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二章
霧の王と冬の巫女の旅・魔法世界へ①
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ノエルは、霧に包まれた白い橋を越え、その袂に立っていた。
足元から淡い振動が伝わり、遠い鐘の音のようなものが、かすかに、胸の奥で鳴る。
薄く霞んだひと続きの白が広がり、見えるのに、見えない。
触れようとすれば、指の先から溶けていってしまうような光景。
静寂というより、世界そのものが息を潜めて彼女を見つめているようだった。
「ここから先は、言葉よりも静けさが支配する世界だ。耳を澄ませてみろ、音が消えていくのがわかるだろう」
霧の体躯で隣にそびえ立つモルカーンが、低い声で告げる。
その声だけが、世界で唯一の音になったように、ノエルの耳に溶けた。
「……確かに。鼓動のようなものだけが、残っているわね」
ノエルが踏み出すたびに、霧は足首にからまり、外界の音が一つずつ遠ざかっていく。
鳥のさえずりも、風のそよぎも、雪を踏む音すらも。
ノエルの鼓動だけが、まるで水底で響く鐘のように大きく聴こえていた。
「世界が眠りかけているが、君の心臓はまだ鳴っている。生き物の、音色だ」
モルカーンの静かなつぶやきには、ノエルの持つ“生”そのものへの焦がれのような響きがあった。
「この静けさ……私は、嫌いではないわ」
ノエルはぽつり、とつぶやく。
「静けさの中にも、ぬくもりを見出しそうだからな……君は」
霧の王の声は、かすかな笑いの中におだやかな受容の響きを孕んでいる。
ノエルは思わず、青灰色の目を細めて、背高いモルカーンを見あげた。
だが、霧と靄に半ば同化したその顔の表情を推し量ることは難しかった。
やがて霧が切れ、光の粒がふわりと降りはじめる。
それは雪のように冷たいが触れれば芯は温かく、ノエルの濃紺の長い髪に舞い降りて、静けさをいっそう深めた。
その先に、白銀の街が静かに広がっていた。
高くそびえる尖塔。
止まったままの水路。
殻のように閉ざされた家々の窓。
空気は重く、深い湖の底のように、どこまでも沈んでいる。
街は緩やかな春の姿のまま、時だけを失っていた。
石畳の上には花が咲き、陽光のような柔らかい光が漂っているのに、どこか冷たさがつきまとう。
街に住む魔法生物たちは、ゆっくりと動いていた。
石を積み上げる子どもたち。
鐘楼の下で動かぬ鐘を見上げる青年。
羽根をふるわせながら、一度も声を発しない大きな白い鳥。
どの顔にも穏やかな微笑みが浮かんでいるのに、目の奥は眠り続けているようだった。
笑顔さえも、誰かが描いた仮面のように静止している。
ノエルは歩みを止め、周囲を見渡す。
花の香りはあるのに、風が運ぶ気配がない。
人々の仕草はあるのに、呼吸の音が聞こえない。
世界は美しい仮面をかぶったまま、深い眠りに沈んでいるようだった。
「……美しいのに、動いているのに、静けさがある」
ノエルは小さく呟いた。
胸の奥に、言葉の形にならない違和感が生まれる。
美しさと静けさに包まれているのに、なぜこんなにも胸が締めつけられるのだろう。
モルカーンは、深く霧の息を吸った。
「そう、ここでは今、季節が“静寂”ではなく“停滞”になりつつある。 冬は本来、次の息吹へ導くための休息だ。 でも今はただ眠りに閉じ込められている」
ノエルは足元の淡く光る小石を拾ってみる。
ひどく冷たい。
まるで世界そのものが感覚を閉ざしてしまったようだった。
「声を……誰も、持っていないの?」
「持っていないんじゃない。必要としなくなったのだ。 祈りも、歌も、願いも。全部が沈黙に沈んでしまった」
「以前は?」
ノエルの問いに、モルカーンの瞳孔の見えない漆黒の瞳が細くなった。
「むろん、あったとも。水は流れ、風はそよぎ、鳥は歌い、人は祈った。 その音は、時には騒がしく、時には優しく、魔法世界を循環させていた」
ノエルは、胸に手をあてた。
心臓の鼓動だけが、かすかな証として確かに響いている。
「……今は、この音だけが残っている?」
その音は、世界に置き去りにされた最後の歌のようだった。
「そうだな」
モルカーンの声音に、再び焦がれの色が宿る。
「それは、生きている命の音色だ。この世界では君だけが持つ――音だ」
魔法生物たちは、生身の生き物のような肉体を持っているわけではない。
彼らの多くは、心臓――に似た機関――で、動いている。
霧の王モルカーンもそうだが、外見そのものも人とは大きく異なっているように、生命の仕組みも人と同じではない。
彼の焦がれが、ノエルにはよく理解できなかった。
魔法生物は魔法生物――人であり、輪廻転生を繰り返す彼女たちとは理が異なる。
モルカーンは生身の命をうらやむようだが、人の多くは長命の魔法生物をうらやむ。
どちらも、互いへの憧れを抱いているのだ。
そしてノエルは悟る。
もし自分をはじめとする生ある者たちの鼓動さえも沈黙に呑まれれば――
世界は完全に、眠りへと閉ざされる。
その予感が、霧よりも白く、胸の奥でゆっくりと広がった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
魔法世界の中心に近づくにつれ、建物の高さは次第に低くなり、やがて広い円形の広場へと出た。
中央には、白い大理石で築かれた古い神殿跡が静かに残っている。
天井は崩れ落ち、柱の多くは折れ、祭壇だけがまるで雪に覆われた墓標のようにぽつりと立っていた。
広場を満たす空気は、時間が止まった場所だけが持つ特有の静けさを孕み、どこか聖域というより“沈黙の井戸”のように思われた。
「ここが、この世界で最後に祈りが捧げられた場所だ。わかるか?石が、まだ声を抱えている」
モルカーンの声は、白い空気に吸い込まれるように淡く揺れた。
ノエルはゆっくりと祭壇へ歩み寄る。
手を伸ばすと、石に触れた指先が冷たさより先に、鋭い痛みに貫かれた。
「――っ」
思わず息をのむと、胸の奥に重い波が押し寄せてきた。
それは音ではなかった。
誰かの叫び、誰かの泣き声、喪失と後悔と祈りを求める声たち。
痛みの記憶だけが、震えるように伝わってきた。
それはまるで、石に触れた瞬間に千年分の影が手にまとわりつき、逃げられない場所へと引き戻されるようだった。
「これは……祈りでは、ない?」
ノエルの青灰いろの瞳が、動揺に揺れた。
「そうだ。これは祈られなかった声だ。」
モルカーンが、霧の体躯で祭壇の前に静かに立つ。
「かつて祈りは、女神と魔法界をつなぐ歌であり、音楽だった。人々はその中で、感謝を捧げていた。祈りとは、本来自らの弱さを開き、世界へゆだねる行為だった」
言葉に呼応するように、広場の空気がかすかにきらめき、かつての祈りの余韻が微かに脈動した気がした。
ノエルは、石に触れたまま答えた。
「今は……違うのですね」
「人はいつしか、女神に祈るのをやめ、願いだけを投げつけるようになった。祈りは声であり歌になるが、願いは要求でしかない。声が消えたとき……〈女神の竪琴〉の弦が一本、切れたのだ」
その瞬間、広場の空気がわずかに震え、遠くから金属が軋むような音がした。
いや――記憶の中の音だ。
モルカーンの瞳孔のない目が静かに細められる。
「切れたのは……秋の弦の一本だったのね」
ノエルは茫然とつぶやく。
「だから、秋の巫女オルフェリアが、真っ先にそのことに気がついた……そして、ここに来た」
「そうだ。だが……」
霧の王の声は、悲し気に沈んだ。
風がひとりでに舞い、崩れた柱の影が震える。
「世界は……人々は、変わったのだ。冬の巫女よ」
「どう、変わったのですか?」
ノエルの両手は、祈るように強く組まれ握りしめられる。
モルカーンの沈鬱な声は、続いた。
「人々は祈りの代わりに忘却を願った。痛みや悲しみを手軽に手放すための安らぎを。だが、それは空虚を広げるだけだった。 想いを抱く強さを失い、記憶を断つことを救いと勘違いしたのだ」
「ただ単に忘れる……と、いうことですか?」
茫然とつぶやくノエルを、モルカーンは痛ましげに見下ろした。
霧の王の表情の読めない瞳が、悲しみに似た色で染まる。
「そして、この祭壇で白い石板が生まれた。オルフェリアが持ち出した……あの道具だ」
「これのこと……?」
ノエルは呟き、懐の奥から白い石板を取り出す。
その表面では今も、次々と何かが綴られては、消えていく。
止まった季節、終わらない春……土の中で眠る種ではなく、永遠に芽吹かない灰のような静けさ。
それが今の世界であることに、ノエルは気がつく。
石板に刻まれた文字の断片は、消えかけの夢のように淡く揺れ、触れるたびにノエルの胸の奥を冷たく締めつけた。
「では、私たち巫女は……もう、役割を果たせていなかった?」
声は震えていた。
モルカーンは少しだけ目を伏せ、言葉を選ぶようにして息を吐いた。
「そうではない。冬の巫女よ。君たちはずっと歌っていた。誰より誠実に、誰より強く。だが、祈りを捧げる民がいなければ、巫女の歌は響ききらない。君たちだけでは、〈女神の竪琴〉は支えられなかった」
ノエルは唇をかみしめる。
「……守れなかったのは、私たちの力が足りなかったのではなく。人々が、祈ることをやめたから――」
「そうだ。私は長く生きた魔法生物だが、それでも眠りに向かう世界を止めることはできなかった。 救おうと手を伸ばせば伸ばすほど、皆は静かに落ちていった」
ノエルはしばし沈黙し、強い視線で霧の王を見上げた。
「モルカーン、なぜ……?」
霧の王は哀しみの色をたたえているように見える虚ろな瞳で、冬の巫女を見つめ返した。
「なぜ、もっと早く……魔法世界のこの以上を、私に教えてくれなかったの?そうしてくれれば、もっと早く何かができたかもしれないのに」
「ノエル」
モルカーンが彼女の名を呼ぶ声は、悲し気だった。
「巫女達は、我々の世界そのものを動かすような干渉をしてはならない……そんなことは、君が一番知っているはずだ」
ノエルは唇を噛んだ。
巫女達の役割はただ、”世界”全体を廻すための歌を唄うこと……〈女神の竪琴〉の旋律に載せて、調べを奏で続けること。
それぞれが、それぞれの世界とは窓口を通して繋がってはいるものの、巫女達がそこから逸脱することはないし、それが許されるものでもない。
「でも……オルフェリアは”これ”を……石板を、持ち出したのに」
「秋の巫女がそれを持って行ったのは、我々の世界に対する干渉行為ではなかった……と、いうことだ。冬の巫女よ」
ノエルはしばしうつむき、思考を巡らせた。
「魔法世界に対する干渉行為ではなく、他の目的のために持って行ったということ?」
「それを見つけた君がどうしたかを考えれば、わかるはずだ。冬の巫女よ」
「私……私は……”ここ”へ、魔法世界へ、来たわ。そして、魔法世界で何が起きているかを、この目で見た」
ノエルは茫然とつぶやいた。
これは、オルフェリア自身が見て、知ったこと。
それを、同じ道筋を辿った自分も、見て、知った。
「私に……この状況を伝えたかったのね、オルフェリアは」
モルカーンは沈黙していたが、その沈黙こそが肯定だった。
「魔法政界は眠りかけている。でも……まだ、かろうじて〈女神の竪琴〉は鳴っている」
「そうだ。竪琴はまだ、完全には沈黙していない。 しかし……」
モルカーンの声はいつになく弱かった。
その沈黙に、雪のような光が落ちる。
遠くで、まだかすかに竪琴の響きが呼吸している――そんな錯覚が、二人の胸に淡い痛みを残した。
足元から淡い振動が伝わり、遠い鐘の音のようなものが、かすかに、胸の奥で鳴る。
薄く霞んだひと続きの白が広がり、見えるのに、見えない。
触れようとすれば、指の先から溶けていってしまうような光景。
静寂というより、世界そのものが息を潜めて彼女を見つめているようだった。
「ここから先は、言葉よりも静けさが支配する世界だ。耳を澄ませてみろ、音が消えていくのがわかるだろう」
霧の体躯で隣にそびえ立つモルカーンが、低い声で告げる。
その声だけが、世界で唯一の音になったように、ノエルの耳に溶けた。
「……確かに。鼓動のようなものだけが、残っているわね」
ノエルが踏み出すたびに、霧は足首にからまり、外界の音が一つずつ遠ざかっていく。
鳥のさえずりも、風のそよぎも、雪を踏む音すらも。
ノエルの鼓動だけが、まるで水底で響く鐘のように大きく聴こえていた。
「世界が眠りかけているが、君の心臓はまだ鳴っている。生き物の、音色だ」
モルカーンの静かなつぶやきには、ノエルの持つ“生”そのものへの焦がれのような響きがあった。
「この静けさ……私は、嫌いではないわ」
ノエルはぽつり、とつぶやく。
「静けさの中にも、ぬくもりを見出しそうだからな……君は」
霧の王の声は、かすかな笑いの中におだやかな受容の響きを孕んでいる。
ノエルは思わず、青灰色の目を細めて、背高いモルカーンを見あげた。
だが、霧と靄に半ば同化したその顔の表情を推し量ることは難しかった。
やがて霧が切れ、光の粒がふわりと降りはじめる。
それは雪のように冷たいが触れれば芯は温かく、ノエルの濃紺の長い髪に舞い降りて、静けさをいっそう深めた。
その先に、白銀の街が静かに広がっていた。
高くそびえる尖塔。
止まったままの水路。
殻のように閉ざされた家々の窓。
空気は重く、深い湖の底のように、どこまでも沈んでいる。
街は緩やかな春の姿のまま、時だけを失っていた。
石畳の上には花が咲き、陽光のような柔らかい光が漂っているのに、どこか冷たさがつきまとう。
街に住む魔法生物たちは、ゆっくりと動いていた。
石を積み上げる子どもたち。
鐘楼の下で動かぬ鐘を見上げる青年。
羽根をふるわせながら、一度も声を発しない大きな白い鳥。
どの顔にも穏やかな微笑みが浮かんでいるのに、目の奥は眠り続けているようだった。
笑顔さえも、誰かが描いた仮面のように静止している。
ノエルは歩みを止め、周囲を見渡す。
花の香りはあるのに、風が運ぶ気配がない。
人々の仕草はあるのに、呼吸の音が聞こえない。
世界は美しい仮面をかぶったまま、深い眠りに沈んでいるようだった。
「……美しいのに、動いているのに、静けさがある」
ノエルは小さく呟いた。
胸の奥に、言葉の形にならない違和感が生まれる。
美しさと静けさに包まれているのに、なぜこんなにも胸が締めつけられるのだろう。
モルカーンは、深く霧の息を吸った。
「そう、ここでは今、季節が“静寂”ではなく“停滞”になりつつある。 冬は本来、次の息吹へ導くための休息だ。 でも今はただ眠りに閉じ込められている」
ノエルは足元の淡く光る小石を拾ってみる。
ひどく冷たい。
まるで世界そのものが感覚を閉ざしてしまったようだった。
「声を……誰も、持っていないの?」
「持っていないんじゃない。必要としなくなったのだ。 祈りも、歌も、願いも。全部が沈黙に沈んでしまった」
「以前は?」
ノエルの問いに、モルカーンの瞳孔の見えない漆黒の瞳が細くなった。
「むろん、あったとも。水は流れ、風はそよぎ、鳥は歌い、人は祈った。 その音は、時には騒がしく、時には優しく、魔法世界を循環させていた」
ノエルは、胸に手をあてた。
心臓の鼓動だけが、かすかな証として確かに響いている。
「……今は、この音だけが残っている?」
その音は、世界に置き去りにされた最後の歌のようだった。
「そうだな」
モルカーンの声音に、再び焦がれの色が宿る。
「それは、生きている命の音色だ。この世界では君だけが持つ――音だ」
魔法生物たちは、生身の生き物のような肉体を持っているわけではない。
彼らの多くは、心臓――に似た機関――で、動いている。
霧の王モルカーンもそうだが、外見そのものも人とは大きく異なっているように、生命の仕組みも人と同じではない。
彼の焦がれが、ノエルにはよく理解できなかった。
魔法生物は魔法生物――人であり、輪廻転生を繰り返す彼女たちとは理が異なる。
モルカーンは生身の命をうらやむようだが、人の多くは長命の魔法生物をうらやむ。
どちらも、互いへの憧れを抱いているのだ。
そしてノエルは悟る。
もし自分をはじめとする生ある者たちの鼓動さえも沈黙に呑まれれば――
世界は完全に、眠りへと閉ざされる。
その予感が、霧よりも白く、胸の奥でゆっくりと広がった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
魔法世界の中心に近づくにつれ、建物の高さは次第に低くなり、やがて広い円形の広場へと出た。
中央には、白い大理石で築かれた古い神殿跡が静かに残っている。
天井は崩れ落ち、柱の多くは折れ、祭壇だけがまるで雪に覆われた墓標のようにぽつりと立っていた。
広場を満たす空気は、時間が止まった場所だけが持つ特有の静けさを孕み、どこか聖域というより“沈黙の井戸”のように思われた。
「ここが、この世界で最後に祈りが捧げられた場所だ。わかるか?石が、まだ声を抱えている」
モルカーンの声は、白い空気に吸い込まれるように淡く揺れた。
ノエルはゆっくりと祭壇へ歩み寄る。
手を伸ばすと、石に触れた指先が冷たさより先に、鋭い痛みに貫かれた。
「――っ」
思わず息をのむと、胸の奥に重い波が押し寄せてきた。
それは音ではなかった。
誰かの叫び、誰かの泣き声、喪失と後悔と祈りを求める声たち。
痛みの記憶だけが、震えるように伝わってきた。
それはまるで、石に触れた瞬間に千年分の影が手にまとわりつき、逃げられない場所へと引き戻されるようだった。
「これは……祈りでは、ない?」
ノエルの青灰いろの瞳が、動揺に揺れた。
「そうだ。これは祈られなかった声だ。」
モルカーンが、霧の体躯で祭壇の前に静かに立つ。
「かつて祈りは、女神と魔法界をつなぐ歌であり、音楽だった。人々はその中で、感謝を捧げていた。祈りとは、本来自らの弱さを開き、世界へゆだねる行為だった」
言葉に呼応するように、広場の空気がかすかにきらめき、かつての祈りの余韻が微かに脈動した気がした。
ノエルは、石に触れたまま答えた。
「今は……違うのですね」
「人はいつしか、女神に祈るのをやめ、願いだけを投げつけるようになった。祈りは声であり歌になるが、願いは要求でしかない。声が消えたとき……〈女神の竪琴〉の弦が一本、切れたのだ」
その瞬間、広場の空気がわずかに震え、遠くから金属が軋むような音がした。
いや――記憶の中の音だ。
モルカーンの瞳孔のない目が静かに細められる。
「切れたのは……秋の弦の一本だったのね」
ノエルは茫然とつぶやく。
「だから、秋の巫女オルフェリアが、真っ先にそのことに気がついた……そして、ここに来た」
「そうだ。だが……」
霧の王の声は、悲し気に沈んだ。
風がひとりでに舞い、崩れた柱の影が震える。
「世界は……人々は、変わったのだ。冬の巫女よ」
「どう、変わったのですか?」
ノエルの両手は、祈るように強く組まれ握りしめられる。
モルカーンの沈鬱な声は、続いた。
「人々は祈りの代わりに忘却を願った。痛みや悲しみを手軽に手放すための安らぎを。だが、それは空虚を広げるだけだった。 想いを抱く強さを失い、記憶を断つことを救いと勘違いしたのだ」
「ただ単に忘れる……と、いうことですか?」
茫然とつぶやくノエルを、モルカーンは痛ましげに見下ろした。
霧の王の表情の読めない瞳が、悲しみに似た色で染まる。
「そして、この祭壇で白い石板が生まれた。オルフェリアが持ち出した……あの道具だ」
「これのこと……?」
ノエルは呟き、懐の奥から白い石板を取り出す。
その表面では今も、次々と何かが綴られては、消えていく。
止まった季節、終わらない春……土の中で眠る種ではなく、永遠に芽吹かない灰のような静けさ。
それが今の世界であることに、ノエルは気がつく。
石板に刻まれた文字の断片は、消えかけの夢のように淡く揺れ、触れるたびにノエルの胸の奥を冷たく締めつけた。
「では、私たち巫女は……もう、役割を果たせていなかった?」
声は震えていた。
モルカーンは少しだけ目を伏せ、言葉を選ぶようにして息を吐いた。
「そうではない。冬の巫女よ。君たちはずっと歌っていた。誰より誠実に、誰より強く。だが、祈りを捧げる民がいなければ、巫女の歌は響ききらない。君たちだけでは、〈女神の竪琴〉は支えられなかった」
ノエルは唇をかみしめる。
「……守れなかったのは、私たちの力が足りなかったのではなく。人々が、祈ることをやめたから――」
「そうだ。私は長く生きた魔法生物だが、それでも眠りに向かう世界を止めることはできなかった。 救おうと手を伸ばせば伸ばすほど、皆は静かに落ちていった」
ノエルはしばし沈黙し、強い視線で霧の王を見上げた。
「モルカーン、なぜ……?」
霧の王は哀しみの色をたたえているように見える虚ろな瞳で、冬の巫女を見つめ返した。
「なぜ、もっと早く……魔法世界のこの以上を、私に教えてくれなかったの?そうしてくれれば、もっと早く何かができたかもしれないのに」
「ノエル」
モルカーンが彼女の名を呼ぶ声は、悲し気だった。
「巫女達は、我々の世界そのものを動かすような干渉をしてはならない……そんなことは、君が一番知っているはずだ」
ノエルは唇を噛んだ。
巫女達の役割はただ、”世界”全体を廻すための歌を唄うこと……〈女神の竪琴〉の旋律に載せて、調べを奏で続けること。
それぞれが、それぞれの世界とは窓口を通して繋がってはいるものの、巫女達がそこから逸脱することはないし、それが許されるものでもない。
「でも……オルフェリアは”これ”を……石板を、持ち出したのに」
「秋の巫女がそれを持って行ったのは、我々の世界に対する干渉行為ではなかった……と、いうことだ。冬の巫女よ」
ノエルはしばしうつむき、思考を巡らせた。
「魔法世界に対する干渉行為ではなく、他の目的のために持って行ったということ?」
「それを見つけた君がどうしたかを考えれば、わかるはずだ。冬の巫女よ」
「私……私は……”ここ”へ、魔法世界へ、来たわ。そして、魔法世界で何が起きているかを、この目で見た」
ノエルは茫然とつぶやいた。
これは、オルフェリア自身が見て、知ったこと。
それを、同じ道筋を辿った自分も、見て、知った。
「私に……この状況を伝えたかったのね、オルフェリアは」
モルカーンは沈黙していたが、その沈黙こそが肯定だった。
「魔法政界は眠りかけている。でも……まだ、かろうじて〈女神の竪琴〉は鳴っている」
「そうだ。竪琴はまだ、完全には沈黙していない。 しかし……」
モルカーンの声はいつになく弱かった。
その沈黙に、雪のような光が落ちる。
遠くで、まだかすかに竪琴の響きが呼吸している――そんな錯覚が、二人の胸に淡い痛みを残した。
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