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第二撃 漢女の拳

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 春先とはいえ、まだ辺りは肌寒い。
 花は朝霜に凍えるように花弁をすぼめ、鳥は春を謳うことを戸惑ている。

 そんな凄烈な空気の中に、突如として轟々と湯気が上がった。
 朝焼けに照らされながら、漢女の麗しい肉体美が世界に晒される。

 湯気はウルズラの全身から発生していた。
 大地に両の掌を置き、ぴんとつま先を立ている。
 ウルズラはそのような奇怪な体勢から、高速で両腕の曲げ伸ばしを始めた。

「889,890、891……ッ!」

 それはウルズラの古い記憶の中で『筋トレ』と呼ばれる鍛錬だった。
 体の特定の部分に負荷を掛け、効率的に肉体を苛め抜く。
 ではウルズラ以外、誰も知りようがない論理的筋肉育成メソッドである。

 溢れ出る女子力がウルズラを変貌させたのは、何も筋肉だけに限った話では無い。
 変革はウルズラの脳髄の奥、魂と呼ばれる箇所でも起こっていた。

 その結果、ウルズラは取り戻したのだ――『前世の記憶』と呼ばれるものを。

「因果なものだな……」

 筋トレを終え、ウルズラは崖の縁に胡坐で座り込む。
 そして昇る朝日に目を細めながら、在りし日の記憶に心を馳せた。

 前世のウルズラはこれといって取り柄の無い、平凡な女子だった。
 乙女ゲームが趣味で、ちょっと内気な女子高生。
 趣味で空手とボクシングと暗殺拳をたしなむ、そんな何処にでもいる普通の女の子。

 ――だからこそ、きっと罰が当たったのだろう。

 今生のウルズラは大貴族のお姫様で、この国の王子の婚約者。
 そんな身の程知らずな夢に浸っていたから、きっと神様が怒ったに違いない。
 結局、ウルズラは全てを失ってしまった。

「今やワタクシは孤立無援、一人きりで戦を仕掛けねばならぬ……ッ!」

 厳しい戦いになるだろう。
 
 この世界には魔法はあっても気功は無い。
 今の肉体もそんな貧弱な世界で育まれた貧弱な筋肉に過ぎないのだ。

 武力といえば、前世から引き継いだ女子会バトルの経験と持ち前の女子力のみ。
 たったそれだけで、か弱い漢女が強敵たちと死闘を繰り広げねばならないのだ。

 ――だがやらねばならぬ。

 例えこの身が滅びようとも、受けた恥辱は晴らさねばならぬ。
 特に漢女を愚弄する浮気・寝取りの類は必ずや抹殺せしめねばならぬ。
 それこそが益荒女ますらめとして生きる己の宿業。

「元より漢女の生き様は戦士の死に様。ワタクシが歩みの先に見ゆるは覇者の道よ!」

 覇道に色恋は不要、己一人で生き抜いてこその益荒女ますらめだ。
 ウルズラはそう自分を叱咤する。
 すると肩の三角筋がぴぴくっ、と震えた。

「ふふっ、慰めてくれるのか?」

 慈しみの笑みを浮かべ、新しい相棒に優しく語り掛ける。

「そうだな。ワタクシにはお前たちがいる」

 三角筋は今度は力強くびびくっ、と震えた。

 そんな麗しい主従の愛情を祝福するかのように、辺りで花々が咲き乱れる。
 ウルズラの肉々しい肢体から流れ出た湯気が、局地的に周囲の気温を上げたのだ。
 まさに周りは亜熱帯。
 この末法の世に現れた最後のオアシスである。

 ――すべてはウルズラの溢れ出る女子力のなせる奇跡だった。



「急げッ! 時間が無いぞ!」

 王都は嵐のような騒がしさだった。
 シュタートでの公女ウルズラの襲撃、そして王国に対する宣戦布告は既に衆目の知る所だ。

 ボロ屑のような有り様で王都へ逃げ帰った王子ギーゼルベルト。
 彼は王に対しウルズラの危険性を説くと、即座に全軍に対し緊急の防衛網を敷くよう指示を飛ばしたのだった。

「ふん、たかが女一人に御大層なことだ」

 そう笑うのは獰猛な笑みの一人の騎士。
 数多の戦士の血を浴びたことから『朱鎧しゅがいの騎士』の称号を欲しいままにする、王国最強の騎士ヘルムートだった。

「お気持ちは分かりますが、あれはそんな生易しい相手ではありませんよ」
「ほう?」

 ヘルムートに忠告した騎士は、あの時大聖堂に居合わせた者の一人だと言う。
 そして彼の口から語られるは、公女ウルズラの力の一端。

 ――曰く、気合いだけで大聖堂の天井を打ち破った。
 ――曰く、たった一撃の拳で二人の人間を同時に屠って見せた。

 俄かには信じがたい。
 だがヘルムートはそれを聞いて恐れることも無く、ただ獰猛なその笑みを一層強くした。

(その女こそが俺が長らく求めた『敵』かもしれぬ)

 ヘルムートという騎士は長らく孤独だった。
 並び立つ者は無く、障害となる者もいない。
 ただ草を刈るように戦場で剣を振るう毎日だった。

 天賦の戦の才を持って生まれたヘルムートは、本当の所『闘い』というものを経験したことが無いのだ。

(もしかしたら、お前なら、この俺が生まれ死ぬ『戦場いくさば』を運んできてくれるのか?)

 そう思うと、居ても立ってもいられない。

「さぁ、来い。まだ見ぬ強敵ともよ! このヘルムートの糧となるが良い!」

 決戦の時は、もう間近まで迫っている。
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