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夏の章

6 夏に香る桜②

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 そこらじゅうにいっぱいいるので、捕まえるのは簡単そうだ。
「午後の講義は?」
「一時からなので、それまで暇なんです」
「暇なときは毛虫拾いに限るね!」
 なんだそりゃ。
 おっかなびっくり毛虫の毛に触れてみると、ふわっとしていて痛くもなんともない。ならばと、活きのいいヤツを親指と人差し指でつまんで、素早く先輩の持っている袋へ放り込んだ。ぶにゅっとしていて、もがかれると妙に不安な気持ちになる。
 僕は今、遅れてきた青春を堪能しているのだろうか。このクソみたいに暑い夏の日に、空腹を我慢し、桜の木の下で白衣の似合う素敵な女性と並んでしゃがんで、束の間の毛虫拾いに興じる。……これも青春と言えるのか? あっ、学食に誘うの忘れてた。
「卒論、大変なんですか」
「大変は大変だね。パソコンとにらめっこが多いよ」
「先輩って農学部ですよね。どんな研究なんですか」
「私のはね、年輪の研究」
「年輪って、あれですよね。木を切ったときに見える……」
「そう、それ。輪っかが何重にもなってるヤツ。あれはすごいんだよ。木の年輪を細かく分析すると、森のことが分かるんだ。木は過去の森の姿を、年輪っていう形で覚えているんだよ」
 先輩が桜の木を見上げたので、僕も視線を追った。風はないようだが、桜の青々とした葉っぱは深呼吸をするように、少しだけ揺れている。
「年輪は木の記憶であって、森の記憶なんだ。百年も千年も前の記憶。まだ私が生まれていない世界のことが書いてある。一冊の本、とも言えるかも」
 僕には先輩の意味することが、正直よく分からなかった。だけどなんとなく、それがロマンチックなことなんだということは分かった。
 先輩は何ということのない街路樹のケヤキに、青葉を茂らせる夏の桜に、講義室の窓から見えるイチョウに、僕には見えない何かを見ているのだろう。先輩の瞳に映るものを少しでもいいから、僕も見てみたい。先輩の言葉の本当の意味を、理解できるようになりたい。そのために、たぶん僕は勉強するのだ。
「先輩はずっと、虫の研究をしているのかと思ってました」
 先輩は口元に手をやって、くすくすと笑った。
「そうだよね。理学部の生物科も考えたし、農学部には昆虫学の研究室があるから、そこに入ることも考えたんだけど。なんかちょっと違うなーって思って」
「ああ、昆虫学の研究室って、この大学にもあるんですね」
「うん。だけど私は、虫を解剖したり、新種を見つけて功績を残すことは、それほど興味がなくて。昆虫料理は虫の輪でやれるから、研究はもっと違うことをしようって思ってね。それに虫というより森が好きなんだなー、私は」
 ああ、こんなふうに、迷いもためらいもなく、飾らない言葉で、『これが好きだ』と言えたらな。
 先輩の顔に、太陽の光と桜の葉影が、コラージュを映す。
 綺麗だ。
「花が好き。木が好き。動物が好き」先輩が指折って数える。「鳥が好き。虫が好き。森を漂ってる空気が好き。湿った腐葉土の匂いが好き。葉陰を透かして見る太陽が好き。山が好き。川が好き。川の中の石をひっくり返して何かいないか探すのが好き。どこに繋がってるか分からない山道が好き。何も考えないで自然の中をただ歩くのが好き。草の上に寝転んでじっとしてるのも好き」
 指はとうに足りなくて、先輩は数えるのをやめた。
「虫しか食べないわけじゃないよ。森にはいろんな食材があるから。山菜とかキノコはもちろんだけど、雑草とか木の実とか。実はね、土だって食べるよー!」
「つ、土!? おいしいんですか!?」
「渡辺くん、そこは『土は食わんやろ~!』って突っ込むところだよ」
「ええっ!? 先輩なら普通に土も食ってると思いましたよ!」
「いや、土なんか食べないでしょ普通は」
「僕の『普通』は皆さんに破壊されてますよ」
 えっ、そうなの? という顔で先輩が僕を見た。僕はただ苦笑する。
「進路を選ぶのって難しいよね。農学部の森林学科を選んだけど、未だにそれで良かったのか分からない。研究室を決めるのも、けっこう悩んだっけなー」
 今日は、今まで知らなかった先輩の姿を知ることができたと思う。そして同時に、なぜ僕が先輩を好きになってしまったかということも、よく分かった。それだけで僕にとってはお腹いっぱいの収獲だ。
 当然といえば当然の流れで、先輩が質問してくる。
「渡辺くんはどうして地球科を選んだの? 化石とか恐竜が好きな人が集まるイメージだけど、渡辺くんは?」
「ええと……僕は……」
 恐竜や化石に興味はない。
 実を言うと、僕は答えるための理由を持っていなかった。だから何も言うことができない。しいて言えば、僕が理学部地球科学科などという、何をするのかよく分からない学科を選んだのは、何をするのかよく分からない学科だったからだ。つまり、何をするのかはっきりしている学科は、当時の僕には選べなかった。数学科は、数学をやりたい人が数学をやる。化学科は、化学をやりたい人が化学をやる。僕にとっては、それでは困るのだ。
 黙りこんだ僕を、先輩はそれ以上、追求しなかった。
「サクラケムシはね」
 先輩が秘密を囁くように告げた。
「サクラの香りがするよ」
 どうしてだと思う? と先輩が尋ねた。
「サクラの葉っぱを、食べたからですか」
「きっとそうだね」
 先輩は自分のスニーカーをのぼろうとしている一匹を、じっと見つめている。愛情さえこもった眼差(まなざ)し。
 と、急にケムシたっぷりのビニール袋に顔を突っ込んで、スーハースーハーと息を吸って吐いてを繰り返した。
「あー、桜を感じる! 渡辺くんもやってみる?」
「遠慮します」
「第二の可能性としては、サクラの木に住んでいるからかもしれないね」
 先輩の細くてしなやかな指が、毛虫の背中をなでる。毛虫は進路を変えてさっきよりも速く前進する。僕は生まれてこのかた、毛虫をそんなふうに優しく撫でる女性を見たことがない。
「大丈夫。渡辺くんもそのうち、いい香りがしてくるよ」
 先輩の包み込むような笑顔に、僕は入学式の日に見た満開の桜を重ねていた。なぜ僕はここにいるのか? それは、決意をして実家から離れ、クラスメイトがほとんど進学しないこの大学を選んだから。胸を張れることなんて、何ひとつないけど、少し自分を打ち明けたくなった。
「先輩……ちょっと聞いてくれますか」僕はスニーカーの毛虫に語り掛けるように言った。
「うん、聞くよ」
 毛虫はスニーカーの側面を回って、つま先へと向かっている。
「僕の場合、好きなものがないから地球科に来ました。地球科って、他の学科と比べたら何をするところなのかパッと分からなくて、なんか曖昧だなと思って、それで選んだんです」
「なるほどね。確かに何してるのかなって感じ」
 先輩の指は、毛虫とおしゃべりするように戯れる。
「君って、大学に来て正解だよ」
「え?」
「正解も正解。大正解。私はね、知りたいっていう気持ちと、好きっていう気持ちは、本質的に同じものなんじゃないかって思うんだ。そうすると、学問をするってことは、愛するってことだよ。自分の『好き』が分からないなら大学で学問をやったらいい。『好き』を見つける旅をするのが、大学っていう場所。だから君は大正解。集中講義なんて打って付けだよね。お見合いみたいなもんじゃない?」
 確かにこれは学問とのお見合いかもしれない。
 そうか、何も『好き』がはっきりと決まってなくてもいいんだ。「ティラノサウルスの研究がしたくて地球科に来ました!」なんて言えなくても、申し訳なく思う必要はないんだ。堂々と「夢中になれるものを探しに来ました」と言えばいい。
 僕は先輩の言葉に救われたような気がした。今までは同じ学科の人たちに対して、なんとなく引け目を感じていたが、これからは少しだけ対等に接することができるかもしれない。
「僕、明日の集中講義も出てみようと思います」
「いいね。そういう青春もアリだよね」
「ところで、先輩はその格好で暑くないんですか」
「死ぬほど暑いよ。ちょっとその辺で冷たいものでも飲もうか」
「はい、ぜひ!」
 学食には行かなかったけれど、自販機の前でお茶をすることはできた。
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