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第1章 古本屋を出たら異世界でした

第4話 激増した所持金

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 古本を購入して、私に笑顔を見せながらひらりと手を振って、チャーリーは去って行った。
 呆気に取られたままの表情をして、私はチャーリーに振り返した手を降ろすこともせずにベンさんの方へと向き直る。

「……言ってることの半分も理解できませんでした」
「まぁ、それは仕方がないさ。いくらか聞き取りが出来ているだけでも十分だよ」

 ベンさんはそう言って肩をすくめると、そのままカウンターに両肘をついた。組んだ手に顎を乗せて、私をまっすぐ見据える。

「さて、ミノリちゃん。私としても早く君を地球に帰してあげたいんだが、生憎うちに寝泊まりできるほどのスペースは無いし、この店で雇ってあげられる余裕もない。
 この店も見ての通り広くないし、ずっとここに留まってもらうわけにもいかない。
 だから君は自分で宿を確保して、自分でこの世界での歩き方を見つけなくちゃならない。
 私が案内出来れば良かったんだが、この店を空けるわけにもいかないからねぇ。まずは、君のガイド兼通訳・・・・・・を見つけるのが先だ」
「ガイド兼通訳……なんだかパック旅行めいた感じになってきましたね」

 顔から笑みを消して真剣に語り掛けるベンさんに、小さく俯きながら言葉を零す私だ。
 確かにいつまでもベンさんに頼りきりでいるわけにはいかない。専門にガイドしてくれて、日本語も分かって多少話せる人が傍についてくれた方が安心だ。
 宿泊場所については、あとで「みるぶ」を確認して、駄目そうならベンさんに頼ろう。そうしよう。
 「パック旅行」と零した私に、ベンさんはそっと頷いた。

「そう、これはすなわち旅行・・だ。気楽に、気ままに、ドルテを楽しんでいくといい。
 ガイドについては私の方で人の手配を依頼しておくから、それまではこの店の本で時間を潰すなり、近くを散歩するなりしているといいよ」
「あー……それでしたら」

 ベンさんの申し出に、私は椅子から立ち上がってベンさんの手元、カウンターの上に置かれた私の「みるぶ」異世界版を取り上げた。

「この『みるぶ』をもっとじっくり読みたいです。それで、落ち着いて本が読めて、お茶が飲める、カフェみたいなお店があると嬉しいんですが」
「あぁなるほど。それだったらこの店を出て左に行って、最初の通りを右に曲がったところに喫茶店があるよ。
 値段も手ごろだし、雰囲気も落ち着いている。いいんじゃないかな」
「なるほど……あっ」

 早速ベンさんから喫茶店の案内を受けたところで、私は重要なことに気が付いた。
 鞄の中に放り込んだ財布を取り出す。中には千円札が6枚、500円玉が1枚、100円玉が3枚、その他小銭が少々。後はクレジットカードやポイントカードが数枚。
 ご覧のとおりである。私の手元には日本円しかない・・・・・・・

「……ドルテって、いや、この国って、日本円使えます?」
「使えないねぇ、日本円を取り扱える両替屋はあるけれど」

 財布を開いたままでベンさんにすがるような視線を向けたが、儚い希望はあっけなく打ち砕かれた。
 いや、両替屋があるならそこに行けばいい話ではあるのだろうが、言葉も地理もほぼ分からない状態で両替屋に行くのも、それはそれで不安がある。
 意気消沈した私だが、その私にベンさんが朗らかに声をかけた。

「とりあえず、両替ならここでやればいいよ。あんまり高額になるとつらいから、その時は両替屋を使ってもらえばいいかな」
「……いいんですか?」

 顔を上げた私にベンさんはゆっくり頷いた。
 驚きに目を見開く私を見ながら、ベンさんが右手の人差し指をピッと立てる。

「ここなら確実に日本円とドルテアルギンが両方とも揃っているからね。補助貨幣のクプルも勿論あるよ」
「へー、相場はどのくらいなんですか?」
「100円玉が1アルギン軽銀貨相当、10円玉が100クプル銅貨相当、5円玉が10クプル真鍮貨相当ってところだねぇ。
 ただし材質で見ているから、500円玉……あ、新500円玉の方ね、そっちになると1枚で10アルギン銀貨3枚になる。
 紙幣は残念ながら紙切れ同然だから、使う時は500円玉に両替してから両替するといいよ」

 ベンさんの話を聞きながら手元の「みるぶ」の8ページに書かれた、通貨単位と各貨幣の価値の解説文に目を通す。
 一般的な売買でやり取りされるのは1アルギン軽銀貨が中心で、高額な買い物には10アルギン銀貨。ちょっとした買い物は殆どクプルで賄えるらしい。1アルギン=1,000円の感覚で捉えていればいいそうだ。
 そうなるとこの国では500円玉一枚が30,000円相当に化けるわけだ。なんという錬金術。
 私が今手元に持っている6枚の千円札を全て新500円玉に両替したとしたら、それだけで36万円相当。大金持ちである。財布を落とした時が怖い。
 しかし逆に言えば、財布を落とす、盗まれるなどしなければ、旅行中の資金に困ることはなさそうだ。
 「みるぶ」によると一回の食事で1アルギンかければ、そこそこいいものを食べられるらしい。ガイドさんの食事をこちら持ちにするとしても、一食100円と考えれば気も楽だ。

「一先ず、200円……いや、250円分両替お願いできますか」
「はいはい、2アルギンと500クプルね」

 100円玉2枚と50円玉を取り出して差し出す。私の手から250円を取ったベンさんはコインケースに小銭をしまうと、別のコインケースを取り出した。
 日本円のものとは、大きさも種類も数も違うコインケースから、銀白色をした小さめの硬貨2枚と、赤銅色の硬貨5枚を取り出し、そっと私の手に乗せる。
 軽銀貨の方はメッキが施されているのか、端がところどころ削れて地金の鈍色が見えた。

「とりあえず、今日はそれだけあれば何とかなるだろう。宿の宿泊代についてはまた後で両替しよう」
「ありがとうございます」
「じゃあ、私はこの後手配に出かけてくるから。適当なタイミングで戻っておいで」

 頭を下げた私に、ベンさんは丸眼鏡の奥の瞳を優しく細めた。



 ここまでが、私がドルテにやってきてすぐの一部始終。
 財布の中にドルテの硬貨を収めて、ベンさんに教えられた喫茶店にやって来た私は、何とかかんとかお茶を注文して、こうしてテラス席に座って緑色の空の下、「みるぶ」を読んでいるわけだ。
 お茶を注文する時にも紆余曲折があったはあったけれど。まぁ、今その話はいいだろう。
 エプロンをした同い年くらいの短耳族スクルトの女性が、ティーポットを片手に私のいるテーブルにやってくる。

「Ce zici de reincarcarea ceaiului?」
「あー……」

 私は、テーブルの上に置かれたティーカップに目を向けた。既にお茶は飲み干されて、カップは空っぽだ。
 すぐさま、今まさに開いていた「みるぶ」の75ページを見る。確か喫茶店で役立つやり取り、という例文や単語があったはずだ。
 ページに目を走らせると、あった。喫茶店での例文集。

「(セ ズィシ デ レインカルカレア……今店員さんが言ったのはこれだ、「おかわりどうですか?」。えーと「はい、ありがとう」は……)」

 先程に学習した基本会話のワードを思い出しながら、私は店員さんに微笑みかけて口を開いた。

「ダー、ムルツメスク」
「Da, doamna.」

 こちらもにこりと微笑んだ店員さんが、新しいお茶をティーカップに注いでくれる。よかった、ちゃんと通じた。
 マー大公国の喫茶店は、どこも支払いが少々割高な代わりにおかわり自由とのこと。お茶がおかわり自由で500クプルなら、結構お得だ。
 椅子もちゃんとしているし、長く居座るには都合がいい。
 湯気を立てるハーブティーに口を付けながら、私は「みるぶ」のページを、また一ページめくっていった。
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