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6.戯れ
しおりを挟むこれは一体どういうことか、そろそろ尋ねるべきだろうか……。
フレンが解き直した問題の一つを改めてチェックしながら、キオは隣に座る主を横目でちらりと観察した。
最初の会話だけであれば、普段と特に変わりはないように思えたのだが。
(……課題の進みがいつもより遅い。ため息が多い。集中力はあるはずなのに、やけに注意散漫……本当に雨のせい、か?)
キオが目を覚ました頃よりかは幾分穏やかになっているとはいえ、しっかりとした雨音はいまだ耳に届く。
丸机に置かれたランプを始め、必要最低限の明かりしか灯されていない質素な室内。その隅に同居する薄暗さも、気分を沈下させるには充分過ぎるのかもしれない。
とはいえ、それはそれ、これはこれ。
「――はい殿下、問三と五の計算結果が誤りです。こんな基礎計算で建造でもしたら、建てる端から崩れますよ。責任者なら、物理的に首切りです」
「うっ……」
「あと、そちら……今ちょうど解かれているランカロット語の訳文ですが、王が実の娘と堂々と結婚してどうするんですか。正しくは『王はその場にて、娘たるアデリアの婚約は白紙に戻すと宣言した』です」
「え、このアデリアって娘なの!?王の妹だと思ってた……」
「あ?妹と結婚もマズいだろうが……こほん。ランカロット王国第八代の王と、その王女――後の第九代国王にして初の女王。その二人を主人公に据えた、親子二代の有名な歴史物語からの出典です。エクランドの主要同盟国で百年程前の史実でもありますから、正確に記憶しておかないと、どこかで恥をかきますよ」
「ふーえーぇ……史実……この泥沼が?……きぞくこわい……」
「慄かれている殿下も可愛いですが、こちらの貴族名鑑暗記問題ではミスが三か所ですね。自国の有力貴族くらい、殿下のような王子様ならせめてきっちり覚えろって、前も言いませんでしたっけ」
「…………むぅー……」
主本人が今を勉強時間に充てると決めたならば、それに付き合うキオも容赦はしない。
フレンにとって蓄える知識こそが、今後の彼の人生を支える唯一の武器となれるはずなのだから。
だが、いつもよりミスの多い解答を片っ端から手厳しく指摘しながらも、段々と頬を膨らませ始めた柔らかな子供の顔をそっと指先で数度つつく悪戯も、キオは忘れていなかった。
「ふふっ。すみません、少しオレが意地悪でしたね。というより、今日の課題は……どの分野も、まだ殿下には少し難しすぎませんか?」
やや不満げではあったが、おとなしくされるがままであった子供は、離れていく白い指先をじっと見送りながらポツリと呟いた。
「それ全部、兄たちに課せられた修了問題集」
「……王子殿下方の基礎教育修了は確か、十六歳頃が目安でしたね。へぇ……やるじゃないですか、フレン殿下」
机上に散らばる用紙のうち、正答できたものと誤答があったものとを選り分けて整えながら、キオは記憶から引き出した知識を基に、自分の小さな主をそう称賛した。
まるで自分のことのように誇らしげに、心の底からの微笑を浮かべて。
だが、そんな些細なご褒美を何よりも喜んでいたはずの王子は、普段とは違って少しもはにかむことすらなく翡翠の瞳を伏せて、目を逸らす。
そして僅かな逡巡の後、再び顔を上げると、
「ちなみに、どの兄王子たちも正答できなかった問題の詰め合わせ……だったんだけど……。どうしてキオは全部解けるの?前から思ってただけど、やっぱりすごすぎない?もうさ、普段からキオが全教科の先生してよ」
そう仏頂面で、言い放った。
だが、それをどこかわざとらしいと感じるのは、培ってきた時間の成果だろうか。
頭の隅ではそう考えながらも、キオはフレンからの称賛をさも当然とばかりに頷いて見せた。
「専門家たちには負けますが、オレもそこそこやるでしょう?だから殿下も頑張ってくださいね。王子殿下が一介の護衛に敗けてちゃ無様でしょ……っと、兄君たちには今のオレの発言は絶対内緒でお願いしますよ」
「心配しなくとも、僕が兄たちに会うことなんてないから。でもでも、キオは規格外だよね?誰でもこんな博識ではないよね!?」
「ふっふっふ。もっと褒めてくれてもいいんですよ~。何ならヨシヨシしてくれます?」
何を悩んでいるかなど、教えてくれなくともいい。
ほんの少しの寂しさはあったとしても、フレンという小さな主の全てを把握したいわけではない。
こんなふざけた軽い会話一つで少しでもその心が晴れるなら、自分が今ここにいる意味としては充分過ぎるのだから。
覇気のなかった主の声音が、次第に普段と同じものになっていくのを聞きながら、キオはそのまま机上に重ねた自分の手の上に頬をつけ、隣の少年を上目遣いで見つめてみた。
きっと「子供に子供扱いさせる大人ッ!絶対に後が怖いッ!」だなんだのと、更に元気になることだろう。
と予想していたものの、小さく口を開けたままのフレンとパチリと絡んだ視線の先では、翡翠の瞳が心なし見開かれていて――。
(あ、まっずいな。オレとしたことが外したか)
いくら子供相手とはいえ狙った洒落が滑った気まずさをなかったことにしようと、キオは冗談で片付ける台詞を口にしようとした。
「なーんて……え」
それが不自然に途切れたのは、キオよりもまだまだ小さな手にそっと髪に触れられたからだ。
どこか緊張した面持ちで唇をきゅっと結んだフレンは、そのままゆっくりと青黒髪の頭を優しく掌全体で撫で上げた。
ぽん、ぽん、と上がるその軽い音と感触に、今更「冗談でした」などと言えるはずもなく、キオは軽く目を瞬きながらもじっとするほかない。
雨音だけが響くなかで、丸机の上に突っ伏しているようにしか見えない護衛と、その頭を撫で続ける主。
(いやいや、おかしいだろ。いい歳した男が子供に頭撫でてもらうとか、それこそ冗談だろ……)
じわりと滲み始める羞恥心を自覚しながらも、何となく心地のいい感触に、複雑な想いを抱いたまま耐えていたキオだったが……。
「キオは、すごいな。とても……とてもとても、頑張ったんだね」
そう静かに穏やかに告げる、まだ声変わりも迎えていない少年の、奏でるような声。
それは、キオが心の底から大切に想っていた頃の男の声とは、到底似ても似つかない。
だというのに――。
――そうか、頑張ったな。キオ――
微かな笑みを纏う男がそう言って、頭を撫でてくれていた頃の記憶が鮮やかに、蘇ってしまった。
(……っ……え、あ、何だ……これ……)
その瞬間ぐっと胸からせり上がってくる何かは、ともすれば視界を滲ませる熱へと変わろうとする。
(は?なんでオレが、泣きそうに、なって……おいしっかりしろ、口を動かせ、何か軽く答えてやらないと――)
椅子をずらし、キオの方へと体を寄せたフレンの表情を窺い知ることはできない。
だが、大人よりも確かに小さな手は何度も何度も繰り返し、その従者の頭を撫で続ける。
「…ふっ、ふふ。殿下からこんな労いを受けられるなら、頑張った甲斐もありましたね。では、そろそろ……あの、フレン殿下?」
そう笑って誤魔化して、さっさと体を起こそうとしたキオだったが、今度はフレンが同じように横へ身を屈めてきて動きを止められてしまう。
括りきれていない蒼黒の長い横髪を一筋、指に絡めた主がいたからだ。
キオから拳一つ分ほどの距離を開けて机の上に顔を乗せたフレンは、その指先でくるくると護衛の髪を弄びながら、静かに言った。
「それって全部、あの人の――オルデアス公のためだったの?」
急に大人びたような、感情を隠した静かな顔つき。
けれど、その翡翠の瞳に灯す光だけは、やけに強い。
その初めて見るフレンの顔に、キオは一瞬質問の意図を図り損ねた。
オルデアス公と称されるジルヴェストが、自分の異母兄であることは勿論フレンは知っている。
わざわざ当主自らが、一族の者の働きぶりを聴取するために何度もこの離宮に通う理由にもしているからだ。
異母とはいえオルデアスという特殊な一族における、たった二人きりの兄弟。
それも片や当主。だからこそ、色々と積もる話も多い――ジルヴェストがそうフレンへ告げるのを、同席したキオも聞いていた。
それは、主と護衛が初めて顔を合わせた日のことだった。
オルデアスの護衛にさして興味もなかったフレンは、ただおざなりに頷いていただけだったが、ジルヴェストとキオの血縁関係はその時に理解しているはずだ。
だから、キオは少し混乱しながら口を開いた。
「……弟の……オレの出来が悪いと……まぁ、迷惑をかけますし?」
弟の自分が異母兄であり庇護者でもあったジルヴェストの為に努力するのは当然で、あの日が来るまでは、喜びでもあった。
だから何故それをわざわざ問われるのか、わからない。
吐息も混じりそうなこの距離の近さも、主の指に囚われたままの髪先へその唇を寄せられるのも、意味がわからない。
ただ今は、フレンから離れてはいけない気がして、並んで机に顔を乗せたままキオはほんの少しだけ小首を傾げた。
「そう……なら――」
だから、動けなかった。
おもむろに伸ばされた子供の手が、そっと自分の頬へ触れ、あっという間に視界を占めた翡翠の色。
その状況を頭が理解した時には、既にキオの唇は同じく柔らかな熱で塞がれていた。
(……は?…………あぁ゛?)
ぴくっと護衛の目元が引きつったのを察したのか、すぐに主の戯れは終わった。
キオは深いため息と共に身を起こしながら、さすがにこれは看過できないと普段よりも低い声音を意識して、この悪戯を諫めようとしたのだが――。
「フレデリック殿下。いくらオレ相手とはいえ、悪ふざけが過ぎ――」
「こういうことも全部、あの人のため?」
先程までの自分と同じように、丸机の上に伏せたまま見上げてくる主。
感情を消したその表情に、どこか固い声音で呟かれたその言葉に、キオは思わず息を呑んだ。
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