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第一章 はじまりは夕闇とともに

逃げだした巫女

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 虫や鳥の鳴き声に交じり、荒い呼吸の音が静かに響く。
 枝葉の隙間から光が差し込み、しきりに後ろを気にする巫女の姿をまばらに照らした。

 裏口から飛び出したリディアは、息を切らせて、行くあてもないまま深い森を走り続けていた。
 枝をかすめて、色白のほおに深紅の血がじわりとにじむ。
 それにも気がつかないほど、彼女は無我夢中で逃げ回っていた。

 ネラ教会から許された、彼女の行動区域からは、もうとっくに飛び出している。
 どこをどう走っているのかリディア自身にもわからない。


「お待ちください!」
 逃げだしたことに気づかれたのだろう。
 後ろから司祭たちの声が微かに聞こえてきた。

 リディアを管理するネラ教会は、唯一の宗教とうたわれるほどに、民から信仰されている。
 その教えは民にとって絶対的なものであり、逃げたところでかくまってもらえるはずなどない。

 祈りの巫女の運命を背負った者に逃げる場所など、この世にどこにもないのだ。
 それをわかっていても、リディアは迫りくる恐怖から逃げださずにはいられなかった。


「巫女様、逃げるなど馬鹿なことはお止めください」
 徐々に近づいてくる男たちの声を振り払おうと、リディアはスピードを上げる。
 足は悲鳴をあげ、心臓も強く痛むが、足を止めるわけにはいかない。

 途端、彼女の表情が恐れで歪んだ。
 いつの間にか森を抜け、目の前は行き止まりの崖となっていたのだ。
 道がない代わりに、雲ひとつない空が海のように広がっていた。

 彼女の眼下には、様々な木々が織り成す、緑の絨毯じゅうたんが生い茂っている。
 足がすくんでしまうほどの高さから落ちたら、痛いだけでは済まされないことは明白だった。


「やめて、来ないで!」
 崖のふちまで逃げたリディアは振り返って、叫ぶ。
 青いローブをまとったハンス司祭や教会の者たちを見つめるその瞳は、怯えから揺らめいていた。

 このままでは、やけになって崖下に落ちかねないとでも司祭は判断したのだろう。
 彼女を刺激しないようにその場にとどまり、さとすような声でこう言ってくる。

「ハーシェル様。貴女は大切な使命をお忘れです」

「忘れてなんかないです! でも、怖いの……」

「そのようなことをおっしゃるものではありませんよ。貴女様は祈りの巫女、選ばれし者です。祈りの巫女と神の使いにしか、世界が救えないのはご存じでしょう。貴女様は、使命から目を背け、この世を滅ぼす気ですか?」

 ハンス司祭の声色は穏やかだったが、その瞳は鋭く光っている。
 リディアの顔は一気に強張り、身体も震えた。


「そんな……そんなつもりなんかないの」

「ハーシェル様、よくお聞きください。この世はネラ様のお力と、『祈りの巫女』『神の使い』により平和が保たれています。貴女がお役目を拒絶するのならば、暗黒竜ジェリーマの封印が解かれ、今度こそ世界は破滅へと向かうでしょう」

 司祭の発したジェリーマという言葉に、あたりはざわめく。
 皆、例に漏れず顔に恐れの感情を浮かべていた。 


 ジェリーマというのは、千年ほど前に、世界を混沌に陥れたという竜のことだ。
 今は神として崇められるネラが、かつて最果ての地で、その命をもって封じたと言われている。
 彼女の代わりがいない今、最悪の怪物モンスターが再びこの世に放たれたとしたら、今度こそ闇以外には何も残らないだろう。

 リディアは崖の端で、祈るように両手を握って立ちつくした。
 そんな彼女を見つめたハンス司祭は、穏やかに微笑み、右手をそっと前に出しながら、リディアに話しかけてくる。
 柔らかな動作は、救いの手を差し伸べているかのようにも見えた。


「命を捧げることが不安なのですか? 大丈夫ですよ。現世うつしよの使命を果たされたのちは、必ずやネラ様がその魂を救ってくださるのですから」

 ハンス司祭は首にかけたネラ教のペンダントを握り、うっとりと空を見上げる。
 一方のリディアは、彼とは反対にうつむき、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 わが身可愛さに、怪物ジェリーマを世に放つなど、リディアに出来るはずもない。
 脅しのように説得させられたリディアは、視線を落としたまま、こくりと静かにうなずいた。
「わかりました……取り乱してすみません」

「おわかりいただけて嬉しいです。さぁ、こちらへ」


――・――・――・――・――・――


 その頃、盗賊の二人は祈りの巫女について、森の中で話を続けていた。

「またまたぁ~。祈りの巫女にも、神の使いにも、俺は一度だって会ったことないっスよ。噂じゃ世界に何十人しかいないってハナシだし」
 バドはファルシードから放たれた“風の証”という言葉が信じられないのだろうか。
 声を上げて笑い飛ばしていき、続けざまに言葉を発した。

「しかも、証があれば使えるとかいう魔法ももう廃れて、祈りの巫女も魔力を持っただけの一般人。世にまぎれてたってわかんねっスよ。キャプテンもたまには変な嘘つくんスねぇ」

 全く信じようとしないバドを、ファルシードは呆れたような顔で見つめる。
「嘘を言ってどうする……って、ん?」

 ファルシードがふと視線を左下に落とすと、上着のすそがくいくいと引っ張られていた。
 ノクスが大きなくちばしで、彼の服を遠慮がちにつまんでいたのだ。

「きゅるる……」

「どうした?」
 困ったような声を出すグリフォンの視線の先を追って、ファルシードも顔を上げる。
 そして、それを見つけた途端、すぐに顔をしかめた。


「チッ、あの崖、まずいな……」

「どうしたんすか、ってあれ昨日の女の子じゃねぇか!」

 二人と一匹の視線の先には、崖のふちで足を震わせて立ちつくすリディアがいたのだ。


「ノクス、行くぞ」
 ファルシードはグリフォンの背に飛び乗り、その腹を股で挟んでいく。
 あるじの声にノクスは大きくうなずいて、疾風のごとく駆けだした。
 やがて、わしの翼を力強く動かして風をとらえ、木々の隙間から広い空へと飛び立つ。

「ちょ、キャプテーン!」
 慌てたように叫ぶバドの声は、すぐに小さくなり、やがて聞こえなくなったのだった。
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