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ファースト・ミッション

07 跳び箱

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 鹿美華家の朝は人工的だ。地下に家を構えているため、太陽の日を窓が受け取ることはない。
 そうなると身体に不調が出てしまうので、小姫の部屋の天井はスクリーンが空の模様を映し出し、リクガメの飼育に使うような電熱球がぽかぽかと彼女の身体を温めて起こす。

 ここ数日、小姫の頭の中は、律という存在でいっぱいだった。

 部屋の中で髪を整える間も、服を着ている間も、歯を磨く間も・・・自分に触れる事の出来る存在の事で頭がいっぱいだった。長い人生のうちに、初めて起きた出来事である。

(気になる・・・)

 そしてそれは当たり前のような〝会いたい〟という気持ちを生み出していた。

「おはようございます。小姫お嬢様」
 部屋を出ると廊下で枝角若草が待機している。室内ではトレードマークのシルクハットを被っておらず白髪が目立つ。英国紳士風の出立だ。
「おはよう、枝角」
「朝食の準備が出来ております」
 いつも通り食事をする部屋まで並んで歩く2人。長い廊下だ。歩きながら、小姫は若草の報告を待っていた。察した若草が小姫にだけ聞こえる声で語りかける。

「・・・爽奏律ですが、依頼を承諾しました。3日前から北海道で研修を始めています」

「そうですか」と顔色が変わらぬいつもの温度で返事をする小姫。しかし、その足は間違いなく浮いていた。

 鹿美華小姫17歳。

 特異体質ではあるが、それ以外は普通の女の子のそれとなんら変わりはない。




 疲れた身体をなんとか奮い起こす。律は研修センター2階の武道場にいた。居残り練習、特訓の場所だ。

「先生、今日は何を?」律の身体は限界だ。最早、筋肉痛という感覚も超越した、全身の痛みを感じる。それでも彼は特訓という少年マンガで言うところのパワーアップイベントに心を躍らせていた。

「昨日と同じ。はい、これ」

 目の前に出されている跳び箱を指さす清。律は昨日もこの跳び箱を何度も飛ばされた。
(またこれ?)
 律は落胆する。漫画の様に理由の分からないトレーニングをやって成長するものだと考えていたが、跳び箱は分かりやすい。
 走る、踏む、飛ぶ、それで脚力は鍛えられ、台を超えるために腕を使う。身体能力がつく。身体をめいいっぱい使うのだ。

「今日も跳び箱かよ、先生」
「文句言わないの」

(清先生が特訓してくれるって言うのに、跳び箱かよ・・・)

 律の身体能力は通信簿でいうところの5であり、その歳の平均値よりは上である。しかし、運動のプロでは無い。何より体力が足りず、挑戦する度にそのパフォーマンスは落ちていく。
 昨日の疲労が残ったまま、身体を痛めつけるように同じ動作を繰り返す。

 台形の箱に向けて走り出し、踏切板と呼ばれるバネに足をつけ、飛び、両手でその箱を弾き飛ばすようにして身体を浮かせる。そして飛び越える。

 ただそれを繰り返す。

「頭使いながら、座学の復習する」
「げげっ!」
 座学はほとんど眠っている律。

「S3の精神を答えろ!ひとつめ!」

「一生警護っ!」

 そう言いながら律は跳び箱を飛び越える。

 筋肉は疲れ果てているのに、もっと距離を伸ばすためにはどうしたら良いのか、そんな事を考える余裕はあった。

 一生警護。

 律にとっては安直な言葉に思える。これは常々警護対象を守り続け、そして守れなくなった時は死ぬという事を意味していた。

「そうだ。一生警護。死ぬまでは、どんなに辛くても、失明しようが腕が折れようが、守り抜くって事だ。守る事が終わるのは死んだ時。いいな?」

「はいっ!」律は手首の向きを変えて距離を稼いでみた。

「ふたつめ!」

「二度目は無い!」
「そうだ!全てのチャンスは一度きり!人の命を守る事に二度目は無い!」
「みっつめ!」

「見極め!」

 一生警護、二度目無し、見極めよ。

 これが鹿美華シークレットサービスの精神である。





「今日も特訓したのかの?」
 303号室。相部屋に戻ると優花里はテレビを見ていた。
 ショートパンツの部屋着であぐらをかいている。その姿に興奮する程の力は、律には残っていない。

 そもそも優花里はどちらかと言えば容姿端麗だというのに、色気が無い。おそらく、男の前でも平気であぐらをかける辺りの、奥ゆかしさが無いのだろう。律はそう思った。

「うん。 マジで疲れた寝る」
「ほれ」
 そう言って優花里はチョコレートを律に渡す。

「ありがとう」

 律はそれを口に含みながらベッドに倒れ込む様に寝る。しかし、身体中が痛くて律は目を瞑るだけだった。

「律はどうしてボディガードに推薦されたんだの?」

 テレビを消した優花里は律に尋ねる。律は眠れないが、それに答える気力がない。寝たふりをしてやり過ごす。

 優花里達その他メンバーは疑問が残っていた。どうして身体的にも優れている訳ではないこの男がこの場所にいるのか。

(マヌケな寝顔だの・・・)

 ここにいるメンバーは様々な目的に向かって今この場所にいる。優花里もそうだ。きっとこんな寝顔の男にも理由があるのだろう。優花里はそう思いながら優しく律に布団をかけた。



「はい!それじゃあ鬼ごっこはじめ!」

 朝の牧草地。少し寒い北風が草を揺らしている。今日も朝練が始まる。
 律は走り出す。週の後半はメンバーも疲労によってその運動能力は衰えている。律の疲労はさらに酷い。
 それでも初動の30秒を何とか走りきる。しかし、振り向くと疲れ知らずのガンマン清が変わらぬ速度で走ってきた。

(また俺を狙ってる!)

 必死に逃げようとするも肩を叩かれ、律は他を追いかけようと頑張る。ガンマン清に容赦はない。新人だろうが、捕まえやすそうなやつを見つけては仕掛ける。

「はい、鬼!10秒数えて!」そう言って間も無く、ガンマン清の姿は遠くなる。

 見通しの良い牧草地。走っても走っても、他のメンバーとの距離が縮まらない。
 律自身の体力も落ちていて、先に訓練を受けてきた人間との体力の差は歴然であった。

(こんなん無理ゲーだろ)
 律はその鬼ごっこに子どものように不貞腐れてしまい、座り込む。

 しばらくすると、坊主頭のコミネが近づいてきた。

「おい、コネ野郎。また試合放棄か?」
「無理ゲーっすよ」
 無理ゲーという略し方は年上のコミネには通じない。

「諦めんなよ」

「立てません。手、貸してください先輩」
 その言葉に苦笑するコミネ。律の浅知恵はすぐにバレる。手を貸して、タッチするつもりだ。
「そんなガキみたいなトラップ引っ掛からねーよ」
「くそーっ!」

 そう言って律は漫画のように大の字で寝転んだ。その視界には小さくて薄い雲が少しずつ流れている。

「お前サッカーとかやった事あるか?」

 コミネが一定の距離を保ちながら律に語りかける。
「授業でやったぐらいっす」
「そうか」
「コミネさんはサッカー選手だったんですよね?」
「まぁな。夢破れたけどよ」
「体力すげーんすね」
「体力だけじゃねえよ。俺はこの鬼ごっこをサッカーと捉えている」

「サッカー?」

 コミネはサッカーを持ち出して持論をペラペラと語り出す。律には全く吸収できない事だった。

 しかしこれはその内容が大切では無い。

 律が夜に諦めずに特訓をしていることをコミネは知っている。それに少しでも手を貸そうとしたのだ。

 ガンマン清の言葉を思い出す。

ー〝いいか、ボディガードに必要なことのひとつは、信頼関係だ〟ー

 そんな意図など知らずに、コミネの長話を終わらせようとする律。
「分かりましたんで、鬼、変わって下さいよ」
 律はコミネに懇願する。

「それは違うだろ。バカ」

 そう言ってコミネは去っていく。しばらく寝転んだままの律はそれが激励である事を知って、なんとか立ち上がった。



 翌日。朝練。鬼ごっこ。相変わらずガンマン清が一番遅い律の肩を叩く。律は走り去るガンマン清を諦め、他のメンバーを探す。見通しの良い牧草地。点々と距離の埋まらない人たちの姿。

 コミネの言葉を思い出しながら走る律。

ー〝いいか、初動が大事だ〟ー

(何が大事なんだよ)

ー〝常にフィールドを見渡せ〟ー

(見渡してるって!)

 翌る日も、翌る日も、朝練では清が律の肩を叩く。

「はい!律クンが鬼!」

ー〝目的ゴールに対して、何が障壁なのか見極めるんだよ〟ー

「先生!また俺かよ!」

ー〝いいか、初動が大切なんだ〟ー


 それから約1ヶ月が経った日の朝練。


 律はアドバイスをくれた事をなんとか理解しようとする。初動が大切。律は毎日、逃げる方向を変えてみた。しかし、ガンマン清のスピードはとてつもない速さだ。逃げる向きを変えても、見通しの良い牧草地は360度、地平線しか見えない。

 馬の様なスピードで走ってくるガンマン清。

(どうすれば、鬼から逃げられる?)
 自問自答する律。近づいてくる清の顔。

(右も左も・・・斜めに逃げても無駄)

 何か身を隠すような建物があるわけでもない。ただ、広がる牧草地。

(目的に向かう為の障壁を見極める・・・)

 にやけるガンマン清。
 律は身体の正面は、向かってくる彼に立ち向かうように立っている。いつもは彼を背に逃げていた。違う。

(鬼から逃げる為の障壁・・・それは鬼だ・・・向かってくるあの人をなんとかできれば・・・)

 ガンマン清が走ってくる。一定のスピードで。走ってくる。彼の視界に映るその顔が、次第に大きくなる。

 跳び箱。

 そうだ、あの練習はこの時の為の・・・律はガンマン清を跳び箱に見立てて、飛び越えた。飛び越えたその方向のまま律は走り去る。

「うおっしゃあああああ!!!」

 ガンマン清は想定通りの想定内の行動にニヤつき、コケたフリをする。そして立ち上がって、他のターゲットを探し始めた。

「敵の無力化、それも大切なことのひとつ。早めに気付いたようだね」おそらく、その言葉は遠くへ行った律には届いていない。

 律はその時、少しだけ自分が成長した気になった。

 それは初任務の4日前の事だった。
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