雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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回想

後宮という名の

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真っ白な光が消え……ヴェラはまた、“もう一人のヴェラ”の内側に降り立っていた。

白銀の玉座の間。
氷の彫刻のような壁に光が跳ね、空気そのものが透き通って見える。
その澄んだ冷気の中には、かすかな香が混じっていた――
聖油と香木、そして遠くの炎が溶けた鉄の匂い。
それはまるで、祈りと犠牲の境界線をなぞるような香りだった。

ーーこれは、私の後宮入りの日……ーー

玉座の間の中心に、”神の代理人”・”黄金の鷹”皇帝アルセニイ一世が立っていた。

淡い褐色の肌に、濃灰の髪。
四十歳の男盛りの体躯は、鍛え上げられた獣のように均整が取れている。
その立ち姿には、絶対的な秩序と、誰も触れられぬ孤独の影が同居していた。
黄金の鷹の刺繍が施されたローブの裾が、まるで儀式の炎のように床を流れる。
胸元の聖印が燭光を返し、その立ち姿だけで人々をひざまずかせるほどの威を放っていた。

だが、その瞳――灰色の奥には、深い霧のような色が立ち込めている。
何かを見失った者の影のようなその曇りが、ヴェラの背筋に冷たいものを這わせた。
まるで、彼の中の何かが、ゆっくりとひび割れ始めているようにも感じる。

「白の妃よ、これは神が選びたもうた絆である」

皇帝の声は低く、雪を砕くように響いた。

「”神の声”をもって、私に仕えよ」

”もう一人のヴェラ”は、静かにひざまずいた。
雪のような衣の裾が大理石を滑り、頭を垂れた肩に散るクリーム色の髪に、淡い光が降りかかる。
その光は祝福のようでいて、まるで冷たく封印の印を押すようだった。
誰もが沈黙し、空気そのものが祈りの形を取っていた。

皇帝の視線が、ゆっくりと彼女をなぞってゆく。
銀白の頬、銀水色に光る瞳、首筋のかすかな鼓動。
彼はまるで聖典を読むように、そのひとつひとつを丁寧に目で追ってゆく。
だが、その目の底には――ひとりの男としての興味が、微かに、けれど確かに揺らめいていた。

”今のヴェラ”の肌が、ぞわりと泡立つ。
その視線の熱が、時を越えて肉体に伝わってくるようだった。

ーーこの目……この方の興味と関心こそが、最も恐ろしいものだったのだ……今ならわかるーー

「私こそが、”神の代理人”ーーこの世を統括する存在、初代皇帝ルキウスの末裔、”黄金の鷹”だ」

皇帝はそう言いながら、手を差し出した。
その手の動き一つで、空気が重くなる。

”もう一人のヴェラ”がその手をとって唇を触れた瞬間、指先に冷たい金属の感触――皇帝の指にはめられた、聖印の縁の硬さが伝わる。
背筋を走ったのは信仰の震えではなく、光そのものが凍ってしまったような冷たい感覚によるものだった。

皇帝の瞳は灰のようでいて、光を受けるとそこに赤い火が宿る。
その肌は、雪に焼かれた鉄のように冷たく、しかし血の奥に何かがまだ熾っているようでもあった。
玉座の上に座すというよりも、彼自身が玉座であり、祈りの中心であり、世界の軸。

「――白の妃よ」

その声は、神の声が人の言葉を浸食するかのようだ。
その響きに、ヴェラは思わず頭を垂れた。

だが、彼の視線が彼女を捉えた瞬間、何かが変わった。
その瞳の底は濁り、冷たくも熱くもない。

覗き込めば、そこには無数の祈りと罪が溶けあっているようだった。
ヴェラは悟る――この目は、見るというより、見透かそうとしている。
肉体も、思想も、信仰すらも通り越して、魂の底の震えに容赦なく触れようとする視線。

彼の眼差しに晒された者は、きっと、己の偽りを長く保てない。
ヴェラはそのまなざしに、血の凍るような恐怖を覚えた。

皇帝の右側には四色の妃が、左側には皇太后エレナが、静かに控えている。

最も目を引くのは、紅の妃ハーモニア。
淡褐色の肌に、赤褐色の髪。

武の一族に生まれ、戦場で名を馳せた将軍の娘。兄のアレクセイもまた、軍を率いて戦いの先頭に立つ。
鍛え上げられた腕と肩が、絹の衣の下からでも形を見せていた。
背は高く、歩くたびに裾が空気を押しのけ、周囲の者たちが自然に道を開けるような威厳がある。
その呼吸すら、炎の律動のようだった。

彼女の瞳は金茶色で、瞳孔は縦長。夜の闇を見透かすといわれている。

ヴェラを見る目は、試すようであり、同時に侮りの色をたたえていた。

彼女の隣には、七歳ほどの男の子――皇帝アルセニイの長男が立っていた。
母に寄り添いながらも、その瞳はまっすぐに玉座の父を見上げている。
そのまなざしの幼さが、かえってこの宮廷の濁流を際立たせた。

ハーモニアが小さく、だが聞こえるようにつぶやく。

「雪は美しい。けれど、春には溶けるものよ」

その声は甘く、しかし刃のようだった。
力強い指が、白金と紅の扇を開いたり閉じたりする。
艶やかな爪が紅の光をはじき、瞳には氷より冷たい侮りの色が宿っていた。
彼女の言葉がまるで呪いのように、ヴェラの白い衣の裾を焦がす。

他の三人――
小麦色の肌につややかな茶の髪を結い上げ、頭上に金糸を散らした黄の妃カタリナ。

商いに秀でたその一族は、帝国内のあらゆるものにその手を伸ばしている。

ヴェラに向けられる視線は、まるで価値を測る天秤のよう。

金髪に大きな青い瞳、透き通るような色白の、蒼の妃ルドミラ。学びや占術に秀でたその家系にふさわしく、星座の刺繍を散りばめた濃紺の衣に身を包み、興味なさげな視線をヴェラに送っている。

浅黒い肌色、黒髪に緑の瞳の、翠の妃イレーネ。髪留めは、瞳と同じ美しく繊細な翠の石で、光の加減で色の濃淡を変える。

その一族は、穀倉地帯の大半と多くの森林を有する。まだ十六歳の少女で、ヴェラに棘のある視線を向けていた。

それぞれが一族の権力を背にし、同じ玉座を巡る静かな戦場の香を纏っている。
だが彼女たちの微笑みは、鏡のように美しく、同時に何も映さない。

紅、黄、蒼、翠――
彼女たちは微笑んでいたが、その笑みの奥では互いの影を量っている。
その場全体が、色彩という名の刃でできているようだった。

「白は、混ざれば消える色」

翠のイレーネが、まるで風が囁くようにーーそれでいてきちんと聞こえる声でーー呟いた。
その言葉が”もう一人のヴェラ”の頬をかすめる。
氷の空気が触れたように、肌がひやりと凍り、彼女はこの宮廷が“檻”であることを悟る。

ーー陛下にも、他の妃たちにも……特に紅の妃には、本当に注意しなければならなかったのに。私は……心を固めていたつもりだった。でも、智慧も覚悟も、何も足りていなかったーー

そして、皇帝の左側にただひとり立つ、皇太后エレナ。先帝の、紅の妃だった女性。

末息子だったアルセニイが、神託で思いがけず皇帝に選出されて以降、その後半生は苦難に満ちていたと噂に聞く。

かつては艶やかだったであろう褐色の髪は半分以上白くなり、淡褐色の肌には皺とシミが目立ち、闊達であったであろう表情も今は乏しい。

病がちだそうで、あまり公の場には出てこないと聞くが、仮にも彼女は後宮の主だ。たとえそれが、形式上のことであっても。

「皇太后陛下、よろしくお願いいたします」

頭を下げるヴェラを、皇太后の目が無関心そうに見下ろし、ひび割れた唇が言葉を発する。

「まぁ……励みなさい」

投げ捨てるようにつぶやき、褐色のマントの裾を引きずって、ヴェラへの興味を失ったように彼女は立ち去ってゆく。いや、はじめからヴェラになど、何の興味もなかったのかもしれない。
鐘の音が遠くで鳴り、光がゆらぎ、玉座の間は永遠の氷像のように沈黙している。

遠くから、聖歌を歌う声がかすかに響いてきた。
「この世を統べるものに、神の息吹を……」
しかしその声も、氷の天蓋に吸い込まれるように消えていく。

  

その言葉は、耳の中ではなく骨の奥で鳴った。

”神の声”に、ヴェラの心は叫び返す。

「もし、選びなおせるのなら――私は……ミハイルを失いたくない!!」

世界はまた、まっ白な光に包まれた。
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