雪の残響 ~エラリア帝国の終焉~

Dragonfly

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回帰4

沈黙の祝宴

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暖炉の赤い炎が揺れる広間に、香と花が贅沢に飾られ、天井の高みでは黄金の燭台が鈍く輝いていた。
テーブルの上には、肉の焼ける匂い、熟した果実の甘い芳香、芳しいワインの香りが混ざり合い、まるで帝都そのものの豊かさを凝縮したようだった。

真っ白な光は消え……テーブルの周りに、皇帝とその妃、妃たちの親族、そして子供たちが並んでいるのが見える。

頭の芯が割れるように痛む中で、ヴェラの目は蒼の妃の席にいるのがまだルドミラであることを認めた。

――これは、蒼の地方での暴動の少しまえ。翠の妃イレーネが、懐妊したことを祝う宴……?――

紅の一族の長である、ハーモニアの兄アレクセイの姿が見える。

蒼の一族の有力者であるアンドレイは、ルドミラの養父。そして、翠からはイレーネの祖母である女族長のタチアナ、黄の一族からは長老のグレゴリーが来ており、彼はカタリナの祖父でもあると聞いた。

白の一族のミハイルの姿はなく、代わりに一族内の他家の有力者であるアントンが参加していた。こういう形式的な場には極力現れず表に出ることを控えているのが、いかにもミハイルらしい。

それはまるで、この帝国の縮図だった。

そして、中央には皇帝アルセニイがいる。普段はハーモニアが控えているその隣席に今日座っているのは、翠の妃イレーネだ。


豪奢な銀器や金の装飾、壁を覆う織物には黄金の鷹の文様、並べられた果物の山——そのすべてに、既視感がある。

豪勢なこの宴のすべてを支えているのは、黄の妃カタリナとその一族だ。
古くから鉱脈を握り、莫大な財力で帝国の根幹を形作ってきた家。
彼らが動けば、城の石すらも黄金の色を帯びると言われる。

翠の妃イレーネは、控えめな微笑みを浮かべながらも、どこか誇らしげに胸を張って座っていた。
つややかな黒髪は複雑に結い上げられ、瞳の色と同じ翠の繊細な髪飾りに彩られている。
浅黒い頬には幸福の赤みが差し、まるでその身に宿る命が光を放っているかのようだった。

幸福に包まれた笑みの奥には、他の妃たちに対する微妙な優越感が漂い、誇り高き家柄の自信が滲んでいることがヴェラにはわかる。自分の置かれた立場への痛みが、強く胸に押し寄せた。

皇帝アルセニイはヴェラをひときわ寵愛してはいるが、だからといって他の妃たちのもとを訪れぬわけではない。
紅、黄、蒼——それぞれに子をもうけている。
病死した先代の白の妃の子を含めれば、すでに後宮には九人の子が生まれ、皇帝の血脈は四方八方へと枝分かれしていた。
均衡は常に揺らぎ、その綱の上で妃たちは笑みを保ち続ける。

そして、翠の妃は、今回が初めての懐妊だった。
豊かな森林と穀倉地帯を領土に持つ翠の一族にとって、それは一族の誇りと権勢をさらに強める、何よりの吉報だった。

「めでたいな、翠の妃」

皇帝の低く柔らかい声が広間に響く。

イレーネは微笑み、わずかに胸を張って腹に手を当てた。

「ありがとうございます。皆様に見守られ、無事ここまで来られて……この命の重みを、あらためて感じております」

その顔は、まぶしいほどに晴れやかだった。
その幸福の輝きが、ヴェラの胸の奥を静かに刺す。
祝福の場にふさわしいとわかっていながら、胸の奥がざらつくような痛みに満たされていく。

イレーネは、ヴェラより少し年下。
そのせいか、あるいはもっと別の理由でか、彼女は素直に皇帝を慕い、紅の妃ハーモニアの猛々しい凛々しさに素直な羨望のまなざしを向けている。
その分、ヴェラに対しては、いつも氷のように冷ややかだった。
視線は刺すほど冷たいのに、どこか子供じみていて愛らしく思える時もある。それが、かえってヴェラの胸を苦くした。

隣に座る黄の妃カタリナが、細い扇を唇にあて、ヴェラの耳元でささやく。

「白の妃よ、あなたもそろそろではなくて? あれだけ皇帝の寵愛を受けながら、まだお子がないのも、ねぇ」

その声はまるで香の煙のように淡く、それでいて毒を孕んでいる。
”前回”のヴェラはその柔らかい言葉に威圧され、沈黙するしかなかった。
だが、今の彼女はわずかに息を整え、微笑みを保ったまま言葉を返す。

「ええ……ですが、黄の妃のお子様も、お嬢様おひとりではなくて?」

少しだけ挑むように返すと、カタリナの金色の瞳が面白そうに細められた。
最も古くからの妃である彼女には、十歳になる娘がひとりいるだけ。
だがその瞳の奥には、すべてを支配する者の余裕がある。

「あら、言うわね。でもいいのよ、私はこれで充分」

扇を閉じ、視線をゆるやかに巡らせる。
煌めく装飾、流れる音楽、果実の山——その全てが、彼女の財の証。
この宴そのものが、彼女の影で編まれている。

「いたずらに帝国の均衡を崩すものではないわ。私も、私の一族も。望むのは、頂上ではないのだから」

そう言って、カタリナは意味深に皇帝へ視線を送った。

「頂上でなければ、何を望まれているのですか?」

思わず、ヴェラは問うた。カタリナは、あいまいに微笑む。

「滅びないこと……かしらね」
「えーー?」
「私の両親はね――土地が干ばつに見舞われた年に、飢えと渇きと病で亡くなったのよ、白の妃。私は、家族を愛していたけれど、その時に知ったの。愛だけがあっても、力がなければ守れない」

カタリナの瞳が、少しだけ遠くを見る。彼女のあいまいな態度や行動の裏の強さを垣間見たような気がして、ヴェラは軽いめまいを覚える。

アルセニイはイレーネを隣に座らせ、彼女を賞賛する言葉をかけ続けながらも、その視線でヴェラの肩から指先までを撫でている。
その熱に、ヴェラの胸は静かに震えた。

前回のヴェラは、この圧倒的な視線の前でただ俯き、心の中で怯えるしかなかった。だが今は違う。胸に渦巻く恐れと痛みを、わずかでも制御しようと試みる自分自身がいる。

「懐妊できれば……しばらくは、収まるわよ。うまくいけば、その間にあなたに飽きてくれるかもしれない」

耳の奥に届いたカタリナの囁きに、ヴェラは目を見開いた。
そんな考え、今までしたことがなかった。
皇帝に寵愛されることが“羨望”を生むことも“災い”になることも、よくわかっていなかったあの頃はもちろんのこと、今回も。

イレーネは、皇帝の視線を横目にとらえ、ほのかに肩をそびやかしている。
懐妊してから少し変わったその微笑みは、穏やかさの奥に優越の色を滲ませていた。

「これからは、私のことも、もっと尊重していただかなくてはなりませんわね、陛下」

わずかに棘のあるその言葉に、皇帝は気づかぬ様子で微笑を返し、杯を掲げた。
彼が新しい命を彼なりに喜んでいることを、ヴェラは感じる。そのことが、いっそう胸を締めつけた。

「陛下は、”神の代理人”。神の声が語らぬと言われている昨今ですが、神は陛下を通じて語っておられるではないですか」

イレーネの朗らかな声が、広間の空気を微妙なものにする。危ういほどに無邪気なその発言に、皇帝の顔が苦笑めいた歪みを形づくった。

「語っているのは、人である余だ、翠の妃よ」

その声は柔らかいが、温度は冷たい。イレーネは一瞬怯み、それでも強く続けた。

「けれどーー私は、そこに神の意志を見ます」

皇帝は何も答えなかった。ただ、曖昧な微笑みだけを浮かべてイレーネの肩を撫でている。
カタリナが、さらにヴェラに身を寄せる。

「逆に……」

その声は、一際低く落ちた。

「このままだと、翠の妃が出産するまで、あなた――忙しくなるわね」
「忙しく……なる?」
「そう。陛下があなたを訪れる回数が、きっと増えるわ」

その言葉の意味を理解した瞬間、ヴェラの背筋に冷たいものが走る。
――”前回”もそうだった。
皇帝の寵愛を、その訪れを受け過ぎて、他の妃たちの敵意を煽った。
彼は、いつだって均衡を壊す。まるでそれが、楽しい遊びであるかのように。

思わず小さなため息がこぼれた。
カタリナはその音を聞き逃さず、口元に愉しげな笑みを浮かべる。

「あなたって、本当に真面目で初心なのね、白の妃。うらやましいような気もするけれど……私には、無理だわ」

その目が再び広間を見回す。
この場のすべてを真に支配しているのが、皇帝でも武力の権威でもなく――自分とその一族の力であると、確信している眼差しだった。

「陛下の来訪を、”上手な嘘”でかわすすべなんて、いくらでも考えられるじゃない」
「……上手な、嘘?」

ヴェラは呆然とつぶやいた。
唇の内側に血の味を感じるほど、強く噛んでいたことに気づく。

――嘘。
それは彼女が、最も避けてきたものだった。

だがそれは、金の妃カタリナにとっては、うまく生き抜くための手段のひとつにすぎないのだ。

妃達それぞれの微笑――それはこの宮廷における均衡を象徴している。その均衡の上で、ヴェラがどれほどの存在でありうるのか、どれほどの影響力を持ちうるのか。

愛は力になり得るのか、それとも、均衡を崩す刃にしかならないのか――前回のヴェラは、それを見誤り、運命に身を委ねてしまった。

――私が選ぶべきは、流される道ではなく、真に守るべきものを思う道――

世界が、再び真っ白な光に包まれていく。

  

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

その光の中、ヴェラの意識は、静まり返った回廊の空を漂う。

宴のざわめきが遠のいた後――翠の妃イレーネが、翠の女族長タチアナと並んで、回廊を歩いているのが見える。
二人の足音が、冷たい大理石に小さく反響する。
空は曇り、月光は雲に閉ざされ、風だけが祝宴の残り香をかき消していた。

イレーネの掌は、その腹部へと添えられていた。
その奥にあるのは、まだ小さな命の鼓動。

「神は、沈黙をもって陛下を承認されている……」

と、その唇が、小さく動いた。

「本当に、そう思われますか?おばあ様」

不安をたたえた翠の瞳に見上げられ、同じ色の瞳を持つ老いた貴婦人は不思議そうに小首をかしげた。

「当然ではありませんか。何を言っているの?イレーネ」
「本当に、そうなのでしょうか?」

イレーネの声は、今にも消え入りそうに細い。

「もしこの子が、“神に選ばれぬ”存在だとしたら?もし、神の沈黙が“否”を意味しているのだとしたら?」

小さな声が、回廊の冷たい柱に吸い込まれる。
タチアナは、眉をひそめるだけで、答えない。答えるまでもないーーと、言いたげな顔だった。

「私ーー怖いのです、おばあ様」

イレーネのつぶやきをかき消すように、外の風が窓を叩き、遠くの鐘がひとつ鳴った。

少女の翠の瞳から、涙がこぼれる。
掌に落ちるそれは、母になろうとしている娘の涙だった。

「私には、何もわからないから」
「信じるしか、ないのです」

老貴婦人の言葉は、穏やかだが冷たかった。

「私たちにできることは、それしかないではありませんか」
「信じるしか、ない。信じるしか……」

イレーネの声は小さく、繰り返すことで自分自身に必死に、その言葉をしみ込ませようとしているようだった。

「信じる……」

イレーネは、立ち止まる。涙をたたえた翠の瞳が、宙をあおいだ。その色が、濃淡の間を様々に揺れ動く。

その目に”ヴェラ”の幻は映ってはいないが、瞳に宿った恐れと孤独が、それをのぞき込むヴェラには痛いほど伝わってくる。

そのイレーネに、祖母の冷厳とした声が落ちた。

「あなたが本当にその子を守りたいのなら、そうするしかないのです」 
「はい……」 

イレーネは、小さな両手で涙をぬぐう。 

その目が、新たな何かを宿して固く光った。 

「神の沈黙こそ、承認……」 

つぶやく声は、これまでになかった響きをはらんでいる。 

  

思わず声を上げかけたヴェラの脳裏に、”神の声”が、響いた。 

世界はまたしても白くーー雪よりも氷よりも白く――塗りつぶされていく。 
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