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秋の章
7 恋する貴婦人②
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土曜日の大学は学生もまばらで、平日の昼間とは空気が違う。天気は生憎(あいにく)の曇りで、薄い灰色の雲が空を覆っていた。
「降るかもしれないっすね」
建物から出たところで、石橋さんが空を見上げた。
「降水確率四十パーセントだそうだ」
須藤教授はスマホで天気を調べている。
「降っても小雨らしい」
木が多くて絶好の採集スポットである憩いの広場周辺に向かった。石橋さん、斎藤さん、須藤教授、凜ちゃんが並んで前を行き、僕は傷心した先輩の隣に並ぶ。
「斎藤くんってゲスだよね」
まだそんなことを言っていた。
「びっくりするほどゲスだよね」
僕としては斎藤さんに協力してもらっている立場なので、全面的に肯定するわけにもいかない。
「確かにすごくキツい人ですけど、いい人のときもありますよね」
「どんなとき?」
「え? あー……」
先輩とお近づきになるために協力してもらっているとは言えなくて、言葉に詰まる。
「ああ見えて意外と器用で料理うまいですし……」
「それっていい人なの?」
先輩が小さく笑った。
「いや、あの、そうだ! 割とみんなのことをよく考えてくれてるというか」
「そうだねー。あれで意外とみんなのこと、よく分かってるんだよね」
広場に着いた。ベンチはどこも空席で、誰もいない。
「おー、いるわいるわ」
斎藤さんがさっそく一匹目のジョロウグモを捕獲しにかかった。
「いるねー」先輩も嬉しそうに、木々に近づく。「いい具合に染まってる」
「染まってるって、何がですか?」
僕が尋ねると、先輩は「お腹の赤色。きれいでしょ?」とクモの巣の真ん中にいる本日の食材を指差した。大きさは二、三センチ。黄色と黒のトラ模様で、長い八本の脚を持ち、ぷっくりとふくれたお腹には鮮やかな紅が入っている。まるで遊女のようにあでやかな姿をしたクモだが、まったく珍しくないので、たいていの人はまじまじと眺めたりしないだろう。
「春には見ないでしょ、このきれいな赤」
「言われてみれば、今まではいなかったような気がします」
「大きくてお腹がふくれてて赤色が入ってるのがメスね」
「えっ、赤いのは全部メスなんですか」
「そうだよ。この時期はジョロウグモの恋の季節だからね。メスのお腹が赤くなるの。赤はジョロウグモの恋の色。でもなんで赤なんだろうね? 人間も赤い糸って言うよね」
「そ、そうですね……」
その理由は知らないが、それよりもこの流れのまま「先輩は恋愛に興味あったりしますか」とか「好きな人はいますか」とか聞いてみたくてたまらなかった。だけど聞く勇気はない。
「あれ? でもそうするとメスばっかりでオスはいないんですか」
「オスはこっち」
先輩がクモの巣の端っこのほうを指差した。目を凝らすと、薄いクリーム色をした小さなクモがいる。かなり地味だから存在に気づかなかった。
「これ!? ちっさ! それにむちゃくちゃ弱そうじゃないですか」
「弱いんだよ。下手すると嫁に食われちゃうよ、文字通り」
「蚤(のみ)の夫婦、ってやつですか。クモの世界って厳しいですね」
「超厳しいね。人間はフラれても命まで取られないからねー。彼らは告白からすでに命がけだ」
ジョロウグモと比較すると、人間の僕が告白するのは簡単なことのように思えてくるが、そんなのは錯覚である。僕には当分できそうにない。僕みたいなのがジョロウグモのオスに生まれていたら、ためらっているうちに絶対メスに食われている。
先輩は巣の真ん中に陣取っている大柄なメスを指でつまんで捕まえ、持ってきたビンに入れた。ためらいも恐れもないのは毎回のことだが、いちいち感心してしまう。
「たった今カップルを離ればなれにしたわけだよ。そう考えると、なんだか心苦しいよね」
「そうですね。お嫁さんが怪物に取って食われるんですもんね」
「我々は怪物なんだね。いや悪魔かも。やだなー」
人間は食うために何かを育て、子を産ませ、それをまた育て、また子を産ませる。そして最後にはやっぱり食う。その過程で愛情をそそぐことはあれど、やはり食う。食われるほうからすれば、まさに怪物、悪魔に違いない。
「ジョロウグモって、毒、ないんですか」
「毒は弱いから大丈夫なんだけど噛むよ。ちょっと痛いかな。軍手持ってこなかった?」
「いちおう持ってきました」
「さすが渡辺くん。たぶん他に誰も持ってきてないよ。せっかく私が連絡したのに」
そういう先輩も素手なんですが。
「まれにセアカゴケグモっていうのがいて、ちょっとジョロウグモに似てるんだけど、そいつは毒が強いから絶対触っちゃダメね。ジョロウグモより小さいけど、見た目はいかつい感じだから、渡辺くんならこれは違うなって分かると思う」
「分かりました。気をつけます」
僕らは適当に散らばって移動しながら、ジョロウグモを一匹一匹採取していった。凜ちゃんでさえ素手で取っていたが、僕は素手で虫を触ることに今も抵抗があるので軍手をはめた。透明なビンの中に集めたトラ模様のクモたちは、やっぱりカニの味がするんだろうか。初めて食べたアシダカグモのことや、先輩との出会いのことを思い出す。もう半年が経った。あと半年で先輩は卒業してしまう。内定した企業は、僕にとって幸いなことに県内だという話だけど、引っ越しは必要なのか、それとも今のところに住み続けるのか、それすら聞けていない。物理的な距離も心配だし、学生と社会人という立場の大きな違いが、僕と先輩との距離を余計に遠ざけてしまいそうで不安だ。
早く告白すべきなのだろうか。だが大学を去る相手に告白するなど、迷惑ではないか。どうして僕は最初から先輩の卒業について考えておかなかったのだろう? どうするのが正解なのか……?
ビンの中を歩きまわるジョロウグモたち。その姿に同情のようなものを覚えてしまう。オスと引き離され、こんなところに閉じこめられて、もう二度と外に出ることはできない……。
小雨が降り始めた。傘は持っていないが、気にするほどの強さでもないので、次のジョロウグモを探す。
「渡辺くん、戻ろう」振り返ると先輩がいた。「濡れちゃうよ」
「このくらい、大丈夫ですよ」
「でもみんな、戻るってよ。もうけっこう捕れたし」
僕はおとなしく、先輩と一緒に建物のロビーへ戻った。
「降るかもしれないっすね」
建物から出たところで、石橋さんが空を見上げた。
「降水確率四十パーセントだそうだ」
須藤教授はスマホで天気を調べている。
「降っても小雨らしい」
木が多くて絶好の採集スポットである憩いの広場周辺に向かった。石橋さん、斎藤さん、須藤教授、凜ちゃんが並んで前を行き、僕は傷心した先輩の隣に並ぶ。
「斎藤くんってゲスだよね」
まだそんなことを言っていた。
「びっくりするほどゲスだよね」
僕としては斎藤さんに協力してもらっている立場なので、全面的に肯定するわけにもいかない。
「確かにすごくキツい人ですけど、いい人のときもありますよね」
「どんなとき?」
「え? あー……」
先輩とお近づきになるために協力してもらっているとは言えなくて、言葉に詰まる。
「ああ見えて意外と器用で料理うまいですし……」
「それっていい人なの?」
先輩が小さく笑った。
「いや、あの、そうだ! 割とみんなのことをよく考えてくれてるというか」
「そうだねー。あれで意外とみんなのこと、よく分かってるんだよね」
広場に着いた。ベンチはどこも空席で、誰もいない。
「おー、いるわいるわ」
斎藤さんがさっそく一匹目のジョロウグモを捕獲しにかかった。
「いるねー」先輩も嬉しそうに、木々に近づく。「いい具合に染まってる」
「染まってるって、何がですか?」
僕が尋ねると、先輩は「お腹の赤色。きれいでしょ?」とクモの巣の真ん中にいる本日の食材を指差した。大きさは二、三センチ。黄色と黒のトラ模様で、長い八本の脚を持ち、ぷっくりとふくれたお腹には鮮やかな紅が入っている。まるで遊女のようにあでやかな姿をしたクモだが、まったく珍しくないので、たいていの人はまじまじと眺めたりしないだろう。
「春には見ないでしょ、このきれいな赤」
「言われてみれば、今まではいなかったような気がします」
「大きくてお腹がふくれてて赤色が入ってるのがメスね」
「えっ、赤いのは全部メスなんですか」
「そうだよ。この時期はジョロウグモの恋の季節だからね。メスのお腹が赤くなるの。赤はジョロウグモの恋の色。でもなんで赤なんだろうね? 人間も赤い糸って言うよね」
「そ、そうですね……」
その理由は知らないが、それよりもこの流れのまま「先輩は恋愛に興味あったりしますか」とか「好きな人はいますか」とか聞いてみたくてたまらなかった。だけど聞く勇気はない。
「あれ? でもそうするとメスばっかりでオスはいないんですか」
「オスはこっち」
先輩がクモの巣の端っこのほうを指差した。目を凝らすと、薄いクリーム色をした小さなクモがいる。かなり地味だから存在に気づかなかった。
「これ!? ちっさ! それにむちゃくちゃ弱そうじゃないですか」
「弱いんだよ。下手すると嫁に食われちゃうよ、文字通り」
「蚤(のみ)の夫婦、ってやつですか。クモの世界って厳しいですね」
「超厳しいね。人間はフラれても命まで取られないからねー。彼らは告白からすでに命がけだ」
ジョロウグモと比較すると、人間の僕が告白するのは簡単なことのように思えてくるが、そんなのは錯覚である。僕には当分できそうにない。僕みたいなのがジョロウグモのオスに生まれていたら、ためらっているうちに絶対メスに食われている。
先輩は巣の真ん中に陣取っている大柄なメスを指でつまんで捕まえ、持ってきたビンに入れた。ためらいも恐れもないのは毎回のことだが、いちいち感心してしまう。
「たった今カップルを離ればなれにしたわけだよ。そう考えると、なんだか心苦しいよね」
「そうですね。お嫁さんが怪物に取って食われるんですもんね」
「我々は怪物なんだね。いや悪魔かも。やだなー」
人間は食うために何かを育て、子を産ませ、それをまた育て、また子を産ませる。そして最後にはやっぱり食う。その過程で愛情をそそぐことはあれど、やはり食う。食われるほうからすれば、まさに怪物、悪魔に違いない。
「ジョロウグモって、毒、ないんですか」
「毒は弱いから大丈夫なんだけど噛むよ。ちょっと痛いかな。軍手持ってこなかった?」
「いちおう持ってきました」
「さすが渡辺くん。たぶん他に誰も持ってきてないよ。せっかく私が連絡したのに」
そういう先輩も素手なんですが。
「まれにセアカゴケグモっていうのがいて、ちょっとジョロウグモに似てるんだけど、そいつは毒が強いから絶対触っちゃダメね。ジョロウグモより小さいけど、見た目はいかつい感じだから、渡辺くんならこれは違うなって分かると思う」
「分かりました。気をつけます」
僕らは適当に散らばって移動しながら、ジョロウグモを一匹一匹採取していった。凜ちゃんでさえ素手で取っていたが、僕は素手で虫を触ることに今も抵抗があるので軍手をはめた。透明なビンの中に集めたトラ模様のクモたちは、やっぱりカニの味がするんだろうか。初めて食べたアシダカグモのことや、先輩との出会いのことを思い出す。もう半年が経った。あと半年で先輩は卒業してしまう。内定した企業は、僕にとって幸いなことに県内だという話だけど、引っ越しは必要なのか、それとも今のところに住み続けるのか、それすら聞けていない。物理的な距離も心配だし、学生と社会人という立場の大きな違いが、僕と先輩との距離を余計に遠ざけてしまいそうで不安だ。
早く告白すべきなのだろうか。だが大学を去る相手に告白するなど、迷惑ではないか。どうして僕は最初から先輩の卒業について考えておかなかったのだろう? どうするのが正解なのか……?
ビンの中を歩きまわるジョロウグモたち。その姿に同情のようなものを覚えてしまう。オスと引き離され、こんなところに閉じこめられて、もう二度と外に出ることはできない……。
小雨が降り始めた。傘は持っていないが、気にするほどの強さでもないので、次のジョロウグモを探す。
「渡辺くん、戻ろう」振り返ると先輩がいた。「濡れちゃうよ」
「このくらい、大丈夫ですよ」
「でもみんな、戻るってよ。もうけっこう捕れたし」
僕はおとなしく、先輩と一緒に建物のロビーへ戻った。
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