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真相
しおりを挟む「ごめんね……また消毒、しなきゃね」
「あなたが先です」
「あんたは俺を裏切った」
秘書の手から救急箱を引ったくる慧の声は低い。
「そうです、かね?私は輝一朗様の秘書ですから」
しれっと肯定する榊は内側から血の滲む慧の靴下を脱がせた。
「――慧!」
爪先が血に濡れるほどの出血だが。
「指の感覚は?」
「ある」
「そうですか。社長の技倆…というよりは、切れ味抜群のナイフのおかげですね。少し縫う程度でしょう」
少ないガーゼで傷口だけを拭き取り、手当をする榊の手から今度は消毒液を奪った慧は、おもむろに和馬の秘所へと噴射した。
「ひぁっ!?」
無数の細かな切り傷から入り込む痛みは、和馬の身体が跳ね上がるほどの衝撃だったらしい。
「うわごめんっ、ごめん兄貴!しみるよねごめん」
慌ててティッシュを取りに走ると「ティッシュはやめて下さい」などと頭にくるほど冷静な声で止められるが無視して戻る。
「ガーゼを」
「いらない」
「雑菌の温床ですよ、それ」
差し出されるガーゼを引ったくり、慧の目には奇蹟のように美しく映る薄紅梅の先端から全体を拭って覆い、包帯を手に取ると
「いい、いいよ。これだけでいい」
手を振り、熱心に止める和馬をたまらず抱き締めた。
「また…守れなくてごめん」
慧の腕の中、完全に正気を取り戻してごそごそとワイシャツを着直す和馬は首を振る。そして慧の身体を抱き返す。
掛け替えのない温もりだ。和馬を失う自分の人生など考えられない。想像したくもない。
「やっぱり慣れないな」
耳元で自嘲交じりにぽつりと落とされる。
「やっぱり…恐い」
抱き締める腕に力を込めると、足の応急手当を終えた榊が呆れたような声で言う。
「あの方の傲岸不遜な態度ときたら、近年ますます激しくなるばかりで困ったものです。敵も味方も威圧して遠ざける。――とくにここ最近の、あの方の心を乱す原因が?」
後片付けの手を止めて慧を見る榊の目は、どこか輝一朗に似ていた。燃え盛る炎を強靱な理性で抑えつけたような、冷徹な狂気の潜む恐ろしい瞳だ。
「知るわけないだろ」
「成長した和馬さんの写真を見てからです」
「兄貴のせいじゃない」
榊の視線から和馬を隠すように抱き直す。
「ええ、そうですね。『社長が渡航する際は必ず伝える』という約束を果たせなかったわけではありませんが、社長に上手く騙されこの部屋の鍵を開けさせてしまったお詫びに、大人らしく取引をしましょう」
何それ、と洩らす慧の制服のブレザーをぎゅっと握るのは和馬の手だ。
「春先のグループの創立記念パーティを覚えていますか。あなたはいらっしゃいませんでしたが」
そういえばその電話で久し振りに榊と話したのだ。
「当然ながら輝久子様もいらっしゃいました」
輝一朗の姉であり、慧の叔母だ。今は叔母一家が成城の大屋敷に住んでいる。
「その席で、よせばいいのに故人達が墓石まで持っていった秘密を漏らしてしまわれたのです」
こう言われれば興味も引かれる。慧の中に収まる和馬も顔を上げた。
「酒が入り、輝久子様のヘルスケアグループの業績が衰えを知らないことも一因だったかもしれませんね。今だから言うけど、とお決まりの台詞で始めました」
『覚えてるかしら?あなたがご執心だったあの顔のきれいな男の子。お金も受け取らないし、あまりにもあっさり姿を消したからお父様も逆に警戒していたのだけれど。杞憂だったようね』
「和弥さんは輝一朗様を裏切ったのではない。三原家のために身を引かれたのです。積まれた札束の額はこの家をキャッシュで買えるほどでした。――これはその後、喜一郎様が私の父に吐かせた情報ですけれど」
輝一朗も和馬の父、和弥も東京大学の同窓だった。同じ経済学部。今も昔も容易には入れない大学を二人で目指し、その先の未来にどんな希望を抱いていたのだろうか。
和馬の父は輝一朗のために、自身の輝く未来を諦め愛する男に託して消えたのだ。
「生涯お前を守ってみせる。…という喜一郎様の切願は届かなかった。自分の未来より喜一郎様の未来を選んだ和弥さんは、別れを告げたその日に大学を中退し、姿を消してしまいました。東京を出て住み込みの仕事先である女と出会ってからはあなたも知っていますよね」
救急箱を持った榊が立ち上がる。
「あまりにも急な結婚は、誰が望んだものかはもう分かりませんが――和馬さん。和弥さんはあなたの事をとても可愛がっていたそうですよ。それこそ目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだったそうです」
詳しくはまたいずれ、と真偽定かではない爆弾発言を落とした榊は涼しい顔で立ち上がる。
「この軟膏を。あなたが存分に舐め回した後にもう一度消毒して塗るといいでしょう。ガーゼは換えて下さいね」
そしてドアが閉まり二人、なんとはなしに真新しい鍵の付いたそこを無言で見つめた。
死にます。と和馬は叫んだ。慧のために、人目につかないどこかで死にます、と。
もしも和馬に裏切られ、離れた後にそれが慧を愛するが故の行為だと知ったなら。
気付いた時はもう手遅れ。愛する人は二度と還らない…そんな絶望しかない未来なんて、考えたくはない。
和馬は生きて、この腕の中にいる。何があろうと生涯離しはしない。自分は父親とは違う。だから、同情などしない。
輝一朗は和馬を愛おしむどころか十年も放置してその上、傷付けたのだ。
絶対に赦せなかった。
「…しみる?」
「大丈夫」
榊がもたらした衝撃的な話題には触れないまま、和馬の太腿を手当てして服を着させた。手ひどく傷つけられた和馬の屹立は峠を越えて平静を取り戻し、下着の中に収まった。
「話してくる」
「俺も」
「来なくていい」
「慧っ」
ドアに手を掛けると、咄嗟には立ち上がれなかった和馬が床に崩れる。
「兄貴。すぐ戻るよ」
「慧、俺も行く」
「兄貴をあいつの視線に触れさせたくないんだよ!…大人しく、ここにいて?」
ね?となだめるようなキスをするが和馬は首を横に振る。
「俺も行く。リビングの外にいるからっ」
下瞼いっぱいに涙を溜めて訴える義兄は、愛する男のためならば己の未来など顧みずに捨ててしまえる血筋なのだ。それが慧には恐ろしい。
俺が必要なら諦めないで足掻いて欲しい。それが無理なら一緒に逃げればいいだけだ。離れるなんていう選択肢は存在しない。
たとえ行く先に死が待ち受けていたとしても。最期まで二人一緒だ。
そのことを和馬の心と身体に教え込んでいる時間は、今はない。
和馬が気に入っているはずのキスで理解らせようと思ったのだが、絆されるのを拒絶するように押し返されてしまった。
「慧!」
「……分かった。部屋の外にいてね」
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