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歌声(レオン視点)
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漆黒の馬が地面を抉り、力強く駆ける。
レオンは愛馬に跨がり、部下を指揮して敵の大軍に向かってためらうことなく突入した。
国王から命じられた、反乱部族の掃討戦だ。
彼らは東部国境から隣国の支援を受けながら、何度も執拗にかつて自分たちが支配していた土地を奪還しようと攻撃を仕掛けてきていた。
彼らに同情する点はあるものの、武人である以上は国王からの命令が絶対であり、私情を挟むことは許されない。
舞い上がった土埃で日射しが遮られるほどの激戦だ。
本来であれば、もっと兵が動員できるはずが、宮廷の醜い権力争いのせいで、動員できる兵はギリギリだった。
『王国を勝利に導く公爵閣下ならば、蛮族を蹴散らす程度、造作もないでしょう』
国王のお気に入りで、華々しい戦の功績を挙げる軍人貴族の筆頭であるレオンを妬んだ、文人貴族たちがせせら笑う。
いっそ戦場で死んでくれればいいとでも思っているのだろう。
彼らは様々な理由をつけては、動員できる兵や騎士団にかける予算を削ってきた。
戦など知らぬくせに自分たちが国を動かしていると本気で信じて疑わぬ、文人貴族ども。
国王は情けないことに彼らに反論できない。
意図的なものか、本気で文人貴族たちの言葉が正しいと思っているのかは分からないが。
軍人貴族たちの中には露骨な妨害工作に憤激し、戦には出られぬとボイコットをするべきと訴える声もあったが、即座に却下した。
それこそ文人貴族たちの思う壺。
彼らは、レオンたちの怠慢と不忠ぶりを責め、これ幸いとばかりにレオンの登場と共に自分たちを脅かし続ける軍人貴族の勢力を削ろうとしてくるだろう。
だから、危険を承知の上でも戦わなければならなかった。
しかし今度の相手は思った以上に数が多く、装備が充実していた。
それでも撤退の二文字は存在しない。
レオンは自ら陣頭に立ち、怯む味方を叱咤し、敵陣に斬り込んだ。
脂で斬れ味の鈍った剣を捨てては、戦場で新しいものを拾い上げ、時に敵の手から奪い、戦った。
レオンの苛烈な戦いぶりに敵が崩れる。
しかしその時、敵に討たれそうになっていた味方が目に入った。
馬をけしかけ、間に割り込んだ。
敵を斬り捨てたつもりだったが、脂のせいで僅かに切れ味が鈍った剣のせいで目算が狂った。
落馬するはずだった敵が、僅かに持ち堪えた。
ハンドアクスが顔に向かう。
ぎりぎり避けたつもりだったが、そうはならなかった。
頭が揺れるほどの震動と激しい痛みに、レオンは落馬した。
目が開かないことに混乱した。無理矢理開けようとしても開けない。
周囲の音がただただ遠くなっていく。
『――残念ながら、もう……』
意識を失い目覚めたレオンは軍医から聞かされた。
戦そのものは味方の勝利で終わったものの、最悪の結末だった。
戦の功績で公爵にまで昇り詰めたグレイウォール家の当主が深手を負い、光を失った。
『公爵閣下は療養するべきでしょう』
文人貴族と、レオンの体を慮った国王の判断により、執務から遠ざけられた。
それでも王国の武の象徴であるレオンを決して騎士団長から外さない、と国王は確かに約束したはずだった。
それが裏切られた。
人のいい国王は文人貴族の口車に乗せられ、レオンから騎士団長を奪った。
それはレオンにとってこれまで築き上げたもの全てを奪うような、あまりに残酷なことだった。
※
「っ!」
飛び起きたレオンは全身にじっとりと嫌な脂汗をかいていた。
レオンから光を奪い取ったハンドアクスがめりこむあの生々しい感触を、夢に見たのだ。
なんて最悪な寝覚めなのか。
胸も頭もざわめき続け、気分は最悪だった。
光を失ってから何度、死のうと思ったか分からなかった。
だが死ねなかった。
死ぬのが怖いのではない。
無様に死ぬことで、政敵たちが喜ばせたくなかった。
たとえ光を失い、最早、軍人として役立たずになったとはいえ、生き続ければ、文人貴族たちは完全に好き勝手にはできないはずだから。
しかしどれほど意地になり、歯を食いしばって生きようとしても、精神は摩耗しつづける。
二年前に両親を病で失ったレオンにとって、剣と、共に戦場を生き抜く部下たちだけが拠り所だった。
その二つを奪われてしまったのだから。
寝台から下りる。こういう時でさえ手探りで慎重にしなければならない。
馴れ親しんだ部屋の中とはいえ、無様に転ぶことも珍しくなかった。
身体能力に優れ、暴れ馬さえ簡単に御せたレオンが今では立ち上がることさえ、思うままにはできない。
「……くそ」
食いしばった歯列から、悪態がこぼれる。
どれほど厳しい修行をしていた時でさえ出なかった。
今日はいつも以上に苛立ちが強い。思い出したくもない最後の戦場のことを夢に見てしまったせいか、心がささくれ立つ。
壁を伝いながら部屋を出る。
何をする訳でもない。
ただ屋敷の中にいることが耐えきれなかった。今にも窒息してしまいそうだった。
庭に出て、空気を吸いたかった。
と、階段を下りていくと、何かが聞こえる。
(……歌?)
耳を澄まし、足音を殺して一階に下りる。
歌声は庭から聞こえた。
“太陽に向けて広げる翼
金色の階に乗り、蒼天に昇れ
日射しの温もりに癒やされ
自然の息吹に導かれて”
国王の警護として歌劇場に足を運んだことは何度もあった。
しかし美しい声だと思うことはあっても、心が震えたり、動かされることはなかった。
自分には芸術で涙する感性がないのだと、思った。
それでも、今こうして聞こえてくる歌声に耳を澄まし、聞き惚れていた。
胸が震え、これまで感じたことのない満ち足りたような気持ちにさせられる。
(なんだこの気持ちは……)
戸惑わずにはいられないような、これまで覚えたことのないものだった。
細かな理屈は分からないが、とにかくこの歌が好きだ。
癒やされるというのだろうか。
悪夢のせいでかいていた冷や汗も、頭がぐちゃぐちゃにされるような不快感も、全てが清らかな歌声に浄化されていく。
中途半端なところで歌声がやむと、レオンははっと我に返る。
「こ、公爵様……失礼いたしました……っ」
慌てる声。
「アスターシャ、なのか?」
「はい、申し訳ありません。私の歌のせいで起きてしまわれましたか……っ!」
声からは動揺と恐縮が伝わってくる。
「いや、お前の歌で起こされた訳じゃない。少し……夢見が悪かったんだ」
「そうでしたか」
「歌をうたうんだな」
「……お耳汚しを」
歌をうたっていた時と比べて、アスターシャ声には自信のなさが滲む。
謙遜という訳ではない。
本当に自分の歌は耳汚しと思っているらしいことが伝わってくる。
「耳汚しなどと言うな。お前の歌声は美しい。歌については全くの門外漢だが、聞き惚れた」
「あ、ありがとうございます……」
レオンの中で、婚約者アスターシャという少女は、赤毛でよく口が回るということくらいしかない。
正直、好きでも嫌いでもなく、どうでもいい存在だった。
政略結婚は貴族に生まれた人間の宿命で、それからは誰も逃れられない。
(こんな特技があったのか)
「歌が好きなのか?」
「はい。今日はとても気分が良くて。クロウタドリの声に釣られました」
「クロ……?」
「鳥の名前です」
「それが、ここにいるのか?」
「耳を澄まして下さい」
言われた通りにすると、確かに鳥の声が聞こえた。
「今聞こえてるのが、そのクロなんとか鳥の声か?」
「クロウタドリ、です。はい、そうです。素敵じゃありません?」
「お前は、歌と鳥が好きなのか?」
「はいっ」
少女が喜んでいるのが伝わってくると、知らぬ間にレオンの口元は緩んだ。
こんな風に、気持ちが凪ぐのはどれくらいぶりだろうか。
光を失ってから、レオンはずっと苛立ちと苦しみに苛まれ、人を遠ざけてきた。
こんなことがあと数十年、死ぬまで続くのかと絶望に陥り、苦しんだか分からない。
しかしアスターシャの歌声だけで、その苦悶を束の間、忘れられた。
その時、レオンのお腹が小さく鳴った。
「朝食を召し上がりになりますか?」
「まだデボラは来てないだろう」
「私も、簡単なものであれば作れます」
「君が?」
「はい。だが、令嬢だろう」
令嬢が料理ができるなんて聞いたこともない。
少なくともレオンが知る限り、貴族女性が夫のためとはいえ自ら料理を作ることなどありえない。
なぜなら、必要があれば使用人がいるし、そもそも貴婦人たちは何もせず、どっしりと構えていることに重きを置く。労働など喪っての他のはず。
「ですから、簡単なものであれば、です。いかがなさいますか? デボラが来るのを待つことも……」
(アスターシャのことを俺は本当に何も知らないんだな)
「もし何か作れるのなら頼めるか」
「はいっ」
また少女は嬉しそうに頷く。
レオンが食堂で待っていると、しばらくして「失礼します」と、アスターシャが入ってくる。
彼女の足音は軽い。ちゃんと食べているのかと思うくらいだ。
デボラのほうが存在感がある。
アスターシャは耳をそばだてていなければ、聞き逃してしまいそうになる。
卵と炒められた肉の脂の香ばしさが鼻をくすぐった。
「オムレツか」
「そうです。香りで分かりますか?」
「ああ。うまそうだな」
食欲を誘う香りに触発され、お腹が鳴った。
「では」
「……待て」
「はい?」
「お前は食べないのか?」
「台所で食べます」
眉を顰めてしまう。
台所で食べるなんてそれではまるきり、使用人ではないか。
「俺の妻なんだから一緒に食べればいい」
「…………」
らしくないことを言ったのだろうか。
目が見えないことで一番不安になることが、相手の顔が見えないことだ。
だから唐突に沈黙されると、不安になってしまう。
騎士団長時代のレオンを知っている者が見れば、その程度のことで不安になるなんてと驚くだろう。
「アスターシャ、そこにいるのか?」
「あ、はい。まさかそのようなことを言って頂けるとは思っていなかったので、ではご一緒させて頂きますねっ」
しばらく待っていると、カチャカチャという食器の擦れる音と共に、小走りの音が聞こえ、向かいの椅子が引かれる音がした。
いただきます、と手を合わせ、食事を取る。
卵はとろりとして半熟なのがナイフごしにも分かる。
ミンチにされた肉がたっぷり入っている。
肉を噛みしめると、香ばしい肉汁が口の中いっぱいに溢れた。
「うまい」
「ありがとうございます」
「……アスターシャ、すまない」
「どうされたんですか?」
「ここでの暮らしは公爵夫人と言うには不便すぎるだろう。使用人はデボラ一人で、それも通いだ」
「デボラはとてもいい人ですし、一緒に話していると、私も元気をもらえるようで好きです。ここでの暮らしはとても気に入っていますよ。自然は豊かで、空気も綺麗で。王都よりも私の性に合っていると思います」
ますます変わっている。
アスターシャは年頃のはず。買い物もしたいだろうし、公爵夫人という誰からも尊ばされるような称号をつけて社交の場にも出たいだろう。
だが、レオンとはまだ結婚式さえ挙げていない。
それなのに、アスターシャはここが良いと言う。
聞き分けのいい妻に思われたいと思っているのかと考えたが、声のトーンからして本気でそう言っているらしい。そのことに驚かされた。
「公爵様?」
はっと我に返る。考え事をしていたせいでナイフとフォークを持つ手が止まっていた。
「レオンでいい。公爵様などと、まるで使用人のようだからな」
「れ、レオン……様」
アスターシャは少し言いにくそうに呟く。
そんなに照れられると、レオンのほうも気恥ずかしさを覚えてしまう。
「冷めないうちに食べるぞ」
食事を終えて席を立とうとすると、「少しお待ち下さい」と押しとどめられた。
「何だ?」
「デザートです」
しばらくして香ばしい香りが鼻をくすぐる。ほんのりとした甘みの中に、酸味が混じったこれは……。
「アップルパイ?」
「はい。デボラさんから作り方を教えて頂いて。試しに作ってみたんです。デボラさんのようにうまくはいきませんでしたが、もしよろしければ」
「もらおう」
アスターシャがパイを切り分ける時の、生地のサクサクとした音を聞いているだけで、口の中に唾液が滲む。
(我ながらはしたないな)
「お口に合えばいいのですが」
フォークでアップルパイを切り分け、口に運ぶ。
「どうですか」
アスターシャの声は緊張していた。
パイ生地のサクサクさと、柔らかなリンゴの甘酸っぱさが口の中に広がる。
「うまい」
「良かった……」
「今日だけでなく、明日から食事を一緒にとろう」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ。それから、もし気分が向いたらでいいのだが、これからも歌を聞かせてくれないか?」
こんな頼みをしたのは、人生で初めてだった。
ついさっきまで歌に興味も関心もなかったはずなのに、今もまだはっきりと、彼女の歌声が耳から離れない。
「私の歌でよろしければ喜んでっ」
弾む声。今、彼女は笑っているのだろう。
彼女の笑顔が見たい、と強く思った。すでに叶わぬこととは知りながらも。
「お前の歌がいいんだ」
レオンは愛馬に跨がり、部下を指揮して敵の大軍に向かってためらうことなく突入した。
国王から命じられた、反乱部族の掃討戦だ。
彼らは東部国境から隣国の支援を受けながら、何度も執拗にかつて自分たちが支配していた土地を奪還しようと攻撃を仕掛けてきていた。
彼らに同情する点はあるものの、武人である以上は国王からの命令が絶対であり、私情を挟むことは許されない。
舞い上がった土埃で日射しが遮られるほどの激戦だ。
本来であれば、もっと兵が動員できるはずが、宮廷の醜い権力争いのせいで、動員できる兵はギリギリだった。
『王国を勝利に導く公爵閣下ならば、蛮族を蹴散らす程度、造作もないでしょう』
国王のお気に入りで、華々しい戦の功績を挙げる軍人貴族の筆頭であるレオンを妬んだ、文人貴族たちがせせら笑う。
いっそ戦場で死んでくれればいいとでも思っているのだろう。
彼らは様々な理由をつけては、動員できる兵や騎士団にかける予算を削ってきた。
戦など知らぬくせに自分たちが国を動かしていると本気で信じて疑わぬ、文人貴族ども。
国王は情けないことに彼らに反論できない。
意図的なものか、本気で文人貴族たちの言葉が正しいと思っているのかは分からないが。
軍人貴族たちの中には露骨な妨害工作に憤激し、戦には出られぬとボイコットをするべきと訴える声もあったが、即座に却下した。
それこそ文人貴族たちの思う壺。
彼らは、レオンたちの怠慢と不忠ぶりを責め、これ幸いとばかりにレオンの登場と共に自分たちを脅かし続ける軍人貴族の勢力を削ろうとしてくるだろう。
だから、危険を承知の上でも戦わなければならなかった。
しかし今度の相手は思った以上に数が多く、装備が充実していた。
それでも撤退の二文字は存在しない。
レオンは自ら陣頭に立ち、怯む味方を叱咤し、敵陣に斬り込んだ。
脂で斬れ味の鈍った剣を捨てては、戦場で新しいものを拾い上げ、時に敵の手から奪い、戦った。
レオンの苛烈な戦いぶりに敵が崩れる。
しかしその時、敵に討たれそうになっていた味方が目に入った。
馬をけしかけ、間に割り込んだ。
敵を斬り捨てたつもりだったが、脂のせいで僅かに切れ味が鈍った剣のせいで目算が狂った。
落馬するはずだった敵が、僅かに持ち堪えた。
ハンドアクスが顔に向かう。
ぎりぎり避けたつもりだったが、そうはならなかった。
頭が揺れるほどの震動と激しい痛みに、レオンは落馬した。
目が開かないことに混乱した。無理矢理開けようとしても開けない。
周囲の音がただただ遠くなっていく。
『――残念ながら、もう……』
意識を失い目覚めたレオンは軍医から聞かされた。
戦そのものは味方の勝利で終わったものの、最悪の結末だった。
戦の功績で公爵にまで昇り詰めたグレイウォール家の当主が深手を負い、光を失った。
『公爵閣下は療養するべきでしょう』
文人貴族と、レオンの体を慮った国王の判断により、執務から遠ざけられた。
それでも王国の武の象徴であるレオンを決して騎士団長から外さない、と国王は確かに約束したはずだった。
それが裏切られた。
人のいい国王は文人貴族の口車に乗せられ、レオンから騎士団長を奪った。
それはレオンにとってこれまで築き上げたもの全てを奪うような、あまりに残酷なことだった。
※
「っ!」
飛び起きたレオンは全身にじっとりと嫌な脂汗をかいていた。
レオンから光を奪い取ったハンドアクスがめりこむあの生々しい感触を、夢に見たのだ。
なんて最悪な寝覚めなのか。
胸も頭もざわめき続け、気分は最悪だった。
光を失ってから何度、死のうと思ったか分からなかった。
だが死ねなかった。
死ぬのが怖いのではない。
無様に死ぬことで、政敵たちが喜ばせたくなかった。
たとえ光を失い、最早、軍人として役立たずになったとはいえ、生き続ければ、文人貴族たちは完全に好き勝手にはできないはずだから。
しかしどれほど意地になり、歯を食いしばって生きようとしても、精神は摩耗しつづける。
二年前に両親を病で失ったレオンにとって、剣と、共に戦場を生き抜く部下たちだけが拠り所だった。
その二つを奪われてしまったのだから。
寝台から下りる。こういう時でさえ手探りで慎重にしなければならない。
馴れ親しんだ部屋の中とはいえ、無様に転ぶことも珍しくなかった。
身体能力に優れ、暴れ馬さえ簡単に御せたレオンが今では立ち上がることさえ、思うままにはできない。
「……くそ」
食いしばった歯列から、悪態がこぼれる。
どれほど厳しい修行をしていた時でさえ出なかった。
今日はいつも以上に苛立ちが強い。思い出したくもない最後の戦場のことを夢に見てしまったせいか、心がささくれ立つ。
壁を伝いながら部屋を出る。
何をする訳でもない。
ただ屋敷の中にいることが耐えきれなかった。今にも窒息してしまいそうだった。
庭に出て、空気を吸いたかった。
と、階段を下りていくと、何かが聞こえる。
(……歌?)
耳を澄まし、足音を殺して一階に下りる。
歌声は庭から聞こえた。
“太陽に向けて広げる翼
金色の階に乗り、蒼天に昇れ
日射しの温もりに癒やされ
自然の息吹に導かれて”
国王の警護として歌劇場に足を運んだことは何度もあった。
しかし美しい声だと思うことはあっても、心が震えたり、動かされることはなかった。
自分には芸術で涙する感性がないのだと、思った。
それでも、今こうして聞こえてくる歌声に耳を澄まし、聞き惚れていた。
胸が震え、これまで感じたことのない満ち足りたような気持ちにさせられる。
(なんだこの気持ちは……)
戸惑わずにはいられないような、これまで覚えたことのないものだった。
細かな理屈は分からないが、とにかくこの歌が好きだ。
癒やされるというのだろうか。
悪夢のせいでかいていた冷や汗も、頭がぐちゃぐちゃにされるような不快感も、全てが清らかな歌声に浄化されていく。
中途半端なところで歌声がやむと、レオンははっと我に返る。
「こ、公爵様……失礼いたしました……っ」
慌てる声。
「アスターシャ、なのか?」
「はい、申し訳ありません。私の歌のせいで起きてしまわれましたか……っ!」
声からは動揺と恐縮が伝わってくる。
「いや、お前の歌で起こされた訳じゃない。少し……夢見が悪かったんだ」
「そうでしたか」
「歌をうたうんだな」
「……お耳汚しを」
歌をうたっていた時と比べて、アスターシャ声には自信のなさが滲む。
謙遜という訳ではない。
本当に自分の歌は耳汚しと思っているらしいことが伝わってくる。
「耳汚しなどと言うな。お前の歌声は美しい。歌については全くの門外漢だが、聞き惚れた」
「あ、ありがとうございます……」
レオンの中で、婚約者アスターシャという少女は、赤毛でよく口が回るということくらいしかない。
正直、好きでも嫌いでもなく、どうでもいい存在だった。
政略結婚は貴族に生まれた人間の宿命で、それからは誰も逃れられない。
(こんな特技があったのか)
「歌が好きなのか?」
「はい。今日はとても気分が良くて。クロウタドリの声に釣られました」
「クロ……?」
「鳥の名前です」
「それが、ここにいるのか?」
「耳を澄まして下さい」
言われた通りにすると、確かに鳥の声が聞こえた。
「今聞こえてるのが、そのクロなんとか鳥の声か?」
「クロウタドリ、です。はい、そうです。素敵じゃありません?」
「お前は、歌と鳥が好きなのか?」
「はいっ」
少女が喜んでいるのが伝わってくると、知らぬ間にレオンの口元は緩んだ。
こんな風に、気持ちが凪ぐのはどれくらいぶりだろうか。
光を失ってから、レオンはずっと苛立ちと苦しみに苛まれ、人を遠ざけてきた。
こんなことがあと数十年、死ぬまで続くのかと絶望に陥り、苦しんだか分からない。
しかしアスターシャの歌声だけで、その苦悶を束の間、忘れられた。
その時、レオンのお腹が小さく鳴った。
「朝食を召し上がりになりますか?」
「まだデボラは来てないだろう」
「私も、簡単なものであれば作れます」
「君が?」
「はい。だが、令嬢だろう」
令嬢が料理ができるなんて聞いたこともない。
少なくともレオンが知る限り、貴族女性が夫のためとはいえ自ら料理を作ることなどありえない。
なぜなら、必要があれば使用人がいるし、そもそも貴婦人たちは何もせず、どっしりと構えていることに重きを置く。労働など喪っての他のはず。
「ですから、簡単なものであれば、です。いかがなさいますか? デボラが来るのを待つことも……」
(アスターシャのことを俺は本当に何も知らないんだな)
「もし何か作れるのなら頼めるか」
「はいっ」
また少女は嬉しそうに頷く。
レオンが食堂で待っていると、しばらくして「失礼します」と、アスターシャが入ってくる。
彼女の足音は軽い。ちゃんと食べているのかと思うくらいだ。
デボラのほうが存在感がある。
アスターシャは耳をそばだてていなければ、聞き逃してしまいそうになる。
卵と炒められた肉の脂の香ばしさが鼻をくすぐった。
「オムレツか」
「そうです。香りで分かりますか?」
「ああ。うまそうだな」
食欲を誘う香りに触発され、お腹が鳴った。
「では」
「……待て」
「はい?」
「お前は食べないのか?」
「台所で食べます」
眉を顰めてしまう。
台所で食べるなんてそれではまるきり、使用人ではないか。
「俺の妻なんだから一緒に食べればいい」
「…………」
らしくないことを言ったのだろうか。
目が見えないことで一番不安になることが、相手の顔が見えないことだ。
だから唐突に沈黙されると、不安になってしまう。
騎士団長時代のレオンを知っている者が見れば、その程度のことで不安になるなんてと驚くだろう。
「アスターシャ、そこにいるのか?」
「あ、はい。まさかそのようなことを言って頂けるとは思っていなかったので、ではご一緒させて頂きますねっ」
しばらく待っていると、カチャカチャという食器の擦れる音と共に、小走りの音が聞こえ、向かいの椅子が引かれる音がした。
いただきます、と手を合わせ、食事を取る。
卵はとろりとして半熟なのがナイフごしにも分かる。
ミンチにされた肉がたっぷり入っている。
肉を噛みしめると、香ばしい肉汁が口の中いっぱいに溢れた。
「うまい」
「ありがとうございます」
「……アスターシャ、すまない」
「どうされたんですか?」
「ここでの暮らしは公爵夫人と言うには不便すぎるだろう。使用人はデボラ一人で、それも通いだ」
「デボラはとてもいい人ですし、一緒に話していると、私も元気をもらえるようで好きです。ここでの暮らしはとても気に入っていますよ。自然は豊かで、空気も綺麗で。王都よりも私の性に合っていると思います」
ますます変わっている。
アスターシャは年頃のはず。買い物もしたいだろうし、公爵夫人という誰からも尊ばされるような称号をつけて社交の場にも出たいだろう。
だが、レオンとはまだ結婚式さえ挙げていない。
それなのに、アスターシャはここが良いと言う。
聞き分けのいい妻に思われたいと思っているのかと考えたが、声のトーンからして本気でそう言っているらしい。そのことに驚かされた。
「公爵様?」
はっと我に返る。考え事をしていたせいでナイフとフォークを持つ手が止まっていた。
「レオンでいい。公爵様などと、まるで使用人のようだからな」
「れ、レオン……様」
アスターシャは少し言いにくそうに呟く。
そんなに照れられると、レオンのほうも気恥ずかしさを覚えてしまう。
「冷めないうちに食べるぞ」
食事を終えて席を立とうとすると、「少しお待ち下さい」と押しとどめられた。
「何だ?」
「デザートです」
しばらくして香ばしい香りが鼻をくすぐる。ほんのりとした甘みの中に、酸味が混じったこれは……。
「アップルパイ?」
「はい。デボラさんから作り方を教えて頂いて。試しに作ってみたんです。デボラさんのようにうまくはいきませんでしたが、もしよろしければ」
「もらおう」
アスターシャがパイを切り分ける時の、生地のサクサクとした音を聞いているだけで、口の中に唾液が滲む。
(我ながらはしたないな)
「お口に合えばいいのですが」
フォークでアップルパイを切り分け、口に運ぶ。
「どうですか」
アスターシャの声は緊張していた。
パイ生地のサクサクさと、柔らかなリンゴの甘酸っぱさが口の中に広がる。
「うまい」
「良かった……」
「今日だけでなく、明日から食事を一緒にとろう」
「よろしいのですか?」
「もちろんだ。それから、もし気分が向いたらでいいのだが、これからも歌を聞かせてくれないか?」
こんな頼みをしたのは、人生で初めてだった。
ついさっきまで歌に興味も関心もなかったはずなのに、今もまだはっきりと、彼女の歌声が耳から離れない。
「私の歌でよろしければ喜んでっ」
弾む声。今、彼女は笑っているのだろう。
彼女の笑顔が見たい、と強く思った。すでに叶わぬこととは知りながらも。
「お前の歌がいいんだ」
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