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第16話:その魔王、『自称』につき。

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どれほどの時間が経過しただろうか。

アルテミスが何度目かになる冷たいタオルをミアの額に乗せ、ルナが蒼白な顔をしながらも魔法の光を維持し続けた、その時だった。

「……う、ん…………」

ミアの喉から、先ほどまでの喘ぐような音ではなく、微かな、けれど確かな意識を感じさせる吐息が漏れた。

火を吹くようだった彼女の肌からは、ようやく恐ろしいほどの熱気が引き、代わりにじっとりとした汗が浮かんでいる。

「ミア……?」

私が呼びかけると、銀色の睫毛が震え、ゆっくりと、本当にゆっくりと瞼が持ち上がった。

現れたのは、まだ熱の余韻で潤んでいるものの、先ほどまでの空虚なものとは違う、理性の光を宿した瞳だ。

「……お……主…………。……し、える…………?」

掠れた、消え入りそうな声。

その声を聞いた瞬間、私の背中を凍らせていた緊張の糸が、音を立てて解けていくのがわかった。

「……よかった……。本当に、よかった……」

隣ではアルテミスが「ああ……」と安堵の声を漏らしてその場にへたり込み、ルナも魔法を解いて、震える自分の指先をもう片方の手で押さえている。二人とも、限界までミアを繋ぎ止めてくれていたのだ。

私は、まだ弱々しく震えているミアの小さな手を、もう一度優しく握り直した。

「気分はどうですか? どこか痛むところはありますか? お腹が空いたとか、喉が渇いたとか……何でも言ってください」

私がそう問いかけると、ミアは焦点の合わない目でじっと私を見つめていたが、やがて、自分の状況を理解したのか、微かに頬を染めた。

そして、震える唇を噛み締め、精一杯の力を振り絞るようにして、こう宣ったのだ。

「……愚か、な……。……人間め…………。妾を……誰だと……思うて……おる……」

「ミアという、手のかかる女の子ですね」

私が即座に答えると、ミアは不満げに顔を歪めようとして、力が入らずに情けない顔になった。

「……ち、がうわ…………。……よく、聞け…………。妾は……ミア……。……この、世界を……統べる……魔族の、頂点…………魔王、なのじゃ…………っ」

魔王。

その単語が彼女の口から飛び出した瞬間、背後のアルテミスとルナが「えっ?」と顔を見合わせた。

だが、私の心に去来したのは、恐怖でも驚きでもなかった。

 ――ああ、懐かしい。

脳裏に浮かんだのは、前世でのある光景だ。

入社して半年も経たないのに、やたらと態度のデカかったあの新人部下。

ミスを指摘されると、「俺の親父は某大企業の役員と知り合いなんですよ」とか「実は俺、天才的なハッカーで、本気を出せばこの会社のセキュリティなんて数秒で」とか、聞いてもいない『設定』を並べ立てて、必死に自分を守ろうとしていた。

結局、その彼は、私が残業に付き合って差し入れのコーヒーを渡しただけで、子供のように泣いてデレデレになってしまったけれど。

目の前のミアも、全く同じだ。

孤独で、死にそうで、誰かに縋りたくてたまらないのに、それを認めるのが怖くて、自分を「最強の存在」だと偽って虚勢を張っている。

この子は、そうやって自分を奮い立たせて、この過酷な世界を一人で歩いてきたのだろう。

(可愛い。……でも、そんな設定で自分を守らなくても、もう大丈夫なのに)

「そう。魔王様なのですね。……すごいじゃないですか。それじゃあ、魔王様はこんなところで寝込んでちゃダメですね。早く元気になってもらわないと」

私が、子供をあやすような、どこまでも穏やかな微笑みを向けると、ミアの目がカッと見開かれた。

「……ば、……バカにしておるのか!? 本当なのじゃぞ! 今は……今はただ、三百年に一度の、初めての『脱皮期』で……魔力が、底を……突いておるだけなのじゃ!」

脱皮。

なるほど、魔族にはそういう生態があるのかもしれない。あるいは、彼女の脳内にある精巧な設定の一部なのか。

「ええ、ええ。脱皮なのですね。皮が剥けて、新しくなる。成長痛みたいなものかしら」

「違う! そんな、生易しいものでは……っ! この時期を乗り越えれば、妾の身体は……背も伸び、誰もが見惚れるような、豊満で……恐ろしくも美しい『ないすぼでー』な大人の女へと変貌するのじゃ! お主など、一睨みでひれ伏させてやるからな!」

ナイスボデー。

思わず、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。

どこでそんな言葉を覚えたのか。恐らく、どこかの吟遊詩人の歌か、通りすがりの商人の会話でも耳にしたのだろう。

目の前の、パジャマがぶかぶかで、今にも消えてしまいそうなほど小さな女の子が、顔を真っ赤にして「本当は『ないすぼでー』なのじゃ!」と叫んでいる。

これ以上に微笑ましい光景が、この世にあるだろうか。

「……ふふふっ。そう。ナイスボデーね。……期待しておきます。でも、そのナイスボデーになるためには、まずはこの苦いお薬を飲んで、たっぷり眠らないとダメですよ?」

「……っ、笑うな! 妾は真剣なのじゃ! お主、本当は震えておるのじゃろう!? 魔王の威圧に、腰が抜けておるのじゃろう!?」

ミアは必死に、その小さな、力のない拳を作ると、私の胸元をポカポカと叩き始めた。

ポカ、ポカ、と。

それは攻撃と呼ぶにはあまりにも無力で、まるで子猫がじゃれついているような、柔らかな感触。

その拳を受け止めるたび、私の胸の奥が、温かなもので満たされていく。

ああ、この子は。

こうして、自分を必死に守りながら、誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしくてたまらないのだ。

「……ええ、たしかに怖いです。私の心臓は今、あなたの可愛さに撃ち抜かれて、止まってしまいそうなので」

「な……っ!? 何を……おかしなことを……っ!」

ミアは顔を耳まで真っ赤にし、ポカポカと叩いていた手を止めて、シーツに潜り込んだ。

目だけをこちらに向けて、恨めしそうに、けれどどこか安心したように、私を見上げている。

「……本当なのじゃからな…………。……あとで……泣いて謝っても…………許さぬぞ…………」

「はいはい。その時は、私が一番豪華な部屋を用意して、三日三晩、ナイスボデーな魔王様に跪いてあげます」

「……う、む…………。……約束……じゃからな…………」

ミアはそう呟くと、再び訪れた心地よい眠気に抗えず、ゆっくりと瞳を閉じた。

今度は、苦しげな様子はない。

私の手をしっかりと握り締めたまま、小さな寝息を立て始めた彼女の寝顔は、世界を統べる支配者などではなく、ただの、愛されるべき一人の少女のものだった。

私は、彼女の額からタオルをどけ、乱れた髪を優しく撫でつけた。

(魔王様、ね。……いいです、あなたがそう言いたいなら、私が世界で一番の魔王様として扱ってあげましょう。……ただし、私の宿にいる間は、ただの『甘えん坊な私の家族』ですけど)

朝の光が、眠るミアの睫毛を白銀に輝かせている。

私はその光景を、いつまでも、いつまでも、守り続けたいと願わずにはいられなかった。


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