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秋の章

7 恋する貴婦人①

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『内定しました!!!』
 そんなメッセージが虫の輪のLINEグループに送られてきたのが先週末。十月の、夏休みが明けて二週間ほど経った日のことだった。
『みなさんホントにありがとうございます! 余計なことをしゃべるな、とりあえず黙っとけ、というアドバイスのおかげです!』
 就職活動とか面接とかいうものは、いかにたくさんしゃべって自分をアピールするかが重要なのだと、僕は思っていた。しかし先輩の場合は、そうではないらしい。確かにきっちりとスーツを着て、髪も整えて、椅子に座って膝の上で両手を合わせているだけなら、面接官は先輩に一目置くかもしれない。先輩がしゃべり始めるまでは。
 虫の輪には二人の就活生がいる。学部四年の先輩と、修士二年の斎藤さんだ。さほど話題にはなっていないが、斎藤さんはかなり早い時期に志望通りの企業に採用が決まっている。それも一部上場していて、誰もが聞いたことがある有名企業だから驚きだ。それを自慢するでも誇るでもなく、「まあ、当然だろう。そんなことより……」と涼しく話題を流した斎藤さんは、いったい何者なのだろうか。とにかく先輩と違って、かなりの世渡り上手であることは違いない。
『見事に全員内定というわけだ。次回は二人のお祝いということでいいかい?』
 ひとしきり賛辞が飛びかったあと、須藤教授の提案で内定祝いパーティーをすることになった。
 それで今日。
 須藤教授の研究室にいつものメンバーが集まり、いつものように本日の予定が発表された。
「では本日も虫の輪、始めます。本日の予定はだいたいLINEで連絡した通りなんですが、追加で最初に、サークル代表の交代を行ないたいと思います」
 突然の発表にもかかわらず、僕以外は誰も動揺していなかった。しかし考えてみれば、先輩は来年三月に卒業するので、いずれこの日が来るとみんな知っていたのだ。
「えー、では、サークルの創設者にして代表者である私から退任の挨拶を」先輩はわざとらしく咳を打った。「このサークルは私が一年生のときに作ったので、四年目です。これほど長くサークルが存続しているのは、皆さんのおかげです。本当に感謝しています」
 先輩にしてはマトモというか平凡な挨拶だ。こんなふうに話せるなら内定を取るのは難しくなかったんじゃないだろうか。だが僕はすぐに『余計なことをしゃべるな』というアドバイスの意義を理解することとなった。
「しかーしッ! 私にはやり残したことがある! たぶん何個かある! でも一番は斎藤くんッ!!」先輩が声を張り上げ、斎藤さんがびくりとした。「マダゴキちゃんの卵を私にちょーだい! お願いだから! 創設者の最後の願い! マジでお願いします! お願いします!」
 創設者であり代表者であり司会者であり今日の主役である人物が、いきなり全員の前で平身低頭してマダガスカルゴキブリの卵を懇願したのである。テーブルに額をくっつけ、ひたすら「お願いします!」を連呼している。あまりに身を乗り出すので、テーブルがずるずると押され、それを反対側にいる斎藤さんが押し返す。どよめき、あきれる僕ら。
「見苦しいわ! 個人の欲を公の場で訴えるんじゃねえよ」
「最後の公の場だからこそ、私は訴える! もう三年以上ずっと訴えてきたように、私はあきらめずに訴える! マダゴキの卵を! 神の恵みを! どうかください! 卵! いいじゃん、ひとかたまりくらい。斎藤くん、お願いだから! 一生で一回のお願い! ホントに一回だけだから! 私のお願いを叶えて!」
「やらねーよ! おまえには絶対やらねえ!」
「なんで!? 私の何が不満!?」
「ずうずうしくてしつこいところが不満だよ! ほかにも聞きたいか? 聞きたくなければさっさと司会しろ!」
「うぅ……」
 厳しく叱責された先輩は捨て犬みたいな顔で「このゲス」と小さくつぶやき、司会を再開した。
「次の代表は、石橋くんなんで、がんばってください。じゃ、あと適当によろしく」
 驚くほどそっけない言葉を残し、先輩は司会席からしりぞいた。だいぶ凹んでいるようなので、あとで励まそう。
 教授を抜けば残るメンバーは僕、凜ちゃん、石橋さんなので、妥当な采配だろう。というか、他に選択肢がない。このサークル、存続できるのだろうか……。
 僕の心配をよそに、司会席に座った石橋さんが意外としっかりした口調で話し始める。
「新代表に任命いただきました石橋です。サークルが盛り上がるように尽力していきますんで、つたない部分もあるかと思いますが、以後よろしくお願いしまっす。さて本日の予定ですが、このあとすぐ全員で外に出て、大学内でジョロウグモを採取。それから調理班と買い出し班にわかれて、宴会の準備。宴会会場はここ。二次会は各自でお願いしまっす」
 たぶん事前に代表任命のことを知っていたのだろうけど、卒なくこなすところが流石だ。
 それにしても先輩は新代表のことなどちっとも見ておらず、未練たらしく斎藤さんをにらんでいた。どこまでも己の欲に正直な人である。
「じゃ、行きますか」
 一同はバラバラと立ち上がった。
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