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第八話 カップルシート?
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屋外に出てからも、一ノ瀬君は手を離さなかった。
前を歩いているから、どんな表情をしているのか分からない。黙ったままだから、何を考えているのか分からない。
けれど、一ノ瀬君が窮地を救ってくれたのは事実だった。
「……一ノ瀬君。あの…さっきはありがとね。…昔いろいろあって…ちょっと気不味くて…だから本当助かったの。ありがとね」
何も知らない一ノ瀬君に彼の事を話すのは憚られて、しどろもどろになりながらもどうにかお礼を言った。すると、一ノ瀬君は歩を止めて振り返った。目が合った瞬間、一ノ瀬君はギョッとしたような表情を浮かべた。狼狽えながら辺りを見渡し、私の手を引いて路地裏へと入りこんだ。
なぜ路地裏?路地裏に予約したお店でもあるのだろうか?戸惑う私に、一ノ瀬君は何故泣いているのかと訊いてきた。
――泣いている?
頬に触れると、確かに濡れていた。
いつから泣いていたのだろう。もしかしたら、彼にも泣き顔を見られたのだろうか?
……もう彼に弱い部分など見せたくなかったのに。
泣いている訳さえ分からず、ただ茫然としていた私の腕を引き寄せ、一ノ瀬君は私を抱き締めた。
「すみません。真緒さんの涙が止まるまではこうさせて下さい。……もし、どうしても嫌だったら、突き飛ばしてくれて構いませんから」
そう言って、強く抱き締めてくれた。
男性にしては少し華奢過ぎるのではないかと心配していた一ノ瀬君の体は、想像よりもしっかりとしており、ちゃんと男の体をしていた。
一ノ瀬君の体からは、優しく暖かなお日様の匂いがした。
それから私は一ノ瀬君の腕の中で号泣した。
気が済むまで泣いて気持ちが落ち着いて来ると、自分がとんでもない失態を晒してしまった事に気付いた。三十路過ぎの女が、職場の後輩の胸を借りてガン泣きするなんてあり得ない。羞恥の極み。
しかも相手は、社の女の子の間で大人気の超優良物件。そんな子に抱き締めて貰っちゃったし、頭や背中を撫でてもらっちゃったし…。
――あれ?もしかしてこれってセクハラに該当するのでは?
セクハラ婆認定されたら終わりだ。焦った私は、セクハラで訴えられるのを防ぐべく、胸を貸してくれたお礼に夕飯を奢らせて欲しいと申し出た。何度も断られたが、私はどうしても奢らせて欲しいと粘りに粘った。
私の申し出に応じる条件として一ノ瀬君が提案してきた。どうせなら宿泊先近くの居酒屋で一緒に飲みまくりましょうと。
……飲みまくりですか?一ノ瀬君。私達もう丸2年も同じ部署で仕事してるよね?だから、私がお酒苦手なの知ってるよね?絶対知ってて言ってるよね?
ま…まさか、腹いせで言ってる?それとももっと酷い醜態を晒させて動画でも撮るつもり?
いやいや、待て待て。心根が優しく、誠実な一ノ瀬君に限ってそれはない。きっと、私がいつになくみっともない姿を晒したから、気を使わせてしまっただけだ。
結局その後、私達は一ノ瀬君の提案通り、宿泊予定のホテルに隣接している焼き鳥屋に行く事にした。
赤と黒を基調とした『モダン和風』という言葉がピッタリのその店には、カップルシートなるものがあった。
会社の同僚。上司と部下。良くて姉弟。そんな関係にしか見えない組み合わせなのに、何故かカップルシート通された。……嫌がらせだろうか?
店内は確かに混み合ってはいるけれど、空席もチラホラあった。狭いからそちらに移動しようと言ったら、即座に却下された。
仕事の話は他人(ひと)に聞かれない方が良いでしょう?そう言われれば、頷くしかない。
それにしても、仕事の話をする為だけにカップルシートを選ぶだなんて、一ノ瀬君は偉過ぎる。私なんか彼氏とでも避けそうなのに。……彼氏なんかいないけど。
前は壁、サイドも壁の半隔離空間。カップルシートに座る人達は皆、自分達の世界を作りだしている。中にはキスをしているカップルまでいた。何て破廉恥な。
思わず逃げだしたくなったが、一ノ瀬君は平然と腰をおろした。ここまで潔い態度を取られると、変に意識している自分の方がおかしい気がして来る。私も腹を括って、一ノ瀬君の隣に座った。
……でも、やっぱり距離が近過ぎる気がする。
私が腰を下ろしてすぐに、店員さんが注文を取りにきた。一ノ瀬君は「取り敢えずビールで」とおっさんサラリーマンの王道台詞を口にした。
そんな台詞さえ、一ノ瀬君が言うと爽やかに聞こえるのだから、彼の可愛さは若干反則だと思う。そんな不満を心の中でこぼしながら、私はカシスグレープフルーツを注文した。
いい年して『カシスグレープフルーツ』?と思った皆さんに伝えたい。私は別に可愛い子ぶっているわけではない。ビールが苦手…というよりも、お酒全般が苦手なだけだ。
「前から思ってましたけど。普段は出来る女って感じなのに、実はお酒が苦手とか。可愛いですよね。そのギャップが堪らないです」
「なっ!言っておくけど、全然飲めないわけじゃないからね?ちょっと我慢すれば全然飲めるし!」
不服に思ってすぐさま反論すると「そうやってすぐにムキになって反論する所も可愛いですよ」と笑われた。
……解せぬ。
私だってTPOくらい弁えている。私がムキになるのは、飽くまでプライベートの時だけだ。いつもムキになっている訳ではない。
それに…何だろう。確実に自分よりも可愛い人に可愛いと言われると、悪意が無いのが分かっていても、馬鹿にされた気分になる。
モヤモヤした気分を払拭するように、私は一ノ瀬君の可愛さについて熱く語った。いつも思っている事を言っただけなのに、何故か一ノ瀬君は、私にだけは言われたくないと怒り出した。
――私にだけはって不公平じゃないか!
そう言おうとして、やめた。
自分が他の人よりも嫌われている可能性に思い至ったからだ。以前、私のような女は好きじゃないと面と向かって言われた事もあるし、今日だって散々迷惑をかけた。その上、今夜一緒に名古屋名物を食べ歩く約束までも忘れていたのだから、嫌われても仕方ない。
気不味い雰囲気が漂い始めた為、私達は早々に引き上げる事にした。
前を歩いているから、どんな表情をしているのか分からない。黙ったままだから、何を考えているのか分からない。
けれど、一ノ瀬君が窮地を救ってくれたのは事実だった。
「……一ノ瀬君。あの…さっきはありがとね。…昔いろいろあって…ちょっと気不味くて…だから本当助かったの。ありがとね」
何も知らない一ノ瀬君に彼の事を話すのは憚られて、しどろもどろになりながらもどうにかお礼を言った。すると、一ノ瀬君は歩を止めて振り返った。目が合った瞬間、一ノ瀬君はギョッとしたような表情を浮かべた。狼狽えながら辺りを見渡し、私の手を引いて路地裏へと入りこんだ。
なぜ路地裏?路地裏に予約したお店でもあるのだろうか?戸惑う私に、一ノ瀬君は何故泣いているのかと訊いてきた。
――泣いている?
頬に触れると、確かに濡れていた。
いつから泣いていたのだろう。もしかしたら、彼にも泣き顔を見られたのだろうか?
……もう彼に弱い部分など見せたくなかったのに。
泣いている訳さえ分からず、ただ茫然としていた私の腕を引き寄せ、一ノ瀬君は私を抱き締めた。
「すみません。真緒さんの涙が止まるまではこうさせて下さい。……もし、どうしても嫌だったら、突き飛ばしてくれて構いませんから」
そう言って、強く抱き締めてくれた。
男性にしては少し華奢過ぎるのではないかと心配していた一ノ瀬君の体は、想像よりもしっかりとしており、ちゃんと男の体をしていた。
一ノ瀬君の体からは、優しく暖かなお日様の匂いがした。
それから私は一ノ瀬君の腕の中で号泣した。
気が済むまで泣いて気持ちが落ち着いて来ると、自分がとんでもない失態を晒してしまった事に気付いた。三十路過ぎの女が、職場の後輩の胸を借りてガン泣きするなんてあり得ない。羞恥の極み。
しかも相手は、社の女の子の間で大人気の超優良物件。そんな子に抱き締めて貰っちゃったし、頭や背中を撫でてもらっちゃったし…。
――あれ?もしかしてこれってセクハラに該当するのでは?
セクハラ婆認定されたら終わりだ。焦った私は、セクハラで訴えられるのを防ぐべく、胸を貸してくれたお礼に夕飯を奢らせて欲しいと申し出た。何度も断られたが、私はどうしても奢らせて欲しいと粘りに粘った。
私の申し出に応じる条件として一ノ瀬君が提案してきた。どうせなら宿泊先近くの居酒屋で一緒に飲みまくりましょうと。
……飲みまくりですか?一ノ瀬君。私達もう丸2年も同じ部署で仕事してるよね?だから、私がお酒苦手なの知ってるよね?絶対知ってて言ってるよね?
ま…まさか、腹いせで言ってる?それとももっと酷い醜態を晒させて動画でも撮るつもり?
いやいや、待て待て。心根が優しく、誠実な一ノ瀬君に限ってそれはない。きっと、私がいつになくみっともない姿を晒したから、気を使わせてしまっただけだ。
結局その後、私達は一ノ瀬君の提案通り、宿泊予定のホテルに隣接している焼き鳥屋に行く事にした。
赤と黒を基調とした『モダン和風』という言葉がピッタリのその店には、カップルシートなるものがあった。
会社の同僚。上司と部下。良くて姉弟。そんな関係にしか見えない組み合わせなのに、何故かカップルシート通された。……嫌がらせだろうか?
店内は確かに混み合ってはいるけれど、空席もチラホラあった。狭いからそちらに移動しようと言ったら、即座に却下された。
仕事の話は他人(ひと)に聞かれない方が良いでしょう?そう言われれば、頷くしかない。
それにしても、仕事の話をする為だけにカップルシートを選ぶだなんて、一ノ瀬君は偉過ぎる。私なんか彼氏とでも避けそうなのに。……彼氏なんかいないけど。
前は壁、サイドも壁の半隔離空間。カップルシートに座る人達は皆、自分達の世界を作りだしている。中にはキスをしているカップルまでいた。何て破廉恥な。
思わず逃げだしたくなったが、一ノ瀬君は平然と腰をおろした。ここまで潔い態度を取られると、変に意識している自分の方がおかしい気がして来る。私も腹を括って、一ノ瀬君の隣に座った。
……でも、やっぱり距離が近過ぎる気がする。
私が腰を下ろしてすぐに、店員さんが注文を取りにきた。一ノ瀬君は「取り敢えずビールで」とおっさんサラリーマンの王道台詞を口にした。
そんな台詞さえ、一ノ瀬君が言うと爽やかに聞こえるのだから、彼の可愛さは若干反則だと思う。そんな不満を心の中でこぼしながら、私はカシスグレープフルーツを注文した。
いい年して『カシスグレープフルーツ』?と思った皆さんに伝えたい。私は別に可愛い子ぶっているわけではない。ビールが苦手…というよりも、お酒全般が苦手なだけだ。
「前から思ってましたけど。普段は出来る女って感じなのに、実はお酒が苦手とか。可愛いですよね。そのギャップが堪らないです」
「なっ!言っておくけど、全然飲めないわけじゃないからね?ちょっと我慢すれば全然飲めるし!」
不服に思ってすぐさま反論すると「そうやってすぐにムキになって反論する所も可愛いですよ」と笑われた。
……解せぬ。
私だってTPOくらい弁えている。私がムキになるのは、飽くまでプライベートの時だけだ。いつもムキになっている訳ではない。
それに…何だろう。確実に自分よりも可愛い人に可愛いと言われると、悪意が無いのが分かっていても、馬鹿にされた気分になる。
モヤモヤした気分を払拭するように、私は一ノ瀬君の可愛さについて熱く語った。いつも思っている事を言っただけなのに、何故か一ノ瀬君は、私にだけは言われたくないと怒り出した。
――私にだけはって不公平じゃないか!
そう言おうとして、やめた。
自分が他の人よりも嫌われている可能性に思い至ったからだ。以前、私のような女は好きじゃないと面と向かって言われた事もあるし、今日だって散々迷惑をかけた。その上、今夜一緒に名古屋名物を食べ歩く約束までも忘れていたのだから、嫌われても仕方ない。
気不味い雰囲気が漂い始めた為、私達は早々に引き上げる事にした。
応援ありがとうございます!
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