獣の幸福

嘉野六鴉

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39.黒雨 後編

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 意味がわからない。
 驚きで無様な涙が止まったのはいいが、自分に向かって振り下ろされる魔獣の腕を、なぜか受け止めることができたキオが最初に抱いた感想が、それだった。
 上から潰されるような圧力は感じるのに、それを押し返せているのは自分の腕ではない。腕どころか煩わしいあの体も、重りでしかない足すらもない。それはまるで、邪魔な全ての枷から解放されたような心地良さすら感じる状況だった。

 けれど、まだ足りない。
 頭のどこかでそう意識すると、空から降りしきる雨粒がひとりでに集まるようにしてキオの『体』を形どってくれる。
 
 遥か頭上の空では、渦を巻くように湧き上がり続ける黒雲が太陽の光を遮り始めていた。
 驚くほど広い視野でそんな周囲を認識しながら、キオは自分の名を呼んだ身近な二人へ反射的にするりと身を寄せる。
 魔獣の一撃を防いでからそこまで、時間にすれば数秒もなかった。
 ただその混乱度合いは、この場にいる人間と魔獣では後者の方が余程大きかったのだろう。

 動かない前脚を中途半端な位置で掲げたままの魔獣は、次の行動を決める前にその頭部へ白銀の光の直撃を受け「ギャオ!?」という鳴き声と共に、大きく後方へ飛びすさった。

 乾いた大地を打つ雨音が強まるなか、肩で息をしながら再び膝をつくジルヴェストと、その隣で立ちすくみ――やがて笑みの形に緩く口元をつり上げるかつての主を守るように、キオは水でできた体を揺らめかす。

 それは蛇のような長い胴体を持った四足の生き物で、二本角の生えた小さく鋭角的な頭部を除けば、魔獣ともまた異なる姿だ。
 よくよく目を凝らせば、体表には魔獣と同じような鱗に似た紋様も浮かび上がっている。だが、頭部から長い背、尾の先へと連なるたてがみは、魔獣にはないものだった。

 徐々に世界が陰るなか、仄かに青白く光を帯びた透き通るような姿の中で、宝石のように大きな薄紫色の双眸がゆっくりと瞬く。
 その異様さには、どこか神々しさすら纏う美しさと畏怖が織り交ざっているようですらあった。

 そんな存在が、まるでとぐろを巻くように二人の人間を中心に囲って宙を揺蕩っているが、恐れなど抱く理由もないフレンはその笑みを更に深めて、自分の頭上よりも僅かに高い位置にある不可思議な獣の顔へ、そっと腕を伸ばした。

「キオ。あぁ……やっぱり今までも全部、キオが守っていてくれたんだね。七年前から、ずっと」

 そう言って微笑むかつての主の姿に、キオは言葉が出なかった。
 赤みを帯びた癖の強い金の髪は短く、あの頃と変わらないはずなのに。すらりと伸びた背丈にしなやかで長い手足、王族に相応しい華美な鎧を当たり前のように着こなしている均整の取れた体は、見知らぬ男のものだ。
 けれど、秀麗さが増した気品のある顔だちは、凛々しさのなかにもあの頃の柔らかな人懐っこさが見え隠れする。
 そして何よりも、自分を真っすぐに見上げてくる翡翠の瞳。
 そこに宿る変わらぬ光が、目の前の青年こそがキオのあの小さな主だと雄弁に語る。

 同時に、フレンの体に馴染む気配のようなものを感知したキオは、この状況の理由を何となく本能的に察することができた。
 この主を包むように染みついた、自分の異能の感覚があるのだから。
 ただそれを悠長に考えている暇はないことを、広がった視野が訴えてくる。

 ジルヴェストの一撃が直撃してもなお、巨躯の魔獣は健在だったのだ。
 硬質な金属じみた漆黒の鱗に覆われたその体は、実際に人の身で見上げるならば小規模な二階建ての家屋ほどはあるだろうか。
 刻々と勢いを増す雨など微塵も気に掛けず、長い首をもたげ、トカゲを更に凶悪にしたような顔つきの頭部から流れる微かな血などものともせず、爛々らんらんと輝く深紅の瞳でじっとこちらを伺っている。
 ただ獲物を食らうだけの絶対強者だったはずの魔獣の目には、この戦場で初めての明確な敵意と警戒の色が浮かんでいた。

 フレンとジルヴェスト、そして先程魔獣の一撃を受け止めた衝撃で一人だけ吹き飛ばされ地面に蹲ったままでいる当主の側近。まずはその三人を守ろうとキオが意識すれば、仄かに光る水の膜でできた球体が彼らの体を即座に包み込む。
 間を置かず、雨の降りしきる荒野で同じような球体が魔獣から離れた地に幾つも湧き上がるが、その中に囚われるように保護されているのは満身創痍の一族たちだった。

「っキオ!」

 目に見えてわかるその異能の行使が、何を思い起こさせたのか。
 はっと顔色を変えて自分の名を呼ぶフレンと、胸を押さえながらもらしくもない激しい舌打ちを零すジルヴェストが、それ以上の口を開く前にキオは慣れない体で空気を震わせた。
 
『いったでしょう?オレがお守りします、と』

 かつて初めての公務に目を輝かせていた王子へ、そう気安く贈った言葉と全く同じ音。
 されど、そこに込められた意味と熱量が、どれほどのものだったのか――。

 否が応でも収縮する翡翠の瞳が言い募る前に、キオは王子と異母兄を二人まとめて包み込んだ水球を、側近が転がっている後方へと勢いよく弾き飛ばした。
 一見雑に扱っているが、中身に影響はないようにのだから大丈夫だろう、となぜか理解できる自分を少しばかり不思議に思いながら。

 それもこれも、この水でできた体のおかげなのかもしれない。
 だから、独り言ちるように最後に小さく音にしておく。
 
『――あにうえ。ジルにいさま……おゆるしを』

 異母兄であり、当主であり、飼い主である、キオが従うべき存在ヒトの命令を拒否すること。そして、真意はどうあれ、長年こんな自分を延命させ続けてきたジルヴェストの尽力を水泡へ帰すことへの、謝罪だ。
 
(この体は、そうもたない。がすり減っていく……)

 分不相応な強大な力を振るえる確信と共に、それに耐えきれずに零れ落ちていく何かの感覚は、言葉にするならば『命』というものとそう違いはないのだろう。
 だから――。

 オルデアスの決戦兵器とすら謡われたという、黒雨の獣の異能ちからを早々に解き放つ。
 
 警戒態勢のまま雨に濡れながら様子を伺っていた巨躯の魔獣は、獲物が遠ざけられたことを認識した途端、長い尾を地面に叩きつけるようにして自らの敵へ猛然と飛び掛かった。
 しかしその速度が人間にとって不可視の領域であろうと、魔獣の爪先が不可思議な乱入者へ届くことはない。大地から突如せりあがった分厚い水の壁によって、巨体ごと容易くせき止められたからだ。

 砕け散る波の摂理とは無縁の意志を持った水流は、猛獣のように発達した魔獣の四肢と長い尾に絡みつき、捩じ切ろうとでもするように圧力をかけ、ミシリと鈍い音が雨中にすら響くほどはっきりと巨体から上がる。
 だが、地を震わすような咆哮と共に乾いた破裂音を生んだのは、魔獣の体表から砕け散った水流の方だった。

(――っ!!)

 意識を弾き飛ばされるような衝撃を受けながらも、キオは降りしきる雨の中で魔獣の上空にあの自分の体を集めることに成功する。
 そのことにほっとしながらも、これはオルデアス最強の男が苦戦するはずだと納得するほかなかった。

 目下の脅威たる魔獣の図体はただ巨体なだけではなく、『異能』そのものに対する耐性が非常に強固であると、この体の感覚が教えてくるのだ。
 それが共食いの果てに獲得された特性なのか、最初から生まれ持っていたものなのかは判じられないとはいえ、今のキオにとってすら厄介――むしろ純粋な異能の力として存在している体では、相性が悪いとさえ言える。
 
 だから、目くらましの為に幾つかの水流で地上の魔獣を絶えず牽制している間に、確実に葬り去るための『力』をもっとと願う。
 幸運にも自分に宿っていたという、『黒雨の獣』と言い伝えられる異能に。
 
 それはオルデアスの始祖――魔獣と人間の混血児が持っていた『異能ちから』だと、キオはエルバルトから聞いたばかりだ。
 世界を黒に塗り替えるほどの雨と共に敵を撃滅し、味方には堅牢な守りと絶大な癒しをもたらす。
 望むなら国一つ泥に沈めることも可能な圧倒的な暴力は、誰であろうと阻止することはあたわず、他の魔獣の追随すら許さなかったという。
 そんな伝承の力は時を経てもなお、オルデアス家の血族にごく稀に発現する。
 人間ヒトを愛した強大な存在いきものが、いまだ我が仔を祝福せんと生き足掻くかのように。

 厚く厚く空を覆う黒雲から滴る雨は、ついには戦場となっていた荒野を暴雨で包み込むほどに勢いを増していた。
 さながら瀑布ばくふ直中ただなかに放り込まれたような酷い状況だが、自分が守る人間たちにとっては何の害もないことをキオは意識の隅で確認し、また安堵する。せいぜい視界が効かないくらいで、むしろ荒野を水浸しにするほどの雨量は、彼らを守る力としても充分すぎるほどだ、と。

 反対に巨躯の魔獣は、焦燥をあらわにしていた。
 振り払っても振り払っても絶え間なく体へ巻き付く水流は煩わしく、執着していた獲物の行方すら猛烈な雨の中でいつの間にか見失ってしまったからだ。
 背の翼を羽ばたかせ空から獲物を探そうにも、意思を持った水がそれを許すはずもなく全身を地へ抑えつけるような圧力すら掛け続けてくるのだ。

 その苛立ちから、魔獣は一度大きく息を吸い込むように厚い胸部を膨らませ――凶悪な牙が生え揃ったあぎとから燃え盛る巨大な炎の玉を吐き出した。
 それも一度だけではなく、二度三度と続けざまに吐き出される業火の塊はでたらめに魔獣の周囲へ放たれ、その軌跡に沿って暴雨のレースに瞬間的な穴を開けていく。

 ゆえに、平坦な大地に転がる水球の一つを魔獣の深紅の眼が捉えたのは、単なる幸運だったのだろう。
 そこに求める獲物がいることを感知した魔獣は、すぐさま雨に視界を閉ざされようとも、しかと狙いを定め終わっていた。
 降りしきる雨を利用して妨害してくる敵のことは気になるものの、受けた攻撃が致命的なものではなかった上に、何よりも優先するべきはあの魅惑的な獲物を腹に納めたいという欲求なのだ。
 それがようやく満たされる予感に、魔獣の喉が嬉しげにグルグルと低い音を震わせる。

 そうして長い尾を高く掲げながら身を屈め、獲物へ飛び掛かる体勢を取る。
 魔獣の頭の中では、水の枷を振り払うと同時に尾を叩きつけ、膂力りょりょくを活かした全力の速度で獲物を仕留める未来を明確に思い描けていた。その瞬間を現実にすべく、尾を振り下ろす――――寸前で、世界から音が消えた。

 あれだけ降り続けていた豪雨がピタリと止まったのだ。
 それも、ただ落下するだけの雨粒の全てが宙に浮かんだまま静止するという異様さで。
 さすがの魔獣もぎょっとしたように身を起こした途端、丸く小さな雨粒は時を遡るかのように音もなく空へと吸い上げられていく。

 その行く先を目で追った巨躯の魔獣は、上空に浮かぶ不可思議な敵をようやく視認し後ずさった。

 仄かに光る透明な水の体をした細長い生き物は、今や地上の魔獣と大差ない大きさとなり、その背には空を覆うほどの巨大な翼が広がっていたのだ。
 同じく水で形どられたその翼も微かな光を帯びてはいるものの、闇を塗り固めたような黒雲の下では、漆黒よりもなお黒い強大な存在として、それは天に在る。

 計り知れない力が空に満ちているのを察した魔獣は、反射的に逃亡という選択をなそうとした。が、天の支配者がそれを許すはずもなく、逆に拘束力の跳ね上がった水の枷に大地へ縫い留められるように抑えつけられる。

 その直後、空で大きく息をするような仕草をした獣の口が開き――――雨の止んだ荒野を、真っ白な閃光が染め上げた。
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