと、みもすその湯にはフェノエレーゼとヒナの姿がありました。

「フエノさん。ケガが治ってよかったね。やっぱり女神さまのお湯はすごいんだ」

「かもな」

『チチチ。旦那は素直じゃないっさ。治ってこっち、毎日は来るくらい気に入ったくせにぃ~』

「黙れ雀」

 ひとにらみされて、雀は捕まる前にヒナの頭に避難します。

 雀がツッコむのもそのはず、フェノエレーゼとヒナはここ七日ほどは毎日湯につかりにきています。

 天狗とはいえ、良いものを知ったら夢中になるのは人とそう変わらないのです。

「フエノさん、もうすぐ次のところに行くんでしょ。どこに向かうの?」

 湯の中で泳ぎながら、ヒナが聞きます。

「私は人の世にうといからな。ナギに聞かないとなんとも言えん。ナギ、何か案はあるか?」

 ナギは二人の入浴中人が来ないように見張るからと、すこし離れた木陰にいたのです。
「どうせ誰も来やしないからお前も入ればいいのに」とフェノエレーゼに言われてうろたえたのも記憶に新しい。

 見えないよう背を向けているとはいえ、すぐそこで想い人が入浴しているというのは、若者にはなかなか堪えるものでした。

 見えなくとも水音や何やらというのは聞こえてくるのですから。

 ナギは平静をよそおい答えます。

「あ、ええと、南西に行けば信濃国しなののくに、南東に行けば武蔵国むさしのくにに着きます」

「国の名で言われてもわからん」

 空を舞っていたときは人間の決めた国境など全く知らず、好きなように西に東に飛んでいました。

 地に落ち人と話すようになって初めて、人が土地に名をつけて治めたり、奪い合ったりするということを知りました。

「師匠から教わったのですが、武蔵から南は雪がほとんど降らない地だそうです。そちらに向かえば、冬も旅を続けられるかもしれませんね。おれは越後と信濃でしか過ごしたことがないので、聞きかじった知識しかなくて申し訳ありせん」

『きゅいきゅい。主様はたくさん勉強しておられて素晴らしいですわ。もうしわけないなんて白いのに言うひつようないです』

「まったく……雀といいお前のとこのクダギツネといい。いちいち私に文句を言わねば生きていられないのか」

「ねえフエノさん。丸ちゃんとオーサキちゃんは何を言っているの。わたしだけ聞こえないの、さみしいわ」

「お前はそのままでいろ。こいつらはろくなことを言ってない」

 雀たちの鳴くあれこれはヒナには聞こえないので、フェノエレーゼの機嫌が悪くなる理由がわかりません。聞こえないほうが幸せでしょう。

『もうすぐここはなれるのか。旅に出たら、もうキツネと遊べない?』

『きゅい。悲しむことはないのよタビ。生きていれば、いつかどこかでまた会えるんだから』

『うん。わかった。姉ちゃん!』

 この一月の間にキツネと仲良くなっていたので、タビは残念そうに尻尾を丸めます。
 オーサキにはげまされて、一声鳴きました。
 


 それから二日後。
 村人たちに見送られ、フェノエレーゼ一行はみなかみをちました。

『世話になった礼だ。せめてそこまで案内させてくれ』

 キツネが草むらから出てきて、フェノエレーゼたちの前を行きます。

「礼など要らん」

『わしがそうしたいんじゃ。この先の道はわかりにくいから、あんたたちが迷わず武蔵に行けるように』

「……好きにしろ」

 これ以後、キツネは村人が野山で迷わないよう導くようになり、送りぎつねと呼ばれるようになったのはまた別の話。


 捌 上野ノ妖ノ章 了
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