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冬の章

12 赤の他人、黄色の他人①

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 二月下旬。雪こそ降らないが、寒い日が続いている。
 僕はJR静岡駅北口の案内板の前で、そわそわしながら先輩が来るのを待っていた。
 現在時刻は一時半。待ち合わせの時間まで三十分もある。さすがに早く来すぎたので、ケータイにメモした今日の行動プランを再確認――駅前のショッピングモールを散策。映画。おしゃれな店でディナー。夜景スポット。
 定番の、普通のカップルがよく行きそうなところを巡る計画だ。
 僕は今日までずっと悩んでいた。先輩が行きたい場所はどこか、満足してくれることは何か。近くに昆虫博物館があるわけでもなければ、都合よく昆虫即売会が開催されているわけでもない。ここは森でも山でもない。
 悩んで悩んで悩んだ結果、僕はごく普通のプランに決めたのだった。ちなみに今日、どこで何をするかはざっくりとしか伝えていない。だから先輩は博物館に行かないと知って失望するかもしれないが、今となってはどうしようもないことだ。
 十五分くらい待っていると、先輩が現われた。北口に停車したバスから降りてきた先輩は、とても素敵だった。その場にいた人々の誰もが一瞬、視線を奪われたことだろう。
 薄ピンク色のロングコートはいつも着ている白衣のようでもあり、先輩らしさを感じた。大人っぽい革のブーツ、可愛らしいチェックのマフラー。寝ぐせのない、丸みのあるシルエットの髪。
 先輩は僕を見つけると微笑んで手を振った。僕の目には、まるで売れっ子アイドルか映画のスターが登場したかのように、先輩のところにだけスポットライトが当たって見える。こんなに素敵な女性とこれから一緒に街を歩くなんて現実とは思えない。
「おまたせ。やっぱり渡辺くんのほうが先だったね」
「いえ、なんかすみません」
 先輩はきっと気を遣って早目に来てくれたのだ。
「先輩、あの、今日は、なんていうか、すごく素敵だと思います」
 僕は心臓が高鳴ったせいか、うっかりストレートに感想を言ってしまった。
「ありがと。今日は汚い白衣を着てないからかな」
「いや、その! 普段の白衣姿がダメってわけじゃなく! あれもすごく似合っていてイイと思っていますが」
「そう? あれがいいなんて言ってくれるのは渡辺くんくらいだ」
 先輩はおかしそうに笑った。それだけで僕は幸せな気持ちになる。
「そうだ! あの白衣、渡辺くんにあげようか? 地球科だったら使うでしょ?」
「へ!?」
 ……先輩の白衣を、僕がもらう!? あれはとにかく汚いけど、先輩の汗や香りが染みこんだ、世界に一つだけの白衣なわけで……。
 本気でもらおうかどうか考えていると、先輩は「あ、ダメだ。この前、捨てちゃったんだ」と呟いた。
 僕は頭を振って、余計な妄想をかき消す。
「ところで、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
「そのことなんですけど、普通に映画見たり食事したりで、虫っぽい場所もイベントもないんです。それでも、いいでしょうか」
「もちろん、何でも大丈夫」
 がっかりしたようには見えなかったので、僕はほっとした。
「じゃあ、行きましょう先輩」
「うんうん、行こうか。この辺に来るのって久しぶりなんだよねー」
 僕らは地下通路を通ってショッピングモールへ向かった。
 本当に夢のようだと思う。ドキドキして、ふわふわして、うずうずする。ただ並んで歩いているだけで楽しいなんて、僕はどうかしているんだ、きっと。
「前は何しに来たんですか?」
「確か研究室の飲み会だったかな。農学部のほうの」
「やっぱりどこの研究室も、そういうの、やるんですね」
「まあ、研究室の人にはいろいろ教えてもらったり手伝ってもらったりすることになるからね。機械の使い方とか道具の場所とか。他の研究室に何か借りなきゃなんないこともあるし、ホントに人間関係って大事だよ。どんな優秀な人でも必ず誰かに協力してもらわなきゃ研究はできないんだ」
 なるほど、大学というところはサークルにしろ研究室にしろ、人と人との関係によって成り立っているようだ。そいうのが苦手な僕としては、ちょっと気が重い。
「なんだか大変そうですね」
「大変だけど、そこが面白いんだよ。いろんな出会いがあるから」
 まだ今の僕では、人との出会いが面白いだなんて、心の底からは言えそうにない。だけど少なくとも先輩との出会いや、虫の輪のメンバーとの出会いは、僕にとって大切なものになった。
 僕らは雑貨屋に入って何を買うでもなく見て回った。便利な料理グッズのコーナーで足を止める。
「このザル、ずっと欲しかったんだよねー。傾けるだけで水が切れるなんて画期的じゃない?」
「先輩って普通の料理もするんですか?」
「もちろんだよ、一人暮らしなんだから。ラーメンとかスパゲッティーとかそうめんとか」
「麺類ばっかりですね」
「楽だからね」
「卒業したら、その……引っ越しとか……」
「最初は研修があるから本社のほうに行かなきゃだけど、引っ越しはしなくて済みそうかなー」
「ホントですか!?」
 嬉しい情報が聞けたので、思わず声が大きくなってしまった。
「ホントだよ。渡辺くん、私のうちに遊びに来ようとでも思ってるの?」
 先輩が冗談めかして、からかってきたので、僕はあたふたと誤魔化す。
「え? いや、あのっ! 今のところに住んでるなら、大学に近いですし、またサークルにも来てくれるのかなと」
「そうだね、行けたら行きたいなー」
 先輩が引っ越さないと判明して、僕はすべてがうまく行きそうな気がしてきた!
 だからって焦るなよ、と自分を落ち着かせつつ、話題を料理グッズに戻す。
「社会人になったら仕事で忙しいでしょうし、こういう便利グッズがあると良さそうですよね」
「あれば絶対に便利に違いないって思うんだけど、雑貨屋さんに置いてあるものって、わざわざ買い替える必要のないものばっかりじゃない?」
「そうですね、確かに」
 なんとなく眺めるのは楽しいけど、買おうと思わないのはそういうことか。
「うちのザル、あと十年くらいは壊れそうにないんだよなー。いっそザルが爆発してくれたら迷わず買い替えるのに」
「先輩のうちのザルが不憫に思えてきました」
 それから輸入食品のお店を見たりして、時間になり、ぼちぼち映画館へ移動することにした。
 映画館は人でごった返していて、ポップコーンと飲み物を買うために長い列の最後尾に並んだ。
 何を見るかは決めてあって、チケットも購入済みだ。先輩とラブストーリーを見る勇気は僕にはなかった。なんだか露骨すぎていけない。代わりに選んだのは海外の有名監督の作品で、妹を妖精に奪われた少年が妖精の世界へ行って大冒険するファンタジーである。当然昆虫好きが喜ぶような要素はない。
 なのにその映画にしたのは、僕が一番見たい映画だったからだ。僕が好きなものについて、先輩と語り合いたかったからだ。先輩ならきっと受け入れてくれるはずだから。
 ポッポコーンと飲み物を持って入場口を通った辺りで、いよいよ緊張が高まってきた。大きな扉を抜けて通路を進むとスクリーンが見えた。チケットを見ながら席を探す間も、僕の手足は震えている。
 先輩が席を発見し、並んで着席した。
 まだ明るい館内には家族連れもいればカップルもいる。僕らもカップルだと思われているのだろうか。隣のシートにいる先輩の姿を見たいと思うけれど、緊張してできない。
 これまでもサークルでの食事のとき、席が隣になったことはあるし、今日だってすでに一時間くらい二人だけで過ごしている。だけど映画館で隣のシートに座るのは、それらとは決定的に違うような気がする。先輩との物理的な距離が近すぎるからなのか、それとも映画館という非日常的な空間にいるからなのか。
 僕はスクリーンとポップコーンだけを見ていた。こんなに近い距離で隣を見ることは、ひどく不誠実な行為のように思える。いや、それよりも何よりも、とにかく緊張がすごくて、どんなタイミングなら先輩の姿を見てもいいのか分からなくて、下手にチラッと視線を送って『いま私を不埒な気持ちで見やがったな』なんて思われたらどうしよう、と考えてしまう。
「そろそろ始まるかなー」
「そうですね」
 だんだんと席が埋まっていく。
「そういえば、私」
 先輩はその先だけ内緒話をするように僕の耳元で小さく囁いた。
「大学に入ってから、映画館で映画見るの初めてだよ」
「え?」
 僕は思わず先輩のほうを向いてしまって、楽しそうな顔が近くにあることにドキリとした。子供みたいに無邪気な笑顔が、いつも僕を動揺させる。
「なんかドキドキするね」
「は、はい」
 先輩も僕と一緒にいてドキドキすることがあるのだろうか。それとも、ただ久しぶりの映画で興奮してるだけ?
 館内が暗くなり、映画の宣伝が大音量で流れ始めた。だが先輩の存在感、気配を嫌でも意識してしまう。こんな状態で映画のストーリーが頭に入るだろうか。
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