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王太子編
第12話「王太子の別れと、本当の想い」※ブレイディア視点あり
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朝の柔らかな光が、カーテンの隙間から部屋の奥まで差し込んでいた。
深夜まで互いに泣きじゃくっていたせいで、まだ瞼は重く、体がだるい。けれど、私は何とか意識を引き戻し、シーツの上でもぞもぞと身を起こす。
──すると、隣には王太子ブレイディアがまだ寝息を立てていた。
「……ふふ、まるで天使みたい」
夜の涙が嘘のように、彼は穏やかな寝顔を浮かべている。完璧な王子様として振る舞う彼が、こんな無防備な姿を見せるのは今しかないのかもしれない。
ちっちゃな体、柔らかな金髪。思わず胸がきゅんとしてしまうが、決して異性としてのときめきではなく、「なんて可愛い子なんだろう」という慈しみに近い感情。
(……とはいえ、国の王太子にここまでくっついて寝るなんて、かなり非常識な行為だったよね……)
そう自覚して顔を赤くしていると、ブレイディアが微かに目を開いた。もぞりと身じろぎして、私の存在に気づくなり、
「……エマ……おはよ……」
と、眠たそうな声で呟く。
「っ……お、おはようございます、殿下!」
慌てて私はベッドから飛び降り、深く頭を下げる。顔が火照っているのは、彼に抱きついた昨夜を思い出して恥ずかしいからであって、決して“ときめき”などではない。
気持ちは大人なのに、国の王太子を独占してしまったようで妙な罪悪感があるのだ。
ところが、眠気がまだ抜けていないブレイディアは、私の恥じらいなど露知らず、ぽやんと首を傾げている。
「……エマ……体調は大丈夫……?」
なぜか私を心配してくる。
「い、いえ、殿下こそ昨夜熱があったんですから。ご無理はなさらず……!」
言葉を交わすうち、ブレイディアの瞳がふいに尖ったように感じられた。朝の寝ぼけ顔であっても、どこか拗ねた空気が漂う。
「……ねえ、その“殿下”って呼ぶのやめない?」
「え……?」
思いもよらぬ提案に心臓が跳ねる。王太子を呼び捨てにするなんてあり得ないでしょう?と咄嗟に思っていると、ブレイディアは少し唇を尖らせて目を伏せた。
「朝食の時も、夕食の時も……ずっと“殿下”って………エマ、友達になろうって言ったじゃん。あれって嘘だったの?」
「そ、そんなことありませんよ! でも、王太子様にそんな失礼な……」
慌てる私に、彼はさらに拗ねた表情を深める。
体が熱を出して弱っていた頃は見られなかった“子どもらしいわがまま”を、ここにきてむき出しにしている感じだ。
(困ったな……でも、そう言われちゃ断れない……)
「……じゃあ、人前では無理でも、二人だけのときは、呼び捨てでいいよ? ね? ほら、エマも前に“ブレイディア”って呼んでくれたじゃないか。僕はあれが嬉しかったのに……」
その瞳はどこか寂しそうで、同時に甘えたい気持ちを隠せていない。まるで子犬が飼い主に構ってほしいというような視線に、私は困惑しつつも、きっぱり決断した。
「……分かりました。じゃあ、人目がないときだけ……タメ口で呼び捨てにするね。……ブレイディア」
そう告げた瞬間、ぱっとブレイディアの顔が明るくなり、にこりと笑う。思わず私に抱きついてきた。
「ありがと、エマ……!」
「わあ……!」
小さな体でぎゅっとしがみつかれ、今度は私が逃げ場を失う。王太子にこんな風に抱きしめられるなんて………でも昨日私が先に抱きしめた手前、強く拒むのも申し訳ない。
けれど、彼はそんな私の内心など気づかずに、まるで無邪気に甘えているかのように腕を回してくる。
(なんだか……ちょっと、可愛いかも……)
ほんのり笑顔になったブレイディアの瞳の奥で、わずかに不敵な光がよぎったのを、私は知らずに見過ごした。
あの日から、ブレイディアは順調に回復していった。ちょうど一週間が経とうとしているが、初日に見られた無気力や怯えたような表情はすっかり薄れ、むしろ普通の子どもらしい面がよく出ている。
特に大きな変化は、「私への態度」と「使用人への接し方」だ。彼は全く嘘の笑顔を使わなくなり、いつの間にかリリアンやロンド、ディーオとも談笑している。
ある日、私とブレイディアが屋敷の廊下を歩いているときのこと。
何気なく通りかかった料理当番のメイドが「お嬢様に殿下、今日は新作のアップルパイがありますよ」と朗らかに声をかけた。するとブレイディアはちゅっと唇を尖らせて「アップルパイ!!僕甘いもの好きなんだよね!」と嬉しそうに答える。
メイドが「ふふ、では準備しておきますね……」と微笑めば、ブレイディアも笑顔を返す。その自然なやり取りに、私は少し心の中でほっとする。
また彼は無邪気な悪戯心を発揮し始めて、使用人相手にちょっとした仕掛けを思いつく。
たとえば、給仕室の扉からひっそりと入って、しよう人が居なくなった隙をついてクッキー盗み食いするとか、ロンドやディーオの武器置き場に紙製の人形を潜ませて驚かすとか、子どもらしい遊びを満面の笑みでやるようになった。
使用人たちは半分呆れつつも、彼が楽しそうにしているのが嬉しいらしく、苦笑しながら許容している。
「エマ、あそこにディーオがいる。どうする? さっきの紙の人形をさ……」
「ディーオは背が高いから足元はよく見えてないはず!ここら辺に置いてみよ!」
私も悪ノリしてしまいがちで、2人して忍び足で使用人に迫ったりして、結局「お、お嬢様と殿下……いい加減にしてください!」と叱られることも。
でも、そんな時間が何故か私も楽しくて、ブレイディアと顔を見合わせては笑い合う日々。彼の意地悪なところが時々顔を出すのも、子どもらしい可愛さだと感じるようになってしまっている。
さらに、私とブレイディアがエルネスティーナ先生の講義を受ける日は、彼がやけに私をからかってくる。
難しい文法や歴史の年号を間違えた私に対し、教本をツンと指し示して「ねえねえ、エマ、ここ違うんじゃない?」と子どもっぽい得意顔を見せるのだ。
「え、嘘……あ、ほんとだ! 間違ってる……うぐぐ」
私が悔しさに唸ると、ブレイディアはクスクス笑って、
「やっぱりエマって可愛いよね。すぐ顔に出るし」とサラリと言う。
「可愛いってなに~~ 」
ついついムキになる私を見て、ブレイディアは嬉しそうに微笑む。そしてまた別の問題を突いてくるから、私はぐったり疲れる。
(可愛いって最近よく言うけど、褒め言葉として言っているのか、ただからかってるだけなのか……よく分からないんだけど……)
しかし、どんなに意地悪を言われても、まるで兄妹みたいにじゃれ合う時間は私にとっても心地いい。
彼が夜に無理やり腕を引き寄せるわけでもなく、でもいつもくっつきたがる。ただただ「かわいい子が甘えている」程度の感覚だ。
また別のある昼下がり、私たちはメイドのリリアンが用意してくれた軽食を片手に、屋敷の広大な庭園へと出かけた。 そこは四季折々の花が咲き乱れ、今は紫やピンクの花々がいきいきと顔を見せている。芝生が柔らかく、さざ波のように風が揺れる光景は、一見すると夢の世界のようだ。
「わあ……こんなにたくさんの花があるんだね」
ブレイディアが驚いたように目を丸くしている。表情こそまだ子どもっぽいが、彼にとっては王城のきっちり整備された花壇とはまた違った印象らしい。
「そうでしょ! この庭はうちの庭師、ブロンさんが丁寧に育ててくれているの。ほら、向こうでバラの手入れを……あ、ブロンさーん! こんにちは」
私が手を振ると、気づいた庭師が帽子を取ってこちらへ一礼する。 「お嬢様、そして殿下。どうですか、花の具合は? 今年は少し寒かったので心配でしたが、思ったより元気に咲いてくれましたよ」
初めて顔を合わせる庭師に、ブレイディアは少し緊張した面持ちで「ええ、とても綺麗です。なんだか、あたたかい雰囲気がありますね」と返す。 ブロンさんは目を細めてにっこり笑い、「ありがとうございます。こうして素直に褒めていただけると励みになります」と嬉しそうだ。
そんなやり取りが微笑ましく、私は思わずほっこりした気分になる。ブレイディア自身が子どもらしい柔らかい表情を浮かべているのが嬉しい。
「じゃあ、ブレイディア。せっかくだから、あの木陰の下で座ってみない?」
裏庭には、腰を下ろせるほど広い芝生があり、木漏れ日がちらちら揺れる木陰がとても心地いい。私が手を引くと、ブレイディアは「うん」と少し照れたように頷いて、隣に腰をおろす。
「……風が気持ちいいね。王城じゃ、こんなにゆっくりと座ったりできなかった」
ぽつりと呟く彼を見て、私は実感する。きっと普段は、きっちりとした椅子に座り、“王太子”としての姿勢や作法を求められているのだろう。 そのまま2人で敷き詰められた短い草の上に背中を預けると、空が青く、穏やかな雲が流れている。思わず大きく伸びをして、昼の暖かな陽射しにふわりと包まれた。
「……エマ。なんか……眠くなってきた」
ブレイディアがあくびを噛み殺しながら、パタンと芝の上に横になった。子どもらしい居眠りは微笑ましいけど、私もつい釣られてまどろんでしまう。 庭師さんも離れたところで作業しているから、邪魔になる気配はない。気づけば私たちは、そのまま昼寝に入っていた。
(ああ、なんて穏やかなんだろう。平和……)
8歳の姿だけれど、前世では社畜OLとして忙しなく働いていた私にとって、こんな昼下がりのんびり眠れる時間があるなんて奇跡のよう。ブレイディアも王城でこんなひとときはなかっただろう。 やがて、少し風が強まって目を覚ましたとき。芝生には私たち2人が並んで寝転んでいて、ブロンさんが遠巻きに微笑ましそうに眺めていたのが可笑しかった。
庭を散策し終わると、ブレイディアは屋敷の裏手から聞こえてくる金属音に耳をすませた。そこにはフローリアス家専属の騎士や傭兵たちが訓練をしている“簡易な演習場”がある。 私も子どもらしい好奇心が湧いて、ブレイディアの手を引きながら「行ってみよう!」と誘うと、彼は嬉しそうに頷く。
石畳の広い敷地には数名の騎士がいて、木剣や鍛錬用の鉄剣で打ち合う練習をしていた。私たちの姿に気づくと、皆ピリッと姿勢を正して頭を下げる。
「殿下、ご見学でしょうか? お嬢様もご一緒で……どうぞ、こちらへ」
普段なら身分差ゆえにもっと堅苦しくなるところだが、先日のいたずら騒動などで、騎士たちも少し打ち解けてきたらしい。
「よかったら、ボクたちも、剣を振らせてもらっていいかな」
と、ブレイディアが声をかけると、騎士のひとりは戸惑いつつも「もちろん、小さめの木剣をお渡ししますので、お気をつけて」と優しい笑みを浮かべる。
私は隣で「わわ、私はいいよ。怪我しそう……」と遠慮がちに言うが、騎士が「大丈夫です。軽い木剣もありますし、力を抜いて楽しむ程度にどうぞ」と勧めてくる。
(ああ、でも……前世で一応格闘技やってたんだよね。軽い運動になるかも……)
いざ木剣を手にすると、意外にしっくりきて私は握りを確かめた。ブレイディアも王太子として剣術の初歩は習ったのか、構えを真似てみる。 騎士のひとりが笑顔で「では、殿下、左足をもう少し引いて……そうです。お嬢様は腕の高さを……うん、上手ですね、とても飲み込みがいい」と声をかける。
「え、ありがとうございます……」
思いのほか褒められて照れる私のところへ、ブレイディアがニヤリと近づいてきて「対戦しようよ」と誘う。 「む、無理だよ! ブレイディア、剣術習ってたんでしょ?」
「いや、そんなにやってないし……ちょっとくらいいいじゃん!」
騎士たちの視線もあり、私はしぶしぶ木剣を構える。 しかし、いざブレイディアが打ち込んできた瞬間、妙な反射でパシッと受け止め、すっと足を捌いて軸をずらした――前世で鍛えた体術の記憶がうっすら体に染みついているのだ。
「わぁ、すご……」
騎士たちが息を呑む。私が何も考えずに身体を動かしたら、ブレイディアの剣をうまく弾いてしまったからだ。 ブレイディアが驚いて目をぱちくりさせると、私も「あ、ごめんね、加減とか全然分からなくて……」と恐縮する。
「……やるじゃん、エマ。まるで何年も剣持ってたみたい」
嬉しそうに言ってくれるブレイディアだけど、私は子どもらしい言い訳しかできない。「い、いや運動は好きで……」なんて言葉を濁してしまう。 その後も騎士たちは「素質がありますよ、お嬢様。すぐに形を覚えるなんてすごい!」と興味津々。 私が気恥ずかしく「そんな大袈裟な……」と照れる間、ブレイディアが微妙に頬を膨らませるのが可笑しい。どうやら軽く嫉妬してる? その姿に騎士たちがくすりと笑い温かい眼差しを向ける。王妃の元で息苦しかったブレイディアが、ここではすごく伸び伸びしていると感じるのは私だけじゃなさそうだ。
そんな日常があっという間に過ぎ、ブレイディアが来てから7日が経った。
その朝、母マチルダから「殿下が王城に戻ることになった」と告げられる。王妃ミランダの処遇が決まり、王城の使用人も入れ替えられたため、もう危険はないらしい。
「……あ、そうなんだ。そっか……」
聞いた瞬間、私の心は“寂しさ”でいっぱいになった。数日の付き合いなのに、思った以上にこの子がいないと物足りなさを感じそうで。
ブレイディアも「そうですか」とだけ呟き、少し前までころころ変わっていた表情を急に引っ込めてしまう。せっかく打ち解けていたのに、また元の仮面をかぶってしまったようで、不安になる。
帰る前夜、ブレイディアの部屋。
寝る前の静かな時間、私は彼の部屋を訪ねて、いつもどおりソファに並んで座っていた。まだ黙りこくったままで、どちらも時が止まればいいのにと思っているような空気。
「ねえ、エマ……明日には、もう行くことになるんだよね。……当分、お別れかな」
ブレイディアが、そっと小さな声で言う。蝋燭の灯りが揺れ、彼の瞳を寂しそうに照らし出している。
私も黙り続けられず、「うん……王城に戻るんだから、また忙しくなるよね」とぎこちなく答える。
「……忙しくなるかもしれないけど……僕たち、……友達、だよね?」
ぱっと顔を上げると、ブレイディアは真剣な瞳をこちらに向けている。その瞳に、もう“子どもらしさ”は見えず、何か深刻なものを背負っているかのよう。
「当たり前じゃない! 何があっても、わたしたちは友達だよ。ブレイディア」
笑顔を向けると、彼は目を潤ませながら私へ抱きついた。昨日までも何度も味わったぬくもりだが、今は一段と切ない。
布団のような温かさが胸を苦しくさせる。それでも私もやわらかく抱き返すと、彼が耳元でかすれ声を漏らす。
「君は絶対に……僕を裏切らないよね?」
ドキリとする。ゲームのブレイディアが吐き捨てるように言っていたセリフを思い出すから。けれど今、私の腕のなかの彼は、どこまでも不安そうに震えているだけ。
だから私は、力強く頷き、彼の背をさすった。
「うん……絶対に裏切ったりしない。わたしたちは友達だよ。……それに、あなたには幸せになってもらいたいんだから」
ブレイディアはほっと息を吐き、かすかに微笑んだあと──私の首に顔を埋めるように、ぐっと寄りかかる。小さな体からは、やりきれない孤独が滲んでいるようだった。
こうして、帰る前夜はお互いをただ抱き合って過ごした。
翌朝、王城の迎えが屋敷へやってきた。
使いの騎士たちがブレイディアを王城へ連れ戻すために待機するなか、母マチルダや使用人たちが見送りの支度を進める。
「短い間でしたが、どうかお身体には気をつけて……」と皆が頭を下げると、ブレイディアはポーカーフェイスを取り戻したかのように淡々と応じる。
そして、門の前で馬車に乗り込む直前、ブレイディアは私のほうを一瞬だけ振り返った。
私も視線を返す。何か言いたそうな瞳。しかし、結果として何も言わないまま、王太子は馬車の扉を閉じ、ゆっくりと発進した。
(……もう、いっちゃうんだ……)
馬車が見えなくなるまで、私はずっと佇んで見送った。1週間、たったそれだけでも私の生活は彼でいっぱいだったのに、急にいなくなるとすごく寂しい。
けれど、彼がいないのが本来の姿。いつか学園に入学すれば、ブレイディアとは嫌でも顔を合わすんだ。ゲームでは確か16歳からが本編だったのだから、8年後か……などと頭の片隅が冷静に計算する自分もいる。
「……殿下。これからは、幸せになってくださいね。」
つぶやきながら、小さく胸を痛める。愛とか恋とかではない。ただ、あの子をひとりにさせたくなくて……。いつか王太子になり、そして王になる運命を背負った彼が、一番幸せになれる未来を見届けたい。
その願いが私の中で芽生えたまま、馬車は見えなくなり、使用人たちがポツリと「ああ、寂しくなりますね……」と漏らす声が聞こえてきた。
(きっと、いつか……また笑顔で会えるよね。ううん、会いに行ってみせる。絶対に裏切らないんだから)
こうして、ブレイディアが過ごした1週間は終わりを告げた。
けれど、私の心には確かな変化と、甘く危うい“彼への思い”が根付いていた。それは、やがて来る激動の学園生活や、宮廷での陰謀の火種を乗り越えるための、最初の絆となるかもしれない。
まだ何も明確に見えなくとも、私は強くそう信じた。
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馬車に乗り込んで間もなく、フローリアス家の門が視界から消えていった。
僕、ブレイディア・ライタンド・ゲバリーンドは、窓越しに朝の光が揺れる景色を眺めながら、どこかぼんやりと座っている。背もたれにぐったりと身体を預け、まるで今までの疲れが一気に押し寄せてきたような感覚だ。
無意識に片手を見下ろす。そこには、さっきまで“エマ”と繋いでいた温もりの名残がある気がした。
思い出すのは、あの夜の庭園。王宮で飼い慣らされていた僕には知らなかった、どこか自由な空気が流れる月夜。そして、そこに佇む銀髪の少女。
──あのときのエマは、青く幻想的な花々の中にいて……まるで妖精のようだった。自分でもなぜか、反射的に「綺麗」と口走っていた。
あの月夜の青い花は、僕の本当の母・アリシア王妃をイメージして植えられたものだったと、フローリアス家の人から聞いた。
母は僕を産んで3年後に亡くなり、僕の記憶にもほとんど残ってない。しかし、その青い花と銀髪が重なったエマを見たときの衝撃はまだ胸を震えさせる。
(エマ……あれだけ厄介をかけられたのに、僕以上に泣きじゃくって……。なんであんなふうに“僕の幸せ”なんか願うんだろう? ……大粒の涙を浮かべて僕の手を握ってくれた……)
思い返すと、なぜか顔が熱くなる。
嘘の笑顔しか見せずに過ごしてきた僕に、あんなにも泣いてくれる子がいるなんて……正直、戸惑う気持ちも大きい。でも、言いようのない満足感があるのも事実だ。
「……エマ……」
小さく名を呼んで、僕はぎゅっと拳を握る。離れがたい想いが湧いたのは、きっと初めてだった。
あんな弱くて優しい子が、どうしてあんなに僕を想ってくれるのか分からない。でも、裏切らないって誓ってくれたんだから……もう大丈夫だ。
そう信じると、微かな笑みが唇に浮かんだ。
馬車が王城に着いたとき、僕は人通りの少ない裏門から中へ入るよう案内された。王妃ミランダの処遇など、まだ落ち着かない事柄は多いけれど、とりあえず僕の安全は確保されているという。
通されたのは国王の執務室へ続く廊下だった。扉をノックすると中から「入れ」という低い声が聞こえる。
父、ルーカス国王は、いつもは凛とした姿勢で迎えるはずだ。でも、扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、すっかりやつれた表情の人だった。
「ブレイディア……」
父の瞳に涙が滲んでいる。
まさか、あの父がこんなに弱々しく見えるなんて……と思うと、心がぎゅっと痛む。そして同時に、僕の中に冷静な視点が生まれていた。
(これが“父様”の本当の姿なのかもしれない。……母様が亡くなってから、ずっと無理をしていたのか……)
「……父様、ただいま戻りました」
思わず「父様」と呼んだ僕に、国王は苦しげな声を漏らし、机に置いた書類を払うようにして立ち上がる。
「……ブレイディア……すまない……私は、お前があんな目に遭っているなんて知らなくて……あの女に任せきりで、本当に……すまない……」
泣きそうに唇を震わす父の姿を見て、かつての僕なら「そんなものは偽善だ」と突っぱねたかもしれない。けれど今は不思議と冷静になっている。
(父様も、ただの人間だったんだ。……母様を失って、ずっと苦しんでいたんだ)
言い表せない複雑な感情が込み上げてきて、僕はそっと父に抱きついた。以前ならあり得ない行動。
「父様……母様のこと、教えてください」
こんな言葉を自分から口にするなんて、初めてかもしれない。いつもは「母を語るなど面倒」と思っていたはずなのに。
父は驚いたように目を丸くして、そして安心したかのようにすすり泣きながら笑う。
「あぁ……いくらでも教えてあげよう。」
父は、か細い声で母アリシアとの思い出を語り始める。
幼い僕を抱きしめては笑い、青い花を眺めながら「この花はブレイディアと同じ瞳の色よ」と愛でていたこと。父もまた彼女を心から愛していたこと。
断片的な記憶しかないはずなのに、父の話を聞いているうちにまるで夢を見るように、母の微笑みがかすかに蘇ってくる気がした。
(やっぱり、そうだったんだ……。母様は、優しくて温かい人だったんだ……)
胸の奥が満たされるような甘い感覚と、同時に寂しさが入り混じる。きっと生きていてくれたら、こんな惨い日々はなかったのかもしれない。でも、今さらそれを嘆いても仕方ない。
ただ、こうして初めて父が素直に謝罪し、母の思い出を教えてくれたことが、僕には大きな一歩だった。
もう、嘘の笑顔をまとわずとも、ちゃんと家族として向き合えるかもしれない……そんな予感がする。
父の執務室を出て、自分の部屋に戻る途中、大勢の使用人や侍従たちとすれ違う。入れ替えで新しい人も多いが、皆一斉に頭を下げ、「お帰りなさいませ、王太子殿下」と恭しく声を揃える。
「……ああ」
簡単に返事して通り過ぎる。フローリアス家ではエマに隣で笑われつつも、普通に話すことができていたのに、王城に戻ってくると自然に“殿下”としての威圧感が立ち込める。
さっきまで抱きしめてくれた父も、この場では国王であり、周囲は他人行儀なのが当たり前。
このギャップが、ほんの一週間前までの自分と同じはずなのに、なぜか懐かしくもあり、少し窮屈に感じてしまう。
部屋に入ると、侍従のマルクスが待っていた。彼は以前から僕に付いてくれているできた人間だ。
マルクスが一通り挨拶を終え、深く頭を下げたあと、僕は窓際へ足を向けた。
息を吐きながら、ぼうっと外を眺める。
広い城下町が見えるけれど、フローリアス家の窓から見た景色とは全く違う気がする。
だから、僕は小さく呟いた。
「……あぁ、早く会いたいよ……僕のエマ……」
口に出した途端、ふっと頬が緩む。
むしろ幸せの余韻に浸っている。エマが「絶対裏切らないよ」と言ってくれたことが、胸を満たして止まないのだ。
静かに目を伏せる。父様とも、少しずつ正直に向き合えそうだし、母様のことも知れるかもしれない。だけど本当に息苦しいとき、頼れるのはエマとの誓いだ。
“彼女は僕を裏切らない”──そう信じられるだけで、こんなにも心が軽くなるなんて。
君だけが、僕のすべてだ。
深夜まで互いに泣きじゃくっていたせいで、まだ瞼は重く、体がだるい。けれど、私は何とか意識を引き戻し、シーツの上でもぞもぞと身を起こす。
──すると、隣には王太子ブレイディアがまだ寝息を立てていた。
「……ふふ、まるで天使みたい」
夜の涙が嘘のように、彼は穏やかな寝顔を浮かべている。完璧な王子様として振る舞う彼が、こんな無防備な姿を見せるのは今しかないのかもしれない。
ちっちゃな体、柔らかな金髪。思わず胸がきゅんとしてしまうが、決して異性としてのときめきではなく、「なんて可愛い子なんだろう」という慈しみに近い感情。
(……とはいえ、国の王太子にここまでくっついて寝るなんて、かなり非常識な行為だったよね……)
そう自覚して顔を赤くしていると、ブレイディアが微かに目を開いた。もぞりと身じろぎして、私の存在に気づくなり、
「……エマ……おはよ……」
と、眠たそうな声で呟く。
「っ……お、おはようございます、殿下!」
慌てて私はベッドから飛び降り、深く頭を下げる。顔が火照っているのは、彼に抱きついた昨夜を思い出して恥ずかしいからであって、決して“ときめき”などではない。
気持ちは大人なのに、国の王太子を独占してしまったようで妙な罪悪感があるのだ。
ところが、眠気がまだ抜けていないブレイディアは、私の恥じらいなど露知らず、ぽやんと首を傾げている。
「……エマ……体調は大丈夫……?」
なぜか私を心配してくる。
「い、いえ、殿下こそ昨夜熱があったんですから。ご無理はなさらず……!」
言葉を交わすうち、ブレイディアの瞳がふいに尖ったように感じられた。朝の寝ぼけ顔であっても、どこか拗ねた空気が漂う。
「……ねえ、その“殿下”って呼ぶのやめない?」
「え……?」
思いもよらぬ提案に心臓が跳ねる。王太子を呼び捨てにするなんてあり得ないでしょう?と咄嗟に思っていると、ブレイディアは少し唇を尖らせて目を伏せた。
「朝食の時も、夕食の時も……ずっと“殿下”って………エマ、友達になろうって言ったじゃん。あれって嘘だったの?」
「そ、そんなことありませんよ! でも、王太子様にそんな失礼な……」
慌てる私に、彼はさらに拗ねた表情を深める。
体が熱を出して弱っていた頃は見られなかった“子どもらしいわがまま”を、ここにきてむき出しにしている感じだ。
(困ったな……でも、そう言われちゃ断れない……)
「……じゃあ、人前では無理でも、二人だけのときは、呼び捨てでいいよ? ね? ほら、エマも前に“ブレイディア”って呼んでくれたじゃないか。僕はあれが嬉しかったのに……」
その瞳はどこか寂しそうで、同時に甘えたい気持ちを隠せていない。まるで子犬が飼い主に構ってほしいというような視線に、私は困惑しつつも、きっぱり決断した。
「……分かりました。じゃあ、人目がないときだけ……タメ口で呼び捨てにするね。……ブレイディア」
そう告げた瞬間、ぱっとブレイディアの顔が明るくなり、にこりと笑う。思わず私に抱きついてきた。
「ありがと、エマ……!」
「わあ……!」
小さな体でぎゅっとしがみつかれ、今度は私が逃げ場を失う。王太子にこんな風に抱きしめられるなんて………でも昨日私が先に抱きしめた手前、強く拒むのも申し訳ない。
けれど、彼はそんな私の内心など気づかずに、まるで無邪気に甘えているかのように腕を回してくる。
(なんだか……ちょっと、可愛いかも……)
ほんのり笑顔になったブレイディアの瞳の奥で、わずかに不敵な光がよぎったのを、私は知らずに見過ごした。
あの日から、ブレイディアは順調に回復していった。ちょうど一週間が経とうとしているが、初日に見られた無気力や怯えたような表情はすっかり薄れ、むしろ普通の子どもらしい面がよく出ている。
特に大きな変化は、「私への態度」と「使用人への接し方」だ。彼は全く嘘の笑顔を使わなくなり、いつの間にかリリアンやロンド、ディーオとも談笑している。
ある日、私とブレイディアが屋敷の廊下を歩いているときのこと。
何気なく通りかかった料理当番のメイドが「お嬢様に殿下、今日は新作のアップルパイがありますよ」と朗らかに声をかけた。するとブレイディアはちゅっと唇を尖らせて「アップルパイ!!僕甘いもの好きなんだよね!」と嬉しそうに答える。
メイドが「ふふ、では準備しておきますね……」と微笑めば、ブレイディアも笑顔を返す。その自然なやり取りに、私は少し心の中でほっとする。
また彼は無邪気な悪戯心を発揮し始めて、使用人相手にちょっとした仕掛けを思いつく。
たとえば、給仕室の扉からひっそりと入って、しよう人が居なくなった隙をついてクッキー盗み食いするとか、ロンドやディーオの武器置き場に紙製の人形を潜ませて驚かすとか、子どもらしい遊びを満面の笑みでやるようになった。
使用人たちは半分呆れつつも、彼が楽しそうにしているのが嬉しいらしく、苦笑しながら許容している。
「エマ、あそこにディーオがいる。どうする? さっきの紙の人形をさ……」
「ディーオは背が高いから足元はよく見えてないはず!ここら辺に置いてみよ!」
私も悪ノリしてしまいがちで、2人して忍び足で使用人に迫ったりして、結局「お、お嬢様と殿下……いい加減にしてください!」と叱られることも。
でも、そんな時間が何故か私も楽しくて、ブレイディアと顔を見合わせては笑い合う日々。彼の意地悪なところが時々顔を出すのも、子どもらしい可愛さだと感じるようになってしまっている。
さらに、私とブレイディアがエルネスティーナ先生の講義を受ける日は、彼がやけに私をからかってくる。
難しい文法や歴史の年号を間違えた私に対し、教本をツンと指し示して「ねえねえ、エマ、ここ違うんじゃない?」と子どもっぽい得意顔を見せるのだ。
「え、嘘……あ、ほんとだ! 間違ってる……うぐぐ」
私が悔しさに唸ると、ブレイディアはクスクス笑って、
「やっぱりエマって可愛いよね。すぐ顔に出るし」とサラリと言う。
「可愛いってなに~~ 」
ついついムキになる私を見て、ブレイディアは嬉しそうに微笑む。そしてまた別の問題を突いてくるから、私はぐったり疲れる。
(可愛いって最近よく言うけど、褒め言葉として言っているのか、ただからかってるだけなのか……よく分からないんだけど……)
しかし、どんなに意地悪を言われても、まるで兄妹みたいにじゃれ合う時間は私にとっても心地いい。
彼が夜に無理やり腕を引き寄せるわけでもなく、でもいつもくっつきたがる。ただただ「かわいい子が甘えている」程度の感覚だ。
また別のある昼下がり、私たちはメイドのリリアンが用意してくれた軽食を片手に、屋敷の広大な庭園へと出かけた。 そこは四季折々の花が咲き乱れ、今は紫やピンクの花々がいきいきと顔を見せている。芝生が柔らかく、さざ波のように風が揺れる光景は、一見すると夢の世界のようだ。
「わあ……こんなにたくさんの花があるんだね」
ブレイディアが驚いたように目を丸くしている。表情こそまだ子どもっぽいが、彼にとっては王城のきっちり整備された花壇とはまた違った印象らしい。
「そうでしょ! この庭はうちの庭師、ブロンさんが丁寧に育ててくれているの。ほら、向こうでバラの手入れを……あ、ブロンさーん! こんにちは」
私が手を振ると、気づいた庭師が帽子を取ってこちらへ一礼する。 「お嬢様、そして殿下。どうですか、花の具合は? 今年は少し寒かったので心配でしたが、思ったより元気に咲いてくれましたよ」
初めて顔を合わせる庭師に、ブレイディアは少し緊張した面持ちで「ええ、とても綺麗です。なんだか、あたたかい雰囲気がありますね」と返す。 ブロンさんは目を細めてにっこり笑い、「ありがとうございます。こうして素直に褒めていただけると励みになります」と嬉しそうだ。
そんなやり取りが微笑ましく、私は思わずほっこりした気分になる。ブレイディア自身が子どもらしい柔らかい表情を浮かべているのが嬉しい。
「じゃあ、ブレイディア。せっかくだから、あの木陰の下で座ってみない?」
裏庭には、腰を下ろせるほど広い芝生があり、木漏れ日がちらちら揺れる木陰がとても心地いい。私が手を引くと、ブレイディアは「うん」と少し照れたように頷いて、隣に腰をおろす。
「……風が気持ちいいね。王城じゃ、こんなにゆっくりと座ったりできなかった」
ぽつりと呟く彼を見て、私は実感する。きっと普段は、きっちりとした椅子に座り、“王太子”としての姿勢や作法を求められているのだろう。 そのまま2人で敷き詰められた短い草の上に背中を預けると、空が青く、穏やかな雲が流れている。思わず大きく伸びをして、昼の暖かな陽射しにふわりと包まれた。
「……エマ。なんか……眠くなってきた」
ブレイディアがあくびを噛み殺しながら、パタンと芝の上に横になった。子どもらしい居眠りは微笑ましいけど、私もつい釣られてまどろんでしまう。 庭師さんも離れたところで作業しているから、邪魔になる気配はない。気づけば私たちは、そのまま昼寝に入っていた。
(ああ、なんて穏やかなんだろう。平和……)
8歳の姿だけれど、前世では社畜OLとして忙しなく働いていた私にとって、こんな昼下がりのんびり眠れる時間があるなんて奇跡のよう。ブレイディアも王城でこんなひとときはなかっただろう。 やがて、少し風が強まって目を覚ましたとき。芝生には私たち2人が並んで寝転んでいて、ブロンさんが遠巻きに微笑ましそうに眺めていたのが可笑しかった。
庭を散策し終わると、ブレイディアは屋敷の裏手から聞こえてくる金属音に耳をすませた。そこにはフローリアス家専属の騎士や傭兵たちが訓練をしている“簡易な演習場”がある。 私も子どもらしい好奇心が湧いて、ブレイディアの手を引きながら「行ってみよう!」と誘うと、彼は嬉しそうに頷く。
石畳の広い敷地には数名の騎士がいて、木剣や鍛錬用の鉄剣で打ち合う練習をしていた。私たちの姿に気づくと、皆ピリッと姿勢を正して頭を下げる。
「殿下、ご見学でしょうか? お嬢様もご一緒で……どうぞ、こちらへ」
普段なら身分差ゆえにもっと堅苦しくなるところだが、先日のいたずら騒動などで、騎士たちも少し打ち解けてきたらしい。
「よかったら、ボクたちも、剣を振らせてもらっていいかな」
と、ブレイディアが声をかけると、騎士のひとりは戸惑いつつも「もちろん、小さめの木剣をお渡ししますので、お気をつけて」と優しい笑みを浮かべる。
私は隣で「わわ、私はいいよ。怪我しそう……」と遠慮がちに言うが、騎士が「大丈夫です。軽い木剣もありますし、力を抜いて楽しむ程度にどうぞ」と勧めてくる。
(ああ、でも……前世で一応格闘技やってたんだよね。軽い運動になるかも……)
いざ木剣を手にすると、意外にしっくりきて私は握りを確かめた。ブレイディアも王太子として剣術の初歩は習ったのか、構えを真似てみる。 騎士のひとりが笑顔で「では、殿下、左足をもう少し引いて……そうです。お嬢様は腕の高さを……うん、上手ですね、とても飲み込みがいい」と声をかける。
「え、ありがとうございます……」
思いのほか褒められて照れる私のところへ、ブレイディアがニヤリと近づいてきて「対戦しようよ」と誘う。 「む、無理だよ! ブレイディア、剣術習ってたんでしょ?」
「いや、そんなにやってないし……ちょっとくらいいいじゃん!」
騎士たちの視線もあり、私はしぶしぶ木剣を構える。 しかし、いざブレイディアが打ち込んできた瞬間、妙な反射でパシッと受け止め、すっと足を捌いて軸をずらした――前世で鍛えた体術の記憶がうっすら体に染みついているのだ。
「わぁ、すご……」
騎士たちが息を呑む。私が何も考えずに身体を動かしたら、ブレイディアの剣をうまく弾いてしまったからだ。 ブレイディアが驚いて目をぱちくりさせると、私も「あ、ごめんね、加減とか全然分からなくて……」と恐縮する。
「……やるじゃん、エマ。まるで何年も剣持ってたみたい」
嬉しそうに言ってくれるブレイディアだけど、私は子どもらしい言い訳しかできない。「い、いや運動は好きで……」なんて言葉を濁してしまう。 その後も騎士たちは「素質がありますよ、お嬢様。すぐに形を覚えるなんてすごい!」と興味津々。 私が気恥ずかしく「そんな大袈裟な……」と照れる間、ブレイディアが微妙に頬を膨らませるのが可笑しい。どうやら軽く嫉妬してる? その姿に騎士たちがくすりと笑い温かい眼差しを向ける。王妃の元で息苦しかったブレイディアが、ここではすごく伸び伸びしていると感じるのは私だけじゃなさそうだ。
そんな日常があっという間に過ぎ、ブレイディアが来てから7日が経った。
その朝、母マチルダから「殿下が王城に戻ることになった」と告げられる。王妃ミランダの処遇が決まり、王城の使用人も入れ替えられたため、もう危険はないらしい。
「……あ、そうなんだ。そっか……」
聞いた瞬間、私の心は“寂しさ”でいっぱいになった。数日の付き合いなのに、思った以上にこの子がいないと物足りなさを感じそうで。
ブレイディアも「そうですか」とだけ呟き、少し前までころころ変わっていた表情を急に引っ込めてしまう。せっかく打ち解けていたのに、また元の仮面をかぶってしまったようで、不安になる。
帰る前夜、ブレイディアの部屋。
寝る前の静かな時間、私は彼の部屋を訪ねて、いつもどおりソファに並んで座っていた。まだ黙りこくったままで、どちらも時が止まればいいのにと思っているような空気。
「ねえ、エマ……明日には、もう行くことになるんだよね。……当分、お別れかな」
ブレイディアが、そっと小さな声で言う。蝋燭の灯りが揺れ、彼の瞳を寂しそうに照らし出している。
私も黙り続けられず、「うん……王城に戻るんだから、また忙しくなるよね」とぎこちなく答える。
「……忙しくなるかもしれないけど……僕たち、……友達、だよね?」
ぱっと顔を上げると、ブレイディアは真剣な瞳をこちらに向けている。その瞳に、もう“子どもらしさ”は見えず、何か深刻なものを背負っているかのよう。
「当たり前じゃない! 何があっても、わたしたちは友達だよ。ブレイディア」
笑顔を向けると、彼は目を潤ませながら私へ抱きついた。昨日までも何度も味わったぬくもりだが、今は一段と切ない。
布団のような温かさが胸を苦しくさせる。それでも私もやわらかく抱き返すと、彼が耳元でかすれ声を漏らす。
「君は絶対に……僕を裏切らないよね?」
ドキリとする。ゲームのブレイディアが吐き捨てるように言っていたセリフを思い出すから。けれど今、私の腕のなかの彼は、どこまでも不安そうに震えているだけ。
だから私は、力強く頷き、彼の背をさすった。
「うん……絶対に裏切ったりしない。わたしたちは友達だよ。……それに、あなたには幸せになってもらいたいんだから」
ブレイディアはほっと息を吐き、かすかに微笑んだあと──私の首に顔を埋めるように、ぐっと寄りかかる。小さな体からは、やりきれない孤独が滲んでいるようだった。
こうして、帰る前夜はお互いをただ抱き合って過ごした。
翌朝、王城の迎えが屋敷へやってきた。
使いの騎士たちがブレイディアを王城へ連れ戻すために待機するなか、母マチルダや使用人たちが見送りの支度を進める。
「短い間でしたが、どうかお身体には気をつけて……」と皆が頭を下げると、ブレイディアはポーカーフェイスを取り戻したかのように淡々と応じる。
そして、門の前で馬車に乗り込む直前、ブレイディアは私のほうを一瞬だけ振り返った。
私も視線を返す。何か言いたそうな瞳。しかし、結果として何も言わないまま、王太子は馬車の扉を閉じ、ゆっくりと発進した。
(……もう、いっちゃうんだ……)
馬車が見えなくなるまで、私はずっと佇んで見送った。1週間、たったそれだけでも私の生活は彼でいっぱいだったのに、急にいなくなるとすごく寂しい。
けれど、彼がいないのが本来の姿。いつか学園に入学すれば、ブレイディアとは嫌でも顔を合わすんだ。ゲームでは確か16歳からが本編だったのだから、8年後か……などと頭の片隅が冷静に計算する自分もいる。
「……殿下。これからは、幸せになってくださいね。」
つぶやきながら、小さく胸を痛める。愛とか恋とかではない。ただ、あの子をひとりにさせたくなくて……。いつか王太子になり、そして王になる運命を背負った彼が、一番幸せになれる未来を見届けたい。
その願いが私の中で芽生えたまま、馬車は見えなくなり、使用人たちがポツリと「ああ、寂しくなりますね……」と漏らす声が聞こえてきた。
(きっと、いつか……また笑顔で会えるよね。ううん、会いに行ってみせる。絶対に裏切らないんだから)
こうして、ブレイディアが過ごした1週間は終わりを告げた。
けれど、私の心には確かな変化と、甘く危うい“彼への思い”が根付いていた。それは、やがて来る激動の学園生活や、宮廷での陰謀の火種を乗り越えるための、最初の絆となるかもしれない。
まだ何も明確に見えなくとも、私は強くそう信じた。
______________________________
馬車に乗り込んで間もなく、フローリアス家の門が視界から消えていった。
僕、ブレイディア・ライタンド・ゲバリーンドは、窓越しに朝の光が揺れる景色を眺めながら、どこかぼんやりと座っている。背もたれにぐったりと身体を預け、まるで今までの疲れが一気に押し寄せてきたような感覚だ。
無意識に片手を見下ろす。そこには、さっきまで“エマ”と繋いでいた温もりの名残がある気がした。
思い出すのは、あの夜の庭園。王宮で飼い慣らされていた僕には知らなかった、どこか自由な空気が流れる月夜。そして、そこに佇む銀髪の少女。
──あのときのエマは、青く幻想的な花々の中にいて……まるで妖精のようだった。自分でもなぜか、反射的に「綺麗」と口走っていた。
あの月夜の青い花は、僕の本当の母・アリシア王妃をイメージして植えられたものだったと、フローリアス家の人から聞いた。
母は僕を産んで3年後に亡くなり、僕の記憶にもほとんど残ってない。しかし、その青い花と銀髪が重なったエマを見たときの衝撃はまだ胸を震えさせる。
(エマ……あれだけ厄介をかけられたのに、僕以上に泣きじゃくって……。なんであんなふうに“僕の幸せ”なんか願うんだろう? ……大粒の涙を浮かべて僕の手を握ってくれた……)
思い返すと、なぜか顔が熱くなる。
嘘の笑顔しか見せずに過ごしてきた僕に、あんなにも泣いてくれる子がいるなんて……正直、戸惑う気持ちも大きい。でも、言いようのない満足感があるのも事実だ。
「……エマ……」
小さく名を呼んで、僕はぎゅっと拳を握る。離れがたい想いが湧いたのは、きっと初めてだった。
あんな弱くて優しい子が、どうしてあんなに僕を想ってくれるのか分からない。でも、裏切らないって誓ってくれたんだから……もう大丈夫だ。
そう信じると、微かな笑みが唇に浮かんだ。
馬車が王城に着いたとき、僕は人通りの少ない裏門から中へ入るよう案内された。王妃ミランダの処遇など、まだ落ち着かない事柄は多いけれど、とりあえず僕の安全は確保されているという。
通されたのは国王の執務室へ続く廊下だった。扉をノックすると中から「入れ」という低い声が聞こえる。
父、ルーカス国王は、いつもは凛とした姿勢で迎えるはずだ。でも、扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、すっかりやつれた表情の人だった。
「ブレイディア……」
父の瞳に涙が滲んでいる。
まさか、あの父がこんなに弱々しく見えるなんて……と思うと、心がぎゅっと痛む。そして同時に、僕の中に冷静な視点が生まれていた。
(これが“父様”の本当の姿なのかもしれない。……母様が亡くなってから、ずっと無理をしていたのか……)
「……父様、ただいま戻りました」
思わず「父様」と呼んだ僕に、国王は苦しげな声を漏らし、机に置いた書類を払うようにして立ち上がる。
「……ブレイディア……すまない……私は、お前があんな目に遭っているなんて知らなくて……あの女に任せきりで、本当に……すまない……」
泣きそうに唇を震わす父の姿を見て、かつての僕なら「そんなものは偽善だ」と突っぱねたかもしれない。けれど今は不思議と冷静になっている。
(父様も、ただの人間だったんだ。……母様を失って、ずっと苦しんでいたんだ)
言い表せない複雑な感情が込み上げてきて、僕はそっと父に抱きついた。以前ならあり得ない行動。
「父様……母様のこと、教えてください」
こんな言葉を自分から口にするなんて、初めてかもしれない。いつもは「母を語るなど面倒」と思っていたはずなのに。
父は驚いたように目を丸くして、そして安心したかのようにすすり泣きながら笑う。
「あぁ……いくらでも教えてあげよう。」
父は、か細い声で母アリシアとの思い出を語り始める。
幼い僕を抱きしめては笑い、青い花を眺めながら「この花はブレイディアと同じ瞳の色よ」と愛でていたこと。父もまた彼女を心から愛していたこと。
断片的な記憶しかないはずなのに、父の話を聞いているうちにまるで夢を見るように、母の微笑みがかすかに蘇ってくる気がした。
(やっぱり、そうだったんだ……。母様は、優しくて温かい人だったんだ……)
胸の奥が満たされるような甘い感覚と、同時に寂しさが入り混じる。きっと生きていてくれたら、こんな惨い日々はなかったのかもしれない。でも、今さらそれを嘆いても仕方ない。
ただ、こうして初めて父が素直に謝罪し、母の思い出を教えてくれたことが、僕には大きな一歩だった。
もう、嘘の笑顔をまとわずとも、ちゃんと家族として向き合えるかもしれない……そんな予感がする。
父の執務室を出て、自分の部屋に戻る途中、大勢の使用人や侍従たちとすれ違う。入れ替えで新しい人も多いが、皆一斉に頭を下げ、「お帰りなさいませ、王太子殿下」と恭しく声を揃える。
「……ああ」
簡単に返事して通り過ぎる。フローリアス家ではエマに隣で笑われつつも、普通に話すことができていたのに、王城に戻ってくると自然に“殿下”としての威圧感が立ち込める。
さっきまで抱きしめてくれた父も、この場では国王であり、周囲は他人行儀なのが当たり前。
このギャップが、ほんの一週間前までの自分と同じはずなのに、なぜか懐かしくもあり、少し窮屈に感じてしまう。
部屋に入ると、侍従のマルクスが待っていた。彼は以前から僕に付いてくれているできた人間だ。
マルクスが一通り挨拶を終え、深く頭を下げたあと、僕は窓際へ足を向けた。
息を吐きながら、ぼうっと外を眺める。
広い城下町が見えるけれど、フローリアス家の窓から見た景色とは全く違う気がする。
だから、僕は小さく呟いた。
「……あぁ、早く会いたいよ……僕のエマ……」
口に出した途端、ふっと頬が緩む。
むしろ幸せの余韻に浸っている。エマが「絶対裏切らないよ」と言ってくれたことが、胸を満たして止まないのだ。
静かに目を伏せる。父様とも、少しずつ正直に向き合えそうだし、母様のことも知れるかもしれない。だけど本当に息苦しいとき、頼れるのはエマとの誓いだ。
“彼女は僕を裏切らない”──そう信じられるだけで、こんなにも心が軽くなるなんて。
君だけが、僕のすべてだ。
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