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夏の章
4 いのち短し 食っとけエビチリ④
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陽が沈み、キャンプ場の街灯にも明かりが灯った。声をひそめたセミたちに代わって、名前も知らぬ虫たちが第二楽章を奏でている。気が済むまで遊び、飲み、食った僕らは、思い思いに時間を過ごす。先輩、斎藤さん、石橋さんはログハウスの中でテレビを見ている。僕、凜ちゃん、須藤教授はベランダで足を投げ出して座り、雑談していた。
「小学生のうちから研究室に出入りしてたなんて、すごいですね」
「まあ、何が何だか分からなかっただろうけどね。年上に対して物怖じしないのは、この環境のおかげだろう」
「凜ちゃんの将来は研究者とかですか?」
「さあ、どうだろう。あまりオススメはしないけれど」
教授が凜ちゃんを見る。凜ちゃんは目も合わせず、ポテチを一枚つまんで食べた。
「渡辺くんは、将来はこれがやりたいとか、もう決まってるの?」
「僕はまだ何も……」
この話題になると、僕は必ず落ちこむ。自分には何もないし、何も決めることができない。
「結局のところ、やってみなきゃ分からないっていうのがあるでしょ? 僕もなんとなく生物学をやっているけど、たまたまだと思ってるよ。何かが少し違っていれば、別のことをやっていたとも思う。そんなものだ」
教授の言葉は励みになる。こんなに立派な専門家になった人でさえ、最初からその道に行こうと思っていたわけではないらしい。だから僕が迷って何も決められずにいるのも、仕方のないことだと思えてくる。
「渡辺くん、そろそろ出かけるよー」
夜、先輩が僕らを呼んだ。いつもの先輩に戻っている。
今夜はホタルを見ることになっているのだ。ピークは五月から七月らしく、過ぎてしまっているのでダメ元である。
僕らはキャンプ場の人工の光からどんどん離れていく。あたりは暗くて心細いが、目が慣れれば月明かりでも充分だった。林の中の少しひらけた場所に出ると、生い茂る緑に囲まれた小さな池があった。
時間がゆっくりと流れるような静けさの中、思い思いに歩き回ったり、草の上に寝転んだり座ったりした。かすかな風が熱い体を冷ましてくれる。
「何もいないね」
先輩がつぶやいた。闇の中にぼんやりと浮かび上がる先輩の輪郭に向かって答える。
「八時になりましたね……」
「ダメかー。時期外れだもんね」
先輩は草の上で仰向けに寝転んだ。あちこちで鳴く虫の声に耳を澄ませて、風を感じているだけで癒される。
僕も寝転んでみた。草のチクチクする感触が心地良くて、こんなことをしたのはいつ以来だろうかと懐かしい気持ちになった。
「星が綺麗だね」
「そうですね。こういうところ、いいですよね」
「だねー。悩みも忘れるよ」
「先輩にも悩み、あるんですか」
「もちろんあるよ」
先輩が口をとがらせる。その声はしかし、笑っていた。
「渡辺くんはある?」
「ありますよ、たくさん」
互いの顔がよく見えないせいだろうか。僕は普段なら絶対にしない話を先輩にしていた。
「僕、存在感、薄いですよね。もっと目立って、他人の目に留まれたらいいなって思うんですけど」
「ホタルみたいに?」
「はい」
「そんなに存在感ないかな?」
「ないですよ」
だって僕は、一番僕を見ていてほしい人に、充分なアピールができていない。やっとこうやって自然に話をすることができるようになったけど、それではただの友だち、知り合いで終わってしまう。このままではダメなのだ。
「ホタルはさ、夜はすごく綺麗だけど、昼間見ても綺麗には見えないよね」
「そうですね」
「渡辺くんが自分の存在感が薄いと感じるのは、昼だからかもしれない。まだ夜になってないからかもしれない。本当はもう、ちゃんと光る準備はできてるのかも」
そうだったらいいな、とは思う。先輩には、僕の小さくか細い光は見えているのだろうか。それとも今は、そういう時期ではないのだろうか。
「たぶん僕はもっと変わらないとダメなんです。今はまだ、いてもいなくても変わらない人間です」
「いてもいなくても変わらない、かー。私は今の渡辺くんも充分いいと思うけどな。私が落ち込んだら慰めに来てくれるし。私にひどいこと言わないし、気を遣ってくれるし。渡辺くんは誰とでもうまくやっていけそう。虫にも人にも優しい人に見える」
まあ、慰めに来たのは石橋さんが気を利かせてくれたからで、僕が優しいわけではないけど黙っておく。
それにしても、僕が誰とでもうまくやっていけそうだなんて、現実は真逆なのに。先輩は僕を買いかぶりすぎているのではないか。
「それにさ、今日は自分で虫を捕まえるところから料理して食べるところまで、全部挑戦したよね? よくやったと思うよ。今日から渡辺くんは新人の渡辺くんじゃなくて、虫の輪の選抜メンバーの渡辺くんになったんだよ」
先輩が僕の挑戦や頑張りを見ていてくれたことが、すごく嬉しかった。そう、僕は今日、初めて全ての過程に自分で取り組んだのだ。だからこそセミの唐揚げは忘れられない味になった。
僕が進んでいる方向は、一応間違っていないみたいだ。あまり焦らなくていいのかもしれない。先輩は僕の小さな一歩を見ていてくれるのだから。
「過去の僕は人と関わることがうまくできなくて、引きこもりになる一歩手前だった。両親にもすごく心配をかけた。友だちはいつの間にか誰もいなかった」と先輩に言ってしまおうかと考えた。言ってしまっても大丈夫、先輩なら「へえ、そうなの。意外だね」なんて言って、あっさり受け入れてくれるんじゃないかと思った。
優しいのは僕じゃない。先輩のほうだ。僕が先輩の、いや、みんなの優しさに救われているんだ。
過去を否定して、塗りつぶして新しく生まれ変わらなきゃいけないと僕は思っていた。でも必ずしもそんなことをしなくても、受け入れてくれる人たちはいる……。
「そろそろ帰ろうか」須藤教授の声が少し離れたところで響く。「この時間に見られないなら、もうダメだろうし」
僕らはのそのそと起き上がった。
先輩は池の周りを散歩している斎藤さんのほうを見て、「ゲス落ちろ~、ホタル出ないならせめて片足落ちろ~」と呪いをかけようとしていた。沼って、これかよ……。
しかし努力は実らず、斎藤さんは無事に水場から離れてしまった。先輩は「ちっ」と悪い顔で舌打ちする。僕らはみんなで歩いてきた道を引き返そうとした。そのとき――。
「あっ」
先輩が息を飲んだ。
「あれ! そうじゃない?」
池の上をゆらゆらと漂う、黄色とも緑とも見える小さな光。たったひとつだけの弱々しい光。みんなが歓声をあげた。
「ホントにいたんだ……」
僕は幻を見ている気分だった。こんな時期外れに現われたのは、ほとんど最後の一匹なのではないか。僕らはなんと幸運なのだろう。
「よかったね」
先輩の表情は見えなかったが、僕には笑っている顔が見えた気がした。
「よかったです。来てよかったです」
「私、日ごろの行ないがいいからなー」
ついさっき斎藤さんを呪っていたのはノーカウントなのか? まあ落ちなかったのだからいいか。
僕らは夏の夜のサプライズに、時間も忘れて静かに見入っていた。
僕にもいつか、光輝くときが来るのだろうか。先輩が僕だけを見てくれる日が、来るのだろうか。
不意に、ボチャン、という嫌な音がした。
「いやあああああっ!?」
なんと先輩が池の周りのぬかるみに片足を突っ込んでふらふらしている。
「助けてっ! たおれるっ!」
「先輩っ!?」
とっさに僕が手を伸ばし、先輩がつかまる。引っ張って助け出すと、先輩は勢い余って僕の方に倒れ込んだ。
「ぎゃはははは! 猪俣がやりやがった!」
斎藤さんの爆笑が夏の夜に響き渡った。
「いたたっ……ごめんごめん……」
先輩に押し倒された僕は、ゼロ距離で先輩とまともに目を合わせてしまった。先輩の驚いた瞳の中に僕の顔が映っている。意外と長いまつ毛。ビールの缶の縁に触れていた、大人の唇。それらが、何事もなかったかのように遠ざかっていく。
その夜はドキドキしすぎて眠れなかった。
「小学生のうちから研究室に出入りしてたなんて、すごいですね」
「まあ、何が何だか分からなかっただろうけどね。年上に対して物怖じしないのは、この環境のおかげだろう」
「凜ちゃんの将来は研究者とかですか?」
「さあ、どうだろう。あまりオススメはしないけれど」
教授が凜ちゃんを見る。凜ちゃんは目も合わせず、ポテチを一枚つまんで食べた。
「渡辺くんは、将来はこれがやりたいとか、もう決まってるの?」
「僕はまだ何も……」
この話題になると、僕は必ず落ちこむ。自分には何もないし、何も決めることができない。
「結局のところ、やってみなきゃ分からないっていうのがあるでしょ? 僕もなんとなく生物学をやっているけど、たまたまだと思ってるよ。何かが少し違っていれば、別のことをやっていたとも思う。そんなものだ」
教授の言葉は励みになる。こんなに立派な専門家になった人でさえ、最初からその道に行こうと思っていたわけではないらしい。だから僕が迷って何も決められずにいるのも、仕方のないことだと思えてくる。
「渡辺くん、そろそろ出かけるよー」
夜、先輩が僕らを呼んだ。いつもの先輩に戻っている。
今夜はホタルを見ることになっているのだ。ピークは五月から七月らしく、過ぎてしまっているのでダメ元である。
僕らはキャンプ場の人工の光からどんどん離れていく。あたりは暗くて心細いが、目が慣れれば月明かりでも充分だった。林の中の少しひらけた場所に出ると、生い茂る緑に囲まれた小さな池があった。
時間がゆっくりと流れるような静けさの中、思い思いに歩き回ったり、草の上に寝転んだり座ったりした。かすかな風が熱い体を冷ましてくれる。
「何もいないね」
先輩がつぶやいた。闇の中にぼんやりと浮かび上がる先輩の輪郭に向かって答える。
「八時になりましたね……」
「ダメかー。時期外れだもんね」
先輩は草の上で仰向けに寝転んだ。あちこちで鳴く虫の声に耳を澄ませて、風を感じているだけで癒される。
僕も寝転んでみた。草のチクチクする感触が心地良くて、こんなことをしたのはいつ以来だろうかと懐かしい気持ちになった。
「星が綺麗だね」
「そうですね。こういうところ、いいですよね」
「だねー。悩みも忘れるよ」
「先輩にも悩み、あるんですか」
「もちろんあるよ」
先輩が口をとがらせる。その声はしかし、笑っていた。
「渡辺くんはある?」
「ありますよ、たくさん」
互いの顔がよく見えないせいだろうか。僕は普段なら絶対にしない話を先輩にしていた。
「僕、存在感、薄いですよね。もっと目立って、他人の目に留まれたらいいなって思うんですけど」
「ホタルみたいに?」
「はい」
「そんなに存在感ないかな?」
「ないですよ」
だって僕は、一番僕を見ていてほしい人に、充分なアピールができていない。やっとこうやって自然に話をすることができるようになったけど、それではただの友だち、知り合いで終わってしまう。このままではダメなのだ。
「ホタルはさ、夜はすごく綺麗だけど、昼間見ても綺麗には見えないよね」
「そうですね」
「渡辺くんが自分の存在感が薄いと感じるのは、昼だからかもしれない。まだ夜になってないからかもしれない。本当はもう、ちゃんと光る準備はできてるのかも」
そうだったらいいな、とは思う。先輩には、僕の小さくか細い光は見えているのだろうか。それとも今は、そういう時期ではないのだろうか。
「たぶん僕はもっと変わらないとダメなんです。今はまだ、いてもいなくても変わらない人間です」
「いてもいなくても変わらない、かー。私は今の渡辺くんも充分いいと思うけどな。私が落ち込んだら慰めに来てくれるし。私にひどいこと言わないし、気を遣ってくれるし。渡辺くんは誰とでもうまくやっていけそう。虫にも人にも優しい人に見える」
まあ、慰めに来たのは石橋さんが気を利かせてくれたからで、僕が優しいわけではないけど黙っておく。
それにしても、僕が誰とでもうまくやっていけそうだなんて、現実は真逆なのに。先輩は僕を買いかぶりすぎているのではないか。
「それにさ、今日は自分で虫を捕まえるところから料理して食べるところまで、全部挑戦したよね? よくやったと思うよ。今日から渡辺くんは新人の渡辺くんじゃなくて、虫の輪の選抜メンバーの渡辺くんになったんだよ」
先輩が僕の挑戦や頑張りを見ていてくれたことが、すごく嬉しかった。そう、僕は今日、初めて全ての過程に自分で取り組んだのだ。だからこそセミの唐揚げは忘れられない味になった。
僕が進んでいる方向は、一応間違っていないみたいだ。あまり焦らなくていいのかもしれない。先輩は僕の小さな一歩を見ていてくれるのだから。
「過去の僕は人と関わることがうまくできなくて、引きこもりになる一歩手前だった。両親にもすごく心配をかけた。友だちはいつの間にか誰もいなかった」と先輩に言ってしまおうかと考えた。言ってしまっても大丈夫、先輩なら「へえ、そうなの。意外だね」なんて言って、あっさり受け入れてくれるんじゃないかと思った。
優しいのは僕じゃない。先輩のほうだ。僕が先輩の、いや、みんなの優しさに救われているんだ。
過去を否定して、塗りつぶして新しく生まれ変わらなきゃいけないと僕は思っていた。でも必ずしもそんなことをしなくても、受け入れてくれる人たちはいる……。
「そろそろ帰ろうか」須藤教授の声が少し離れたところで響く。「この時間に見られないなら、もうダメだろうし」
僕らはのそのそと起き上がった。
先輩は池の周りを散歩している斎藤さんのほうを見て、「ゲス落ちろ~、ホタル出ないならせめて片足落ちろ~」と呪いをかけようとしていた。沼って、これかよ……。
しかし努力は実らず、斎藤さんは無事に水場から離れてしまった。先輩は「ちっ」と悪い顔で舌打ちする。僕らはみんなで歩いてきた道を引き返そうとした。そのとき――。
「あっ」
先輩が息を飲んだ。
「あれ! そうじゃない?」
池の上をゆらゆらと漂う、黄色とも緑とも見える小さな光。たったひとつだけの弱々しい光。みんなが歓声をあげた。
「ホントにいたんだ……」
僕は幻を見ている気分だった。こんな時期外れに現われたのは、ほとんど最後の一匹なのではないか。僕らはなんと幸運なのだろう。
「よかったね」
先輩の表情は見えなかったが、僕には笑っている顔が見えた気がした。
「よかったです。来てよかったです」
「私、日ごろの行ないがいいからなー」
ついさっき斎藤さんを呪っていたのはノーカウントなのか? まあ落ちなかったのだからいいか。
僕らは夏の夜のサプライズに、時間も忘れて静かに見入っていた。
僕にもいつか、光輝くときが来るのだろうか。先輩が僕だけを見てくれる日が、来るのだろうか。
不意に、ボチャン、という嫌な音がした。
「いやあああああっ!?」
なんと先輩が池の周りのぬかるみに片足を突っ込んでふらふらしている。
「助けてっ! たおれるっ!」
「先輩っ!?」
とっさに僕が手を伸ばし、先輩がつかまる。引っ張って助け出すと、先輩は勢い余って僕の方に倒れ込んだ。
「ぎゃはははは! 猪俣がやりやがった!」
斎藤さんの爆笑が夏の夜に響き渡った。
「いたたっ……ごめんごめん……」
先輩に押し倒された僕は、ゼロ距離で先輩とまともに目を合わせてしまった。先輩の驚いた瞳の中に僕の顔が映っている。意外と長いまつ毛。ビールの缶の縁に触れていた、大人の唇。それらが、何事もなかったかのように遠ざかっていく。
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