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時限

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「うっわ……」
「うっわ……」

 昼休みの屋上に、年長者二人の声が見事にハモッた。
 屋上が生徒に開放されるこの時間、幾つかの小さなグループが昼食を楽しんでいる。
 和馬と雪人が座るコンクリートに紙袋を敷いて広げられたのは、二段の重箱だった。勿論中身は手作り料理がぎっしり詰まっている。

「間に合って良かった。米は構ってる時間なかったから、これね」

 いわゆるデパ地下有名店のおにぎりは全部で七つ。雪人の分も考慮されていた。
 今が旬の鱚のてんぷらをつつかせて貰う雪人は、フライパンおとこ料理職人の自分が情けなくなる。料理経験ゼロの和馬に至っては顔に悲壮感を張り付けていた。

「お前って……何でこんな、完璧なの?」

 呆然と落とされた義兄の声に何で?と繰り返す慧は少し考えるように目線を空に投げる。
 春霞を爽やかな薫風が吹き飛ばした空には、気持ちいいくらいの蒼天が広がっていた。

「そうだな…完璧になろうと努力したから?かな」
「会社を継ぐために?」

 東大、東大と学歴に拘るのは、「私の会社を継ぐ者の学歴に東大以外の文字は必要ない」と言われたからだと言っていた。日本の大学を出るなら東大一択らしいが、完璧である項目に料理まで関係あるのだろうか?
 重ねて問われる慧はおにぎりを囓ったまま、訝しげな顔になる。そのまま和馬を凝視した。

「何?」
「何、じゃなくて。全部兄貴のためだけど」
「むほっ、げほ!」

 もはや堂々と目の前で見せつけられる雪人はお高い米粒をコンクリートにばらまく。見つめられる和馬の方は目が点だ。

「料理を覚えたのも、栄養士と調理師の勉強したのも、アイツの会社が欲しいのも。全部兄貴のためだよ」

 ビニール袋から出したペットボトルのお茶をさりげなく雪人に差し出す、やっぱり万能少年の慧はにこりと微笑む。

「まぁ、それが俺の趣味?かな。兄貴のために完璧な俺になるのが目標。っていう趣味」

 まだおにぎりを持ったまま固まり、冷や汗をだらだらと落とす和馬の膝に置かれた手を握る慧は熱っぽく続ける。

「俺は早く高校を出て学生を終えて、『大人』になるのが楽しみなんだ。ずっと待ってた。子供じゃなくなる日を。兄貴を守れるようになれる時を」

 ずっと、ずっと。一日も早くあの家を出たいと、和馬は思い続けて目標にしてきた。
 こんな想いですら慧には適わない。なんだか申し訳なくて視線だけを落とした下瞼に涙を溜めると、慧の唇が寄せられる。
 目を閉じると、

「痛っっって!」

 太ももを抑えて呻く慧に、ふんっ! と鼻で吐いて卵焼きを口にする雪人。

「森さん、飯代二千五百円ね。毎度」
「――っっお、おー、払ってやらぁクソガキ!」
「あ、それ鮭&イクラにぎりじゃん。やっぱり三千円ね」
「てんっ、め、~和馬ぁ!弟クンがいぢめるよぉ!」

 抱きつき、擦りつけられる頭をよしよしと撫でて、和馬は初夏の花が少し強くなった陽射しを浴びて花弁を広げるように、朗らかに笑った。

「仲良いな、お前ら」
「――――」
「――――」

 昨日に引き続き、満ち足りた午後だった。








 夕方四時。家に鍵屋が来た。慧が呼んだのだ。部屋に鍵を付けてくれ、と言われた。
 その慧は今日は塾で、これからは慧が塾の日に入れるような融通のきくバイトを探そうと思ったのだが、金が必要なら株を教えるからもうバイトには行かないでくれと言われてしまった。

 専制がまかり通る三原家長男の言らしい。でも和馬は、その束縛が嫌だとは思わなかった。放任というより放置されて育ったせいか、行動を制限されて管理されることに心地好さを感じ始めていたのだ。



 鍵の取り付けはすぐに終わって五時。
 そのままなんとなく部屋に籠もっていた和馬は「リビングでテレビを見る」という難易度の高いチャレンジを思い付いた。

 テーブルには慧が作り置きしてくれた夕飯があったが、帰ってから一緒に食べたい。何時に帰るのかと聞いたら七時は過ぎるという。
 親の帰りを待つ子のようだが、和馬にはそういう経験もない。ドラマや漫画では見ていたが、こんな風に待ち遠しく寂しい気分なんだろうかとぼんやり思った。

 スマホでのゲームに飽きてベッドにもたれて座ったまま、真新しい鍵の付いたドアを見る。
 結局自室に戻った。
 あのリビングに、一人では居られなかったのだ。
 だから慧が経屋のドアを開けてくれるのを待つしかない。
 恐ろしい義父はとっくに日本を発っているだろうが、和馬はそうして慧を待ちたかった。

「……これ、子供ってより犬じゃね?」

 飼い主の帰りを待ちわびる犬。ご主人様の顔を見たら、嬉しくてはち切れんばかりに尻尾を振って吠えたて、全身で喜びを表現するのだ。
 自分の妄想に吹いてしまった。全くその通りではないか。

 慧が帰ったら。まずお帰りと言ってキスをせがもう。今日は朝しかしていない。そして週末触れ合えなかった分を――

「うわ。早いだろ。飯だろその前にっ」

 妄想にだめ出しをして、もう一度初めから。
 夕食を食べたら今夜も一緒にシャワーを浴びよう。今日は無駄に大きな浴槽に湯を張って、熱海で買った温泉の素を入れて。ミルク色に濁った湯の中で、慧に悪戯をしてみようか。

――水の中で慧と繋がったら、どんな風に感じるんだろう……

「――ってだから!早いだろ俺!」

 再び我に返る和馬は、甘美な妄想を振り払うように首を振った。


――……チャ…


 微かな音だった。でも気付いてしまった。
 通りに面した門扉から玄関までは数メートルある。外の音ではなかった。聞き間違いではない。
 息を詰めて聴覚に神経を注ぐと、家の中に人の気配があった。

 音はないが、見えない影は玄関から廊下を進んできてるいる気がした。
 一歩一歩、和馬の部屋まで。
 すぐ、そこに。

――コンコン

 悲鳴を上げかけた口から心臓も飛び出しそうになる。両手で口を押さえた。

――コンコン

 手慣れたノックの音。慧ならばこんな叩き方はしない。絨毯に置いたスマホを手に取るが、塾経験のない和馬でも分かる。掛けてもきっと慧は出ないだろう。電源を切っているかもしれない。

――和馬さん?いますよね?

 声の主はまだ覚えている、榊だった。慧が親しげに話していた秘書長の男。

「――っはい。すぐ開けます」

 だが和馬はあの時の会話までは覚えていなかった。


『榊さんはいつアメリカに戻るの?』
『週明けの月曜の朝・・・・には』


 あの時慧は、「父さんは」とも聞かなかった。


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