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35.◆王国情勢◆
しおりを挟む「――ならばやはり、この首一つで事を治めるしかないだろう」
「……」
もうじき夜も明けるという静謐な時刻に、仄かな燭台一つだけが灯された薄暗い室内で零された若い男の声音は、その内容のわりにあっけらかんとしていた。
粗末ではないが、愛用品に比べれば確実に座り心地の悪い椅子に文句ひとつ零すことなく、ただ足を組み替えただけで彼は――聖イグナベルク王国王太子であった男は、更に言葉を続ける。
「妃も無事に国へ還した。今となっては、子がいないことは幸いだったな。あのクソ親父だけは最後に心ゆくまでぶん殴って、泣いて詫びをいれさせたいが……まぁ、先代の尻拭いを終わらせた上に、この混乱をも乗り切った……善き王だ」
ふっ、と吐息で笑ってさえみせた元王太子へ、その足元に跪いていた騎士は酷い渋面のまま、それでも冷静な声音で問いかける。
「第二王子殿下の背後には、ゼーラン教が食い込んでおります。あ奴らはいずれ、積極的に魔族と敵対するでしょう。その際ザルツヴェストとの約定をこちらから違えることになれば、次こそ王国の滅亡は必至。陛下も儂同様に老いた身となられた今、殿下より他に誰がこの先、微妙な舵取りを担えましょうか」
「お前の懸念はわかるぞ、近衛隊長……いや、ロレンツ爺。だが、あいつも俺の弟だ。ただの愚者ではない」
そう呟きながらも長年王太子として、この国に生まれた第一王子として生きてきた、アルベルト・ノズ・イグナベルクはまだ薄暗い窓の向こうへと視線を向けた。
そして思案するのは、自分亡き後の国のことだ。
そもそも聖イグナベルク王国の苦難は、彼の父王の父、若き祖父が王であった時代に犯した愚行によって始まった。
決して侵してはならぬ、と昔から伝えられてきた魔族の国・ザルツヴェストの領土から稀少鉱石の大規模盗掘をやらかしたのだ。それも、三十年近くに渡って。
発端は欲に目の眩んだ下級貴族の暴挙であり、その愚者は魔族を恐れ細々と採掘作業に手を染めていた。だが何事もなく数年が経つにつれ、徐々にその規模を大きくし、莫大な利益を得始めた。
そこでようやく国王すらもが知る事態となったわけだが、魔族に捨て置かれている現状をこれ幸いと、その男爵領を半ば王国直轄地とし採掘を続けさせたという。
古来より魔王と呼ばれる存在を戴くザルツヴェストへの領土侵犯という敵対行為には、どれほどの危険があるか理解していなかったわけではないというのに。
それでも、時の王は貪欲に利益を求めた。
度重なる災害と長年の天候不良により、王国の財政は逼迫していたからだ。
打てる手もほぼ尽き、このままでは隣国へ事実上の併呑となるのも時間の問題だったが、盗掘した稀少鉱石を諸外国へ売り捌くことでその危機を脱することができた。
そのうえ、来るべきザルツヴェストからの報復に備え、軍事部門を大幅に増強することさえ――。
だが、人の枠では測れない魔族を相手に、人間がいくら浅知恵を巡らそうとも太刀打ちできるはずもない。
それを先代王は、自らの首が玉座の足元へ転がった時には、気づいたのだろうか。
突如として王宮の謁見の間、それも新年の祝いを述べるべく集まった有力貴族たちが勢揃いする場に現れた、魔族の『使者』。
その恐るべき異形は瞬く間に王の首をはねると、魔王からの伝言を告げたという。
長年の領土侵犯に対する報復を始める、と。
その日を境に、王国の国境線は魔族たちの遊び場となったのだ。
王を殺した時のように転移魔法で直接王宮に乗り込んで完全制圧する、という戦法をなぜかザルツヴェストは取らなかったが、おそらくそれこそが報復だと王国の為政者たちが気づくのに、そう時間は必要なかった。
魔族たちは交戦に勝利しても王国中枢まで攻め入ろうとはせず、ただ散発的な戦争を繰り返したのだ。
王国の体力がじわじわと尽き、やがて内部から崩壊していく様を愉しむつもりなのだろう――そう悟ったとしても、負け戦に臨み続けるしか手はなかった。
そんな国の、祖父の跡を継ぎ即位したばかりの王を父として、アルベルトは生を受けたのだ。
やがて彼が成長し戦場に立つようになってからも、王国の状況は何一つ変わらなかった。むしろ、悪化の一途を辿るのみ。
戦争を終わらせられない王への不満は、王一派と貴族の派閥対立を煽り、疲弊していく民の心には隣国の手引きにより過激な新興宗教が入り込んだ。
遅効性の毒を日々少しずつ飲まされていくような現状をどうにか変えられないかと、正式に王太子の地位に就いたアルベルトは積極的に自ら戦場へ赴いた。
その成果として、魔族の中でも上位者らしき者と言葉を交わせることもあり、局地的な停戦をもぎ取ったこともあれば、才能溢れる無名の若者を自らの直属として囲い込み、後の戦況を大いに変える一助となったこともある。
だがそんなアルベルトの努力も今から半年前のある日、唐突に終わりを迎えてしまった。
彼の子飼い、王国の中でも秘密裏に最大戦力とみなされていた若き魔導士の身柄と引き換えに、全面的な停戦協定を魔族側から王へ持ち掛けたことによって。
事の全てをアルベルトが知ったのは、自分の直属の配下が既に魔族たちへと引き渡された、その後だった。
相手が父とはいえど自らの直属の臣下を奪われたという事後報告も、いくら鬼才の魔導士とはいえまだ十五、六そこそこの少年の命一つ守れなかったことも、何よりその王の判断を王太子としてなら許容できる自分に静かに深く憤りながら、嫌な予感を彼は覚えていた。
王国の隠し玉として内外にできるだけ秘してきた魔導士は、王一派に長年属していた有力名門貴族当主の末子でもあった。それを敵国へ、売り払ったのだから。
その予感は、ザルツヴェストとの停戦協定を結んでから僅か半年で表面化することになってしまった。
つまり、約四十年にも及んだ長年の戦争責任を誰が負うか、という政争に王一派が敗れたわけだ。
それでも王に対する批判、反感その他諸々を、戦時中は武闘派として高く評価されていた王太子へ一手に背負わせることにより、聖イグナベルク王国という国体の存続は成し得た。
王の代わりに糾弾されることになった王太子個人としては、たまったものではないが。
だがそれも、王家に生を受けた者の宿命と思えば――。
「……まぁ……王太子の座を退いて責任を取ったはずなのに、内乱を誘発しかけたなどという罪状まで更に押し付けられて、明日……いやもう今日か……今日処刑とは、さすがに納得いかんがな」
「っでしたら!……今ならばまだ、手はございますと申し上げております。――陛下も、それをお望みです」
「だから、それはくどいと言っている。俺の身代わりとして、見ず知らずの民を犠牲にすると言うのだろう?そこまで落ちぶれさせてくれるなよ。俺は今まで誰の為に、戦場に立ってきた?その意味まで、奪ってくれるな」
「――王国の民の為と仰るならば影武者を立てて殿下は生き延び、陰から弟君をお支えすべきです。それとも……殿下をも見殺しにせよと、この爺にお命じなさるのか……」
諦めに満ちながらも決意と矜持に満ちた若者の声音と、苦渋と悲壮さをさらけ出す老騎士の声音が静かに紡がれるなか、王国史における悲劇の一頁の幕開けとなる朝日がゆっくりと空を侵食し始めた、その時。
「はいお邪魔しますよ、お久しぶりですね。王国の老いぼれ騎士と小型闘牛王太子――あぁ、もう『元』がつくんでしたねぇ?」
「……何者だ?」
「貴様ッ……サリオンか!?」
咄嗟に立ち上がりアルベルトを背後に庇うように抜剣した騎士は、半年前に直接対峙した魔族の一人を見間違えることはなかった。
何の前触れもなく薄暗い室内の影から湧いて出たような異形の魔族は、下半身の蛇身を愉しげにくねらせながら、その中性的な美貌を艶やかな笑みに形作る。
そして、形の良い唇から絶対の宣告を下した。
「我らのユーリオたん、んんっ、おっと私としたことが……えぇ、我らのユーリオ君が殿下の命を是非にとご所望なので、そこの騎士と一緒に来てもらいますよ?はい、転移――」
なぜそこを言い直す必要があった?
呆気に取られながらも聞き覚えのある名に、そんな疑問を反射的に思い浮かべた瞬間、二人の体は不慣れな浮遊感に包まれていた。
そして一呼吸の後、
「わ、わわっ……本当にもう殿下が来ちゃった!?あの、お久しぶりです……覚えておられないかもしれないけれど直属にして頂いていた、ユーリオ・ヴァロットです」
「こら人間、女王様の前で直立のまま拝謁するとは無礼千万ッスよ!跪く!」
「ごめんねウーギは黙ってて。あと魔王っ……あの、あのさ本当にありがとう?だからちょっと放してくれない?サリオンも実働部隊ありがとう!」
「いえいえ、ユーリオ君のためならばこの程度、造作もありません。もし仮に陛下のお許しが出ずとも、このサリオンならば手は打ちますので、今後とも何なりとお申し付けくださいね?私、使いようによっては陛下よりも便利ですよ~?ふふふ」
明るく煌びやかな豪奢な室内で、記憶にあるのとは別人のような当の魔導士に出迎えられた。
だがその小柄な体に背後から覆いかぶさるように抱き着いている長い銀髪の大男からジト目で見据えられ、先代王を弑逆したと伝わる容姿そのものの巨大兎と、明らかにただ自らを売り込むことに執心している魔族の宰相と名高き蛇を前に、さすがのアルベルトもしばし開いた口が塞がらなかった。
とにかく情報量が多い、と。
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