絶対不要の運命論

小川 志緒

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過去、十五歳(まだ、一度目の)

「いちばんすきなひとに何もしてあげられない」

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 僕たちに漢字の名前がなかった頃、つまりはもうずいぶんと昔のことだけど、マリアが死にかけの子猫を拾ったのだ。

 ぼろぼろに薄汚れて痩せぎすで、ちっとも胸に抱いてやりたいと思わない。ろくに目も開けられないその子猫は、マリアがどんなに熱心に面倒をみたところで、きっとこの冬を越せないだろう。
 悲しむのはあなただから捨てておきなさいと僕は言った。余計な愛着が湧いてはあとでつらくなるからと。それにマリアよりひとつ年下の僕が見ても、明らかに子猫は病気だった。
 獣の病はひとにどれほどの影響があるのかしら。ひとにはうつらないのかしら。万が一城に連れ帰ってマリアが臥せってしまったら、僕はきっと子猫をゆるさない。

「ねえ、いっそここで殺してあげようよ」

 僕だって子猫が憎いわけじゃない。
 ぶるぶると震えるちいさな体を見下ろしながらそう提案した。子猫にしてあげられるいちばんいいやり方だと思った。

「長生きなんてどうせできないのに、無理にいのちを引き延ばすことは、本当に子猫にとってしあわせなの?」最近覚えたばかりの言葉を思い出して僕は付け加えた。「そういうのはマリアのじこまんぞくだ」

 無言で雪道をさくさく歩いていたマリアは立ち止まり、やっと僕を見た。

「風を避けていたの」

 マリアは言った。

「まともに動かない脚で、少しでも風が当たらないところまで歩いて、必死に生きていたの」

 今度は僕が黙る番だった。そっと目を逸らすのも。マリアは静かに微笑んで、それだけ。えらそうに説教染みたことを言っていた僕に、マリアはやり返したりしないのだ。
 僕らの住むお城の前のゆるやかな坂に差し掛かってやっと僕は口をひらいた。足元に視線を落としたまま、ちいさなちいさな声で。

「僕はマリアが悲しむのがいやなだけなんだ」

 同じような囁き声で、

「知ってる」

 とマリアは答えた。
 
     ◯

 子猫はおとなになることなく、春を迎えないまま永遠の眠りについた。
 予想した通り短いいのちだった。

 だけども冬の間のわずかな時間は、子猫にとってまったくの無意味ではなかったはずだ。
 厳しい人生に健気に抗って、その最期が寒空の下でがくがく震えながらの野垂れ死にでは、あまりに不憫だと神様もお思いになったんだろう。少しくらいおまえの忍耐が報われたっていいんじゃないかと、気まぐれにせよ何にせよ、手を差し伸べてくださった。それで僕のマリアを遣わせたんだ。マリアはきみがしあわせになるにはうってつけの飼い主だから。

 子猫は拾われてからすくすくと育ち、骨が浮き出るほどだった体も少しは肉付きがよくなった。死に際まで世話を焼く周囲の女たちにびくびくと怯えてばかりいたけれど、マリアにだけは自分からすり寄り甘い声で鳴いた。あなただけは自分を傷つけないと子猫も知っていたんだ。あの寒い日に抱きあげてくれた腕を、決して忘れることはなかった。

 子猫が死んだのに気づいたのは僕だった。
 もとよりマリアのほうが寝坊助だから早起きは僕の仕事。ある朝、分厚いカーテンの隙間から差し込んでくる陽の光にぱっと目覚めてベッドを下り、子猫の様子を見に行った。普段なら僕は真っ先にマリアを揺り起こす。でもそのとき直感としかいいようのないものが働いて、僕は吸い寄せられるように忍び足で子猫の寝床に向かったのだった。
 柔らかい毛布にくるまっている姿を遠目から確認した途端、唐突に胸がひりひりと痛んだ。眠っているだけ。まだ眠っているだけ。ぴくりともしないのはそのせいだって、いくら自分に言い聞かせたところで、僕にはもうわかってしまっていた。
 そばに寄り拾われた頃に比べていくぶんふっくらした頬を撫でると、ひんやりして体温が欠片も残っていなかった。子猫は昨晩いつものようにふっと眠り、そのままもう起きなかった。

 マリアは目許がまっかになるほど毎日泣いたし、しばらくの間ひどく悲しんだ。
 ベッドにうつぶせになって、天蓋に吊るされたオーガンジーの影でしくしくするマリアを見るのはつらかった。背中や頭を撫でてあげるほかにできることなんてない。僕はマリアが悲しくなくなるための手助けを何ひとつできないのだ。何もできないのは僕が九歳のこどもだったせいではなく、ばあやも先生もマリアのお父さまお母さまでもどうにもならなかった。

 そもそも悲しいという気持ちはなくならない。
 傷ついたことはずっと体の奥の奥に残る。
 毎日の生活にすり切れて疲れるうちに、もうあまり思い出さなくなるだけ。だんだんと薄れていくけど、きれいさっぱり忘れてしまえることは、案外少ないのだと僕は知っている。もう平気だと思っていたことがふとした瞬間ぶり返して、身動きできなくなることはめずらしいことではない。

 だからマリアがいま大丈夫になったところで、それはこれから先もずっと大丈夫だというわけではないのだ。マリアは未来永劫悲しい。傷つくというのはそういうことだった。普段は忘れていてもときどき思い出したように痛む傷を一生ひとりで引き受けるということなのだ。
 僕は、だからいやだった。マリアにはそんなものひとつも抱えてほしくなかった。他のひとがどれだけ不幸になってもいい。マリアにだけはいいことだけが起きてほしい。優しいもの温かいもの、きらきらした特別な、いい匂いのする、世界中の素敵なものだけがあなたを取り囲んでほしかった。

 マリアみたいに高貴で由緒正しい身分の育ちだったなら、もっと気の利いた言葉をたくさん知っていて、マリアに正しく優しくできたんだろうか。僕は自分の無知を恥じた。ただ傍にいるしかできない僕をマリアはゆるしてくれるけど、僕はそんなの耐えられなかった。
 でもマリアは聡いから、無難な慰めの言葉なんかで救われたりしてくれない。だからばあやも先生もマリアのお父さまお母さまでも駄目だった。おとなはいろんな場面に適した台詞をいくつも持ち合わせていて、ぴったりなものを選んで口にするけど、まだこどものマリアには響かない。

 もっと本当のことだけが必要なんだ。
 それができるのはきっと僕だけだ。
 あの子は苦しまなかったから大丈夫だよ、も、泣かないで、も、僕は言わない。あなたには本当のことだけを教えてあげる。

「マリア」
「なあに」
「死ぬのはきっとつらいことだと思う。道端で捨てられたまま死ぬよりは苦しくなかっただろうけど、死ぬ寸前、からだは最後まで生きようと抵抗するから、息ができなかったり心臓が痛かったり、やっぱり苦しいよ、きっと。あの子は病気がちだったから特に」
「うん」
「死ぬときはみんな苦しいの。たぶん。きっとね。だから最期の瞬間までのことが何より大事なの。生きていたときにしあわせだったかが重要なの。マリア、あの子は不幸だった?」

 マリアはすすり泣きながら、

「わからない」

 と目を覆った。

「あの日、マリオンが言ったようにしてあげるべきだったのか、今更になって悩んでしまうの。わたしはわたしの為にあの子を助けたんだって。見て見ぬふりして通り過ぎて、何日かしたあとにあの道を通りがかって死んでいるのを見つけたら、わたしが罪悪感でつらくなるから。助けてあげられるのにそうしなかったからだって、夜も眠れなくなってしまうから。結局わたし、自分が悪者になりたくなかっただけなのよ」

 僕は腕をいっぱいいっぱいに広げてぎゅうっとマリアを抱きしめ、何度も首を横に振った。
 そんなことはどうだっていい。
 マリア。
 どうだっていいんだ。
 たとえマリアの為の行為であっても、そこに少しもあなたの優しい気持ちがなかったわけじゃないんだから。あなたの優しさに嘘はなかったんだから。

「マリアに拾われてあの子は確実にしあわせだった」
「どうして言い切るの」
「僕はそうだから」マリアの腰まである長い髪を梳くように撫でて僕は言う。「僕はマリアに拾われてしあわせ。あの子とは似た者同士だから、わかる」

 マリアは涙でべしょべしょに濡れた顔で、ようやく少し笑った。
 僕は僕にできる最大限のことを成し遂げたと思ってほっとした。
 
     ◯

 この広い街のなかで、いやたとえこの街を出ても、もっと言えば名前も知らない国に行ったところで、僕はマリアよりすきになるひとはいない。
 たとえばあした世界が滅びるとして、たったひとりだけ助けてあげることができるなら、僕は迷わずマリアを選ぶ。食料やブランケットに退屈しのぎの為の本を詰め込んだ小さな舟にマリアを乗せて、どこか安全なところへ逃がしてあげるのだ。僕はそういうふうにマリアをすきだった。

 マリアより大きなお城に住む子もいるし、マリアより高価なドレスを着る子もいるし、マリアより賢く愛嬌のある子も、マリアより愛くるしい顔立ちの子もこの地にはいるだろう。
 でもいるだけ。
 彼女たちは僕にとって何の意味も持たない。
 行くところも頼るものもなくて本当の本当にこまっていた僕を、子猫にしたように、あっさりお城へ連れ帰ってくれたのはマリアだけだ。どこの生まれかもわかったもんじゃない、泥だらけで汚らしい不愛想のこどもの手を、あなたはリボンのついた手袋が汚れるのも構わず、ぐいぐいと強く引いてくれた。

 食べるものも寝るところも清潔な服も、もちろん自分では手に入れられないものばかりだった。
 でもそれ以上に日々降り積もるように与えられる何かが僕には特にありがたく、涙がにじむくらい大事だった。きっと言ってもマリアにはわからない。惜しげもなく僕にくれるものの価値を、マリアはちっともわかっていない。
 なんの躊躇いもなく差し出してくれた手。僕の色の抜けた薄い茶髪を丁寧に梳いてくれた夜。擦り傷だらけの手足にはりきって薬を塗ってくれたのはいいものの、初めてのことだから薬をたっぷり出しすぎて、ふたりして指先をべたべたにして笑い合ったこと。

 僕のからだには穴が開いていて、いつでもすかすかして寂しかったけど、毎日たくさん注がれるうちに、いつの間にか僕の空洞は塞がっていた。それに気づいたときの衝撃をどうにかして伝えたいけど、マリアはきょとんと瞬きをして、あなたがしあわせならそれでいいわと笑うだけだろう。だけど構わない。僕だけがぜんぶ大切に仕舞って、いつまでも覚えていればいいから。僕だけはずっと覚えているから。
 僕はこの先途方もない時間を生きる。
 目が眩むような長い時間を生きていく。
 それでもマリアが僕にしてくれたことの半分もきっと返せないだろう。だって肝心のマリアが長生きできないのだから。
 もらうばかりで何もできなくて、僕は僕がいちばんきらいだ。なんにも持たない自分がきらいだ。僕は僕のいちばんすきなひとに何もしてあげられない。僕がこのひとをいちばん必要としていて、何に代えても守りたいと願っているのに、僕はマリアが少しずつ弱っていくのを見ていることしかできない。

「短命の呪いがかけられたの」

 十五歳になったマリアが庭で倒れて、数日間も目を覚まさなかった。
 食事も睡眠もとらずにベッドから離れない僕を見かねて、マリアのお母さまは打ち明けてくれた。マリアには生まれるより前から呪いがかけられていて、もうすぐ死んでしまうのだと。

 二十一世紀を生きるきみたちにすれば魔術なんて胡散臭い、馬鹿馬鹿しいものに聞こえるに違いない。そんなものに頼らなくても病は治せるし、天気を予測できるし、科学が目覚ましい進歩を遂げたこの時代に、魔術の入り込む余地はない。
 それは長い歴史を眺めてきた僕としてはしかたのない流れだと思うけれど、だが確かにあったのだ。かつて、遠い昔には、本当に魔術を使う者がいた。そのうちのひとりがマリアを呪った。正確に言えば呪われたのはマリアではなく、マリアの家の、いやもっと大きなものの罪を、マリアが背負わされたのだ。
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