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第10話 故郷へ帰るために

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 土曜日の午前の講義が終わった後、蓮実はいつもの精神科へと寄った。定期の診察日ではなかったが、どうしても会って話がしたくて、なんとか空いている時間に面談を入れてもらった。

「話したいこと、というのは?」

 医師の御笠はにこやかな笑みを浮かべている。自然光だけの薄明るい室内のため、その表情から読み取れるものは少ない。蓮実はこれまで御笠の笑顔にそれなりに好感を持っていたが、涼夜と再会してからは、まるで印象が変わってしまった。

 どこか薄っぺらい。

 優しい顔をしておきながら、時には厳しく叱ることもできる涼夜。それに対して、御笠は常に飄々としているが、振り返ってみれば真剣な態度を見せたことは一度もない。

 本当にこの人を信用していてもいいのだろうか。迷いを感じつつも、発作を起こすようになってからずっと、自分のことを診てきてくれたのはこの御笠だから、頼るほかはない。

「私、茨城に行ってみようと思います」
「故郷、に?」

 御笠は片眉だけを吊り上げた。椅子に座り直し、背筋を伸ばして蓮実と向かい合う。

「これまでだって帰ってたんじゃないの?」
「いいえ。自分が住んでいた町のこと、小学校の頃の思い出、それらを考えただけで気分が悪くなってましたから。戻ろうなんて気持ちは全然なかったんです」
「それがまたどういう風の吹き回しで?」
「夜刀神です」
「ヤトノカミ?」

 自分がいま研究していることを掻い摘んで説明する。そして、夜刀神の話を父が語ってくれていたような気がすることも、御笠に全て話した。

「普通だったら無関係だと思ったでしょう。でも、夢に見た父の姿、そしてそこから思い出した夜刀神のこと、そういったことを全て振り返ると、なんだか私が記憶を失っていることの答えがそこにあるような気がしてならないのです」
「たまたま憶えていただけで、それほど重要ではないと思うけどな」
「それだけじゃないんです」

 ここから先の話をすべきかどうか、ためらう。御笠に話したところで意味はない。だけど、自分の決心を後押ししてもらうためには、全てを明かしておく必要がある。そうでないと、この先生はきっと納得しない。

「先日、警察を名乗る二人組がやってきました」
「……なんだって?」

 御笠は眉をひそめた。

「一人は怖い顔した老人で、もう一人は女性でした。私の小学校の頃の友人が失踪したので、訪ねてきたんです。でも、警察らしくない雰囲気で、質問というよりは、尋問、といった感じでした」
「警察手帳は見せなかったの?」
「見ました。でも、私にはそれが本物か偽物かなんてわかりません。とにかく最初から私は何かを疑われていました。そして、去り際に聞かれたことが……」
「聞かれたことが?」
「私の研究テーマについて。つまり、夜刀神のこと。その課題を誰が決めたのか、ということだったんです」

 御笠は黙っている。口に手を当てて、何度も首を捻る。

「で、君はどう答えたんだい」
「テーマを決めたのは教授です。でも、なんとなく正直に答えるのがいやな気がして、私は『自分で決めた』と返しました」
「なるほど」

 そこでしばらく沈黙が流れた。蓮実は辛抱強く、相手が口を開くのを待つ。

 やがて御笠はぽつりと呟いた。

「やはり茨城に帰るのはやめたほうがいいんじゃないか」
「どうしてですか」
「もしも一気に記憶が戻ることになったら、君が耐え切れなくなる。それに、その自称警察とやらも気になる。なんとも不穏な感じじゃないか」

 自称警察については、涼夜がよく知っているようだった。その話もしようかと思ったが、今回は故郷へ帰ることについて医師の後押しが欲しいから来ただけであって、余計な情報を流す必要もないと判断した。それに、あの話をすれば、ますます御笠は反対するに違いない。

「私は大丈夫です。目を背けたくなるようなことがあったとしても、受け止めます」
「受け止め切れなかったから、記憶をなくしているんじゃないのか」
「今度は、受け止めます」

 しばしお互いに睨み合うような形になる。やがて御笠は溜め息をついた。

「仕方がない。あまり気は乗らないけど、本人が希望しているんだ。私の役目は君の治療であって、君の行動を縛ることではないからね。好きにするといいさ」
「ありがとうございます」
「ただし、無理はしない。少しでも違和感を感じたら、深入りせず、東京に帰ること。この病院に電話してくれても構わない。自分の心は自分で守る、いいね?」
「はい」

 ひとまずは医師の許可が下りたことに内心胸を撫で下ろしながら、蓮実は頭を下げた。


 ※ ※ ※


 叔父の家へ行くのは久しぶりだった。

 大学に入り、斡旋してもらったマンションで何不自由なく暮らしているうちに、すっかり叔父やおばとは縁遠くなってしまった。

 時々は電話で近況報告をしていた。それでも直接会うことは半年に一回くらいだった。高校卒業まで我が子のように育ててくれ、大学の学費はおろか高いマンション代まで払ってくれた叔父に対して、不義理と言えるほど疎遠になってしまっているのは、ひとつには自分の過去のことがあるからかもしれない。

 叔父は、父の弟だ。

 当然、過去に何があったか、よく知っている。知っているからこそ、蓮実には何も教えようとしない。当時の新聞やニュース映像を見せないように配慮しているし、連想させるようなことも話さない。

 自然と、叔父は蓮実によそよそしい態度を取っていたし、蓮実もまた叔父から何か聞かされるのが怖くて意識して距離を置いていた。

 だが、今度こそ、正面から向き合いたい。そのために、用賀にある叔父の家へと向かった。
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