たとえ愛がなくても、あなたのそばにいられるのなら

魚谷

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 ハイネは孤児院の子たちの将来を考えながら、帳簿をつけていた。

(私が教えられることで、何かいいことは……)

 考えることは、孤児院のこと。
 子どもたちの将来を支えられるようになるにはどんなことを教えられるだろうか。
 その時、フアナ様に刺繍を教えてもらった時のことを思い出された。
 教えてもらったのは、裁縫の基本や刺繍だけではなかった。

(そうだわ!)

 ハイネは執事を探す。
 彼はちょうど玄関で他の使用人に指示を出しているところだった。

「奥様、どうかされましたか?」
「公爵夫人の部屋を見たいのだけど、鍵をかしてもらえない?」
「かしこまりました」

 ハイネは執事と一緒に公爵夫人の部屋に入る。
 部屋はアーサーの命令であの当時のまま、しっかり保存されているらしい。
 この部屋には裁縫を教えてもらう時に何度も入らせてもらった。
 書き物机やちょっとした小物に至るまで、懐かしい気持ちが蘇ってくる。

「奥様、それで何をお探しなのですか?」
「レース生地よ」
「レース……?」
「そう。子どもの頃に夫人と一緒に避暑地に出かけた時に、湖で漁師さんが網をつかって漁をしていたのを見てね。網って手作業で折られてて、それが日射しを浴びて地面に編み目模様を作るのがとても綺麗だなって子供心に思ったの。それで、薄手の生地に細かな刺繍ができたら面白いんじゃないかって夫人に話したら、同意してくださって。ちょうど公爵領では養蚕も盛んだし、それを使って社交界に新しい流行を作れるんじゃないかって話して、試行錯誤していたの。レースっていう名前は夫人が考えて下さったの。公爵領の方言で、編み目を意味するんですって」
「初耳です」
「まだ試行錯誤の最中だったから」

 いくつか引き出しを開くと、そこに織りかけの生地を見つけた。

「これだわ」

 薄手の生地に、まるで絵筆で描いたと見紛うような精緻な精緻な薔薇模様が刺繍されている。その生地は日射しを透かすほどに薄い。

「それは手製で縫われているのですか」

 執事も驚きに目を瞠った。

「ええ」

 生地を見ていると、二人で夜遅くまで話ながら編んでいた時のことが思い出される。

(これを子どもたちと一緒に織ることができたら……)

 きっと貴婦人たちへの需要もあるはず。
 軌道に乗れば、孤児の子たちも豊かな生活を送れるかもしれない。

(フアナ様、あなたと一緒に考えたレースをお借りしますね)



 数日後、ハイネは久しぶりに孤児院の慰問に訪れていた。
 男の子たちにも楽しんでもらえるように、騎士をはじめとする勇士たちが主役の冒険譚の本を手土産に持っていくと、喜んでくれた。
 今日は読み聞かせだけでなく、女の子たちにレースの編み方を教えた。
 技術が必要だから、みんながみんなうまくできる訳ではないが、それでも飲み込みの早い子たちと一緒に作業をすると作業がかなり進んだ。

「まあ! とても綺麗ですね! これは何ですか?」

 シスターたちも興味を持ってくれたようで、彼女たちも参加してくれた。

「レースというものよ。日射しが透けるくらい薄手の生地にこうして複雑な模様を一針一針縫っていくの。普通の裁縫よりもずっと需要が見込めるんじゃないかと思って」

 夕方まであっという間に過ぎていく。

「ハイネ様、今日はご本まで頂戴してしまい、ありがとうございます」

 院長が頭を下げる。

「あれくらいのこと何でもありませんから」
「どうでしょう。もしよろしければ夕食をご一緒に。公爵家で出せるような豪勢な食事は難しいですが……」
「一緒に食べよう!」「お願い!」とハイネに帰って欲しくない子どもたちが、声をかけてくる。
「お邪魔でなければ、是非」

 ハイネが残ると知って、子どもたちがはしゃいでくれる。
 外で遊んでいた子どもたちも一人、また一人と孤児院に戻ってきていた。

「ショーンはまだなの?」

 ハイネが聞くと、「あいつ、勝手に森に入っていったんだ」と子どもの一人が言った。

「もう、一人で入ったら駄目と言っているのに」
 院長はすぐに他のシスターたちを集める。探しに行くらしい。
「私もお手伝いいたします」
「公爵夫人は残ってください。間もなく日が落ちますし、危ないですから」
「人手は一人でも多いほうがいいのではありませんか?」
「それは」
「私も心配ですから」
「……お言葉に甘えさせていただきます」

 急遽、ショーンを捜索するために、ハイネは若いシスターと一緒に森へ入っていく。
 カンテラの灯りが、薄暗い山道を照らす。
 シスターはちょっとした物音や、フクロウの声にビクついていた。
 と、森に入って二十分ほど経ったくらいだろうか。
 ハイネは立ち止まり、辺りを見回す。

「どうされましたか?」
「今、声が」
「特に何も聞こえませんが」

 ハイネは唇に人差し指をあてて静かにとジェスチャーを示すと、耳を澄ます。

「こっちです」

 ハイネがいきなり道を外れ、藪を掻き分けて進むと、シスターが「夫人!」と声を上げた。

「い、いけません。お洋服がっ」
「そんなことを心配している場合じゃありませんっ」
「――助けてぇ!」

 はっきりと声が聞こえた。
 シスターも同じだった。
 声のするほうに向かうと、二メートルほどの眼下の窪地に広がる沼へずっぽりと嵌まってしまっているショーンを見つけた。

「ショーン!」

 ハイネはカンテラの灯りを向けた。

「た、助け、てぇ!」

 ショーンは今や、首近くまで沼に沈んでいた。

「暴れては駄目。じっとしていて。暴れたら、ますます沈んでいくわよ!」

 ショーンにも声が届き、彼は大人しくなった。
 ハイネは辺りを見回すと、ちょうどいい太さの木の枝を拾い上げ、ショーンに向かって伸ばすが、とても届きそうにない。
 下まで降りないと難しそうだ。
 ハイネは辺りを見回し、どうにか下れそうな場所を見つける。
 どうにか窪地へ滑り降りると、カンテラを地面に起き、沼の縁ぎりぎりまで近づいた上で、両手で握った枝を精一杯、ショーンに向けて伸ばす。
 顎先まで沼へ沈んでいこうとしていたショーンが精一杯に腕を伸ばし、枝を掴む。

「いいわ!」

 ハイネは精一杯の力で枝を引っ張り、どうにかショーンを救うことに成功する。
 泥だらけの彼は心細かったのだろう。助かったという安堵も手伝い、半泣きで抱きついてきた。
 ハイネはその華奢な少年をしっかり抱き留める。

「もう平気だからね」

 ハイネは背中をさすりながら声をかける。

「夫人!」

 崖の上からシスターが呼びかけてくる。

「シスター、すぐに人を呼んできてくださいっ!」
「かしこまりました。そこから動かないで下さいね」
「はいっ」

 シスターは踵を返して消えていく。
 沼にずっと浸かって寒いせいか、ショーンは体を震えさせる。
 ハイネは少しでも寒さが緩むように体をさすった。
 その時、遠吠えが聞こえ、ハイネたちはびくりと震えた。
 今のは狼。それも遠吠えはかなり近い。
 同時に、ガサガサと崖上の藪が音をってた。
 ハイネはショーンにカンテラを持ってもらうと、左手で枝を掴み、ショーンを右腕で抱き寄せ、ゆっくりと立ち上がると、ゆっくりと後退していく。
 藪の中から顔を出したのは、炯々と輝く金色の目の狼。
 通常、狼は群れで行動するが、どうやらその狼は一匹だけたらしい。
 偵察役なのか、それともはぐれなのか。
 どちらにせよ、狼はかなりの大きさで、じっとハイネたちを見つめている。
 狼が音もなく崖を飛び降りてる。
 牙を剥き、飛びかかってきた。

「こないで!」

 ハイネが振り回した枝に食いつく。
 狼の力は強く枝に食いついて離そうとしないどころか、体が引きずられそうになった。

「やめろ、馬鹿狼!」

 ショーンは狼めがけカンテラを投げつけた。
 キャウゥン、と狼が悲鳴じみた声を上げた。

「逃げるわよっ!」

 ハイネは狼が怯んだ隙にショーンを抱きかかえ、山道を駆けていく。
 ヒールでは走りづらく、途中で脱ぎ捨てた。
 灯りを失った今、どこをどう進めばいいのか分からなかったが、それでも走り続けた。
 乱れた息遣いが夜の静寂を掻き回す。
 夢中で走り続けた。
 気付くと、狼の気配はいつの間にかなくなっていた。
 息が切れ、胸が苦しくなる。しかし足は止めなかった。一度足を止めたら動けなくなりそうだったからだ。
 それに森の中は、狼の縄張りだ。またいつ出くわすか分からない。
 ショーンは何が何でも守らないといけない。
 その時、古木を見つけた。
 そこには小さな洞があいていた。ハイネは入れないが、ショーンなら。

「ショーン。ここに入って」
「ハイネ様は?」
「私は人を呼んでくるわ。ここなら、あの狼も入ってはこられないわ。少しの間、待っていて」
「……は、はぃ」

 ハイネの必死に呼びかけに、ショーンは頷く。
 ショーンはどうにかこにか洞の中に滑り込んだ。
 ハイネは痛む足を引きずるようにして歩き出す。
 木々の間から辛うじて見える月で方角を割り出し、孤児院のある西へ向かう。
 その途中、再び遠吠えが聞こえた。
 同時に、枯れ葉を踏みしめる音。そして唸り声。
 しかし音ばかりで、狼はなかなか姿を見せなかった。

(まるで獲物である私を弄んで楽しんでいるようだわ……)

 ハイネは再び駆け出す。
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