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回想
白の葬い
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真っ白な光が消え……気が付けばヴェラは、見覚えのある白の館の大広間の片隅にたたずむ自分自身を、“内側から”眺めていた。
ーー覚えてる。これは……大叔母様の、先代の白の妃の葬儀の日ーー
ーー私が、後宮入りを決めた十四年前の、あの日ーー
冷たい香りが漂い、先代の白の妃の遺体を覆う布の白さを、より深く、より凍てついたものに見せている。
大叔母でもあった前・白の妃が病で亡くなった日。
大広間の天井は、かつての栄華を物語る絵画で埋め尽くされていた。天使や神話の英雄が描かれた鮮やかな色彩は、長年の煤と埃で鈍い灰色に沈んでいる。
戦火や歳月に傷ついた彫刻の輪郭が、月光と雪明かりに浮かび上がり、古の物語を静かに語っていた。
彼女は “神の耳 “を通じて、言葉にならない悲鳴のような“声”を感じ取っていた――祈りか、嘆きか、あるいは深淵からのささやきか。
その声は、どこまでも遠く、無限の雪に吸い込まれていくようだった。
“神の声”――それは、耳に届く言葉ではなく、魂に響く音なき言葉の律動だった。
“神の耳”を持つ者――白の一族にはまれに、この極めて細やかな世界の息遣いを受け止め、解釈できる者が生まれる。
ヴェラは、まさにその一人だった。
神官の祈りのひとつひとつ、家長達の硬く息をつく間、天井画に描かれた天使の姿がかすかに空気を震わせる様子、壁のレリーフが冷気でわずかに反響する音――それらすべてが、神の声と呼応し、静かに、しかし確かに彼女の胸に語りかけてくるような気がする。
神の声は、決して多くを語りはしない。
だが、“神の耳”を通せば、わずかな言葉の奥にある真実、世界の奥底の律動、そして人々の運命の気配までもが、確かに存在することを知ることができるのだった。
だが……“神の声” は、久しく、意味のある言葉を伝えてこない。
その状態では沈黙することこそが掟であり、また、己を守る唯一の盾でもあった。
沈黙は、ヴェラにとっては義務であり、祈りであり、孤独そのものだったのだ。
雪の一片が、誰にも届かぬ声のように、窓の向こうで舞っている。
大広間の中央には、白銀の布で覆われた大叔母の棺が静かに横たわっていた。
棺の周囲には、白百合や雪割草が惜しみもなく飾られ、その香気が冷たい空気の中にふわりと漂う。花々はまるで、失われた命の静かな呼吸を伝えようとするかのように揺れていた。
棺の傍には、長いローブに身を包んだ神官たちが整然と並び、低く柔らかな祈りの声を繰り返している。
祈りは空間にゆっくりと溶け込み、石の床に反射する雪明かりとともに、大広間を神聖な緊張感で満たしていた。
白の一族の家長たちは、長く厳格な表情で列をなして立っている。手にした儀礼用の杖や聖書は、年季の入った木目と金箔が光を吸い込み、まるで彼らの権威の象徴のようだった。
そんな中、帝都からの使者が、厚手の毛皮に包まれて大広間の隅に現れる。
「白の一族の血筋より、新たな妃を迎えるよう、皇帝からの命令が下されております」
その声には、絶対の権威と冷たさが混じっていた。
アルセニイ一世――”神の代理人”とも”黄金の鷹”とも呼ばれる、神聖エラリア帝国の当代の皇帝。神と契約し地上を治める存在となったと伝えられる、初代皇帝ルキウスの末裔である。
彼は民を導き、地上に秩序をもたらす存在として、五つの一族を従え、この二十五年間帝国の均衡を保ってきた。
だが、その均衡は今、微かに軋み始めている。
遠くの領土では飢えが広がり、寒さが民の骨を噛んでいる。
”神の声”の降りてこない帝国は、見えぬ闇のなかで方向を失い始めていた。
沈黙を守る白の家にも、少しずつ怨嗟の目が向けられつつある。
――そう、この日私は、白の妃になることを決めた――
家長たちの長い議論の末、選ばれたのがヴェラだった。
幼い頃に流行り病で家族を失った彼女は、亡き母の従弟であるルース家の当主ミハイルに引き取られ、養われていた。
白の一族と家を守るために――拒絶するという選択肢は、初めから存在しなかった。
そのミハイルが、ゆっくりと養女のもとに歩み寄ってくる。
白銀に近い肌、淡い青の瞳、薄茶の髪。
冬そのものを、その身にまとったような男――だが、その奥にある静かに燃える炎のような理性と優しさを、ヴェラはよく知っている。
「ヴェラ」
低く呼ぶ声が、冬の空気に温かく響く。
「はい、おとうさま」
実際にこの場にいる“もう一人のヴェラ”が、雪明かりの中、養父を見上げた。
彼が、五年前に病で両親を亡くしたヴェラを引き取ってくれた日のことは、彼女の記憶に鮮明に刻まれている。
あの日も、雪が音もなく降っていた。
世界の音がすべて凍りついたような、透明な日だった。
「よく来たね。ヴェラ」
と、彼が自分を迎えてくれた時の、その声の柔らかさと優しさを、ヴェラは今でも忘れていない。
その瞬間、胸の奥に小さな震えが走ったことも。
まるで、見えない糸と糸がそこで結びあわされたように感じたことも。
だがその時、ヴェラは言葉なく立ち尽くしていた。
沈黙が二人の間を満たす。
けれどミハイルは、少しも困ったような顔をせず、ただ静かに問うた。
「……君は、言葉を選んでいるのかい?それとも、言葉が降りてこないのか?」
ヴェラは、小さく首を横に振ってうつむいた。
「……神の声が、聞こえなくなってきているのです。なので、言うべきことに、困っています」
そのか細い囁きは、雪の上に落ちる羽のようだった。
ミハイルは一瞬だけ目を細め、そして、ふっと息を吐いた。
「そうか。……いいことだ」
ヴェラは驚いて顔を上げた。
「いいこと……?」
「神が沈黙するというのは、君に己の言葉を代わりに語らせるのではなく、君自身が声を発するのを望んでいるということだと、私は思う」
彼女の胸の奥で、何かが静かに解けた。
誰もが“神の耳”を持つヴェラの沈黙を恐れ、距離を置いた。
けれど、この人だけは違った。
「それに、沈黙は美しい。そこには、誰の嘘も混じっていないのだから」
それは、彼女の沈黙が初めて、誰かに受け入れられた瞬間だった。
そしてそのときから――ヴェラは密かに、この人のことを想い続けている。今も、他に何もなくとも、彼がそばにいるだけで自分の世界が守られていると感じることができる。
しかし同時に、ヴェラは自分の心の奥に芽生えた感情に戸惑ってもいた。
敬愛する父のような存在に、こんな密かな憧れを抱くことが許されるのだろうか――罪悪感にも似た迷いも、その心の片隅にひっそりとたたずんでいる。
それでも、彼女はその思いを否定せず、ただ静かに抱きしめてきた。ミハイルの視線や言葉が自分に注がれるたび、胸の奥で少しずつ育っていく、言葉にならぬ感情を。
それは、やがて彼の存在を自分の世界の中心に据える、小さな光に育っていた。
今、そのミハイルは養女の前に立ち、穏やかな顔立ちに深い影を落としていた。
淡青の瞳の奥には、一族を守る者の責務と、まだ十八歳の少女を自分の庇護下から手放さなければならない苦悩が交錯している。
「お前に辛い思いをさせることになる。しかし、一族のためには避けられぬことだ。誰かが、行かねばならない……私たちは、選べぬ苦しみの中にいる」
彼の声には、祈りにも似た悲しみがあった。
その手が、ヴェラの手を包む。冷たいはずの指先が、なぜか温かく感じられた。
「行ってくれるか」
“もう一人のヴェラ”は、静かに微笑んでうなずいた。
だが、その刹那――義弟のミシュが顔を赤くして割り込む。
「妃だなんて言うけど、要するに人質じゃないか!」
声は裏返り、まだ少年らしいあどけなさを残したまま、痛切な怒りをはらんでいる。
だがその怒りの奥に、義姉である自分への押し込められた密かな思慕の熱が潜んでいることを”今のヴェラ”は感じとる。
ミシュは、拳を強く握りしめていた。
爪が手のひらに食い込み、白くなった指先がわずかに震えている。
――姉を失うことへの焦燥。
――父への尊敬に混じる、強い反発。
――そして、まだ名を知らぬまま芽吹きかけている淡い恋慕。
「どうして、そんなことが言えるんだよ……!」
彼の瞳は雪明かりに濡れ、怒りよりも悲しみに揺れていた。
「家のため?一族のため?帝国のため?それでねえさんの心は、どこへ行くんだ!」
ミシュはこの五年ずっと、ヴェラの背を追いかけて育ってきた。
幼い時に母を病で失った彼にとって、ヴェラは姉のようでもあり、母のようでもあった。
彼女の静けさは、その強さだと思っていた。
けれど、今の彼女は――未来を諦めているかのように見えて、それが彼には耐えられなかった。
「行かないで……ねえさん。お願いだ」
その声は、怒号でも反抗でもなかった。
少年の心の奥底からこぼれた、祈りのような一言だった。
「いいのよ、ミシュ」
“もう一人のヴェラ”は深く息を吸い込み、ミハイルを見上げた。
「私、参ります」
「ヴェラ……すまない。お前を”神の代理人”に、皇帝に捧げねばならぬ。これは――私の罪だ」
ミハイルはヴェラの手を取り、指先に口付ける。
その唇の冷たさが、ヴェラの決意を凍らせ、そして固めた。
「いいえ、決めたのは私です。ただ……」
少女の銀水色の瞳が、強い光を帯びてまっすぐに彼を見つめる。
「後で、ひとつだけ、私の願いを聞いてください、おとうさま」
その強い声音に、ミハイルは息を詰まらせた。
しばし目を伏せたのち、静かにうなずく。
「……わかった。お前の願いは必ずかなえよう」
「神に誓って?」
「神に誓って」
ふたりの言葉が重なり合った瞬間、遠くの鐘が鳴った。
その響きが、白い館の中で幾重にも反響し、雪明かりの空間をゆっくりと震わせた。
ーーこの時の決断を、私は悔やんではいない。後宮入りから逃れたら、家も一族も、誰も救えなかっただろう。
窓の外では、雪が絶え間なく降り続き、夜を白く染めていく。
見いだせ。そして選べ。
世界は、またまっ白な光に包まれた。
ーー覚えてる。これは……大叔母様の、先代の白の妃の葬儀の日ーー
ーー私が、後宮入りを決めた十四年前の、あの日ーー
冷たい香りが漂い、先代の白の妃の遺体を覆う布の白さを、より深く、より凍てついたものに見せている。
大叔母でもあった前・白の妃が病で亡くなった日。
大広間の天井は、かつての栄華を物語る絵画で埋め尽くされていた。天使や神話の英雄が描かれた鮮やかな色彩は、長年の煤と埃で鈍い灰色に沈んでいる。
戦火や歳月に傷ついた彫刻の輪郭が、月光と雪明かりに浮かび上がり、古の物語を静かに語っていた。
彼女は “神の耳 “を通じて、言葉にならない悲鳴のような“声”を感じ取っていた――祈りか、嘆きか、あるいは深淵からのささやきか。
その声は、どこまでも遠く、無限の雪に吸い込まれていくようだった。
“神の声”――それは、耳に届く言葉ではなく、魂に響く音なき言葉の律動だった。
“神の耳”を持つ者――白の一族にはまれに、この極めて細やかな世界の息遣いを受け止め、解釈できる者が生まれる。
ヴェラは、まさにその一人だった。
神官の祈りのひとつひとつ、家長達の硬く息をつく間、天井画に描かれた天使の姿がかすかに空気を震わせる様子、壁のレリーフが冷気でわずかに反響する音――それらすべてが、神の声と呼応し、静かに、しかし確かに彼女の胸に語りかけてくるような気がする。
神の声は、決して多くを語りはしない。
だが、“神の耳”を通せば、わずかな言葉の奥にある真実、世界の奥底の律動、そして人々の運命の気配までもが、確かに存在することを知ることができるのだった。
だが……“神の声” は、久しく、意味のある言葉を伝えてこない。
その状態では沈黙することこそが掟であり、また、己を守る唯一の盾でもあった。
沈黙は、ヴェラにとっては義務であり、祈りであり、孤独そのものだったのだ。
雪の一片が、誰にも届かぬ声のように、窓の向こうで舞っている。
大広間の中央には、白銀の布で覆われた大叔母の棺が静かに横たわっていた。
棺の周囲には、白百合や雪割草が惜しみもなく飾られ、その香気が冷たい空気の中にふわりと漂う。花々はまるで、失われた命の静かな呼吸を伝えようとするかのように揺れていた。
棺の傍には、長いローブに身を包んだ神官たちが整然と並び、低く柔らかな祈りの声を繰り返している。
祈りは空間にゆっくりと溶け込み、石の床に反射する雪明かりとともに、大広間を神聖な緊張感で満たしていた。
白の一族の家長たちは、長く厳格な表情で列をなして立っている。手にした儀礼用の杖や聖書は、年季の入った木目と金箔が光を吸い込み、まるで彼らの権威の象徴のようだった。
そんな中、帝都からの使者が、厚手の毛皮に包まれて大広間の隅に現れる。
「白の一族の血筋より、新たな妃を迎えるよう、皇帝からの命令が下されております」
その声には、絶対の権威と冷たさが混じっていた。
アルセニイ一世――”神の代理人”とも”黄金の鷹”とも呼ばれる、神聖エラリア帝国の当代の皇帝。神と契約し地上を治める存在となったと伝えられる、初代皇帝ルキウスの末裔である。
彼は民を導き、地上に秩序をもたらす存在として、五つの一族を従え、この二十五年間帝国の均衡を保ってきた。
だが、その均衡は今、微かに軋み始めている。
遠くの領土では飢えが広がり、寒さが民の骨を噛んでいる。
”神の声”の降りてこない帝国は、見えぬ闇のなかで方向を失い始めていた。
沈黙を守る白の家にも、少しずつ怨嗟の目が向けられつつある。
――そう、この日私は、白の妃になることを決めた――
家長たちの長い議論の末、選ばれたのがヴェラだった。
幼い頃に流行り病で家族を失った彼女は、亡き母の従弟であるルース家の当主ミハイルに引き取られ、養われていた。
白の一族と家を守るために――拒絶するという選択肢は、初めから存在しなかった。
そのミハイルが、ゆっくりと養女のもとに歩み寄ってくる。
白銀に近い肌、淡い青の瞳、薄茶の髪。
冬そのものを、その身にまとったような男――だが、その奥にある静かに燃える炎のような理性と優しさを、ヴェラはよく知っている。
「ヴェラ」
低く呼ぶ声が、冬の空気に温かく響く。
「はい、おとうさま」
実際にこの場にいる“もう一人のヴェラ”が、雪明かりの中、養父を見上げた。
彼が、五年前に病で両親を亡くしたヴェラを引き取ってくれた日のことは、彼女の記憶に鮮明に刻まれている。
あの日も、雪が音もなく降っていた。
世界の音がすべて凍りついたような、透明な日だった。
「よく来たね。ヴェラ」
と、彼が自分を迎えてくれた時の、その声の柔らかさと優しさを、ヴェラは今でも忘れていない。
その瞬間、胸の奥に小さな震えが走ったことも。
まるで、見えない糸と糸がそこで結びあわされたように感じたことも。
だがその時、ヴェラは言葉なく立ち尽くしていた。
沈黙が二人の間を満たす。
けれどミハイルは、少しも困ったような顔をせず、ただ静かに問うた。
「……君は、言葉を選んでいるのかい?それとも、言葉が降りてこないのか?」
ヴェラは、小さく首を横に振ってうつむいた。
「……神の声が、聞こえなくなってきているのです。なので、言うべきことに、困っています」
そのか細い囁きは、雪の上に落ちる羽のようだった。
ミハイルは一瞬だけ目を細め、そして、ふっと息を吐いた。
「そうか。……いいことだ」
ヴェラは驚いて顔を上げた。
「いいこと……?」
「神が沈黙するというのは、君に己の言葉を代わりに語らせるのではなく、君自身が声を発するのを望んでいるということだと、私は思う」
彼女の胸の奥で、何かが静かに解けた。
誰もが“神の耳”を持つヴェラの沈黙を恐れ、距離を置いた。
けれど、この人だけは違った。
「それに、沈黙は美しい。そこには、誰の嘘も混じっていないのだから」
それは、彼女の沈黙が初めて、誰かに受け入れられた瞬間だった。
そしてそのときから――ヴェラは密かに、この人のことを想い続けている。今も、他に何もなくとも、彼がそばにいるだけで自分の世界が守られていると感じることができる。
しかし同時に、ヴェラは自分の心の奥に芽生えた感情に戸惑ってもいた。
敬愛する父のような存在に、こんな密かな憧れを抱くことが許されるのだろうか――罪悪感にも似た迷いも、その心の片隅にひっそりとたたずんでいる。
それでも、彼女はその思いを否定せず、ただ静かに抱きしめてきた。ミハイルの視線や言葉が自分に注がれるたび、胸の奥で少しずつ育っていく、言葉にならぬ感情を。
それは、やがて彼の存在を自分の世界の中心に据える、小さな光に育っていた。
今、そのミハイルは養女の前に立ち、穏やかな顔立ちに深い影を落としていた。
淡青の瞳の奥には、一族を守る者の責務と、まだ十八歳の少女を自分の庇護下から手放さなければならない苦悩が交錯している。
「お前に辛い思いをさせることになる。しかし、一族のためには避けられぬことだ。誰かが、行かねばならない……私たちは、選べぬ苦しみの中にいる」
彼の声には、祈りにも似た悲しみがあった。
その手が、ヴェラの手を包む。冷たいはずの指先が、なぜか温かく感じられた。
「行ってくれるか」
“もう一人のヴェラ”は、静かに微笑んでうなずいた。
だが、その刹那――義弟のミシュが顔を赤くして割り込む。
「妃だなんて言うけど、要するに人質じゃないか!」
声は裏返り、まだ少年らしいあどけなさを残したまま、痛切な怒りをはらんでいる。
だがその怒りの奥に、義姉である自分への押し込められた密かな思慕の熱が潜んでいることを”今のヴェラ”は感じとる。
ミシュは、拳を強く握りしめていた。
爪が手のひらに食い込み、白くなった指先がわずかに震えている。
――姉を失うことへの焦燥。
――父への尊敬に混じる、強い反発。
――そして、まだ名を知らぬまま芽吹きかけている淡い恋慕。
「どうして、そんなことが言えるんだよ……!」
彼の瞳は雪明かりに濡れ、怒りよりも悲しみに揺れていた。
「家のため?一族のため?帝国のため?それでねえさんの心は、どこへ行くんだ!」
ミシュはこの五年ずっと、ヴェラの背を追いかけて育ってきた。
幼い時に母を病で失った彼にとって、ヴェラは姉のようでもあり、母のようでもあった。
彼女の静けさは、その強さだと思っていた。
けれど、今の彼女は――未来を諦めているかのように見えて、それが彼には耐えられなかった。
「行かないで……ねえさん。お願いだ」
その声は、怒号でも反抗でもなかった。
少年の心の奥底からこぼれた、祈りのような一言だった。
「いいのよ、ミシュ」
“もう一人のヴェラ”は深く息を吸い込み、ミハイルを見上げた。
「私、参ります」
「ヴェラ……すまない。お前を”神の代理人”に、皇帝に捧げねばならぬ。これは――私の罪だ」
ミハイルはヴェラの手を取り、指先に口付ける。
その唇の冷たさが、ヴェラの決意を凍らせ、そして固めた。
「いいえ、決めたのは私です。ただ……」
少女の銀水色の瞳が、強い光を帯びてまっすぐに彼を見つめる。
「後で、ひとつだけ、私の願いを聞いてください、おとうさま」
その強い声音に、ミハイルは息を詰まらせた。
しばし目を伏せたのち、静かにうなずく。
「……わかった。お前の願いは必ずかなえよう」
「神に誓って?」
「神に誓って」
ふたりの言葉が重なり合った瞬間、遠くの鐘が鳴った。
その響きが、白い館の中で幾重にも反響し、雪明かりの空間をゆっくりと震わせた。
ーーこの時の決断を、私は悔やんではいない。後宮入りから逃れたら、家も一族も、誰も救えなかっただろう。
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