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甘味一つ
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『つっかれたぁ…。』
仕事帰り、しかも残業、夜の十一時。疲れて疲れてもう何もしたくない…。
『お腹空いたなぁ…。』
何か食べたいけど…ガッツリ食べたいわけじゃない…コンビニに寄ってもいいけど…今あの蛍光灯の眩しい光は中々体に堪えるものがある…。けど、この時間にカフェなんてやってないし…穏やかな休息を体は欲している…。
するとふと目に入った淡いオレンジ系の光。それに甘い香り…。
『いい香り…こっち…?』
匂いと光に誘われるままに足を進める。
歩いて少しすると一瞬、強く風が吹いた。と同時に甘い香りがふわっと私を包み込んだ。甘過ぎない優しい香り。そして目の前にあったのは木でできた小さめのお店。
『甘味屋…雲の間…?カフェ…?』
こんな時間に開いてるカフェなんて聞いたことないし、雲の間なんてお店の名前も聞いたことない。けど、疲れた頭と体は甘いものを欲して私の手は無意識にお店のドアを開いた。
シャランッ…
細やかな飾りが高過ぎない綺麗な音を鳴らす。お店の中を見ればガラスケースの向こうにいるのは白いエプロンを身にまとった少し長い、柔らかそうな黒髪が良く似合う背の高い人だった。ガラスケースを掃除しているらしく、手ぬぐいを片手にガラスケースを覗き込んでいたその人は私を見つけた。
『おや…ようこそ、甘味屋…雲の間へ。』
目を細めて笑うその顔は酷く綺麗で私は思わず見入ってしまった。お店に入ったものの何も言わずに扉の前で立ち尽くす私にその人はキョトンとした顔をした。
『どうかしましたか?あぁ、お仕事帰りですね、お疲れ様です。お座敷よりソファの方が楽でしょう?こちらへどうぞ。』
そしてすぐに私をカフェエリアへ案内してくれた。優しく手を引かれる。初対面、知らないお店、警戒をしなくちゃいけないはずなのに、全くする気が起きない。…きっと疲れてるからだ。
一人用のソファと小さな四角いテーブルの席に案内されて
ぽすんっ
とソファへ座る。思ってたよりソファはふかふかでこのまま眠れそうだった。そんな私にあの店員さんは優しく声をかけてくれる。
『随分お疲れなご様子ですね…この時間にカフェインはあまりよくありませんから…あぁ、そうだ、カモミールティーにしましょう。…飲めますか?』
首を傾げるこの人。緩く結ばれた柔らかな黒髪がさらりと揺れる。目を、奪われる。
『…あっはいっ!多分大丈夫ですっ!』
少し声が上擦ってしまった気がする…。店員さんは薄く微笑んだ。
『それはよかった。こちらメニューになります。お仕事帰りでお腹がお空きでしょう?軽食もありますので、どうぞお好きなものを。僕はお茶を入れて参りますので、お決まり次第こちらのベルを鳴らしてください。』
丁寧な仕草でテーブルに乗っている小さなベルを示す。軽く礼をしてから後ろを向いて歩く姿。仕草の全てが綺麗で目に残る…っとメニュー決めなきゃ…。軽食…甘味屋って書いてあったし甘い物食べたいなぁ…わっ…。
『…美味しそう…。』
メニュー表には品物一つ一つに写真がついていて全部とても美味しそうだった。今がこんな夜じゃなかったら全部頼みそうなレベルだ。
目移りに目移りを重ねながらぺらりぺらりとページをめくる。種類も結構沢山ある…。
『どれにしようかな……あ、…。』
一つ、目にとまった。それは凄く綺麗なゼリーだった。写真でもわかる透明感。色の鮮やかさ。つい、
ごくっ…
と喉がなってしまった。
(これにしよう。)
そう思ってベルを押そうとすると
『お決まりでしたか?』
木でできた丸いお盆に透明なガラスのティーポットと透明なカップを乗せた店員さんが帰ってきた。綺麗な仕草でティーポットとカップをテーブルに乗せていく。ティーポットには白い花びらが沢山見えた。
『こちらがカモミールティーになります。カモミールは別名母性のハーブ、と呼ばれていまして、体温を上げたり、リラックス効果があったりするんですよ。寝る前に飲むのがいいと言われていますね。もしお気に召したら仰ってください。この店では茶葉の販売もしておりますので。』
とぽぽぽっ
と暖かいお茶がカップに注がれていく。熱でカップが曇っていく。注がれてゆれる中に入ってる花がとても綺麗だと思った。注ぎ終わって、カップが目の前に置かれた。
『どうぞ。』
『あ、ありがとうございます…。』
とりあえず一口飲んでみようと両手でカップを持とうとした。すると店員さんが声を発した。
『あ、ハーブティーや紅茶などは熱湯で入れなければならないのでとても熱くなってます…カップを持つ時、飲む時には十分お気をつけて。』
『わ、わかりました。』
注意を受けてからそっとカップと取っ手を包むように持ち上げる。少し熱いけど火傷する程じゃない。
ふー…ふー…
ゆっくり冷まして慎重に口に運ぶ。
『…美味しい…。』
『それはよかった。』
ぽそっと零れた私の声に店員さんは律儀に反応する。その顔は安心してるように見えた。カモミールはハーブだから少しスーッとした感じがするのかと思ってた、けど、そんなことは無かった。爽やかさはあるけどハーブティーの淡い苦さもあって、どことなくりんごのような風味がして、凄く飲みやすかった。それに凄くホッとする香りだ。寝る前に飲むには確かにいいかもしれない。ぼんやりカップを眺めながらそう思っていると店員さんが声をかけてきた。
『ご注文はお決まりでしたか?』
『あっ!あ、はい!えっと…コレを!一つお願いします!』
コトンッとカップをコースターの上に置いてメニューを指さす。店員さんはふわりと笑った。
『かしこまりました。…メニューはお下げしても?』
『あ、はい!大丈夫です!』
また軽く礼をして後ろを向こうとするあの人に声をかけた。
『あ、あの!店員さん?のお名前ってなんて言うんでしょうか?!』
自分でも何を言ってんだ、とは思った。けど、どうしようもなく、知りたい、と思ってしまったのだ。店員さんはきょとんとしてから目を細めて笑った。
『…薊と申します。一応ここ、甘味屋雲の間の店主をしております。』
アザミさん…アザミ…は確か花の名前だったような…名前まで綺麗…って
『店主さんだったんですか!?すいません!てっきりただの店員さんかと…!』
私は店主さん相手に失礼だったと思い慌てるがアザミさんはくすくすと笑っていた。
『いえいえ構いませんよ。男が甘味屋なんて珍しいでしょう?よく言われます。この店は僕一人でやっているんですよ。』
『一人で…?他の人は雇わないんですか…?…ってすいません!急に!』
『大丈夫ですよ、そんなに暗い理由でもありませんから…一度は店員を募集したこともあったんですけどねぇ…女性の方ばかり集まってしまって…まぁ、カフェ店員は女性の方がやりやすいとは思うんですけど…あまり…その…何故か仕事をしてくれなくて…店員募集で雇ったはずだったんですけどねぇ…。』
苦笑いしながらそういうアザミさん。アザミさんの顔は整ってるじゃ足りないくらい整ってるし、物腰も柔らかそうだし…声も綺麗…仕草も綺麗…まぁ…理由は察せる…。
『…原因がわからなくもない…。あ、じゃあ男性店員さんを募集したらどうですか?』
私の提案にアザミはゆるゆると首を振る。
『もちろん試しましたよ…結果は…同じだったけど…。それに、あまり女性店員が多かったりすると男性がお店に入りずらかったりしますからね、逆も然りです。なので…まぁ少し大変ですが…遠目だと性別がわからないと言われた僕一人でやってます…。男なんだけどな…。』
少ししょぼんとしながら言うアザミさんは少し幼くて可愛く見えた。確かにアザミさんの見た目なら遠目からは男には見えないしな…。けど背が結構高いから男にも見える…。一番このお店の適任者だな…店主さんだし…。
そんな事をボーッと考えてるとアザミさんが
パンッ
と手を叩いた。
『さて、すいません。長くお話してしまって…お疲れなところありがとうございました。ただいま甘味をお持ちしますね。』
少し申し訳なさげにするアザミさん。
『いえいえ!こちらが先に引き止めてしまったので!ゆっくりで!大丈夫ですよ!』
アザミさんは一度ニコッと笑ってから少し早足でお店の奥に行ってしまった。
待ってる間携帯を見ようと思ったけど今日散々会社で見た液晶画面が少し嫌になって、お店に「ご自由にお手に取ってお読み下さい」と書いて置いてある棚から1冊の小説を手に取った。本を読むのは嫌いじゃない。むしろ昔は本の虫でひたすら本を読んでる時期があったくらいだ。けど最近…というか大人になるにつれて忙しくなってあまり読む暇がなかった。
(…落ち着く……。)
淡いオレンジ系の照明に、暖かいカモミールティーの香りと熱。余計な音楽も何もかかってない自然な空間。暗いわけじゃない、本を読んで落ち着くには凄くいい明るさだ。読みながら所々でお茶を口に運ぶ。爽やかで暖かいお茶は心底ホッとする。飲んでからまた本に視線を戻す。こんな穏やかな時間は今までなかった。
(こういう時間…好きだな…。)
ページをめくる音だけが、誰もいない空間に響く。すると少し足音が聞こえた。うるさくはない、心地いいリズムで静かに私の傍へと近づいてくる。
『お待たせ致しました。こちら、「四季の面影」、寒天ゼリーです。ごゆっくりお召し上がりください。』
穏やかな声でアザミさんが告げる。このお店の空間を決して壊すことがない音色のような声。高過ぎず低過ぎない心地いい声。そう告げたアザミさんは扉の前のガラスケースの奥へ行ってしまった。少し残念な気もするけど流石に一緒に食べる訳にはいかないから…。…一緒に食べる…?…あーんとかしちゃったりして…?……っ!何言ってんの!?そんなの有り得ないでしょ!?アザミさんは店主さんだよ!?……落ち着け自分…。疲れてるな…うん。食べよ…。
四角い四つのゼリーが和風なお皿の上で並んでつやつやと輝いている。あまり使い慣れない木のスプーンを手に取る。まずは一番右端の桜色のゼリーを…。スッとスプーンを入れると思ってた以上に抵抗なく、柔らかく入っていって少しびっくりした。一口分をスプーンに乗せて目の前に持ってくる。透き通った桜色。中には白い花びらの柄が入っている。まさに春。
『頂きます…。』
小さな声で、久しぶりに告げた食べ始めの挨拶。ゼリーを口に含むと淡い甘さが口に広がっていった。桜色の想像通りの春らしい華やかな香りが鼻を抜ける。白い花びらの部分ではまた食感が変わり少し固め。周りの桜色の部分はぷるりとしていて口の中ではとろけていった。後を引かない穏やかな甘さ。けれど飽きない口当たり。春のゼリーは一瞬でなくなってしまった。順番に食べていこう。
次は夏らしい青いゼリー。青は食欲減退色って聞いたことあるけど…減退なんて一切しない。むしろ食べたくてしょうがない。全部が青ではなく、砂浜のように斜めに白い部分があって、青い部分には黒い魚が数匹泳いでいた。青はもちろん透き通っていて宝石みたいだ。青い海の部分も白い砂浜部分も黒い魚の部分も食べれるようにスプーンですくった。少し大きくなってしまった。けど一口でそれを食べる。
『んっ!』
青い部分は甘いと思ったらすっぱくてびっくりした…。レモン味だ…爽やかですっきりする。白い部分は少しもちもちしててほんのり甘い…おもちみたいな感じがした。黒い部分はゴマかな~とか思ってたらさくらんぼだった。見た目と違ってすごくびっくりしたけど果物の甘さは心地よくてすごく美味しかった。夏らしい爽やかなレモン味と夏を感じさせるさくらんぼの瑞々しい甘さ。それが合わさってて夏のゼリーもすぐにたべおわってしまった。
次は秋。オレンジ色の中に赤や黄色の紅葉とイチョウが入ってて凄く綺麗。オレンジはグラデーションになってて夕焼けみたいになってる。葉っぱの部分と周りの夕焼けの部分をすくう。
『綺麗…。』
すくってみてもわかるグラデーションの綺麗さ。秋の夕暮れそのもの…。どうやったらこんな風に作れるんだろ…。パクッと一口で頂く。
『んー…!』
夕焼け部分は見た目通りのオレンジの味だったけど色が濃くなるにつれて味が少しずつ変わっていく。明るいオレンジは酸味が強めの爽やかなオレンジ。濃い、赤色が強くなってるオレンジは甘みが強くて、少しトロッとした食感。二つが口の中で合わさって丁度いい甘酸っぱさを出している。赤い紅葉と黄色のイチョウはりんご味。紅葉はもちもちとしたゼリーの食感で、イチョウはシャキシャキとしたりんごのそのものの食感だった。今までずっと柔らかな食感が続いてた中にあるシャキシャキの果物の食感は新鮮で一層美味しく、甘く感じた。
もう最後になっちゃった…。最後は冬のゼリー。いままでとは違って透き通ってはいないけど冬らしい白いゼリーだ。白の中に青や、水色の雪の結晶の柄が入ってる。すくってみると今までで一番もちもちとした感触だった。口に入れると…もちもち…というよりはむちむちとした食感だった。不思議な食感…。けど美味しい。慣れないけど癖になるような感覚だ。白い部分の味はミルクだった。ゼリーにしては濃厚な口に少し残るような味。青や水色の雪の結晶は桃味でミルクの濃厚な味に果物の甘みでアクセントを加えている。ミルク味だけならくどくなりそうだけど桃の甘さ、果物らしい瑞々しさと爽やかさが上手く和らげていて、いくらでも食べられそうだ。
気づいた時にはもうお皿の上は綺麗さっぱりなくなっていて。私は美味しさの余韻に浸っていた。
『はぁ…。』
お腹がいっぱいになったわけじゃないけど、幸福感?満足感?凄く満たされた感じがして、幸せだった。
ソファに溶けるように沈み込んでると足音が聞こえた。
『ご満足頂けましたか?』
ゆるりと微笑むその顔は凄く穏やかだった。
『…はい、とっても。綺麗だし、美味しいし、疲れも吹き飛んじゃいました。』
心の底から微笑むとアザミさんは嬉しそうに笑って手を合わせた。
『それはよかった!今時の方たちは皆忙しそうにしていて、酷く疲れた顔をして歩いていますからね。そういう方たちに安らぎの場所と時間を差し上げるのがこの甘味屋の仕事です。先程より顔色もよくなっていますね。嬉しいです。』
アザミさんはそういって私の目尻を親指で優しく撫でた。近い距離、優しく触れる指、穏やかで優しい声と表情。顔を赤くするなという方が無理だ。
『あ、あの、アザミ、さん、その、距離が、と手を、その…。』
真っ白になった頭で途切れ途切れに言葉を発する。するとアザミさんはハッとして
『あっ!すいません!つい無意識で!その、下心とかではなくてですね!その!僕の甘味を美味しそうに食べていたのが嬉しくて!えっと、すいません!』
わたわたと手を体の前で振って顔をほんのり赤くさせた。それが少し可愛くて笑ってしまった。
『気にしないで下さい!少し恥ずかしかっただけなので…!えっと…あ、お金!支払いします!おいくらですか?』
『すいませんでした…。あ、三五十円です。お茶はサービスですのでお代は頂いておりません。』
『えっ、あんなに美味しいお茶サービスで出してるんですか!?お金取ってもいいと思いますけど…。あ、四百円でお願いします。』
『そう言って頂けるのは有難いのですが、此処は甘味屋で食事処でもありますので、お茶でお代を頂くのは申し訳ないですから…。頂戴致しますね、では五十円のおつりのお返しです。』
『カフェとはまた違う感覚ですかね…。あ、ありがとうございます。』
あんなに美味しいお茶にも関わらずお金を貰うのは申し訳ないとは…真面目というか…なんというか…カフェには失礼だけどそこらへんのカフェで飲むよりも断然美味しかった。こんな時間までやってるし…もっと人がはいりそうなのにな…。ん…?こんな時間…?もしかして…。
『あ、あの、一つお伺いしたいのですが…。』
『?はい、なんでしょう?』
『こんな遅い時間まで普段から開いてるんですか?もしかして、もう閉まってて私のためにまだ開いてるとかは…。』
冷や汗を流しながら恐る恐るきく。アザミさんはキョトンとしてから優しく微笑んで、
『…おや、バレましたか。えぇ、普段は七時頃に閉めるようにしております。丁度明日の仕込みをしている時に貴女様がいらっしゃいまして。お疲れの様子でしたのでお店に通させて頂きました。』
と何でもなさげに告げた。やってしまった。
『本当すいませんでした!電気がついていたので開いてるのかと!申し訳ないです!』
いい人すぎる!申し訳ない!全力で頭を下げた。するとアザミさんは
『あらあら、そんな頭を下げないで下さい。僕が好きで料理をお出ししたんですから気になさらず。それに、先程申し上げたように疲れた方に安らぎの時間を差し上げるのが僕の仕事ですので、仕事を全うしただけですよ。あんなに美味しそうに食べてくれる方は中々いらっしゃいませんから、むしろ僕の方が元気を貰ったくらいで。』
と下げた私の顔を覗き込むようにしゃがんで言った。優しすぎて泣きそうだ。
『ありがとうございます…本当に美味しかったです…ご馳走様でした。』
頭をあげて改めて感想とお礼を言う。アザミさんは目を細めて微笑んで
『いえいえ、こちらこそ、お粗末様でした。』
と言った。
アザミさんは紳士的に扉を開けてくれた。
『またお疲れの際は是非、いつでもお待ちしております。』
優しげな笑みを浮かべ私を見送るアザミさん。
『絶対!疲れてなくてもまた来ます!』
軽い会釈をして手を振りながらお店から離れていく。アザミさんも小さく手を振り返してくれた。それが嬉しくて思わずにやけてしまった。
完全にお店に背を向けて歩き出す。
『あ、どの辺にあったか覚えておかないと。』
ふらふらとたどり着いたせいで場所がハッキリわからなかった。周りにあるお店とか覚えておこうと思ってお店を振り返る。
『あ、れ…?』
私の後ろはいつもの帰り道の途中だった。そう、いつもの…。
『えっ?は?』
確かに帰り道から道を逸れてあのお店に辿り着いたはずで…いつもの帰り道を歩いてるはずがないのに…。もう一度前を向く。いつも見る景色だ…。なんならもう少しで自分の住んでるマンションが見えてくる。
『なんで…。』
あんなお店は私の帰り道にはない。けど今私が歩いてるのはいつもの帰り道だ。…あのお店はどこに…?毎日通ってるんだから新しいお店が出来たら絶対にわかる。何よりあんな綺麗な人があんな綺麗で美味しいものを出すお店をやってるなら話題にならないはずがない。
訳が分からないままいつもの道を歩いて家に帰っていった。家に着いてネットで
《 甘味屋 雲の間 》
で調べてみても何も出てこなかった。古風なお店だったしネットでホームページとか宣伝とかしてないのかも、とも思ったが、誰も呟いてもいないし、ご飯系のブログを書いてる人もあのお店について書いてる人は誰一人としていない。
『なぁんでぇ~。』
調べ方変えてみようかな…。冗談半分で検索をかけてみる。
《 甘味屋 雲の間 幻 都市伝説 》
『なんてね…。あ…あった…。うそ…。』
都市伝説巡り、なんてなんとも怪しいブログを書いてる人でタイトルの中に
《 疲れた人を癒す店 甘味屋 雲の間 》
というのをみつけてしまった。違うお店かもしれない、とも思ったが一応内容を確認してみた。
《 性別不詳な完璧美人な店主さんが美味しい軽食や甘味を提供してくれる。
お店が現れる時間はバラバラで、疲れた人が近くを通ると甘い匂いと穏やかな光でその人を店まで案内する。
出される料理は味はもちろん、見た目もいい。
お店自体の雰囲気もよく、自由に読めるように棚に多くの本が置いてある。
その人、訪れた時間に合わせてお茶を出してくれる。それはサービスでありお金は取らない。
店主さんの微笑みは油断してるとすぐに恋に落とそうとしてくる。
店主さんの声は穏やかで案内された席がソファや足の伸ばせる座敷だと眠くなる。》
読んでく内に確信していく。
『…ぜっっっったい此処だ…!マジかぁ…だから帰り際「またお疲れの際は是非」って言ってたのかぁ…。疲れてないと行けないのか…そっか…仕事頑張ろ…でまた疲れたら…会いに行こ…。いつお店開くかな~…。』
───二千××年九月十日───────
午後六時頃××市交差点にて飲酒運転の車に20代の男性が轢かれる事故が発生。詳細は次文にて…。
飲酒運転をしていた六十代男性が信号を無視して××市交差点へ入った際、轢かれそうになった児童二名を助けに入った二十代男性、天宮薊さんが轢かれる事故が発生。児童二名は二名とも擦り傷などのいずれも軽傷。容疑者である六十代男性は事故による衝撃により頭を強く打つも病院に運ばれ意識を取り戻し警察に。轢かれた二十代男性の天宮さんは事故直後病院に搬送されるも複数箇所の骨折、重度の脳挫傷により病院で死亡が確認されました。天宮さんは翌日自身の店が開ける、夢が叶う、と嬉しそうに話していた、と天宮さんの遺族が述べています。
────×××新聞社───
仕事帰り、しかも残業、夜の十一時。疲れて疲れてもう何もしたくない…。
『お腹空いたなぁ…。』
何か食べたいけど…ガッツリ食べたいわけじゃない…コンビニに寄ってもいいけど…今あの蛍光灯の眩しい光は中々体に堪えるものがある…。けど、この時間にカフェなんてやってないし…穏やかな休息を体は欲している…。
するとふと目に入った淡いオレンジ系の光。それに甘い香り…。
『いい香り…こっち…?』
匂いと光に誘われるままに足を進める。
歩いて少しすると一瞬、強く風が吹いた。と同時に甘い香りがふわっと私を包み込んだ。甘過ぎない優しい香り。そして目の前にあったのは木でできた小さめのお店。
『甘味屋…雲の間…?カフェ…?』
こんな時間に開いてるカフェなんて聞いたことないし、雲の間なんてお店の名前も聞いたことない。けど、疲れた頭と体は甘いものを欲して私の手は無意識にお店のドアを開いた。
シャランッ…
細やかな飾りが高過ぎない綺麗な音を鳴らす。お店の中を見ればガラスケースの向こうにいるのは白いエプロンを身にまとった少し長い、柔らかそうな黒髪が良く似合う背の高い人だった。ガラスケースを掃除しているらしく、手ぬぐいを片手にガラスケースを覗き込んでいたその人は私を見つけた。
『おや…ようこそ、甘味屋…雲の間へ。』
目を細めて笑うその顔は酷く綺麗で私は思わず見入ってしまった。お店に入ったものの何も言わずに扉の前で立ち尽くす私にその人はキョトンとした顔をした。
『どうかしましたか?あぁ、お仕事帰りですね、お疲れ様です。お座敷よりソファの方が楽でしょう?こちらへどうぞ。』
そしてすぐに私をカフェエリアへ案内してくれた。優しく手を引かれる。初対面、知らないお店、警戒をしなくちゃいけないはずなのに、全くする気が起きない。…きっと疲れてるからだ。
一人用のソファと小さな四角いテーブルの席に案内されて
ぽすんっ
とソファへ座る。思ってたよりソファはふかふかでこのまま眠れそうだった。そんな私にあの店員さんは優しく声をかけてくれる。
『随分お疲れなご様子ですね…この時間にカフェインはあまりよくありませんから…あぁ、そうだ、カモミールティーにしましょう。…飲めますか?』
首を傾げるこの人。緩く結ばれた柔らかな黒髪がさらりと揺れる。目を、奪われる。
『…あっはいっ!多分大丈夫ですっ!』
少し声が上擦ってしまった気がする…。店員さんは薄く微笑んだ。
『それはよかった。こちらメニューになります。お仕事帰りでお腹がお空きでしょう?軽食もありますので、どうぞお好きなものを。僕はお茶を入れて参りますので、お決まり次第こちらのベルを鳴らしてください。』
丁寧な仕草でテーブルに乗っている小さなベルを示す。軽く礼をしてから後ろを向いて歩く姿。仕草の全てが綺麗で目に残る…っとメニュー決めなきゃ…。軽食…甘味屋って書いてあったし甘い物食べたいなぁ…わっ…。
『…美味しそう…。』
メニュー表には品物一つ一つに写真がついていて全部とても美味しそうだった。今がこんな夜じゃなかったら全部頼みそうなレベルだ。
目移りに目移りを重ねながらぺらりぺらりとページをめくる。種類も結構沢山ある…。
『どれにしようかな……あ、…。』
一つ、目にとまった。それは凄く綺麗なゼリーだった。写真でもわかる透明感。色の鮮やかさ。つい、
ごくっ…
と喉がなってしまった。
(これにしよう。)
そう思ってベルを押そうとすると
『お決まりでしたか?』
木でできた丸いお盆に透明なガラスのティーポットと透明なカップを乗せた店員さんが帰ってきた。綺麗な仕草でティーポットとカップをテーブルに乗せていく。ティーポットには白い花びらが沢山見えた。
『こちらがカモミールティーになります。カモミールは別名母性のハーブ、と呼ばれていまして、体温を上げたり、リラックス効果があったりするんですよ。寝る前に飲むのがいいと言われていますね。もしお気に召したら仰ってください。この店では茶葉の販売もしておりますので。』
とぽぽぽっ
と暖かいお茶がカップに注がれていく。熱でカップが曇っていく。注がれてゆれる中に入ってる花がとても綺麗だと思った。注ぎ終わって、カップが目の前に置かれた。
『どうぞ。』
『あ、ありがとうございます…。』
とりあえず一口飲んでみようと両手でカップを持とうとした。すると店員さんが声を発した。
『あ、ハーブティーや紅茶などは熱湯で入れなければならないのでとても熱くなってます…カップを持つ時、飲む時には十分お気をつけて。』
『わ、わかりました。』
注意を受けてからそっとカップと取っ手を包むように持ち上げる。少し熱いけど火傷する程じゃない。
ふー…ふー…
ゆっくり冷まして慎重に口に運ぶ。
『…美味しい…。』
『それはよかった。』
ぽそっと零れた私の声に店員さんは律儀に反応する。その顔は安心してるように見えた。カモミールはハーブだから少しスーッとした感じがするのかと思ってた、けど、そんなことは無かった。爽やかさはあるけどハーブティーの淡い苦さもあって、どことなくりんごのような風味がして、凄く飲みやすかった。それに凄くホッとする香りだ。寝る前に飲むには確かにいいかもしれない。ぼんやりカップを眺めながらそう思っていると店員さんが声をかけてきた。
『ご注文はお決まりでしたか?』
『あっ!あ、はい!えっと…コレを!一つお願いします!』
コトンッとカップをコースターの上に置いてメニューを指さす。店員さんはふわりと笑った。
『かしこまりました。…メニューはお下げしても?』
『あ、はい!大丈夫です!』
また軽く礼をして後ろを向こうとするあの人に声をかけた。
『あ、あの!店員さん?のお名前ってなんて言うんでしょうか?!』
自分でも何を言ってんだ、とは思った。けど、どうしようもなく、知りたい、と思ってしまったのだ。店員さんはきょとんとしてから目を細めて笑った。
『…薊と申します。一応ここ、甘味屋雲の間の店主をしております。』
アザミさん…アザミ…は確か花の名前だったような…名前まで綺麗…って
『店主さんだったんですか!?すいません!てっきりただの店員さんかと…!』
私は店主さん相手に失礼だったと思い慌てるがアザミさんはくすくすと笑っていた。
『いえいえ構いませんよ。男が甘味屋なんて珍しいでしょう?よく言われます。この店は僕一人でやっているんですよ。』
『一人で…?他の人は雇わないんですか…?…ってすいません!急に!』
『大丈夫ですよ、そんなに暗い理由でもありませんから…一度は店員を募集したこともあったんですけどねぇ…女性の方ばかり集まってしまって…まぁ、カフェ店員は女性の方がやりやすいとは思うんですけど…あまり…その…何故か仕事をしてくれなくて…店員募集で雇ったはずだったんですけどねぇ…。』
苦笑いしながらそういうアザミさん。アザミさんの顔は整ってるじゃ足りないくらい整ってるし、物腰も柔らかそうだし…声も綺麗…仕草も綺麗…まぁ…理由は察せる…。
『…原因がわからなくもない…。あ、じゃあ男性店員さんを募集したらどうですか?』
私の提案にアザミはゆるゆると首を振る。
『もちろん試しましたよ…結果は…同じだったけど…。それに、あまり女性店員が多かったりすると男性がお店に入りずらかったりしますからね、逆も然りです。なので…まぁ少し大変ですが…遠目だと性別がわからないと言われた僕一人でやってます…。男なんだけどな…。』
少ししょぼんとしながら言うアザミさんは少し幼くて可愛く見えた。確かにアザミさんの見た目なら遠目からは男には見えないしな…。けど背が結構高いから男にも見える…。一番このお店の適任者だな…店主さんだし…。
そんな事をボーッと考えてるとアザミさんが
パンッ
と手を叩いた。
『さて、すいません。長くお話してしまって…お疲れなところありがとうございました。ただいま甘味をお持ちしますね。』
少し申し訳なさげにするアザミさん。
『いえいえ!こちらが先に引き止めてしまったので!ゆっくりで!大丈夫ですよ!』
アザミさんは一度ニコッと笑ってから少し早足でお店の奥に行ってしまった。
待ってる間携帯を見ようと思ったけど今日散々会社で見た液晶画面が少し嫌になって、お店に「ご自由にお手に取ってお読み下さい」と書いて置いてある棚から1冊の小説を手に取った。本を読むのは嫌いじゃない。むしろ昔は本の虫でひたすら本を読んでる時期があったくらいだ。けど最近…というか大人になるにつれて忙しくなってあまり読む暇がなかった。
(…落ち着く……。)
淡いオレンジ系の照明に、暖かいカモミールティーの香りと熱。余計な音楽も何もかかってない自然な空間。暗いわけじゃない、本を読んで落ち着くには凄くいい明るさだ。読みながら所々でお茶を口に運ぶ。爽やかで暖かいお茶は心底ホッとする。飲んでからまた本に視線を戻す。こんな穏やかな時間は今までなかった。
(こういう時間…好きだな…。)
ページをめくる音だけが、誰もいない空間に響く。すると少し足音が聞こえた。うるさくはない、心地いいリズムで静かに私の傍へと近づいてくる。
『お待たせ致しました。こちら、「四季の面影」、寒天ゼリーです。ごゆっくりお召し上がりください。』
穏やかな声でアザミさんが告げる。このお店の空間を決して壊すことがない音色のような声。高過ぎず低過ぎない心地いい声。そう告げたアザミさんは扉の前のガラスケースの奥へ行ってしまった。少し残念な気もするけど流石に一緒に食べる訳にはいかないから…。…一緒に食べる…?…あーんとかしちゃったりして…?……っ!何言ってんの!?そんなの有り得ないでしょ!?アザミさんは店主さんだよ!?……落ち着け自分…。疲れてるな…うん。食べよ…。
四角い四つのゼリーが和風なお皿の上で並んでつやつやと輝いている。あまり使い慣れない木のスプーンを手に取る。まずは一番右端の桜色のゼリーを…。スッとスプーンを入れると思ってた以上に抵抗なく、柔らかく入っていって少しびっくりした。一口分をスプーンに乗せて目の前に持ってくる。透き通った桜色。中には白い花びらの柄が入っている。まさに春。
『頂きます…。』
小さな声で、久しぶりに告げた食べ始めの挨拶。ゼリーを口に含むと淡い甘さが口に広がっていった。桜色の想像通りの春らしい華やかな香りが鼻を抜ける。白い花びらの部分ではまた食感が変わり少し固め。周りの桜色の部分はぷるりとしていて口の中ではとろけていった。後を引かない穏やかな甘さ。けれど飽きない口当たり。春のゼリーは一瞬でなくなってしまった。順番に食べていこう。
次は夏らしい青いゼリー。青は食欲減退色って聞いたことあるけど…減退なんて一切しない。むしろ食べたくてしょうがない。全部が青ではなく、砂浜のように斜めに白い部分があって、青い部分には黒い魚が数匹泳いでいた。青はもちろん透き通っていて宝石みたいだ。青い海の部分も白い砂浜部分も黒い魚の部分も食べれるようにスプーンですくった。少し大きくなってしまった。けど一口でそれを食べる。
『んっ!』
青い部分は甘いと思ったらすっぱくてびっくりした…。レモン味だ…爽やかですっきりする。白い部分は少しもちもちしててほんのり甘い…おもちみたいな感じがした。黒い部分はゴマかな~とか思ってたらさくらんぼだった。見た目と違ってすごくびっくりしたけど果物の甘さは心地よくてすごく美味しかった。夏らしい爽やかなレモン味と夏を感じさせるさくらんぼの瑞々しい甘さ。それが合わさってて夏のゼリーもすぐにたべおわってしまった。
次は秋。オレンジ色の中に赤や黄色の紅葉とイチョウが入ってて凄く綺麗。オレンジはグラデーションになってて夕焼けみたいになってる。葉っぱの部分と周りの夕焼けの部分をすくう。
『綺麗…。』
すくってみてもわかるグラデーションの綺麗さ。秋の夕暮れそのもの…。どうやったらこんな風に作れるんだろ…。パクッと一口で頂く。
『んー…!』
夕焼け部分は見た目通りのオレンジの味だったけど色が濃くなるにつれて味が少しずつ変わっていく。明るいオレンジは酸味が強めの爽やかなオレンジ。濃い、赤色が強くなってるオレンジは甘みが強くて、少しトロッとした食感。二つが口の中で合わさって丁度いい甘酸っぱさを出している。赤い紅葉と黄色のイチョウはりんご味。紅葉はもちもちとしたゼリーの食感で、イチョウはシャキシャキとしたりんごのそのものの食感だった。今までずっと柔らかな食感が続いてた中にあるシャキシャキの果物の食感は新鮮で一層美味しく、甘く感じた。
もう最後になっちゃった…。最後は冬のゼリー。いままでとは違って透き通ってはいないけど冬らしい白いゼリーだ。白の中に青や、水色の雪の結晶の柄が入ってる。すくってみると今までで一番もちもちとした感触だった。口に入れると…もちもち…というよりはむちむちとした食感だった。不思議な食感…。けど美味しい。慣れないけど癖になるような感覚だ。白い部分の味はミルクだった。ゼリーにしては濃厚な口に少し残るような味。青や水色の雪の結晶は桃味でミルクの濃厚な味に果物の甘みでアクセントを加えている。ミルク味だけならくどくなりそうだけど桃の甘さ、果物らしい瑞々しさと爽やかさが上手く和らげていて、いくらでも食べられそうだ。
気づいた時にはもうお皿の上は綺麗さっぱりなくなっていて。私は美味しさの余韻に浸っていた。
『はぁ…。』
お腹がいっぱいになったわけじゃないけど、幸福感?満足感?凄く満たされた感じがして、幸せだった。
ソファに溶けるように沈み込んでると足音が聞こえた。
『ご満足頂けましたか?』
ゆるりと微笑むその顔は凄く穏やかだった。
『…はい、とっても。綺麗だし、美味しいし、疲れも吹き飛んじゃいました。』
心の底から微笑むとアザミさんは嬉しそうに笑って手を合わせた。
『それはよかった!今時の方たちは皆忙しそうにしていて、酷く疲れた顔をして歩いていますからね。そういう方たちに安らぎの場所と時間を差し上げるのがこの甘味屋の仕事です。先程より顔色もよくなっていますね。嬉しいです。』
アザミさんはそういって私の目尻を親指で優しく撫でた。近い距離、優しく触れる指、穏やかで優しい声と表情。顔を赤くするなという方が無理だ。
『あ、あの、アザミ、さん、その、距離が、と手を、その…。』
真っ白になった頭で途切れ途切れに言葉を発する。するとアザミさんはハッとして
『あっ!すいません!つい無意識で!その、下心とかではなくてですね!その!僕の甘味を美味しそうに食べていたのが嬉しくて!えっと、すいません!』
わたわたと手を体の前で振って顔をほんのり赤くさせた。それが少し可愛くて笑ってしまった。
『気にしないで下さい!少し恥ずかしかっただけなので…!えっと…あ、お金!支払いします!おいくらですか?』
『すいませんでした…。あ、三五十円です。お茶はサービスですのでお代は頂いておりません。』
『えっ、あんなに美味しいお茶サービスで出してるんですか!?お金取ってもいいと思いますけど…。あ、四百円でお願いします。』
『そう言って頂けるのは有難いのですが、此処は甘味屋で食事処でもありますので、お茶でお代を頂くのは申し訳ないですから…。頂戴致しますね、では五十円のおつりのお返しです。』
『カフェとはまた違う感覚ですかね…。あ、ありがとうございます。』
あんなに美味しいお茶にも関わらずお金を貰うのは申し訳ないとは…真面目というか…なんというか…カフェには失礼だけどそこらへんのカフェで飲むよりも断然美味しかった。こんな時間までやってるし…もっと人がはいりそうなのにな…。ん…?こんな時間…?もしかして…。
『あ、あの、一つお伺いしたいのですが…。』
『?はい、なんでしょう?』
『こんな遅い時間まで普段から開いてるんですか?もしかして、もう閉まってて私のためにまだ開いてるとかは…。』
冷や汗を流しながら恐る恐るきく。アザミさんはキョトンとしてから優しく微笑んで、
『…おや、バレましたか。えぇ、普段は七時頃に閉めるようにしております。丁度明日の仕込みをしている時に貴女様がいらっしゃいまして。お疲れの様子でしたのでお店に通させて頂きました。』
と何でもなさげに告げた。やってしまった。
『本当すいませんでした!電気がついていたので開いてるのかと!申し訳ないです!』
いい人すぎる!申し訳ない!全力で頭を下げた。するとアザミさんは
『あらあら、そんな頭を下げないで下さい。僕が好きで料理をお出ししたんですから気になさらず。それに、先程申し上げたように疲れた方に安らぎの時間を差し上げるのが僕の仕事ですので、仕事を全うしただけですよ。あんなに美味しそうに食べてくれる方は中々いらっしゃいませんから、むしろ僕の方が元気を貰ったくらいで。』
と下げた私の顔を覗き込むようにしゃがんで言った。優しすぎて泣きそうだ。
『ありがとうございます…本当に美味しかったです…ご馳走様でした。』
頭をあげて改めて感想とお礼を言う。アザミさんは目を細めて微笑んで
『いえいえ、こちらこそ、お粗末様でした。』
と言った。
アザミさんは紳士的に扉を開けてくれた。
『またお疲れの際は是非、いつでもお待ちしております。』
優しげな笑みを浮かべ私を見送るアザミさん。
『絶対!疲れてなくてもまた来ます!』
軽い会釈をして手を振りながらお店から離れていく。アザミさんも小さく手を振り返してくれた。それが嬉しくて思わずにやけてしまった。
完全にお店に背を向けて歩き出す。
『あ、どの辺にあったか覚えておかないと。』
ふらふらとたどり着いたせいで場所がハッキリわからなかった。周りにあるお店とか覚えておこうと思ってお店を振り返る。
『あ、れ…?』
私の後ろはいつもの帰り道の途中だった。そう、いつもの…。
『えっ?は?』
確かに帰り道から道を逸れてあのお店に辿り着いたはずで…いつもの帰り道を歩いてるはずがないのに…。もう一度前を向く。いつも見る景色だ…。なんならもう少しで自分の住んでるマンションが見えてくる。
『なんで…。』
あんなお店は私の帰り道にはない。けど今私が歩いてるのはいつもの帰り道だ。…あのお店はどこに…?毎日通ってるんだから新しいお店が出来たら絶対にわかる。何よりあんな綺麗な人があんな綺麗で美味しいものを出すお店をやってるなら話題にならないはずがない。
訳が分からないままいつもの道を歩いて家に帰っていった。家に着いてネットで
《 甘味屋 雲の間 》
で調べてみても何も出てこなかった。古風なお店だったしネットでホームページとか宣伝とかしてないのかも、とも思ったが、誰も呟いてもいないし、ご飯系のブログを書いてる人もあのお店について書いてる人は誰一人としていない。
『なぁんでぇ~。』
調べ方変えてみようかな…。冗談半分で検索をかけてみる。
《 甘味屋 雲の間 幻 都市伝説 》
『なんてね…。あ…あった…。うそ…。』
都市伝説巡り、なんてなんとも怪しいブログを書いてる人でタイトルの中に
《 疲れた人を癒す店 甘味屋 雲の間 》
というのをみつけてしまった。違うお店かもしれない、とも思ったが一応内容を確認してみた。
《 性別不詳な完璧美人な店主さんが美味しい軽食や甘味を提供してくれる。
お店が現れる時間はバラバラで、疲れた人が近くを通ると甘い匂いと穏やかな光でその人を店まで案内する。
出される料理は味はもちろん、見た目もいい。
お店自体の雰囲気もよく、自由に読めるように棚に多くの本が置いてある。
その人、訪れた時間に合わせてお茶を出してくれる。それはサービスでありお金は取らない。
店主さんの微笑みは油断してるとすぐに恋に落とそうとしてくる。
店主さんの声は穏やかで案内された席がソファや足の伸ばせる座敷だと眠くなる。》
読んでく内に確信していく。
『…ぜっっっったい此処だ…!マジかぁ…だから帰り際「またお疲れの際は是非」って言ってたのかぁ…。疲れてないと行けないのか…そっか…仕事頑張ろ…でまた疲れたら…会いに行こ…。いつお店開くかな~…。』
───二千××年九月十日───────
午後六時頃××市交差点にて飲酒運転の車に20代の男性が轢かれる事故が発生。詳細は次文にて…。
飲酒運転をしていた六十代男性が信号を無視して××市交差点へ入った際、轢かれそうになった児童二名を助けに入った二十代男性、天宮薊さんが轢かれる事故が発生。児童二名は二名とも擦り傷などのいずれも軽傷。容疑者である六十代男性は事故による衝撃により頭を強く打つも病院に運ばれ意識を取り戻し警察に。轢かれた二十代男性の天宮さんは事故直後病院に搬送されるも複数箇所の骨折、重度の脳挫傷により病院で死亡が確認されました。天宮さんは翌日自身の店が開ける、夢が叶う、と嬉しそうに話していた、と天宮さんの遺族が述べています。
────×××新聞社───
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