ゆかり

あさのいりえ

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置き去り

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 どうしてそんなに笑えるのか、久しぶりに見る妻の明るい笑顔だった。
 帰り着いた家の灯りも、明るかった。
 妻はテレビを観ていた。
「おかえりなさい。遅かったわね、夕食はお先に頂きました。あなたいつものお茶漬けですか?」
 今までは、練習の後飲んで帰ることが多かった。アイツが突然逝ってしまうまでは。
 ギター教室もアイツに誘われて始めた。もうすぐ発表会で披露するはずだった。
「ただいま、ありがとう。お湯は自分んで沸かし直すよ。」
「お湯は沸かしたばかりだから、お漬物出すわね。」
 妻は声は冷たいが、優しかった。
テレビで、通園バスの置き去り防止の為の装置が取り付けられている話がされていた。
「取り残されて亡くなった子は、寂しくて辛くて悲しかったでしょうねえ、2度と起こってほしくないわね。」
「そうだね。」
 相槌を打ちながら、お茶漬けを食べた。
 妻が食卓で付き合ってくれるなんて、珍しかった。アイツが亡くなって気落ちしていると、思っている様だった。実際その通りだった。
「あなたも私達を置き去りにした事あったわよね。」
 忘れていた思い出。子どもが小さい頃、会社のそばでお祭りがあった。妻と子と駅で待ち合わせをしていた。休日出勤して書類を置いてくるだけだった。それが、そのままアクシデント発生で対応していたら夜になって、昼食にと入った店で別れ、そのまま置き去りにした。2人を完全に忘れていた。そして彼らより先に家に帰ってしまった。
 たぶん死ぬまで言われ続けるだろう。
「あなたには置き去りにされる気持ちなんてわからないでしょ。」
「わかるよ。」
 今日はギターの練習日だった。発表会までの予定はアイツが決めてレッスン室も予約していた。今日はアイツのお気に入りの娘が受付にいる日だった。優しくて気働きのできる娘だった。
 アイツは受付で彼女といつも長話をしていた。
 今日も、私ひとりにも笑顔で対応してくれた。他のひととの会話から、彼女の幼い息子が熱を出しているらしいこと。そして皆が時間通りに、遅くなることなくレッスン室を退去することをピアノレッスンの人達が約束していた。
 気がつくと練習時間を大幅に過ぎていた。今までは受付の彼女と話したいアイツが早目に切り上げておしゃべりした後、終了を知らせに来てくれていた。
 片付けをして廊下に出ると真っ暗だった。非常灯が付いているので受付に向かった。
 誰もいない。声をかけてみたが、誰も出てこない。玄関のドアのカギもかかっていた。そっとドアを開けて出た。外は街灯も明るく、ギターを背中に背負い歩き始めた。アイツがいた時はアイツの奥さんが送り迎えをしてくれていた。今夜はバスで往復するつもりで時刻表も確認していたが、この時刻のバスはわからない。バス停に着いたが、30分は待たなければならない。歩いて帰ることにした。
 夜道は街灯もあり、自動車も頻繁に行き交っていた。
 この世界にたったひとり取り残されているような気持ちになった。
 この話を妻にどのようにすればよいのか、わからない。
 不意に家の電話が鳴った。何故か、妻が立って受話器を取った。珍しい。
「はい、帰ってきました。かわりますね。」
「あなた、教室の受付の方から。」
 妻から子機を渡された。
「はい、そうです。」
 受付の彼女は、無事で良かったこと、置き去りにして帰ったことを謝って涙声だった。
「ビックリはしました。真っ暗だったんで。」
「こちらこそ時間通りに終われば良かったのに、そうです。いつもは部屋にあいつが知らせに来てくれていたので。」
「あなたがお子さんのことで気が急いていたことも知っていたのに。」
「こちらこそ、すまなかった。そうですか、何度も電話をくれたんですね、ありがとう。」
「いや、実はバスの時間が合わず歩いて帰ったんで、時間がかかったんです。30分は過ぎずに教室は出たと思います。すれ違ったんですね。鍵をかけずに出たので心配だったんですが、大丈夫でしたか?」
「そうですか、それは良かった。発表会も近いのでこれからもよろしくお願いします。」
 目の前で、会話を聞いていた妻は笑っていた。
「置き去りにされたって、今夜なのね。私はてっきり。」
と言いながらお茶を注いでくれた。
「心配して、なんか損しちゃったなあ。」
「置き去りにされちゃったのね。」
 朗らかに笑い始めた。

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