【完結】美人の先輩と虫を食う

吉田定理

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春の章

1 陸のカニと呼ぶなかれ③

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「そうだ、君、カニ好き?」
 クモを捕獲した後のことである。先輩は唐突にそんなことを聞いてきた。
「ええと、好きと言えば好きですけど」
「そうかそうか。じゃあうちの研究室においで。食べさせてあげるから」
「え? いや、そんな高価なものは、さすがに……」
 誘いが急すぎて当惑した。カニなんて一年に一度食べるかどうかの代物だ。高級食材だ。それを見ず知らずの、一緒にクモを捕獲しただけの相手からごちそうになるなんてあまりに厚かましい。
「いいんだってば。君が協力したおかげで、この子が手に入ったんだから。ほんのお礼だよ」
「は、はあ……」
 先輩はうっとりとクモを眺めた。そのアシダカグモとかいう生物は、そんなに貴重で価値のあるものなのだろうか。カニをごちそうするほど? 何か重要な研究か実験にでも使うのだろうか。
「遠慮なんかしなくていいから。君には充分に食べる権利がある。私の次にある!」
「そう、でしょうか……」
「そうですとも。遠慮はいらないよ」
 これは僕にとって願ってもなかった他人との接点だった。もちろんカニをごちそうしてもらえるなんて都合のいい話、あるとは思えない。嘘かもしれない。食事のあとで、寿命が延びる水を売りつけられるかも。それでももう僕にはチャンスがないのだ。どこに連れて行かれるか分からないが、このチャンスを逃したら次はないかもしれない。卒業までずっと一人ぼっちかもしれないのだ。だったら僕は、目の前にぶら下がった細い糸をつかみたい。もう、つかむしかない。
 直感的にだけど、僕はこの人がそんなに悪い人ではなさそうだと思った。他人を騙して陥(おとしい)れるようなことはしないんじゃないか。だって本気で僕を騙して奇跡の水を売りつけたいなら、もっと賢いやり方があっただろう。
「分かりました……お願い、します」
「よーし! 行こう!」
 先輩はご機嫌な様子でこぶしを高く突き上げた。やっぱり子供っぽいというか、いちいちアクションが大袈裟だ。「おっと忘れ物」とつぶやいて、あのコーヒーとのり弁を拾い上げる。「じゃあ行こう」
 僕は先輩の後に続いて廊下を歩いた。時刻は三時に近い。遅い昼ご飯なのか、晩ご飯なのか。謎の多い人だ。
 先輩の身長は女性の平均より高く、白衣を着ていてもスレンダーで、出るところはしっかり出て主張している。こんなモデルや女優みたいな人が僕を食事に誘っているなんて、夢か現実か分からなくなりそうだ。さらには歩くたびに寝ぐせがぴょこぴょこ動いているのと、間の抜けた鼻歌を歌っているせいで、もう僕の脳は混沌としている。
「君、何年生?」
 急に先輩が振り向いたので、僕はキョドった。この人、たいていの言動が唐突なので心臓に悪い。
「い、一年です」
「ピッカピカだねー。部活かサークルは決めた?」
「いいえ、まだ……」
「ほほう!」先輩の目がクワッと開かれて、強烈な輝きを放った。「うちなんかどう? 私が会長やってるの」
「何をしているんですか?」
「フィールドワークと料理、半々かなー」
 キャンプのようなことをしているのかな、と想像する。もちろん僕は火おこしも料理もやれる自信がない。
「さーて、着いた」
 理学部C棟。『503 須藤秀樹(すどうひでき)』と書かれたプレートがドアに貼られている。この研究室の教授なのだろう。先輩がノックしてドアを開ける。
「先生、いいもの持ってきましたよっ」
 入るなりそう言った。中にいた四十代とも五十代とも見える男性が、パソコンのキーボードを打つのを止めてこっちを見た。銀縁メガネの奥に柔和な笑みを浮かべている。左右に分けた髪には白髪が混じっていた。
「ノックするならせめて返事を待ってから開けてほしいんだけどなぁ」
「すみません、つい。えへっ」
 穏やかにたしなめられ、先輩は謝ったが、あまり反省しているようには見えない。この男性――おそらく須藤教授も、あまり改善を期待していなそうな雰囲気だった。
「それよりもこれ見てくださいよー。すごいの持ってきましたよ」
 先輩がクモ入りビニール袋を掲げた。
「ほう、アシダカグモか。こいつはでかいなぁ。滅多に見ないサイズだ」
「でしょでしょー? 先生もいりますよね? 『ゆで』でいいですか?」
「うん、ありがとう」
 何やら会話が進んでいくけれど、僕はいったいどうしたらいいのか。入り口のところに立ったまま二人の様子を見守っていると、教授が気付いてくれた。
「ああ、何か用事かな?」
「あ、いえ、その」
「彼と捕まえたんですよ、一緒に」
 先輩が代わりに答えた。
「せっかくだから御馳走しようかと思いまして」
「えっ? それで付いてきたの?」
「そうですよ?」
 当然でしょ? とでもいうような先輩。なぜか難しい顔をする教授。
「嫌な予感がするけど、まあ、君もそんなとこに立ってないでおいで」
 教授に招かれ、僕はおずおずと入室した。研究室に足を踏み入れるのは初めてなので緊張する。果たして一年生が突然お邪魔して失礼じゃないのか。図々しいことをしているんじゃないかと不安になってくる。大学教授といえば、本を書いたりテレビに出たりする人もいて、要するにめちゃくちゃ偉い人なのであって、僕みたいな人間が仕事を邪魔していいわけがない。
 僕は心配でたまらなかったが勧められるまま椅子に腰かけた。僕のアパートよりも少し広そうだが、かなり窮屈な印象を受ける部屋だ。中央に長机をつなげた島があり、周囲にはパソコンや、本がぎゅうぎゅうに詰まった棚やシンクがある。壁に貼られているのは研究紹介や地域の動植物の調査記録のポスター、野生動物の写真だ。慣れないので居心地は悪いけど、ちょっとわくわくもする。
「ここは生物系の研究室なのでしょうか」
 僕が思ったことを口に出してみると、「そうだよ」と教授が答えてくれた。
「君は理学部の学生かい?」
「そうです。でも地球科です」
「おー。地球科はまだいなかったっけ、猪俣(いのまた)さん」
「いないですよ。斎藤くんは化学科だし、石橋(いしばし)くんは数学科ですし」
 先輩がテーブルの上にカセットコンロを置いた。鍋を火にかける。
「そうか、じゃあ丁度いいじゃないか。いろんな意味で」教授が僕に向き直った。「地球科って巡検(じゅんけん)やるでしょ? うちに入れば楽しさ二倍になるよ」
「すみません、巡検というのは……」
「ああ、新入生か」銀縁のメガネを押しあげる。「巡検ってフィールドワークね。野外実習のこと。毎年五月に雷坂(かみなりざか)のところでぞろぞろやってるんだよねぇ」
「そう、ですか……」
 この教授は生物科なのだろうが、地球科の僕より地球科に詳しいようだ。何も知らない自分が恥ずかしい。
 僕は逃げるようにまた壁の掲示物に目をやる。すると一枚の写真が目に留まった。五人の男女が並んだ記念写真だ。
「あの、これは……」
「ああ、それ。去年の夏、みんなで遊びに行ったときのだねぇ」
 教授が懐かしそうに言った。教授と先輩、さらに二人の男性と一人の女性が笑顔でピースしている。ひと目でメンバーの仲の良さが伝わってくる、活き活きとした写真だ。背後には立派なログハウス、青々と茂る木々。夏真っ盛りで、蝉の声が聞こえてきそうだ。
「いろいろ事件もあった気がするけど、今年も行きたいねぇ」
「そうですね、社会人になっちゃったら、なかなかできないですよね、こういうこと」
「そうだよ、こういうことは学生のうちにやっておかなきゃね」
 まだ友だち一人さえ作れていない僕は、教授の言葉に焦った。何かしなければ、という思いで口を開いていた。
「どうやったら、こういうふうになれるでしょうか」
「こういうふうに?」
「この写真の皆さんのように、楽しそうで、活き活きしていて、仲間がいて……」
 うまく言語化できなくて声が小さくなっていき、最後は黙ってしまった。
 沈黙を破ったのは先輩だ。
「ここはね、非公認サークル『虫の輪(わ)』。設立者はこの私!」
「正確には猪俣さんと斎藤くんの二人だったよね?」
「九割は私です! 私のほうが偉いので!」
「意味が分からないよ」
「ねえ君、うちのサークルに入りなよ! たぶん合ってるから。合ってなかったら辞めればいいし」
 先輩が僕の前に手を差し出していた。
 サークルに誘われている。僕が今、最も望んでいたこと。充実したキャンパスライフの入り口。それなのに、いざ手を差し伸べられたら、体が動かなくなってしまった。
「僕は何も取り柄とか、特技とかないですし」
「いいよ別に」
「趣味とか好きなこととかもないですし」
「私は気にしないよ。寛大な会長だから。それに偉いので」
「人と話したりするのも苦手ですし……」
「オッケー分かった」
 本当にこの人は唐突な人なのだ。つまり先輩は差し伸べていた手で、僕の手を握っていた。
「握手をしよう。それが入会の意思表示だよ。言葉は要らない」
 僕は脳みそが沸騰しそうだった。今、先輩が僕の手を握っている。一方的につかんでいるだけだけど、確かに握っている。先輩が近い。先輩の瞳が僕を見ている。僕も見つめ返している。目をそらすことができない。先輩の瞳の中に星が見えた。手汗が吹き出す。やばい、やばい、やばい、やばい……。
「猪俣くん、さすがに強引すぎるんじゃないか? 困ってるよ」
 教授が呆れてため息を吐いている。
 おっしゃる通り、僕は困っていた。ドキドキしてまともに頭が働かないけど、必死に考える。今、どう行動するかが、四年間の大学生活を大きく左右するに違いない。そのことだけは分かっている。仮に、もしも、万が一にでも、こんな素敵な先輩と一緒にサークル活動することができたら……?
 いや、ダメだ、これっぽっちも自信がない。この二週間ほどで、いかに自分が人と関わるのが下手で、周りから隔絶された人間であるか、痛いほど理解した。僕は致命的にダメなヤツだ。社会不適合者だ。だけどここまでされて、喉から手が出るほど欲しかったチャンスを捨てることができるだろうか。
 勇気を出せ、僕! 最初で最後の勇気を。
「こ、この……」
 先輩の軽く結ばれた唇は、微笑みの形だ。
「サ、サ、サークルに……」
 頷く先輩の寝ぐせだらけの髪が揺れて。
「……入りたいです」
 僕は震える右手に力を込めた。
「ホントに!?」
 先輩が目を丸くした。そして僕の手を激しく乱暴に振りまくった。
「大歓迎! もう大歓迎どころじゃない。大、大、大歓迎だよ! ありがとう。本当にありがとう! 君は素晴らしい!」
 先輩の瞳から涙が零れ落ちた。泣くほど喜ぶようなことなのか!?
 一方僕も体内を龍が飛びまわっているかのように、大きな興奮の波が駆け抜けた。手足がビリビリ震える。僕はサークルに入会したのか? これは現実か……?
「私は代表の猪俣香織(いのまたかおり)! 農学部の四年! こちらは須藤(すどう)教授。生物科の先生」
「わ、渡辺悠一(わたなべゆういち)……です。地球科の一年……です。よろしく、お願いします」
「須藤です、よろしく」
「渡辺くん、よろしくっ! 本当によろしくっ!」
 僕は深々と頭を下げた。あっという間の出来事だった。つい十五分前までは、卒業まで一人ぼっちだと思って途方に暮れていたはずなのに。今はサークルに所属している!
 涙目の先輩と、柔らかな笑顔を浮かべる教授。
「正式な歓迎会は後日改めて行なうということで、今日はとりあえずこの子をいただこう!」
 猪俣先輩は指先で涙をぬぐった。
 忘れていたけれど、鍋が沸騰している。
 猪俣先輩は引き出しから菜箸を出して、あのビニール袋に差し込む。器用に挟んでいるのはカニではない。アシダカグモである。さっき僕らが廊下で捕獲した、不気味な生き物。
 それを先輩が沸騰したお湯の中にぶちこんだ、というわけだ――。
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