ゆかり

あさのいりえ

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ビート

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 久しぶりのスタジオ練習だった。
 次のライブまで実はあまり時間がなかった。明後日の日曜日が本番だった。なのに、それぞれが家で練習しての初音合わせの日だった。
 幾つになっても、みんなのそれぞれだった音が重なり共鳴していくこの瞬間がたまらなく好きだ。皆がひとつになって曲を奏でていく。
 悩みや不安が消えていく。音の間違いもご愛嬌。互いにアイコンタクトを取りながら、ビートを刻んでいく。楽しい。
 練習が終わり、ひとり車で帰る。本番が楽しみだ。
 今週はとても体調が良い。もう3週間自宅に帰れてない。仕事も忙しかった。自炊もできるが、外食とスーパーの値引き弁当ばかりの毎日だった。
 食欲もあり、よく眠れる。
 ハンドルを握る指でビートを刻む。
 ライブ当日は快晴だった。地域の秋祭りのステージに立つことだった。
 明るい日差しの中で、手拍子もあり、気持ち良く演奏できた。
 幸せだった。悔いの無い日々。満たされた気持ちに、幸せな人生を歩んできたと思った。
 祭りなので様々な出店があり、自分達の演奏が終わってもステージの片付けを手伝うのでブラブラしながら過ごした。
 いろいろな国のお菓子や料理もあった。ピロシキやボルシチの出店があって、ピロシキが好きなので食べてみることにした。美味しかった。ボルシチも勧められけれど、もう入らないというとテイクアウトできると押し切られて買ってしまった。
 バンドのメンバーが寄って来て、ピロシキが美味しそうに見えたのか、皆んなも買って、テーブルについて食べることになった。そうなるとアルコールを探したりツマミを探したりしてしまうのが、オヤジバンドらしいとも思えた。
 ボルシチの話になった。シチューとトマトスープとボルシチの違いから、ボルシチの赤いのはビーツを使っているからと。
 ビーツはスーパーフードである。様々な栄養素を含み素晴らしい野菜だと力説したのは、助っ人ボーカルのおばちゃんだった。
 笑って聞いていた先輩が言った。
「ビーツ食うと赤い、まるで血便のようなもんが出るだろう。俺は食った時に本当に驚いたんで、もう食べたくないなあ。」
 皆笑っている。血便のような!。そうなのか。
「最初驚いて、母ちゃんをトイレに呼んだんだ。嫌がっていたけれど、見てビックリさ。鮮やかな赤色に今すぐ病院に行こうと言い出した。夫婦でもうパニックだった。」
「結局、日曜だったんで、明日まで様子を見ることにした。落ち着いて考えると、腹痛や吐き気も無く体調は良かった。外出せずに、横になって過ごしたものの、腹は普通に減るし訳がわからなかった。」
 皆んな笑いながら聞いている。
「便を取っておくのはどうやって良いか分からず写メを撮っておいた。」
「結局、次の日かかりつけの内科に行った。昨日何食べたか聞かれて、ボルシチと言ったら、写メを見て「ビーツですな。」と笑顔で言われた。」
「俺が初めてでは無かったらしい。赤い便は2日ぐらいは続くから、3日過ぎても続いていたら、それは病気かもしれないので来院してくれって。」
「あれっきり病院には行ってない。」
 皆んな笑っている。写メ残っているかなんて聞いたりした。
「ビーツって生でも食べられるのかな。」恐る恐る聞いた。
「生でもサラダで食べれるんだぞ。茹でても蒸しても良いし、スゲエ鮮やかな赤なんだ。」
 氷解。
 この3ヶ月のモヤモヤしていた心がまさに溶けていった。
 単身赴任先のここは、大学時代の軽音楽部の親しかった先輩の故郷だった。赴任して直ぐに連絡をとった。そしてバンドに誘われた。
 バンドに入ると練習と飲み会が増えていった。
 自宅に戻る回数が減っていったが、
変わらず優しい妻が待っていた。
 最近、野菜料理に凝っているらしく、健康的な料理が並んだ。見たことも聞いたこともない珍しい野菜が必ずあった。
 妻の機嫌はすこぶる良かった。
 半年前から、たまに月曜に血便が出ることがあった。ひとりの部屋で、恐怖だった。仕事は忙しかったし、最初は痔かと思っていた。ストレスのせいかとも思った。
 病院に行くべきか悩んでいる間にいつのまにか普通に戻っていた。
「片付けが始まったようだ。行くぞ。」声をかけられて、我に返った。
 今夜は、ボルシチだ。

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