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思慕
しおりを挟む――ブブブ
スマートホンのバイブが振動する。
集団講義の真ん中の席で慧は汗ばむ拳を握った。
――ブブブ
発信者は「兄貴」。手のひらの振動が怯えて震える和馬そのものに思えて、三度目の振動が終わる前に通話ボタンを押した。
横で見ていた生徒が驚きに目を見ひらく。ホワイトボードから振り返った講師と目が合ったが構わなかった。
『やはり出たな』
輝一朗の声。聞こえる前に鞄だけを取り上げて部屋を出た。
「三原?どうした、三原っ!?」
廊下には誰もいない。エレベーターに走ってボタンを叩く。
『和弥が私と口をきいてくれない。お前のせいだろう?』
「おい!――っおい、兄貴に触れるな。絶対に、だ。兄貴の部屋にいるなら今すぐ出ろ。今度兄貴に何かしたら、お前を殺す」
『だから賭けをした。残念だがお前達の負けだ』
「お前を、殺す!!」
通話が切られた。リダイヤルしても無駄だ。父は出ないだろう。
乗り込んだエレベーターで、昼間和馬に入れさせたアプリを起動させる。GPSは反応を示した。場所は自宅。
通りに飛び出してタクシーを捕まえる。渋滞のない道路だが信号は多い。三十分は掛かるかも知れない。
座席で目を閉じる慧は切れるほどきつく唇を噛んだ。
慧にとって屋敷の深淵に住まう義兄は、人里から遠い社に棲まう、人間の目に触れてはならない神のような、神聖な存在だった。
手を繋がれて遊んだ記憶はもう残っていない。
――けいちゃん
でもその声と温もりだけは物心が付いてからも覚えていた。本能から繰り返し思い出し、脳裏に焼き付けた。
離れの廊下を歩く義兄の背丈は自分と変わらないのに、表情のない白皙の横顔は絵本の中のお姫様よりもきれいだった。
「に、にぃちゃん」
震える声にこちらを向いた。
夜空を映す泉のように、昏い双眸はいつも濡れている。透き通るような肌を侵す頬に並んだ黒子は、罰を受けて天穹から落とされ二人ぼっちで瞬く星みたいだと思った。
「にぃちゃ……」
確かに視線は合ったのに。ゆらりと揺れた大きな瞳は何の感情も示さずに逸らされ、その姿も消えていく。
慧は後を追えなかった。
離れに近付いてはいけません、と何度も言われたが言いつけを破って何度か見つかり、とうとう祖母にこっぴどく叱責されて自ら会いに行くことは諦めた。
それは屋敷の中でのこと。いつからか屋敷の中で姿を見なくなった兄は同じ学校に通っている。
教室に会いに行くと、上級生のお兄さん達がいる教室には来ちゃだめだ、と兄にまで叱られた。
それでも心配そうに、何かあったの?と聞かれて兄ちゃんに会いに来た、と答えたら困ったような、泣きそうな顔をされた。
今でも覚えている。兄に話しかけてもらうには、早く大きいお兄さんになって、大人になるしかないのだと思っていた。
友人たちの、兄弟自慢を聞くまでは。
「兄さんがクリアしたゲーム貰ったから、遊びに来ないか?」
塾をサボって行った友人宅で、カルチャーショックを受けた。
そこにいたのは、部屋で一緒に遊ぶ友人の兄。一緒にご飯を食べる友人の兄。一緒にテレビを見る……兄弟なら普通でしょう?と呆れられた。
では、離れで暮らすあのひとは自分の何なのだろう?近くにいながら会うこともできないではないか。
児童書で読んだお城に閉じ籠る病気のお姫様や、深い湖の底でひっそりと暮らす水の精みたいなひとなんだ、と思っていた。
兄とは神聖な、人間ならざる存在ではなかったのだろうか?
塾に行かなかったことで祖母に説教を受けたが、お腹がいたくてお友だちのうちで休ませてもらっていた、などとすらすら嘘をつき。
翌日、家政婦の目を盗んで広い三原家の最奥、慧にとっては神聖不可侵な聖域に勇気を出して踏み込んだ。
「兄ちゃん、映画に行きたい」
「母さんと行けよ」
拒絶されたのが悲しくて、ドアに挟まれた指が痛くて、声を上げて泣いた。 胸の中に降り積もる、兄に対する思慕の想いを分かって欲しくて力いっぱい泣いたのだ。
結果現れたのは、角も牙もない、だがこの世のものとは思えぬほど醜くく恐ろしい形相の、鬼だった。
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!!」
「やめてお母さん、おねがい、やめてぇ!」
斧も棍棒も持たない鬼は、拳で兄を殴り、壁に叩きつけ、生身の身体で生身の兄を痛め付ける。昏倒して意識をなくし、血の滲んだ細い身体を容赦なく踏み潰す。
目の前にいる鬼の恐ろしさよりも、血の止まらない指よりも、兄が殺されてしまうという恐怖に慧の身体はガタガタと震えた。
鬼を招いたのは自分だ。理由は分からないけれど、自分のせいなのだ。
神秘の部屋に暮らす兄には近付いてはならない。
自分が兄に近付けば近付くほど、兄が傷つけられる。――そう理解した時、慧は己の運命を呪った。
そして誓ったのだ。いつか必ずその運命を変えてみせると。
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明日の更新で終わりますありがとうございます。
反応とかいただけたらむせび泣いて喜びます、どうぞよろしくお願いいたしますm(_ _)m
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