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断章 かつて廃王子と呼ばれた獣
8.別れと絶望のはじまり
「チッ……ザコメスが煩わせやがって。子種をくれてやる価値もねえ」
「熊どもはやっぱり家畜以下っすねえ!」
「早く帰って総大将に報告しましょうぜ」
意味が分からないが、それでも己の母親を揶揄する酷い言葉だと分かる、猿達の無慈悲で憎たらしい戯言。
何がどうなっているのか幼子にはすべてを理解できなかったが、しかし「何か途轍もなく悪いこと」が起きているのだけは、不思議と予測できる。
「っ…………、……」
母親の濁った声を聴き、思わず角を曲がる寸前で足が止まってしまったが、クロウクルワッハは母親の安否が心配で、なんとか角を曲がり現実を見ようとした。
――――が……足が、動かなかった。
「……~~~っ……!」
クロウクルワッハの大きな目から、涙がこぼれてくる。
どれほど飛び出そうとしても、足が竦んで動けない。体が恐怖でがくがくと震え、母親の姿を確認したいという衝動以上に「ある結果」への恐れが襲ってきて、どうしても動くことが出来なかった。
――こんな風に立ち止まるのは、獣人らしくない。
――敵から隠れて震えるのは、弱い家畜がすることだ。
母親が語ってくれた物語の中の“誇り高い獣人”は、こんな時でも決して逃げるような事はしなかった。毅然とした態度で立ち向かい誇りを示したのだ。
なのに、クロウクルワッハは、その場から動けなかった。
自分も殺されるかもしれない極限状態の中、母親を思う心と、殺されるという恐怖と、逃げたいと思う気持ちや立ち向かいたいと思う心、そして……最悪の状況を想像して発狂しかける感情と、それを拒否する己の心の抑えが拮抗し、思考が止まる。
必死に飲み込む息は忙しなく、体はどうしようもなく震えていて、生き延びたいと思うあさましい気持ちが、角を曲がる潔さを与えてはくれない。
なにより……この先の光景を、確かめたくなかった。
「おい、こんなことしてるヒマねえ。さっさと報告しに行くぞ」
「っ……!」
猿達の気配が、遠ざかっていく。
一拍も置かず声が小さくなるほど離れて行った猿達に、クロウクルワッハは荒い息を胸で必死に呼吸して抑えながら、もう戻ってこないか確かめる。
しかし「敵が離れた」という事実だけが幼い頭を突き動かしたのか、歩みすら怪しくなる頼りない足は強引に角を曲がった。
確かめたい。
だが、確かめたくない。
幼い頭で考える相反する思考に、目が熱くなって鼻が勝手に水を漏らす。
喉は最早声を発するほど震えていて、ひくひくとしゃくりあげていた。
だが、それは、混乱しているからではない。
予感が在った。それを、確かめたくなかったからだ。
確かめて絶望することで心が壊れるのを避けようとして、幼く弱い心が無意識に涙を流すことを求め、勝手に「悲しい」というぼんやりした気持ちが先走ったのだ。
そんな気持ちを肯定して、現実を認める事など、望んではいなかったのに。
角を曲がって目の当たりにした光景を受け入れる用意なんて、まだ欠片も出来ていなかったというのに。
それでも……クロウクルワッハの幼い頭は、目は、理解してしまっていた。
自分の母親が、血だまりの中で倒れているという……絶望的な光景を。
「あ、ぁ……あぁあああ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
泣きながら叫んで、躓きそうになりながら駆け寄る。
叫ばないと、頭がどうにかなりそうだった。
「ははう゛えっ、あ゛ぁう゛ぇっ、ぅ゛っ、う゛あ゛ぁあああああ!!
叫びとも泣き声ともつかない声で嘆きながら、クロウクルワッハは血の海など気にもせずに膝をついて、必死に母親の体を抱き起そうとする。
体を起こせば、助かるかも知れない。そんな根拠のない浅はかな希望。
混乱しながらもどうにか母親を「もとに戻したい」と願う気持ちは空回りし、何もかもが無駄な行為に費やされていく。
抱き起そうとしても、声をかけても、叫んでも、どうしようもない。
何もできない。いつものように何もできない。
助ける事も、戦う事も、満足に歩くことも抱き上げる事すらも出来ない。
たった一人の大切な母親を失う恐怖に立ち向かう事すら、出来なかった。
「っ……ぅ……ぁ……く……ろう……」
「あ゛ぁっ!! は、ははう゛え゛っ、ははうえぇえ!!」
幼子の泣き声に、長い睫毛が震えてどうにか薄らと目を開く。
だがその瞳は光も鈍く、こちらが見えているかどうかも怪しかった。
呼吸は浅いものになって、段々と腹や足が動かなくなっていく。その様を視界の端で見て震えるクロウクルワッハに、スーリアは手を伸ばそうと腕を振るわせた。
か弱く細い腕を、どうにか動かす。ずるりと血を引きずって弱く浮かせたその手を、最期の力を振り絞るかのようにして、己が愛する息子の頬にあてた。
「ど……う、か……し、あ……わせに……な……、て……ね」
まるで、別れのような言葉。
大きな瞳から涙をこぼして鼻を啜るクロウクルワッハに、スーリアは精一杯の笑顔を見せるように、なんとか口角を上げた。
「じぶん、を……うらま、ない……で……」
いつも、自分を撫でてくれた、抱きしめてくれた手。
頬を愛おしそうに包み、いつも望めば望むだけ愛情をくれた優しい母親の掌。
その手が、震えて、力を失っていく。
「どうか幸せになって、自分を恨まないでね」……その言葉を反芻する間にも、目の前の母親の命が失われていくことに、クロウクルワッハは顔をくしゃくしゃにしながら涙を流しているしかなかった。
「は、はう゛え、しな゛ない、ぇ……っ。いいこに、な゛る……っ、つよく、な゛って、ははうえ゛を守る、がら……っ!!」
オスの仕事はメスを守ることだ。
だから今度こそ守る。だから、生きていて。死なないで。
そんな拙く精一杯の願いに、スーリアの表情は悲しみに曇った。
だがそれもわずかな間で、最期の最後まで笑顔である自分を覚えていられるようにと、彼女は笑顔を作り直し……力を振り絞って、今わの際の言葉を伝えた。
「――――――」
命の灯が消える間際の、短い……
それでも、長く途切れ途切れに伝えられた言葉。
最後の声は掻き消えるようだったが、全ての願いを伝え終わったスーリアは、己の愛しい幼子を微笑んで見つめたまま――――目を閉じた。
「あ゛……ぁ……ああぁああああ……!!」
触れていた手が、滑り落ちる。
唐突に、まるで人形のように力なく倒れた母親は、一目見て「生きていない」のだと分かった。……指先までもが力なく弛緩し、もうどこも動いていない。
うっうっと嗚咽を漏らしながら揺さぶっても、小さく柔らかい手で肩を叩いても、手を握って揺さぶっても、もう世界で一番大好きだった母親が目を覚ますことは無い。
泣いていれば必ずやってきて慰めてくれた唯一の理解者は、もう。
「スーリア! どこだスーリ…………スーリアぁあ!!」
知った声が聞こえる。
この声は、母親の兄である……クロウに厳しい“デハイア”という伯父の声だ。
しかしその姿を見る余裕はない。
涙を流して放心するクロウクルワッハの近くまで駆け寄ってきた大人の気配を感じても、何も反応することが出来なかった。
「っ……く……情けない……」
呟くその声は自責の念に満ちている。
だが、デハイアは泣くことも喚くこともせず、スーリアを抱き上げようと動いた。
その伯父にようやく気が付いたクロウクルワッハは、母親が運ばれようとしている事に気が付いて「あ……」と、無意識にスーリアの血塗れの服を掴んだが――――
その手を、乱暴に叩き落された。
「ぁっ……!」
何で。
どうして、そんなことをするのか。
見上げた伯父の顔を見て、クロウクルワッハは息を呑んで硬直した。
「お前は……っ……お前は、それでもオスの獣か!! 本来ならば、愛しいスーリアのように弱いメスを守る事が当然だというのに、お前と言うやつは……ッ!!」
子供に対して、必死に罵倒を堪える激昂した相手。
だがその表情は憎しみと怒りの感情に満ちていて……今にも、クロウクルワッハを殺さんばかりの激情を溢れさせていた。
「あ……あぁ……」
「くっ……軟弱物めが……っ!」
歯を噛み締め、必死に堪える伯父の顔は、牙が剥き出しになっている。
明確な敵意と憎しみ。その感情は、子供に向けるには重すぎる。
愛された王妃の死を背負うことになった子供。
獣人にとって、その立場がどういうことになるのか。
……何もかも幼く哀れなクロウクルワッハには、想像も出来なかった。
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