雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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回想3

雪明かりの選択

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真っ白な光が消え……ヴェラは、かすむ視界を晴らそうと、激しく痛む頭を振った。しかし、世界はまだ完全には形を取り戻さない。

空気には香炉の残り香が漂っている。沈香と雪解け水のような匂いが混じり、現実と幻の境界を曖昧にする。

ヴェラは息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺の奥を満たすと、ようやく、世界が輪郭を取り戻しはじめる。
視界の端で、冬の光が揺れ、天井の金細工が鈍く光を返す。
そのすべてが、ほんの一瞬前にも見たような――永遠の回帰の夢の中のようだった。

こめかみの奥がじんじんと焼けるように痛い。

けれど、次第に感覚が戻り、重いまぶたの向こうで、冬の光がゆっくりと形を結んでいく。

「体調でも悪いのですか? 白の妃」

淡々とした声。振り向けば、隣に黄の妃カタリナが立っていた。
美しく結い上げられた栗色の髪には、金剛石がいくつも編み込まれていて、冷たい光を反射している。その金の瞳は湖面のように静まり返り、何の感情も読み取れない。

ヴェラは思い出す。この妃は、他の誰よりも計算高く、しかし決して無用な敵意を表には出さぬ女であることを。

「いえ、大丈夫です。お気遣いなく――」

ヴェラは微笑みを返し、深く息をついて周囲に目を向けた。
白銀の玉座の間は、冬の光に満ちていた。
天窓は高く、天井近くに開けられた長い氷柱のような窓から、午前の雪明かりが斜めに差し込んでいる。
その光は、空気の冷たさを強調するかのように淡く青みを帯び、床の金銀の装飾を冷たく照らしていた。

奥の祭壇では、皇帝が礼拝で使う祭器を一つ一つ静かに並べていた。

その所作は儀礼的でありながら、どこか祈りにも似ていた。
だがその祈りには温もりがない。――ただ、秩序を刻むための機械のようだった。

その背は厳然としており、冷たく磨かれた石のようだ。


雪明かりを受けて、彼の衣の縁に縫い込まれた金糸がかすかに光る。
彼が動くたびにその光が冷たく揺れ、まるで氷の刃が空気を裂いているようだった。

壁面には、皇室の象徴である黄金の鷹の模様を中心として、帝国の歴代王たちの戦と祈りを描いた壁画が連なり、その上には五つの一族の紋章旗が掲げられている。
紅の獅子、蒼の双翼、黄の太陽、翠の大樹、そして白の月――それぞれの色が光を受け、わずかに揺れ動く。

周囲には、五人の妃とその子供たち。

妃たちのあいだに漂うのは、沈黙という名の言葉だった。
誰もが柔らかな微笑を浮かべてはいるが、その目の奥は鏡のように冷たい。
視線が交わるたびに、そこに測り合いと駆け引きが生まれ、ほんの一瞬のまばたきさえも意味を帯びていた。

誰一人、身じろぎすらしない。
紅のハーモニアでさえ、睫毛を伏せて微動だにしなかった。
香が漂い、遠くの風が旗を震わせる。
ヴェラは、その沈黙の中に立ち尽くしていた。

皇帝の視線が、ゆるやかにヴェラに向けられる。
まるで天秤の上に置かれた魂を量るように。
慈悲も怒りもない、ただ静かな眼差し。
だがその視線は、いつも彼女を焼く。


蒼の妃ルドミラの両脇には、双子の幼い娘たちの姿があった。
二人の少女は母の青いドレスの裾を握りしめ、まだこの空間に馴染めずにいる。
だが、そのいたいけな姿が、礼拝の場にかすかな温もりのような気配をもたらしていた。

――これは、蒼の妃ルドミラが、双子の娘たちを初めて礼拝に連れてきた日。
そう気づいた瞬間、ヴェラの胸にざわりと冷たい予感が走った。
前の人生では、この頃、彼女への皇帝の寵愛の重みが一層増し、そして孤立が決定的になった。ヴェラが一歩動くたびに、侍従たちはひざまずき、他の妃たちは無言で目を細めた。

沈黙は、言葉より雄弁だった。
一人の呼吸に、他の誰かが笑みを深める。
まるで目に見えぬ糸で互いを縛り合い、解けぬ均衡を保っているかのよう。
誰もが知っている――この宮廷では、言葉より先に沈黙が動く。
それを破る瞬間、誰かの立場が崩れる。


静寂の中で、子供たちの笑い声がほんの少し響いてくる。
ルドミラの娘の片方が、退屈を紛らわすようにヴェラの白いマントの裾をつまんで引っ張った。もう一人は、その様子をじっと見つめながら、恐る恐る指先で布をなでる。その指が触れるたびに、瞳が楽しそうに揺れる。

「ふわふわだね」

囁くような声が、凍りついた空気をやわらかく震わせた。
ヴェラは思わず微笑み、彼らの頭に手を置いた。

「ほんとだね!」

幼い声が弾む。そのわずかなぬくもりに、ヴェラの胸の奥の何かがそっと動いた。

その温もりはただの体温ではなく、凍えた心を融かす忘れられた祈りの残滓のようだった。

ヴェラは、かすかに微笑みをこぼし、静かに膝をついた。
白いマントを大きく床に広げ、幼女たちが心ゆくまで触れられるようにしてやる。
二人の小さな手が毛皮の上をなで、無邪気な笑いがこぼれた。
母譲りの金髪が、白の布の上に柔らかく散る。

――その一瞬、玉座の間の空気が、微かに揺らいだ。

「蒼の妃よ」

静寂を破った皇帝の声は、低く、鋼のように冷たかった。

「娘たちを、連れて出てゆけ。礼拝の妨げになる」

広間全体の温度が、一瞬で下がる。
ルドミラの顔が青ざめ、かすかに震えながら頭を垂れた。

「陛下……申し訳、ございません!」

彼女は急いで娘たちの手を取る。

「いらっしゃい。邪魔をしてはいけません」

厳しく言い聞かせようとするが、子供たちは不安と恐れで泣き出してしまう。
小さな泣き声が、高い天井に反響する。

「騒ぐうちは、礼拝に参加させてはならぬぞ」

皇帝の声が再び響いた。
それは、罪を告げる鐘のように冷酷な響きだった。

ルドミラは顔を上げられず、泣く娘の一人を抱き上げたが、もう一人が座り込んでしまって動かない。
その小さな肩を見て、ヴェラの胸の奥が熱くなった。
彼女は静かに歩み寄り、泣いている幼女をそっと抱き上げた。
軽い。震える冬の小鳥のように。

「白の……妃……?」

ルドミラが驚愕の色を浮かべる。

「今は、早く外へ」

ヴェラは柔らかく微笑み、皇帝の方に小さく頭を下げた。

「申し訳ございませんが、私も蒼の妃とご一緒します」

アルセニイ は、冷たく手をひらひらと振る。
行け、という合図。
その無関心な仕草が、ヴェラの胸に重く沈んだ。

「まいりましょう、蒼の妃」

そう告げ、ヴェラはルドミラを促して広間を出た。
背後には、再び静寂が戻る。だがその静けさの奥に、確かにわずかなざわめきがあった。

外に出ると、扉が閉まり、礼拝の祈祷の声が遠くに響きはじめる。
ヴェラは幼女を母親の腕に返した。ルドミラは両腕で二人を抱きしめる。
そこに、侍女と乳母たちが駆け寄ってきた。

ルドミラの青い瞳が、複雑な光を帯びてヴェラを見た。

「白の妃……あなた、なぜ、こんなことを……?」

その声の奥には、戸惑いと、わずかな警戒が入り混じっていた。
彼女は知っているのだ――妃同士は助け合わない。助けは、すなわち弱点になるからだ。

ヴェラは微笑み、静かに言った。

「私には――まだ子供はいません。でも、母の子供への愛しさというものを、ほんの少しはわかる気がします。ですから、あの子たちが涙をこぼすのを、ただ見ていることはできませんでした」

ルドミラのまつげが震え、唇がかすかに動いた。

「……ありがとう」

その声は風よりも小さかったが、確かに届いた。

ヴェラは、もう一歩踏み込み、低く告げた。

「あの子たちのためにも――ご自身の行いを、どうかお考えください。今なら、まだ間に合います」

ルドミラは一瞬、顔をこわばらせた。
そう、この時点ですでに、蒼の一族の領地では小さな反乱が芽吹いていたはずだ。
彼女はそれを知っていたはずだ――そして、おそらく何もしなかった。

何も言わず、ルドミラは深く一礼し、娘たちを連れて去っていく。
その後ろ姿を、ヴェラは静かに見送った。
かつては拒んでしまった、小さな手。そのぬくもりが、まだ腕に残っている。

ーー私は”前回”、あの子供達の手を制してしまったーー

マントの裾をつかむ幼女達を「触らないで……」と拒み、泣かせてしまった。

ルドミラには「あなたが口を出していい立場なの?」と厳しく言われ、元々ヴェラに対して冷淡だった蒼の妃は、それ以来一層ヴェラに対して態度をかたくなにしてしまった。

ヴェラの頬を、扉の隙間から流れ込んだわずかな外気が撫でる――冷たく、澄んでいて、それでいてどこか懐かしい。

廊下の向こう、雪明かりが床に帯のように伸びている。
ルドミラが青いマントを翻し、二人の子らを連れて歩いていく後ろ姿が見える。
ひとりが振り返り、ヴェラに手を振った。


――あの子らの未来に、どれほどの夜が待つのだろう。
ヴェラはそう思いながら、胸に手を当てた。

鼓動が静かに、しかし確かに刻まれている。
その音は、祈りにも似ていた。

外の空は、灰のように薄く曇っていた。
遠くで鐘が鳴る。
一度、二度、三度――その音が雪の空気を震わせ、彼女の内側へと染み込んでいく。
まるで神の声が、また世界のどこかで目を覚まそうとしているように。

ヴェラは目を閉じた。
光の残像が、瞼の裏でゆらめく。


――もし、この選択で、未来が少しでも変わるのなら。

そう願った瞬間、世界が真っ白な光に包まれた。

  

”神の声”が、深く、澄んだ響きで告げた。
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