雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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回想3

言葉こそ翼

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白い光は徐々に薄くなってゆき……
気づけば、ヴェラの意識は木と石の匂いが混ざる薄暗い講堂の片隅、天井近くに浮かんでいた。

この場所を、訪れたことはない。

暖炉の火が燃えていなくとも、ほんのりとあたたかなその空気も。凍てついた氷に木の香りが混ざる風も。故郷と帝都しか知らないヴェラにとっては真新しい。

眼下にある部屋の最奥の卓に、白髪白髭の老僧がいる。

机に立てかけられている杖はその歩みがおぼつかなくなってきていることを示しているが、澄んだ青い瞳は少年のように若々しい。

会ったことこそないが、ヴェラでさえその顔は知っていた。

蒼の一族に連なる、高名な学僧オルディン。ヴェラは彼の書物で学んだことがあるし、肖像画を見たこともある。確か、ヴェラが後宮に入る少し前に、この方は病を得て亡くなったはずだ。

ということは、ここは過去の蒼の学院――蒼の一族が代々支えてきた、学問と理性の殿堂だ。
かつて王国の聖典を校訂し、法の原文を写した学僧たちが住まうその石造りの回廊は、帝国の東の地にあり、年間を通してほぼ雪に覆われている帝都よりも、少しだけ温かいと聞く。

遠くで鐘が鳴り、少年と少女が肩を並べて部屋に入ってきた。

まだ十代前半といったところだが、少女の美しい金髪と青い瞳、つややかな淡黄色の頬には、後の蒼の妃ルドミラの面影がはっきりとあった。

ではーーもう一方の少年は……?

二人の差し出した羊皮紙を、学僧は穏やかなまなざしで見分している。

「綺麗に写せていますな、二人とも。では、セルゲイ殿――真の法とは、何か?」
「神の教えを、人が理解して真理に至ること」

答える少年の声は、まだ幼く声変わりしていないが、その返答によどみはない。

では、彼がセルゲイ・ヴァルカス ……後に、蒼の一族の土地で起きた暴動に加担し、捉えられ断罪されることになる人物なのだ。思

慮深そうな濃い青い目と引き締められた眉根が、いかにも意志の強さを感じさせる。

「そうだな。人がその勤めを怠った時、真理は死んでゆく」
「でも、先生」

ルドミラが、おずおずと口を開く。

「近年、しだいに神の教えが降りてこなくなっていると、噂に聞きます。それが進んだら、私たちはどうしたらいいのでしょうか?」
「ふむーー」

学僧は思案気に髭を撫で、微笑をたたえて少年少女を見た。

「セルゲイ殿は、どう考える?」
「僕はーー」

少年は、しばし口ごもって言いにくそうに小声になった。

「申し上げにくいのですが……僕たち自身が調べ、知り、感じ――考えて、自力で進んでいくしかないと、考えます」
「神を――無視するというの?セルゲイ!」

ルドミラが青い目を見開いて強い口調で問いただすと、少年は首を振った。

「そうじゃない。神が、僕たちを無視するならーーっていう、話だ」
「でも……」

今度は、ルドミラの方が口ごもる。

「神はーーいなくなったわけじゃないし、”神の代理人”、皇帝陛下がいらっしゃるわ」
「うん、そうだね」

セルゲイはうなずき、学僧を見上げる。

「ですが、皇帝の言葉が神の教えというわけでは、ないーーですよね、先生」
「そうじゃな……」

師の答えは短く、その手がそっと少年少女の頭を撫でた。

「だからこそ、我らは学び、自らの声を聞いてその言葉の芽を育てねばならん。言葉こそが、翼である。覚えて、おきなさい……」

そうして後に、この少年は民衆の反乱を率いることになる。少女は皮肉にも、皇帝の”神の代理人”の妃として、神が応えぬ祈りの鎖に縛られることになるのだ。

それでも……

――あなたの原点は、ここにあったのね――

卓上のランプが光を増し、真っ白になってヴェラを包み込む。

  

”神の声”が、告げた。

 ・・・・・・・・・・・・・・・

ヴェラの意識はさらに浮遊を続け、今度は宮廷内の一部屋、天井近くに漂った。

部屋は北向きで、朝の光が斜めに差し込む。

窓は高く、細く、青磁の格子が風を通すたび、壁に揺れる影を落とす。
訪れたことはないが、床に敷かれた厚手の藍染めの絨毯、 その上に置かれた白木に金の象嵌が施された机と椅子。

それは、どう見ても蒼の妃ルドミラの部屋だった。

書架の上には、黄ばんだ聖典と、数冊の書物。
その前に、二つの影が向かい合って座していた。

「……師は、最後まで“言葉こそ翼である”と仰っていましたね」

ルドミラが呟くと、セルゲイはかすかに微笑んだ。

「翼か。俺には、もう片方が見つからない」
「もう片方?」
「信仰だよ。神を信じる心を、俺はとうに失った」

その言葉に、彼女の眉が揺れた。
焔が音を立て、雪明りが壁を照らす。
そして今、二人の間を雪のような冷たいものが隔てている。

「あなたが何をしようとしているか、わかっています。けれどそれは――神への叛逆です」
「叛逆ではない」

彼の声は静かで、けれど炎の芯のように熱かった。

「人が自分自身の声を聞き、自分たちの言葉で語る時が来ているだけのことだ」

セルゲイの濃い青い瞳には怒りではなく、祈りに似た光が宿っている。
それが彼を、誰よりも危うく、そして誰よりも美しく見せていた。

「でも、まだ皇帝陛下は、”神の代理人”は、この世界の頂点にいるわ……」
「神そのものが沈黙した瞬間から、本当は彼はもうそこにいないさ」

セルゲイは懐から、ひとつの飾りを取り出した。
それは、左右対称の二枚の翼を模した、蒼の家の紋章。

「おまえに預ける」
「私に?」
「おまえの翼は、理(ことば)の翼だ。俺の翼は、剣(ちから)の翼。俺が墜ちても、おまえが飛び続けろ」

ルドミラは息を呑み、両手でその紋章を受け取った。
掌に伝わる金属の冷たさが、涙の熱で曇っていく。

「……生きてね、セルゲイ」
「おまえもな」

彼は短く笑い、顔をそむける。

「だが……最悪の時は、俺たちのどちらも――名さえ残らないだろうな」

その言葉はーー皮肉にも”前回”、そのままの未来となった。

ーー「飛び続けろ」と、言われたのに……あなたは”前回”彼に殉じたのね、蒼の妃……ーー

壁に備え付けられたランプが光を増し、真っ白になってヴェラを包み込む。

  

”神の声”が、告げた。
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