雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

文字の大きさ
18 / 30
回想3

愛は盾ならず

しおりを挟む
真っ白な光が消え――ヴェラは、かすむ視界を晴らそうと、激しく痛む頭を振った。


目の前にあるのは……重厚な赤褐色の扉。
厚い木肌には古代文字が彫られ、金色の鋲が幾重にも打たれている。
どこか、血の香りにも似た鉄の臭いがした。

扉の前の廊下は、ひどく静かだった。
壁にかけられた深紅の旗が、わずかな風に揺れている。
その布の影が石床を染め、まるで血の川のようにゆらめいていた。

“前回”の人生で、ここを訪れたことはなかった。
赤の妃、ハーモニアの私室の扉。

だが――もし、彼女に直接訴えかけて、その策略を止めることができるなら……。
胸の奥で、鼓動がひときわ大きく響いた。

――この扉の向こうに踏み込めば、もう戻れない。
それは、誰に言われたわけでもないのに、はっきりとわかっていた。

指先が扉に触れる。
冷たい金属の感触が、皮膚を伝って心臓へと響く。
まるで扉そのものが脈を打っているかのようだった。

扉の向こうで、何かがかすかに鼓動していた。
それは、この宮廷の心臓か、それとも彼女自身の魂か。

ヴェラは震える手で、扉を叩いた。
その音が、深い沈黙の廊下をゆっくりと満たしていく。

「どうぞ」

応えの声は、透き通るように柔らかかった。
扉を押し開けた瞬間、熱を帯びた香がヴェラの頬を撫でた。
そこはまるで、赤と金で織られた夢の胎内だった。
天蓋から垂れる紅絹が幾重にも波打ち、灯火の揺れを受けて血潮のように脈動しているように見える。

その奥に、ハーモニアは静かに立っていた。

紅の衣の裾が床をかすめ、肩を覆う薄布が光をまとっている。
まるで、燃えさしの薔薇が人の形をとったかのようだった。
考え事でもしているのか、指先に白金と紅の扇を持ち、小さな音を立てて開いたり閉じたりしている。

天窓からの光が、彼女の艶のある褐色の髪を照らし、煙の粒がその輪郭を包む。
炎に抱かれた女神のように――そして、どこまでも冷たい。

目を上げた彼女は、来客を見てわずかに眉をひそめた。

「……白の妃? なぜ、わたくしの部屋に?」
「お許しを」

ヴェラは深く頭を垂れた。
雪を思わせる薄衣の裾が床に広がり、冬の光が彼女の肩に落ちる。

「どうしても、お話ししたいことがあるのです」
「ミハイル・ルースのことなら、もう遅いわよ」

ハーモニアの紅く染められた指先が、そばの小卓に乗せられた巻物をつつく。
金茶色の瞳が、獲物を見定める獣のようにヴェラを見つめた。

「私は明日、”これ”を皇帝陛下に提出する」

その声は柔らかく、それでいて刃のように冷たく、あざけるような響きがあった。

「あなたの養父が、どれほど陛下の政を乱したか――知らないとは言わせないわ、白の妃」
「それは……」

――あなたとその一族が、作り上げたことではないですか!!――

喉から出そうになる叫びを、胸の奥で押し殺す。
唇の裏に、鉄の味が滲んだ。

冤罪も、その証拠も――彼女とその一族の力の前には、はかなく消える。
この部屋の空気そのものが、支配と傲慢の象徴のようだった。

「それでも……私は、彼の死を望んでいません」

ヴェラの声が震えた。

「どうして?」

ハーモニアは意地悪く訪ね、そして笑った。
その笑いは、氷のように澄んでいて、触れれば確実に切れる鋭さを備えている。

「いいわよ、答えなくて。わかっているもの。愛しているからって、言うんでしょ。馬鹿らしい」

吐き捨てるような口調だった。

「紅の妃……」

ヴェラは、力なく頭を垂れた。その上から、ハーモニアの棘のある声が容赦なく降る。

「陛下に寵愛されているからといって、許されることではないわ。それだけでも、万死に値する」
「私は……陛下に愛されているわけでは、ありません」

喘ぐように言うと、ハーモニアがまた笑った。

「そんなことは、知ってるわよ」
「え――?」

ヴェラは若干の驚きをもってハーモニアを見る。
紅の妃の美しい唇が醜く歪み、そこから零れた言葉は、冷たく尖っていた。

「あなたね、”神”に人が愛せるとでも、思っているの? ずいぶんと、甘いことを言うのね。陛下は、妃達を愛することはないわ。そんなものは、あの方の知らない感情だもの。私はそれをーー我が身で、知っている。痛いほどね」

その声は、ひどく苦々しい。

紅い瞳の奥に、一瞬だけ暗い曇りが差し込む。
誰にも見せたことのないその影は、彼女がかつて愛を乞い拒まれた夜の記憶の残滓のようだった。
その言葉の奥にある消えない痛みが、ほんの一瞬だけ、ヴェラの胸を締めつけた。
ハーモニアもまた、愛を知らぬ牢の中に囚われた人なのだ――。

「紅の妃ーーあなたは……陛下を、愛されているのですか……?」

ヴェラの問いは震えた。ハーモニアは苦い顔をするが、何かが彼女の心の内を語らせる。

「どうかしらね?そもそも、妃の立場なんて、それぞれの一族の人質のようなものじゃない。それでも、少なくとも私は後宮入りした時、あの方に心から仕えようと思っていたわ。でも、陛下に言われたのは『妃とは所詮、皇帝の血を繋ぐ器にすぎない。余が心からそなたに求めるのは、皇帝の剣としての役目だ』という言葉だった」
「そんな……」
「だから私はーー武をもって皇帝に仕えてきた紅の一族の一員として、黄金の鷹の剣になった。鎧をまとい、武器を手に取って、ね」

金茶色の瞳が、その縦長の瞳孔が、名状しがたい炎の色を宿す。

「でも、あなたはーー陛下にとって、ただの玩具だわ。美しくて物珍しいだけの、玩具」
「紅の妃……」

そんなことは、わかっていた。
だが、自分で認識しているということと、他人に突きつけられることの痛みは、まったく別のものだ。

そして、ハーモニアは”あなた”と言ってはいるが、彼女自身も皇帝の前に立つひとりの女としては、ヴェラと同じ立場なのだ。
ヴェラはよろめきそうになりながらも、なんとか言葉を紡いだ。

「で、あれば……それを見抜けるあなたには、わかって欲しいのです。愛の――私にとっての、価値を」

ハーモニアの扇が、かすかに止まった。

「愛の、価値?」

その声が、初めてかすかに揺れた。

ヴェラは息を吸い込み、静かに言った。

「私は、私の愛を失いたくありません。私の名を、ミハイルの罪に重ねてください。罰を望まれるなら、代わりに私が受けても構わない。けれど、彼の命だけは……どうか」
「自分を犠牲にするというのね。そういう女が一番、陛下を楽しませるのよ」

ハーモニアはまたしても笑う。
だがその笑みには、ほんのりと陰が差していた。

「そして、あなたはまだ愛なんてものを信じているのね。けどね――愛は、盾にはならないわ、白の妃」

ヴェラはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は震えていたが、そこには確かな光があった。

「ですが……憎しみや妬みも、救いにはならないでしょう?」

――そして、それでも、愛は光になるから……――

ヴェラの思いの後半は、声にはならなかった。だがそれは、彼女の胸の奥から静かに強く湧き上がってきた言葉だった。

沈黙が落ちた。

炎が揺れ、紅絹の影が二人のあいだに揺らめく。
その影はまるで、ひとつの魂が裂けていく瞬間のようだった。
長い静けさの後、ハーモニアの金茶色の瞳の奥で、小さな光が踊った。

「罰を望むなら、自分が代わりに受けてもいい――そう、言ったわね?」
「はい」

ハーモニアは小さな笑い声を立て、扇を閉じて卓上に置き、かわりに書簡を手に取った。

「いいわ……あの男の命を取れと訴えるのは、やめる。代わりに、家督を息子に継がせて蟄居させる程度の報告に、書き直す」

ヴェラは深く頭を垂れた。

「感謝いたします」

ハーモニアの声が、低く響いた。

「感謝するのは早いわよ」

金茶色の瞳が、残酷に光る。
それは、獲物を捕らえ、食らいつく獣の光だった。

「ミハイル・ルースの罪が軽くなれば、あなたも罰せられることはない。けれどそうなったら、陛下はあなたを手放さないわ。彼にとって、あなたはますます楽しい玩具になり、その日々は続く。囚われの身のままでね」
「紅の妃……」

ヴェラは、ついにその場に崩れ落ちた。
胸の奥に、悲鳴のような静寂が広がる。

「なぜ……なぜ、そこまで……」
「決まってるじゃない。たとえそこに愛はなくとも、あなたが寵愛を受ければ、それだけ陛下の時間があなたに奪われる――それが、我慢できなかったのよ」

ハーモニアの笑いは、艶やかだが暗い闇をのぞかせている。
その闇は、深く淀んで、美しくも悲しい。

「でも、もう、かまわないわ。その時間がそのまま、あなたの苦悩の時になるのなら」

――この人は、私の訴えに心を動かされたわけじゃない!ただ……計画を少し、変えただけ!彼女にとって、“より面白い”方に!!――

紅い帳が燃えるように揺れ、香の煙が竜巻のように立ち上がり、ハーモニアの笑い声が響く。
ヴェラの視界が、滲んでいく。

――ダメ……これでは、ダメ……!!――
――どうしたらいいの……!?――

世界が、真っ白な光で焼き尽くされた。

 

“神の声”が、頭の奥で、鈍く、痛みをともなって響いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

最強令嬢とは、1%のひらめきと99%の努力である

megane-san
ファンタジー
私クロエは、生まれてすぐに傷を負った母に抱かれてブラウン辺境伯城に転移しましたが、母はそのまま亡くなり、辺境伯夫妻の養子として育てていただきました。3歳になる頃には闇と光魔法を発現し、さらに暗黒魔法と膨大な魔力まで持っている事が分かりました。そしてなんと私、前世の記憶まで思い出し、前世の知識で辺境伯領はかなり大儲けしてしまいました。私の力は陰謀を企てる者達に狙われましたが、必〇仕事人バリの方々のおかげで悪者は一層され、無事に修行を共にした兄弟子と婚姻することが出来ました。……が、なんと私、魔王に任命されてしまい……。そんな波乱万丈に日々を送る私のお話です。

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
 なんの罰ゲームだ、これ!!!!  あああああ!!! 本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!  そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!  一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!  かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。 年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

婚約破棄された幼い公爵令嬢、目覚めたら絶世の美女でした

鍛高譚
恋愛
『幼すぎる』と婚約破棄された公爵令嬢ですが、意識不明から目覚めたら絶世の美女になっていました 幼すぎる、頼りない――そんな理由で婚約者に見限られた公爵令嬢シルフィーネ。 心ない言葉に傷ついた彼女は、事故に遭い意識不明となってしまう。 しかし一年後、彼女は奇跡的に目を覚ます。 そして目覚めた彼女は――かつての面影を残しつつも、見る者すべてを惹きつける絶世の美女へと変貌を遂げていた! 周囲の反応は一変。婚約破棄を後悔する元婚約者、熱視線を送る他家の令息たち、さらには王太子からの突然の縁談まで舞い込み――? 「もう、誰にも傷つけられたくない。私は私の幸せを手に入れるの」 これは、冷たく突き放された少女が美しく咲き誇り、誇りと自由を手に入れる、ざまぁ&逆転恋愛劇。

〖完結〗終着駅のパッセージ

苺迷音
恋愛
分厚い眼鏡と、ひっつめた髪を毛糸帽で覆う女性・カレン。 彼女はとある想いを胸に北へ向かう蒸気機関車に乗っていた。 王都から離れてゆく車窓を眺めながら、カレンは振り返る。 夫と婚姻してから三年という長い時間。 その間に夫が帰宅したのは数えるほどだった。 ※ご覧いただけましたらとても嬉しいです。よろしくお願いいたします。

虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました

たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。

廃城の泣き虫アデリー

今野綾
ファンタジー
領主の娘だったアデリーはある日家族を殺され育った領地から命からがら逃げ出した。辿り着いた先は廃城。ひとり、ふたりと住人が増える中、問題が次々とおこって… 表紙はフリー素材です

【完結】悪役令嬢は何故か婚約破棄されない

miniko
恋愛
平凡な女子高生が乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった。 断罪されて平民に落ちても困らない様に、しっかり手に職つけたり、自立の準備を進める。 家族の為を思うと、出来れば円満に婚約解消をしたいと考え、王子に度々提案するが、王子の反応は思っていたのと違って・・・。 いつの間にやら、王子と悪役令嬢の仲は深まっているみたい。 「僕の心は君だけの物だ」 あれ? どうしてこうなった!? ※物語が本格的に動き出すのは、乙女ゲーム開始後です。 ※ご都合主義の展開があるかもです。 ※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。本編未読の方はご注意下さい。

処理中です...