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取引46件目 商談成立

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「幻中くん、今日は商談だったな」
「はい、昼一で先方にアポ取ってます」

 今日は、午後からライクフードの酒井さんと商談が一件入っている。

 オフィス備品のレンタルを検討しているとのことだ。

「レンタルのほかに、新サービスの提案資料も準備しておいてくれ。説明は私がする」
「承知しました」

 一つのチャンスで、いくつ利益を得れるか。
 そこを追求するのが、社会人というもの。

 古いことわざには欲張るとどちらも得れなくなるという意味のものがあるが、現代社会では欲がないとそもそも競争に負けてしまう。

「幻中くん、少し早めに出て食事でもするか」

 時刻は午前十一時前。

 食事をとって先方に向かうにはちょうどいい時間だろう。

「そすね、行きますか」

あ 資料を少し修正してチャチャっと準備した俺は、それをカバンへ詰めた。
   
 ――ランチ中は、ただ兄妹のような雰囲気だけが流れ、商談へ行くような雰囲気は一切なかった。

 だが、先方のビル前へ辿り着けばそれは一転。

「酒井様とお約束をさせていただいております、クイックビジネスです」

 堂々とビルの受付へ向かうと、一切の怯えなく受付の人と言葉を交わしている。俺はまだその域には達していないが、いずれはこうなれるのだろうか。

「クイックビジネス様、確認が取れましたので、どうぞ十七階へ」
「ありがとうございます」

 綺麗なお辞儀を披露する百鬼さんの横で俺も合わせるように、姿勢を意識して頭を下げてからエレベーターへと向かう。

「綺麗なビルっすね」
「ああ。うちも負けていないと思うが、なかなかだな」

 ビルの受付も、廊下も、エレベーター内だって、十分なスペースが確保され、白を基調とした落ち着いた雰囲気がある。

 白がくすまないように毎日丁寧に磨き上げられているのだろうと想像すると、清掃員の給与がそれに見合った分払われているかが心配になる。

 なんて考えてもどうしようもないことに思考を割いていたら、あっという間に十七階へたどり着く。

「お待ちしてました。お忙しい中お越しいただきありがとうございます」

 ドアが開くと同時に、俺たちを歓迎する声が聞こえる。

 深々と下げられた頭が上がり、こちらにその顔を見せた時。

「あれ、のんさん」
「夢都くん!?」

 俺はその顔に馴染みがあった。

 あの日たまたま出会ってしまった、ハイスペックな酔っぱらいお姉さん。のんさん。

「のんさんの苗字って酒井なんすね。苗字から酒カスじゃん」
「名は体を表すって本当なんだなって思うよね。見てよこれ」

 言って名刺を差し出すのんさん。
 俺の名刺も渡してから、のんさんの名刺に視線を落とす。

 会社名や肩書き、フルネームなどが書かれている名刺。

 そこには当然のんさんの名前が漢字で記載されている。

「酒井……呑……」
「そう、呑です」
「まじ名は体を表すね」

 名前の響きは可愛いが、なぜ苗字に酒が入るのにこの漢字を使用したのだろうか。
 これじゃあまるで酒を呑んだくれてるおっさんみたいな子に育ちかねないとは思わなかったのだろうか。

「あ、でも! ちゃんと今は禁酒してるからね!」
「さすが社会人、ちゃんと有言実行できて偉い!」
「えへへー!」

 照れながらも、あらかじめ用意してくれていた応接室へと案内してくれるのんさん。

「……幻中くん、知り合いみたいだが。流石に取引先の方にその態度は上司としていただけないな」

 雑談を交えつつ歩く俺のスーツの裾をちょこっとつまみ、小さな声で俺を咎める百鬼さんは、のんさんに向かって非礼を詫びる。

「あ、確かに。そうかもしれないっすね」
「全然いいですよ、私と夢都くんの仲なので」

 本来ならビジネスをしにきているのだから、それ相応の態度ってものが必要なのは理解している。

 だが、俺にそんな態度は備わっていないし、のんさんの素を見てしまっては改まった態度はできないと思う。

 のんさんもどうやらフランクに商談を聞くスタイルのようだ。

「でもまさか夢都くんが取引先の営業さんだとは思わなかったよー」
「俺もだよ。のんさんが開発部の部長だとは思わないし、営業を聞いてくれる部署が開発部だとも思ってなかった」

 俺はてっきり総務部や経理部がオフィス用品を検討していて話を聞いてくれると思っていたので、開発者が出てきて少し驚いている。

「総務の人が人見知りで頼まれたんだよねー」
「……この会社大丈夫?」
「なかなかやばいよ」

 人見知りを理由に逃げれるのは小学生までだろ。

「とりあえず今日紹介しようと思ってるサービスの資料渡しとくね」
「ありがとー、拝見するね」

 そう言って見るのは、コピー機とシュレッダーのレンタルサービスの説明とメリット説明の資料。

 これが今日の本題である。
 オフィス備品を買うとコストがかかるため、レンタルをサブスクリプションとして低価格で提供する事業は意外と需要があったりもする。

 導入台数、機種が不明のため概算ではあるが出している見積書にも目を通すのんさんは、資料から目を離して俺の目を見据える。

「これって途中解約もできる?」
「うん、月の途中で解約した場合は日割りで計算して差額を返金する形になる」
「解約はウェブで可能なんだね、珍しいね」

 弊社では解約を簡単にしていつでもやめれる感を全面に押し出している。なぜなら、人はいつでもできることを後回しにする習性があるためらしい。

「価格も手頃だし、うん。契約する方向で話進めてもらっていい?」
「ありがと。これ、契約書と利用規約。多分総務と経理の人に確認してもらわないといけないよな?」
「うん、一応社内決裁もあるから一週間くらい時間もらえるかな」

 商談開始十分未満で、取引が成立してしまい俺は呆気に取られつつも詳しく話を聞くと、導入は商談前から決まっていたらしい。

 事前にホームページでサービスを調べて、総務部も満場一致で頷いていたようだ。

「あ、あとさ。ホームページで見たんだけど、アウトソーシングもやってるってほんと?」

 アウトソーシング業務。
 それは、弊社の社員を他社へ派遣するというサービスで、今日紹介しようと思っていた新サービスの正体である。

「今日紹介しようと思ってた新サービス」
「そうなんだ。それもお願いしたくて、見積もらえないかな?」
「まじか、帰社したら用意する。一応資料も渡しとくから目を通しといて」

 とんとん拍子でもう一つ取引が決まりそう。

 あの日、酔っ払いに出会ってよかったと思えた瞬間かもしれない。俺は声を大にして、「駅で見かけた美人の酔っ払いには親切にしろ」と世間に叫びたい。

「じゃあ俺は色々手続きあるから帰社して進めるわ」
「ありがとー!」

 こうして大きめの商談が決まり、俺は呆然とする百鬼さんを連れて自社へと戻っていく。

「百鬼さん、なんすか。痛くはないけど痛い気がするんすよ」

 取引先のビルを出てから、百鬼さんは俺の頬をつねりながら先導するように早歩きで歩いている。

 歩くたびにカツカツとなるヒールの音が、どこか威圧感を与えている。

「酒井さん、知り合いだったんだな。随分仲が良さげだったが……」
「この間会った酔っぱらいっすよ」
「あの人がか!? 人は見かけでは分からないものだな。真面目そうで酒に呑まれるような人には見えなかったが」
「外見妹で中身上司って人もいるんすから、何が起きても驚きは少ないっすわ」

 世の中の摂理すら無視したような状況に直面しているからか、真面目そうな人が酒癖が悪くてもなんにも驚かない人間になってしまった。

「それとこれとは話が別だろ」
「人によりますね。とりあえず早く戻りましょ。手続きあるんで忘れないうちにしたいっす」
「そうだな、私の存在意義がない商談だったが、成功してよかった」

 言う百鬼さんは少し頬が膨らんで見える。

「拗ねてます?」
「拗ねてない」

 発言がほぼなかった百鬼さんは、活躍できずに拗ねているのだろう。帰ったらゲームでもして発散してもらうか。

 絶対ゲームをする決意をして、俺はそのまま帰社した――
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