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断章 かつて廃王子と呼ばれた獣
6.鳥籠の鳥
「では、奥様……なるべく疾く、何よりも疾く駆けて帰ってまいります」
「ええ……でも無理をしてはいけませんよ、アージャ。貴方は私達の大事な執事……必ず生きて、またクロウを抱いてやってちょうだいね」
たおやかな褐色の手が、老執事の手を包む。
一回りも違うその大きな手は己の主人の優しさを想い、涙をぐっと堪えると、深々と礼をして館を出て行ってしまった。
彼もまた、戦に駆り出されたのだ。
もうこの館には、二人きり。誰もいなくなってしまった。
「ははうえ……あーじゃは、どこにいくの?」
高く幼い、舌っ足らずな声。
何も知らない幼子の無邪気な言葉に、彼の主人――スーリアは、隣で大人しくしていた己が息子であるクロウクルワッハの手を優しく握った。
「アージャは、父上と一緒に戦ってくるのよ。ああ見えても、アージャもまだまだ若い獣人には負けないわ。……だから、私達は帰りを待っていてあげましょうね」
年の割に小さく、弱々しい柔らかい手。
獣人は、人族よりも早く子供の時期が終わり、青年期から壮年期が最も長く続く。
そのモンスターを起源とした長い寿命も相まって、捕食されやすい子供の時期は、本来なら十年も無かったはずなのだが……――クロウは五年を経過しても、人族と同じ五歳程度の成長しか見られず、発育が遅かった。
それどころか、言葉や考え方は更に幼いような所もある。
理解できていないわけではないが、何をするにも一拍遅れていたのだ。
スーリアは、そんなクロウのことを常に心配していた。
己が命を捧げても構わないほど愛している我が子だが、しかしこの命の灯がいつ消えるかも分からない。それゆえに、スーリアはクロウクルワッハに対して戦の事や心身に負担をかけるようなことを教えられなかったのだ。
「ははうえ……ちちうえは、だいじょ、ぶ……ですか……みんな、いたいの、してないですか……?」
「ああ……クロウ……貴方は本当に優しくて良い子ね……! さあ、母上の腕の中に来てちょうだい。私の良い子を抱き締めさせてね」
目を潤ませる我が子を慰めるために、小さな体を抱き上げる。
幼いクロウクルワッハが知る母スーリアは、いつもこうして慰めてくれていた。
悲しいことで泣こうと、自分のすることが上手くいかずにぐずろうと、スーリアは常に傍にいて、クロウクルワッハの心に寄り添うように包んでくれたのだ。
そんな母親の最大の愛を、クロウクルワッハも疑う事は無かった。
蔑む者のいないこの限られた領地だが、ここにはクロウクルワッハを優しく育むものしか存在していなかったのだ。
いや、両親であるスーリアとドービエルが、近付けさせなかった……――
と言った方が、正しかったのかもしれない。
時折王宮に連れて行くと、必ずと言っていいほど厳しい目を向けられる我が子。
それを、五感が鋭敏な獣人の親が気付かぬわけはない。
故にスーリアとドービエルは、幼いクロウクルワッハの心が傷つけられぬよう、またスーリアが心労で病を悪化させぬように「安息地」を作ったのだ。
二人が生きて、ドービエルが守れているうちはそれで上手くいっていたのである。
だが……その日。
館を守る要でもあった執事のアージャが遠征し、館が弱い獣ばかりになった日。
彼らが作り上げた「安息」は、いとも容易く壊される脆いものであったことを、誰もが思い知らされることとなった。
――――――時には霜すら降るほどの、荒野の夜。
執事のアージャが館を出た次の日の夜も、スーリアは寝室で火を焚いて、我が子に自分が知る物語を教えていた。
「そして聖獣ベーマスは、偉大なる主や仲間と共に“マガツ”を討ち……」
何度も聞かせた聖獣の伝説は、その幻想的な内容もあってかクロウクルワッハのお気に入りだった。言動の幼さとは裏腹に、理解力はとても高く物覚えも良い息子は、様々な物語を理解したうえで、それでもこの伝説を好んだ。
難しい言葉を用いる軍記や強者の逸話もよく喜ぶが、母親や限られた従者達と共に暮らすクロウクルワッハにとっては、獣人的な強さよりも人知を超える存在の方が興味を惹かれる。
……それは、普通の獣人であれば変わり者だと呆れられる嗜好ではあるのだが、スーリアは「そんなところも自分に似ている」と喜びこそすれ、諌めはしなかった。
母と子、ほぼ二人での生活は、そんな夢想にかまけていられるほど平和で、戦や獣人同士の戦いなどとは縁遠い生活だったのだ。
しかし――――彼らにも、ついにその時が訪れた。
「…………」
「ははうえ?」
唐突に語る口を硬直させ、艶やかな毛を持つ熊の耳をぴくりと動かしたスーリアは、クロウクルワッハに「静かに」と言うように口元に指を立てると、暫し獣人の聴力で外の違和感を探る。そうして――――にわかに、険しい顔つきになった。
初めて見る母親の表情にクロウクルワッハは目を丸くしたが、スーリアは何かに気を取られ、警戒するかのように周囲に視線を走らせると、ベッドの上から動いた。
「……ねえクロウクルワッハ、今日は一緒に夜のお散歩をしましょうか。今から寝ようと思っていたけど、なんだか眼が冴えてしまったわ」
「よるの、おさんぽ……いく……!」
幼いクロウクルワッハにとって、母親と共に行動すること以上に楽しい事は無い。
ましてや滅多にない夜の散歩とくれば、子供の心はすぐに沸き立った。
そんな素直な息子にスーリアは微笑むと、もう一度警戒するような顔つきで周囲を探り、クロウクルワッハの手を引いてベッドから降りて部屋を出た。
この時点で、母親の様子が何かおかしい事はクロウクルワッハも察していた。
だが、今まで優しい世界で暮らしていた幼子にとって、何故ここまで母親が緊張した面持ちでいるのかを察するのは難しく、意図を隠したこの散歩が何を意味するかなど考えもつかなかった。
旅をしながら暮らす群れの子供なら、真っ先に理解したかもしれない。
常に外敵に怯えながら暮らす穴暮らしの獣人なら、青ざめて震えたかもしれない。
だが、幼いクロウクルワッハは無知だった。
恐怖と言うものに曝された事が無かった子供は、母親の異変を感じながらも、その原因を予測することが出来ないまま、ただ今の出来事が「ともに散歩する」ということでしかないと考えるしかなかったのだ。
しかし、事態は刻一刻と深刻化していった。
この時のスーリアは――クロウクルワッハが改めて回想してから気が付いた事だが――縄張りを守ろうとする獣ゆえの鋭い察知能力で、この館の敷地に“賊”が侵入していることを明確に察知していた。
幼いクロウクルワッハを連れ館の中を歩き回った所からして、どうにか外の“賊”と鉢合わせしないように最も敵から遠い位置に移動していたに違いない。
過去を語るためにクロウクルワッハが思い出した母親の姿は、子供を守ろうと必死な親の姿だった。
――――しかし、そんな努力も空しく、ついに館の扉を破り“賊”が侵入してきた。
盛大な破壊音が遠くから聞こえ、ここで初めてクロウクルワッハは何やら恐ろしい気持ちを抱いたが、その感情を噛み締める暇もなかった。
「クロウ。クロウクルワッハ……どうか、静かにしていてね。母上のそばから、決して離れないようにしていてちょうだいね」
握った手を更に強く握りしめられ、クロウクルワッハはただ頷く。
何が起こっているのか分からない。だが、母親がつらそうな顔をしているという事実が、元々聞き分けの良かった子供をより従順にした。
――――よく解らないが、母親がつらそうな顔をする事態が起こっている。
――――だから、決して母親が望まぬことはしてはいけない。
何をするにも人より一拍遅れた子供。
そんな子供であるクロウクルワッハを最大限守り、慈しんできた母親は、幼い彼にとって神にも等しい存在だった。
母親と共に起きて、遊んで、学んで、眠る。
幸せな暮らしは母親と共にあり、またクロウクルワッハ自身も、母親のいない生活など考えもつかなかった。それほど、彼の生活は閉じた生活だったのだ。
だからこそ、クロウクルワッハもまた母親の事を一番に考えていた。
人より一拍遅れた“劣る”自分を、無意識に理解していたがゆえに、つらそうな顔をする母親をこれ以上苦しめまいと、自分の中の言い知れぬ感情を押し殺し従順に従おうと口を噤んだのである。
……普通の子供なら、緊迫感と恐怖で泣き出していただろう。
だが、泣くことは許されなかった。
「クロウクルワッハ……良い子ね……。もう少し、もう少しだけ、我慢してね」
母親の声に被って、館の遠くの方から怒声が響き、また何かを破壊するような音が聞こえてくる。その振動を含んだ強い音に獣耳を震わせたが、クロウクルワッハは顔に出すことを堪えて、ただ母親の手を握っていた。
そんな幼子の強がりを、スーリアは悲しそうな目で見ていたが、最早それに関して何かを言う猶予など残されていない。
スーリアは幼子の手を引いて、音から遠ざかるように館の中を巧みに移動し続け、何とか“賊”から逃れようとした。
だが、相手も獣人であり、館を破壊して回っているところからして、これ以上館の中で逃げる事は難しい。スーリアは怯えながらも耐える幼子の顔を見て――決心したような表情をし、小さな声で「こっちよ」と息子を誘導した。
クロウクルワッハ自身、回想しながら確信したことだが……――――
母親であるスーリアは、その時点で“覚悟”を決めていたように思う。
暗闇に乗じて外に出た母の顔は、ただただ凛々しく険しい表情に染まっていた。
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