ヘルメン

吉田定理

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 目が覚めたのは昼過ぎだった。ケータイを見ると莉子から『みんな心配してるので今日こそはちゃんと顔出してくださいよ。人気アーティストになるんじゃなかったんですか?』とメッセージが入っていた。しかしすでに活動開始時刻は過ぎていた。
「作詞も作曲もできるアーティストになって、まずはネットで人気になって、それからメジャーデビューして……」
 藤井と一緒に電音研というサークルに入った当初、俺はそんなことを豪語していた。
「先輩の曲、私好きです! このイントロとかかっこいいです!」
 二年に進級し、初めての後輩である莉子にそんなふうに誉められて、鼻が高かった。俺には才能がある。今はまだ、確かに完成させた曲はないが、こんなにかっこいいイントロが作れる。おしゃれなギターソロが作れる。他にもなんだって作れるはずだ。
 そんなふうに思っていたのに、三年に上がってからはみんな藤井ばかり見ていた。新入生も藤井の話を聞きたがった。
「ええっ! 藤井さんって、あのT.Fさんだったんッスか!? どうやったらあんな個性的な曲ができるんッスか」
「え、どうやったらっていうか、とにかく作りまくってたら、ああなってただけで。俺も知りたいなあ」
「ははは、なんですかそれ。もったいぶらないで教えてくださいよ!」
 誰も俺に曲の作り方なんて聞いてこない。詞の書き方も聞いてこない。藤井に、動画投稿サイトで花開いた天才に、意見を求める。俺の居場所はすぐになくなったのだ。
 結局またサークルには行かなかった。というか一日何もしなかった。ケータイがブーブー振動している。無視するが、止まったかと思いきやすぐにまた鳴り出す。イライラする頭に、不満そうな莉子の顔が浮かんだ。
「うるせえよ! 電話すんな!」
 相手をろくに見ずに通話してしまったのがまずかった。
「コウタ! 親に向かってその言い方は何なの!」
 母親の怒声が爆発した。
「今どこにいるの? ちゃんと大学行ってるの? 次はいつこっちに帰ってくるの」
 いきなり質問攻めにあってげんなりした気分になる。
「これからバンドのヤツらと新曲の収録なんだから邪魔するな!」
「あら、あんたバンドなんてやってたの? それに収録って何、どういうこと?」
「プロデビューしたんだよ。大学なんか行ってられるか」
「嘘おっしゃい! あんたがプロのわけないでしょ! 寝言言ってるんじゃないの!」
 なんで急に強気になるんだよ。ちょっと騙されかけてたのに。
「あんたねえ、いつまでも馬鹿なこと言ってないで……」
 俺は通話を切った。すぐにかけ直してくる母親を、もう完全に無視する。電源オフ。
 しばらく腹の虫が暴れていたが、ふと思うところがあってパソコンを起動した。藤井から送られてきた、最後の曲。未発表の音楽データが保管されているフォルダを開く。
 藤井は誰もが認める人気のアーティストの座に片足を乗せていた。だがもうこの世にはいない。そして、彼が最後に手がけた、未発表のデータだけがここにある。この曲を聴いたことがある人間は、俺のほかにいない……。
 いいや、と俺は昨日の酒でまだぼうっとしている頭を振った。台所へ行って水を飲みながら考える。綾乃さんは知っている……。でも待てよ? あのとき、このデータを送ろうとしたが拒否されて、すぐにキャンセルした。綾乃さんはダウンロードしたわけでもなければ、曲自体を聴いたわけでもない。ただ存在を知っているだけ。
 俺の手のひらの中にある、ビッグチャンス。なんとなく骨格ができているこの曲を、俺がアレンジして動画サイトに投稿すれば、ヒット間違いないしだ。なんせメジャーデビューも決まっていたアーティストの新作が下地なのだから。投稿処女作にして莫大な支持を得た俺は、一躍人気アーティストの仲間入りだ。夢が叶う。口からの出任せが真実になる。
 俺は冷たい水で顔を洗う。頭が覚醒した。
 さっそくパソコンに向かい、DTMソフトを起動する。このソフト一つで曲を形作っている一つ一つの音の打ち込みから録音や編集、CD作成までだいたいのことはできる。
 藤井が作った楽曲データは主旋律と所々の装飾と、コードが組み合わさった程度のもの。ここに俺がさらに音を加えたり、修正したりしていく。まずはAメロを肉付けしようと思ったが、意に反して俺の手は止まる。楽曲のデータを展開して眺めたり再生したりするだけなら何も問題はない。だがここから先の行為は、いわば無許可で他人の体にメスを突き立てて皮を裂き、肉を切り、内臓を抉る行為に等しい。俺にそんなことをする権利があるのか?
 俺がやろうとしていることは盗作だ。クリエイターとして最低の行為。ファンを裏切り、友を裏切り、自分を裏切る行為。もしばれたら、どうなるのか。分からないが、こんな人間の音楽は二度と肯定的に見られることはないのではないか。
 そもそも――藤井は何のためにこのデータを俺に渡したのか? 藤井の言葉が嘘でないなら、俺の意見や感想が聞きたかったからだ。だがよく考えてみると、世間に何万という数のファンがいるのに、どうして凡人である俺の感想や意見が必要なのか? 感想ならファンに聞けばいいだろう。作品を評価するのは俺ではなくファンたちなのだ。たったの一曲さえ完全に作り上げたことのない俺の意見など、あいつにとってなんの価値がある? そもそもあいつは俺の意見なんて聞かないやつなんじゃないか? 初めてあいつが動画サイトに曲を投稿しようとしていたとき、俺はやめておけと忠告した。だけどあいつは、聞く耳持たず下手くそな曲を投稿した。その次もその次も……。
 それからリスク。新曲のデータを簡単に他人に渡すことで、パクられたりアイディアを盗まれたりすることを考えていないのか? 才能あるあいつには、俺に一つ二つパクられたとしても、いくらでもアイディアがあるとでもいうのか。それとも才能のない俺にはパクることすらできないとでも思っていたのか?
 俺の手はいつの間にか手繰り寄せたMIDIキーボードを叩いている。白と黒の鍵盤に吸い付くように両手の指が蠢く。不協和音が部屋を満たし、俺は必要以上の力を込めて、切り裂くように指を打ち下ろし続けた。
 曲が一区切りついたのは夜中だった。自分でも驚くほど作業が進んだ。かつてないほどの驚異的なペースだった。窓の外を見ると向こうの空が白み始めていた。ずっと何も食べていないことに気づく。
 何とも言えない充実感、達成感に爽快な気分を味わったあと、空腹で脱力した。とりあえず這うように台所へ行って湯をわかし、無我夢中でカップラーメンをすすった。
 完食して箸を置き、ヘッドフォンをつけて、イントロから再生してみる。
 藤井のデータにはイントロはなかったから、ここは俺の完全なオリジナルだ。といっても、これを発表するときにはこの曲自体、俺の完全なオリジナルになるのだ。
 ギター、ベース、ドラムだけの荒削りなサウンドが流れ出す。わざとシンプルに荒削りにして、ざらついたかっこよさとでもいうものを表現するのが俺は好きだった。
 長めのイントロの次はAメロ。ボーカルはこの時点ではかなり適当。歌詞はまだなく、機械の音声がいかにも機械チックな調子で『ラララ』と歌っている。
 Bメロ。少しテンポダウン。俺は派手なサビが好きだから、サビを対比的に際立たせるためにここは静かに控えめにしてある。藤井が作ったピアノの音は、落ち着いた印象に修正した。
 サビ。打ち鳴らすドラムが鼓動を加速させる。今は単調なラララボーカルでも、俺には汗と髪を振り乱して叫ぶ姿が想像できた。疾走。たぎる血、熱、ぎらつくライトに顔を照らされた人の海――。
 どうしてだろう。
 出来は悪くないような気がする。もう少しボーカルに表情をつければ……しかし問題はそんな些細なことではないと思えた。これは一体誰の歌なのか? 俺のサウンドでもなければ、藤井のサウンドでもない……。俺が好きなことをやったはずなのに。絶対にランキング上位に食い込む曲のはずなのに。俺が初めてこんなにも完成に近づいた曲なのに。何かが足りない。
 俺には分からない。これ以上必要なものが見つからない。もう一度ヘッドフォンをつける。変わらない。これ以上作っても意味がない。根本的に何かがダメで、偽りに満ちていて、卑しいもの。さっきまでここにあった達成感も充実感も、虚しさに変わっている。
 何が音楽だ、人気アーティストだ。くだらない。そんなものを夢見ていた自分も、なんてくだらないやつだろう。本当にくだらない。俺はヘッドフォンを床に叩きつけた。パソコンもキーボードも、机の上にあるものは全部なぎ払って落とす。CDラックをひっくり返す。そこらじゅうに散らばったCDをケースごと真っ二つに圧し折って投げ捨てる。それが壁に立てかけてあったギターにぶつかって倒れる。アーティストのポスターを引き剥がしてぐしゃぐしゃにする。CDの一つ一つを見るたびに蘇ってくる記憶。大好きだったミュージシャン、何度も繰り返し見たPV、夢中になって練習したつたない弾き語り、友達と見に行ったライブ、全ての記憶とともに破壊する。
 肩で荒く息をする俺だけがこの狭くてほこりっぽい部屋に立っていて、カーテンの隙間から朝日が刺し、透明の破片を輝かせる。酒瓶も割れたらしくアルコールの匂いが立ち込めていた。俺はベッドに倒れ込んだ。
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