雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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回想

旅立ちの前夜

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真っ白な光が静かに消え……ヴェラはまた、”もう一人のヴェラ”の内側に降り立った。

少女は厚手の白い毛のガウンに身を包み、長い廊下を静かに進んでいた。
白の家の館は、深夜の雪に閉ざされている。
すべての灯が消え、世界が呼吸を止めたかのように、静まり返っていた。

窓の外では粉雪が絶え間なく降り注ぎ、月の輪郭を覆い隠している。
風は吹かず、ただ雪が、降りるでもなく、漂うでもなく――白い沈黙そのものが、空と地をつなぐ糸のように垂れ下がっていた。

――夜が、息をひそめていた。

壁にはかつての栄華を語る絵画が並び、誰にも見られぬまま褪せてゆく色彩が、淡い蝋燭の光に揺れていた。鏡は冬の息を映し、かすかに曇った表面に、ヴェラの影が静かに重なる。
彼女が一歩進むごとに、床板が古い祈りのように軋み、空気がわずかに震えた。

――まだ、神はここにいるのだろうか。

そう思いながら、ヴェラは自らの足音に耳を傾けた。
蝋燭の炎が揺らぐたび、廊下の奥に見えぬ呼吸があるように感じる。


ヴェラの心の奥には、込み上げてくるさまざまな思いが渦巻いている。
愛と恐れ、憧れと痛み、そして――決意。

――これは、後宮入りの前夜。私は、あの人を訪れた――

扉の前で、立ち止まる。その向こうから、紙をめくる乾いた音がした。

その音が、心臓の鼓動と重なる。

ヴェラは拳を握りしめ、指先の冷たさを確かめた。

――これが、この家で過ごす最後の夜。

この扉を開けたら、引き返すことはできない。

”もう一人のヴェラ” が扉をそっと叩くと、中から低い声が返ってきた。

「……誰だ?」

扉を押し開けると、暖炉の火が赤く揺れた。
炎の光が床の毛皮を染め、壁をなぞり、ひとりの男の影を浮かび上がらせた。

「……おとうさま」

かすかに震える声が、夜の沈黙を破った。

書類に目を落としていたミハイルが、驚いたように顔を上げる。その手の下には、帝国印章の押された書簡がいくつも散らばっていた。
深い眉の下の目が、光を反射して一瞬だけ揺らいだ。

「ヴェラ?」

”もう一人のヴェラ”は、白い毛のガウンにすっぽり包まれていた。
裸足の足先には、雪の名残のような赤みがさしている。
その無防備な姿に、ミハイルの肩がわずかに跳ねた。

「そんな恰好で、こんな時間に……来るものではない」

言葉は叱責の形をしていたが、声音は動揺と狼狽に震えていた。
ヴェラは静かに微笑みを返す。

「ひとつだけ、願いを聞くと約束してくださいましたね」

銀水色の瞳が、淡く光を宿してミハイルを見つめる。
その光は、夜の炎よりも強く、静かだった。

「おとうさま。あなたを――私にください」

一瞬、空気が止まった。
炎の音さえ消え、世界全体が、彼女の一言を聴きとめようとしているようだった。

ミハイルは手にしていた書類を強く握りしめる。紙の端が小さな音を立てて裂けた。

「……何を、言っている」

声は怒りではなく、祈りのように嗄れていた。
だが、ヴェラはそれに答えなかった。滑るように彼に近づき、小さな手を彼に伸ばす。

「私は明日、皇帝の妃になります。その前に……」

触れた指先が、彼の手の甲をなぞる。
その手に握られていた書類がふっと緩み、床に舞い落ちた。

「ヴェラ……待ちなさい……」

ミハイルは小さく喘いだ。
その声は、彼女をではなく自分を止めようと、必死にあがいているようでもあった。

「わたしは、ずっとおとうさまを慕っていました。初めて私をこの家に迎えてくださった、あの日から」

ぽつりと落ちたその言葉は、炎よりも熱く、雪よりも静かだった。
ミハイルの胸の中で、何かが砕ける音が響いた。

「お気づきになっていらっしゃいませんでしたね?」

ヴェラの笑みは、儚く少し悲しげだった。

「私はいつも、あなたにとって”娘”でしかなかった。けれど、ご存じでしたか? おとうさまだけが、私の”神の耳”が神の声を拾わなくなっていくのを、『いいことだ』と……そう、言ってくださった」

ミハイルは、目を見開いて彼女を見つめた。
あの時、確かにそう言った――“神が沈黙するというのは、君自身が声を発するのを望んでいるから”と。それは、彼女に対する言葉でありながら、自分自身に対しての言葉でもあったのだが……。

少女の柔らかな白銀の手が、彼の髪に、頬に触れる。
その指先は緊張のためか細かく震えているが、限りなく優しく、そして柔らかい。

「”娘”でも、構いません。ただ――今だけは、私の心を受け取ってください。
願いを必ず叶えると、神に誓ってくださったでしょう?」

ほんの少し、いたずらっぽい響きを宿したその声は、祈りと誘惑のあわいを漂うようにミハイルの中に落ちていく。

暖炉の火が、ぱちりと弾けた。

ヴェラの手の中の熱が、ゆっくりと心臓にまで届いていく。それは、ようやくたどり着いた生の温もりだった。

――たとえ神の声が聞こえないとしても、私にはこの人の声が、聞こえる……――

壁に映る二人の影が重なり、白い部屋の中にたったひとつ、赦されぬ色が生まれる。

ミハイルの肩の力がふっと抜け、 ”もう一人のヴェラ”の華奢な腕がその肩を包んだ。

雪の冷たさが遠のき、わずかに色の濃淡の異なる瞳が溶けあい、息づかいが重なる。

――この夜のことを、悔やんだことは、一度もない。

白いガウンが、音もなく床に落ちた。
炎がそれを照らして、雪のように淡く光った。

そして、すべてが白い光の中に溶けていく。

 

神の声は、雪の粒のひとつひとつに宿っていた。

世界は、再び、まっ白な光に包まれた。
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