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父子

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 近付きたいと想うほどに焦がれた兄と暮らせる日々を掴み取るため、入念に準備をしてきた。「子供」から「大人」になれるために努力は惜しまなかった。 


 それなのに。 
 やっぱり自分が和馬に近付くと、和馬が傷付くのだ。 
 昔も――今も!

「いい加減にしろ……っ何の呪いなんだ」 

 子供の頃は何でもできると思っていた。祖母や母が言うように、自分は特別な子供なのだから。
 そうではないと分からせてくれたのは遠縁にあたる再従兄弟の榊だった。

「何を言っているんです?生まれながらに『特別』な人間なんてこの世に数えるほどですよ。自分がその中の一人だとでも?」

 当時はまだ榊も大学生だっただろう。

「輝一朗様は人並み以上の、それこそ血を吐くような努力をして『特別な人間』となる権利を得たのです。それでもまだグループ会長の座を約束されたわけではない。それは慧さん、あなたも同じ事。努力を怠ればあなたと同年、ひょっとしたら年下の男に三原グループの全てを奪われることになるでしょう」

 目から鱗が落ちた瞬間だった。正直で嘘をつかない榊を信頼していた。
 だから頼んだのだ。

『榊さん、父さんが今度渡航する時は絶対教えてね。部屋とか、片付けたいしさ』
『ええ、分かりました』
『絶対、だよ』
『約束します』

 答えた榊を信じていたが慧以上に榊と強い主従の絆で結ばれているのが、父の輝一朗だった。

「くそっ…!!」
「お客さん、大丈夫?もうすぐ着くよ」
「――大丈夫です。お金先においておきますね。お釣り、いらないんで」
「ああ、うん。本当に大丈夫かい?真っ青だ。しっかりするんだよ」

 開かれたタクシーのドアから転がり出て両開門扉を押し開き、玄関に走った。目に飛び込むのは父の車。すぐにドアへと視線を据えた。

 カードキーを当てて引くも、短いチェーンに阻まれる。これも想定内だ。一階のリビング、浴室、兄の部屋。全ての窓は防弾ガラスで、叩き壊せる道具があるとすれば車の工具。当然車の鍵は掛かっている。

 慧は冷静に思考をフル回転させると、ポケットから取り出したスマートフォンを躊躇いなくチェーンに当て、蹴り壊す方法を選択した。
 渾身の力で蹴ること二回。開いた。硬質な音を上げて落ちるスマホは見ない。
 玄関に立って驚くことなく乱暴な侵入者を迎えたのは、スーツ姿の榊だった。

「早かったんですね慧さん。言ってくれたら――」

 開けましたのに。という言葉を背後に聞いて、奥の部屋に走る。
 部屋の鍵は開いていた。
 ベッドの下に義兄と座る父は榊と正反対の台詞を吐く。

「遅かったな」
「……けぃ」

 脚を開いてベッドに寄り掛かる形で座る父の中、背後から抱かれる和馬は下肢を剥き出しにされ、上体も制服の白いシャツを羽織っただけで、それもボタンが全て外されていた。

 慧からは見えない、後ろ手に回された手はネクタイで結ばれている。右脚は折りたたまれて脛と腿とをベルトでぎっちりと拘束され、不自由な左脚には輝一朗の脚が絡まり固定されていた。

「ご……めん、慧」

 義父がどうしようもなく恐い、と泣いていた和馬は、瞼に涙を溜めて愕然と立ち尽くした慧を見上げる。
 震える身体の中心で頼りなく脈打つ雄芯には、品の良い細身の装飾ナイフがぴたりとあてられていた。
 強制的であろう、屹立したそこは幾筋もの白濁と、赤い筋――血で彩られていた。

 惨状を目にした慧は立ち竦み、血の気が引き、そして一気に全身の血が膨れ上がるような殺意を覚えた。

「お前を待つ間、二度も粗相をした。はしたない子だな……和弥」

 冷酷な声に従うように、冷えた金属が和馬の裏筋をツゥ、と撫で上げる。

「っく、ぅ」
「和馬だ。その人はお前の息子で俺の兄貴の『和馬』だ」
「どちらでもいい」

 先端まで上った刃の背が、赤くなった割れ目をぐりぐりと擦る。

「っふぅ、ん!」

 息を呑み込む和馬は声を上げなかった。

「また泄らすのか?若いな。賭けも出来ない」
「お前は二度も間違えた」

 二人の前に立ち、慧は激情を堪えて逆に冷静な声を絞り出す。

「一度目は花のように愛でている間に死なれ、二度目は力ずくで手に入れようとした。――でも兄貴は俺のものだ。一生お前のものにはならない」

 握った拳を振るわせる慧の呪詛を大人しく聞いた輝一朗は表情を緩めた。右手のナイフをクルリと反転させて持ち替え、

「私のものにならないならば捨てるだけだ」

 切っ先を和馬の胸に突き立てる。

「お前に出来るわけないだろ。子供の頃ならまだしも、その顔に育った兄貴を殺せるのか」
「やれる――と言ったらどうする。私の手でこの子の命を終えさせてやる快感はどれほどだろうな?」

 ぷつりと薄皮を破られた胸に、鮮やかな紅い珠が生まれた。目にした慧の眉間に深いしわが刻まれ、顎を引いて唸るように吐く。

「じゃあやってみろ。その代わり兄貴がいなくなったらお前も用ナシだ、すぐに殺してやる」
「三原の力が欲しいんじゃなかったのか?」
「お前を、殺すと言ったんだ。生きたいなら兄貴から離れろ。汚い手でそれ以上触れるな」

 湧き起こる激情を堪える慧は限界だった。

「お、義父とうさん」
「大人しく兄貴を放せ」
「死にます、俺のせいで慧の未来に疵がつくなら、俺は死にます」
「兄貴!」
「あなたの手を汚さなくていい。俺はちゃんとどこかできれいに消える。だから――どうか、慧を」
「やめろ!!」

 ついに一歩踏み出した慧に向けて刃は振り下ろされ、右脚の甲を貫いて絨毯に刺さった。

「――慧!!!」

 動けない身体で身を乗り出す和馬は絶叫を上げる。

「く、っそ!」

 苦痛に顔を歪ませながらも、立ち上がる父に慧は掴みかかる。

「やめて下さい、やめて!慧はあなたの息子です!ごめんなさい、俺が死ぬ、俺が死にます!だから慧を傷付けないで!ごめんなさい、ごめんなさい」

 揉み合う親子の下で精神の弱い和馬が呼吸を乱していく。錯乱する。瞳から正常な光が消えていく。猶予はない。
 足を上げてナイフを引き抜き、そのまま父の胸を狙って突きだした。

 殺してもいいと思った。和馬を苦しめるもの全てがこの世からなくなればいい。
 避けられ、また振り出し、手首を取られて父の膝上を体重を掛けた蹴りで狙って体勢を崩させ、膝をついた身体の無防備な首筋に向かって振り下ろしたナイフは、輝一朗の手のひらに止められた。

「殺してやる!!」

 そうすればきっと、呪いは解ける。

「慧っ、ひゅっ、けい、っだめ」

 足元に転がる義兄に視線を移した瞬間、側頭部を拳で殴られ床に倒れた。

「話がある」

 ドアに向かう父の声が遠い。

「社長、そろそろお茶に――やりすぎです」
「手当を」
「言われなくても。大丈夫ですか?慧さん」

 血を溜めた手のひらを差し出す父を素通りして、膝を付く榊を慧は押し退けた。
 起き上がると大きな眩暈に襲われて身体が傾ぐが、そんなことよりも過呼吸の発作に襲われる兄を助けなくては。
 慧の意図に気付いた榊はまず、ネクタイとベルトを解いて和馬を自由にした。

「兄貴。兄貴」
「ひゅ、ひゅ、ひゅ」

 短い間隔で喉を搾るだけの呼吸は満足に酸素を吸えない。分かっていても痙攣する身体は上手く機能しないのだろう。
 引き付けを起こす身体を抱いて口付ける。苦しさに藻掻く四肢を押さえて尚も重ねる。
 和馬が正常な呼吸のリズムを思い出すように。唇を合わせて、長い口付けを繰り返す。

「はっ……は……ん――け、い…」
「慧さん、靴下を脱いで」

 榊の言葉に、涙に沈んでいた和馬の瞳が焦点を結んだ。

「慧、足、足がっ、慧」

 慧、慧、と泣きじゃくって抱きつく体を引き剥がした。 

「救急箱を取ってきます」 

 榊の言葉は無視して和馬の両肩を掴む。
 
「死ぬなって言ったのに約束を破ったな」 
「慧」 
「俺が守るから死ぬって言わない、って約束しただろ!?」
「慧」
「足なんかどうでもいい、俺の目を見ろよ!」
「どうでもよくないだろ!?」

 顔を挟まれて慧の足から無理矢理視線を動かされた和馬は、手のひらの主を睨み付けた。

「お前だって!」

 まだ落ち着かない呼吸で、言葉を選ぶ余裕もなく慧の胸を叩いて叫ぶ。

「すぐに殺す殺すって!頭に、来る!俺の体なんかどうでもいいんだよ、放っておけ!助けてくれなんて言ってねーだろーが!」 
「――なん、だと」 
「あのくらい、何ともない。お前が、俺を信じてくれるなら、俺は何をされても耐えられる!俺のせいで、俺のせいでっ、お前がどうにかなる方が耐えられないっ、耐えられないんだよ!!」

 髪を掻きむしる和馬は双眸から涙を散らして絶叫する。

「お前が俺のせいでみっともなく脚を引き摺る姿なんて見たくない!耐えられない!耐えられない、死ぬ!」 
「さあ、気がすんだら靴下を脱いで」 

 抱き締める和馬は意外なくらい強い力で抱きついてきた。

「死ぬっ!…嫌だ、しぬっ、いやだ!」
「……ごめんね兄貴」

 落涙に戦慄く身体を強めに抱いて口付けた。
 返事は返らなかった。

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