上 下
20 / 41
孤独な青年編

罪悪感と苦悩

しおりを挟む
 アケロミが恐怖するのには理由がある。過去にここから追い出された人がいたのを彼は覚えていたのだ。あれは確か隣人を殺したとかいう理由だったはず。俺はあいつを殺したようなもんだ。あいつは死んでないけど俺は確かにあいつを精神的に殺したんだ。

 アケロミはベッドから体を起こすと頭を両腕で抱え込んだ。俺は何てことをしてしまったんだ。これは俺のミスだ。俺は失敗したんだ。怒られる。責められる。どうしよう。追い出されでもしたら俺は…。
「アケロミ。あの子の家族は君を責めたりしてなかったよ。別に君のことを悪く言っていたわけでもなかったし。…気をもむ必要はないよ。」
 クリスはそう言ってくれたがアケロミの心はどんどんと沈んでいくばかり。クリスはそっとその場を離れた。
「少し一人にしてやろう。」
 医務室のドアのすぐ後ろにいたユーズにそう声をかける。
「あの子の状態は?」
 ユーズはすぐにクリスに喰いついた。手の甲には縫い傷がある。今さっきクリスに治療してもらったのだ。とても痛いはずだったがアケロミやベルクルのことで頭がいっぱいで痛み何て忘れていたのだ。
「あまり良いとは言えないね。きっと追い出されるって思っているんだよ。…自分のことをずっとせめている。あのままじゃ…今日は起きれなさそうだね。」
「…そうか。僕が怒鳴りすぎたから落ち込んでいるのかな。……かわいそうなことをした。」
 ユーズの目には金切り声をあげるアケロミの姿がはっきりと映っていた。あれは怒りの叫びだけじゃなかった。あの恐怖にひきつった表情。なぜ僕はアケロミの気持ちも考えずにひどいことを言ってしまったのだろう。それにアケロミを殴ったのはあれが初めてだった。床に倒れこんで頬っぺたを押さえているアケロミを思い出すと心が針で刺されたかのように痛む。クリスは落ち込むユーズの肩にそっと手を置いてやった。
「ユーズ、君が居なかったら他の生徒にも被害が出ていたかもしれないし、ベルクル君もただでは済まなかったと思う。君のおかげだ。」
「…そうかな…。」
「きっとそうだよ。…ゲルデ君だって落ち込んでいたんだから。アケロミを撃つなんて鬼のすることだ、って言っていたよ。」
「…。」
 こちらではユーズが自らの発言を悔やみ、ドアの向こうではアケロミが恐怖や不安、そして後悔と戦っている。
「ユーズ、君も今日は休んだ方がいい。」
「いや、僕は休むわけにはいかない。他の生徒のこともあるしね。」
 ユーズの意志は固い。こんなことで折れたくなんかない。僕は…強い人間だから。
「本当に大丈夫なのか?」
「僕のことは心配しなくてもいい。…僕は強いから。」
「…そうか。」
 ユーズはゆっくりと歩いて教室に戻って行く。その様子をただじっと見つめていたクリスは寂しげな笑みを浮かべて診療所の中へと戻って行った。


  アケロミは学習所に来なくなった。一部の生徒からは退学が噂されていたが実際はそうではなかった。アケロミはひどい罪悪感から学習所に通えなくなってしまったのだ。学習所に行けばベルクルがいる。ベルクルならアケロミを許してくれるかもしれない。心が広いから。しかし、アケロミは学習所に行く勇気はなかった。怖かったのだ。周りの生徒からどんな目で見られるんだろう。俺はあそこで人間じゃないことをバラしてしまった。周囲の人間からすれば俺は完璧化け物だろうな。こんな奴が人間なんてあり得るわけがないんだ。それならば最初から人間と言わなけりゃよかった…。いや…人間なのはあながち間違いではないけれど。元人間と言えば少しは変わっていたのかしら。…そんなこと考えてももう遅い。もう事件は起きてしまった。大切なのはこれからどう過ごしていくか、だ。なんとしてでも隠し通すんだ、俺の正体を…。彼は以前よりも人と関わらないようになってしまった。なるべく人が少ない夜に行動するようにし、人とすれ違っても目を合わさないようにした。皆が皆アケロミの噂を知っていてどこかで悪口を言っているように感じたのだ。しかし、そこまでしても彼の不安は消えなかった。いつもどこかで誰かが自分のことを見張っているような気がして落ち着けない。居場所が無いように感じてしまうのだ。
「あ、アケロミだぜ。あいつ、やらかしたんだってな。」
「ああ、知ってる知ってる。ベルクルとかいう中国人に暴力振るったんだろ。」
 ある日、通路ですれ違った学習所の生徒がアケロミの方を見て笑っていた。
「ちょっと話しかけてみようぜ。」
「やめときなさいよ。ろくなことにならないわよ。」
 話したこともない人々が彼のことを指さし、そしてヒソヒソと話している。辛い。その視線がたまらなく辛くて悔しい。いつもなら絡んで絞めてやるのにそれをする元気すら失ってしまった。
「おい、アケロミ。」一人の生徒が話しかけてきたがアケロミは無視を突き通す。
「なんだよ、無視とかマジあり得ねぇんですけどー。」
「本当に。耳が聞こえないのかしら。」
 二人とも知らない生徒だった。同じ学年かどうかも知らない。
「無視してんのか聞こえないのか分かんねーけどさ。」
 バカにしたような声が響く。
「お前みたいな化け物が学習所にいたら困るんだよ。一生家にこもっとけ。学習所にも来るなよ。」

 アケロミは歯を食いしばった。悔しかったがここで手をあげるわけにもいかない。そんなことしたらまたユーズ先生に迷惑が掛かってしまう…。我慢しろ、俺…。耐えろ、耐えきるんだ。あと一年もすればみんな俺のことなんて忘れてくれるはず…。それまでは何とか…。だが、彼が耳にしていた噂は何も自分だけの物じゃなかった。ベルクルに関する悪口までもが横行していたのだ。聞いていて気分が悪くなるような言葉が人々の口から出てくる。彼はいつもそれをイライラしながら聞いていた。そして彼は知ってしまったのだ。自分が学習所に行かなくなった今、いじめの矛先はベルクルに向けられている事を…。そしてハーヴィやラヴェルにまでその影響が表れているということも。アケロミは自分の家のソファに横になって考えた。どうしようか、俺が行けばあいつらは虐められなくなるのだろうか。俺が抑止力になれば…。再びいじめの矛先を俺に向けさせることができれば…。
「…何考えてるんだ、俺は。」
 あんなに嫌っていた奴らなのに…どうして俺はこんなに考えているんだろう。ユーズや他の人に謝りに行ったときにあの三人のことを聞いてからずっと考えている。自分の事よりも相手のことを深く考えたことなんて今までなかったのに。………。

「あいつ、学習所に来ないわね。」
 アケロミが学習所に来なくなって二週間がたった。ダイアナは取り巻きの生徒たちに言った。
「あのデカい男がいなくなって教室が広く感じるわ。この方がすっきりしていていいんじゃない。ありがとうね、ベルクル。ベンジャミン。」
 ダイアナはベルクルやハーヴィ、ラヴェルの方をチラリと見た。何て奴らだ。アケロミはお前らのいじめのストレスでこんなことになったんだろ。そもそもお前らのせいじゃねぇか。ハーヴィの心の中であらゆる思いが渦巻く。心やしい彼でさえも心の中では彼らに対する暴言であふれていたのだからよっぽどだ。
「アケロミがいなくなってせいせいしたわ。」
 ラヴェルはダイアナをぎろりと睨んだ。
「少しは黙っていてください。」
 ラヴェルがイライラした様子で言う。
「はい?」
「いちいちうるさいんですよ、この卑怯野郎!!!」
 ラヴェルの恐ろしい剣幕にクラス一同が騒然とした。
「ね、ベルクル。あんな人たち気にしなくていいんです。君は何も悪くない。悪いのはあいつらです!!!」
 ベルクルは苦しそうにうつむいた。
「は??あんたら、今の状況が分かってるの??」
 ダイアナは意地悪な笑みを浮かべた。
「は…はい??」
「あんたたちは教室の中で孤立しているのよ。」
「そんなこと関係ないよ!!僕らは…僕らだけで十分やっていけるから!!!むしろそっちが謝るべきだ!!ベルクルにも、アケロミにも!!!」
「もういいんだよ…、ラヴェル、ハーヴィ。俺のことはもういいんだ。」
 ベルクルはそっと教室を出て行ってしまった。
「べ、ベルクル…!!!」
 ハーヴィがベルクルを追いかけようとしたがそれをラヴェルが止める。そして首をそっと横に振った。
 …ベルクルがやって来たのは火薬庫。アケロミがよく来ていた所だ。実はベルクルはアケロミが良くここに来ていたことを知っていた。火薬庫は暗くて冷たくてアケロミが好きそうだもんな。彼は火薬庫のドアを開けた。暗い。段々目が慣れてきた。…もちろんそこにアケロミはいない。…ちょっと期待した。もしかしたらアケロミがいるかもしれない…。そう思った自分がバカだった。彼は中に入るとそっと床に座り込んだ。…あれからベルクルは普段通りの笑顔を見せていた。しかし、心の中では…。まだ二週間前の出来事を引きずっていたのだ。自分のせいだと思っていた。だが彼の悩みはそれだけではなかった。次の日…

「おい、中国人。」
「またお前たちか。今日は何の用だよ…。」
 学習所からの帰り道、ベルクルの前に三人の生徒が立ちふさがった。三人ともベルクルよりずっと体格がいい。ベルクルは疲れ切った眼で三人を見た。
「辛気臭い目つきしやがって。」
「お前みたいな中国人はさっさと国に帰れよ。地下室が臭くなるだろう。」
「帰れねぇんだよ。知っているだろ、中国の集落は全滅したんだよ。お前ら、そのこと知っていて言ってるだろ。…マジでいい加減にしてくれないか。俺は何もしてないだろう。」
「お前の言葉は聞き取るのが難しいんだよ。なまってて気持ちわりぃんだ。」
「仕方ないだろ…、中国語とラテン語は全然違うんだから。そのくらい理解してくれよ。」
「ここはヨーロッパなんだよ。お前らが俺たちに合わせろ。それができないなら出ていけ。アケロミの野郎だってそう思ってるはずだぜ。」
 真ん中にいた一番大きな青年がベルクルの前髪をつかんだ。
「アケロミはそんなこと言わない!」
 ベルクルは相手をにらんだ。
「何偉そうに言ってんだよ。言わなくても心の中では思ってるんだって。俺にはわかるんだ。あれだけのことをされたんだからなぁ、お前は。何て可哀そうなんだ!!!」
「分かんねぇだろ!」
 ベルクルは必死に叫んだ。
「お前らにアケロミの何が分るってんだ!…俺、知ってんだぞ。アケロミの悪いうわさを流したのはお前ら三人だろ。しかもクラスが違うのに!なんて卑怯な奴らなんだ!」
「は?俺たちじゃないんですけどー。」
 三人はニヤニヤと笑う。
「てか証拠あるわけ?俺たちがやったっていう証拠を出してくださいねー。」
 彼らは完全にベルクルをバカにしている。
「証拠…!」
 もちろん証拠なんてあるわけがない。そもそも噂の証拠なんて残るはずがないのだから…。
「あ、お前、証拠もないのに犯人扱いしようってか。」相手はベルクルの胸ぐらをつかんだ。
「こんなことして許されると思っているのか!」
「あぁ?見つかんなきゃいいんだよ。!」
「クズだな…!」
「今クズって言ったよな!」
「うわぁ!!!」ガシャーン!!!ベルクルの体は吹っ飛んだ。
「へへっ、ゴーレム族の血をなめんじゃねぇよ。」
「さっさと出ていけ。そうすれば殴るのをやめてやる。」
「断る!!!」
「バカだな~。」
 三人はお互いに顔を見合わせて笑っている。ベルクルは赤くはれた頬っぺたをさすった。自分が情けなくてたまらない。やろうと思えば彼らを殴ることもできた。しかし、そんなことすればこいつらの仲間に何をされるか分かったもんじゃない。もしかしたらねーちゃんとじーちゃんに危害が加わるかもしれない。それにこいつらの仲間は三人だけじゃないはず。こういう系統の人は数人で固まって行動するからな。「もう一度聞く。ここを出ていくか?」「出て行けるわけがない。ここを出たら悪魔に殺されるんだ。中国に帰ったって俺らがいた集落はもう跡形もない。野垂れ死ぬだけだ。」「お前らしい死に方じゃねぇか。」「俺だけじゃねぇんだぞ。俺のねーちゃんとかじーちゃんも…。」
しおりを挟む

処理中です...