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 あ……。
 ミニ公園のブランコがゆらゆら揺れている。
 雷人君……またあそこに座ってるよ。
 俯きながら、地面を駆けずり回っている蟻を目で追っているみたいだ。

「雷人君……」

 その佇まいを見て、心配になる。思わず声をかけてしまった。
 雷人君が顔を上げると、赤みを帯びた頬の内出血が日の光で痛々しく見えた。余計に心配になる。

「またお前か……」
「雷人君、誰かに殴られたの?」
「……どうでもいいだろ」
「良くないよ。あれ、腕もケガしてるんじゃない?」

 手首に、切り傷があるのが見えた。すぐに指摘する。
 血は乾いているみたいだけど、まだ水に染みそうだ。僕はリュックから、絆創膏を取り出した。

「ちょっと腕貸して」
「何だよ、気持ち悪いな。これくらい平気だって」
「ばい菌が入ったら大変だよ。一応絆創膏貼っておこ?」
「……ったく、お人好しだな」

 渋々よこしてきた右腕に、絆創膏を貼る。
 本当は消毒液を持ってきたいところだけど、もう血は固まっているみたいだしそこまではしなくていいだろう。
 今から家に取りに行ったら、間違いなく雷人君は逃げるはずだし。
 いつも、ケガをした夕星にしているみたいに、丁寧に貼った。

「お前、お母さんみたいだな」
「……え?」
「いや、なんつーか、世話好きなところとか……すげえお母さんみたいだわ」

 お母さんみたいって……それは僕からしたら褒め言葉だ。
 雷人君は皮肉で言ったのかもしれないけど、僕は心から嬉しかった。
 表情をコントロールできない僕は、雷人君の前でにやけてしまった。

「お前、何で嬉しそうなんだ?」

 素朴な疑問をぶつけられる。
 また気持ち悪いとか何とか言われると思うけど、正直に想いを口にした。

「僕、ずっとお母さんのような存在になりたかったんだ」
「母親に?」
「うん……お母さんが五年前に死んだんだ。それ以来、僕が弟の母親代わりになって色々してあげていて」
「そうだったのか……」
「元々お母さんに憧れていたから、料理も掃除も全然苦じゃないんだ。お父さんも仕事に専念できるし、僕がやらないとね」

 雷人君は目線を落として、黙って聞いてくれた。
 相槌も打たなくなったので、引かれてしまったのだと気づく。

「ごめんごめん! お母さんになりたいだなんて、笑っちゃうよね!」

 笑って誤魔化すことにした。雷人君を困らせるようなこと、言わなければ良かった。
 興味のない話をしてしまったことを謝ると、雷人君は予想外の反応を見せてくれた。

「いや……立派だよ」

 それは、一瞬で耳心地が良いと感じるほど、低くて落ち着いた声だった。
 まさか「立派だよ」と褒めてくれるなんて、考えもつかなかった。
 やっぱり雷人君は、ただの不良じゃない。
 この人は、真っ当に生きてほしい……優しくて、ちゃんと人の気持ちが考えられる、強い人間だ。

「雷人君、ご飯は毎日食べれてる?」
「……は?」
「い、いやさ、今日、とんかつと豚汁を作ろうと思ってるんだ! 弟が大好きで……ちょうどお父さんも大型出張に行って帰ってこないし、良かったら……」

 最後まで言い切ろうとした途中で、雷人君は立ち上がった。
 カバンを持っている手を肩にのせて、フフッと鼻で笑う。

「遠慮しとくわ。俺、油もの控えてるから」
「……そ、そうだよね! ごめん!」

 自分でも顔が赤くなっているのがわかる。顔から火が出てきそうだ。
 やっぱり断られたか……油ものを控えているなら仕方ない。
 雷人君、サッカー少年だったもんな。きっとまだ、体づくりの意識が頭にあるのだろう。

「でも、豚汁は好きだわ」

 去り際に、微笑みながら雷人君が言った。
 僕は反射的に「豚汁だけでもどう?」と聞く。雷人君はこれから帰ろうと動かした足をすぐに止めて、「いらねぇよ」と返答した。

「はは、だよねー」

 苦笑いしてこぼした僕の言葉が宙に浮く。
 雷人君の大きな背中が離れていった。マンションの中に吸い込まれていく雷人君を目で追う。

 すっかり姿が見えなくなった後に、「もう、喧嘩なんかやめなよ」と独り言ちた。
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