鈍感なオメガは3兄弟に溺愛される

キルキ

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乾いた音とともに、頬に痛みが走る。

「なんであんたなんかが井原先輩と……っ!」

美人な女性は悔しそうに顔を歪めると、ヒールの音を響かせながら、走り去っていった。ジンジンと痛む頬を抑えながら、その後姿を見送る。こんな経験をするのは何度目だろうか。

俺にはかねてからの番がいる。4つ年上の男性で、大学を卒業した今では貿易関係の企業に勤めている。

彼と出会ったのは幼少期。保育園に通っていた頃だった。母親の友達が三兄弟の息子を連れて我が家を訪れた。その時の俺は初めて会った人が苦手で、人見知りをしてたのだが、そんな俺にたくさん話しかけてくれたのが今の番である紘一だった。

三兄弟の中でも大人びていた彼は当時は小学生で、一番俺の世話を焼いていた。その時の俺は初めてできた年上の友人に戸惑っていたものだが、俺を外に連れ出して公園を探検したり、絵本を読み聞かせてくれたりしたものだ。

その三兄弟とはなんだかんだで長い付き合いとなり、いわゆる幼なじみという関係に至った。まさか兄弟の一人である紘一と、番になるとは夢にも思っていなかったけれど。

手持ち手無沙汰になり、リュックにつけたカエルのキーホルダーを指先でいじっていれば、待ち人の声が聞こえてくる。

「春斗、おまたせ。……え、どうしたのそれ」
「あー、えっと……」

スーツに身を包んだ紘一が、俺を見下ろしていた。視線の先は、俺が先ほど打たれた場所である。

大学から帰るついでに、時間が合うときは紘一が勤める会社で彼を出待ちするのが日課だった。一緒に帰りたいと言えば車に乗せてもらえるからだ。車移動が一番楽だし、オメガになってからというもの、いつ襲われるか分からないという危機感が芽生えて、公共交通機関を使うのが怖くなってしまった。紘一から一緒に帰ろうと誘ってくれることも多い。まあそのせいで紘一に恋する会社の同僚とかに、目の敵にされてしまうのだが。

最近はヒートの予定日が近くなっていたため、いつ発情してもいいように毎日一緒に帰るようにしてた。

「そういえばさっき、今田さんとすれ違ったけど……もしかしてまた、」
「い、いや、大丈夫!今日はその、勉強してたら机で寝ちゃって。その時の跡が残ってしまったみたい」
「本当に?嘘ついたらだめだからね?」

じろりと顔をのぞき込まれる。疑わしげな表情の紘一に曖昧な笑みを浮かべると、深くため息をつかれた。ああ、嘘がバレちゃったかなこれは。

「あの人のことを春斗がかばう必要なんかないんだからな。今田さんには後で俺から言っておくから。怖かっただろ、ごめんね」
「大丈夫……あのさ、そんなに強く言わなくていいから。あの子は紘一のことが本当に好きで、悪気はないんだよ」
「頬が赤くなってる。これで悪気はないとか思えないかな」
「俺のせいで紘一と会社の人が気まずくなる方が嫌だよ」
「……そこまでいうなら。まあ、うまい感じに言っておくよ」

紘一が眉間を押さえながらため息をついた。モテる男は大変だな、と言うと、なんでそんなに他人事なんだと怒られる。

「それで、体の調子は?そろそろヒートが来そうなんだよね?」
「う、うん。なんか身体が熱いし、来そうかも」
「会社の人には、そろそろ番のヒートだから休みを入れると言ってあるよ。仕事柄、あんまり長く休めないけど。いつでも休めるようにしてるから。……いつも思うけど、もっと長く休み取らなくて大丈夫?」
「大丈夫だって。ほら、もう帰ろ。早く部屋に行きたい」

ぎくりとしながらもうなずいて、紘一の腕を引っ張った。こうすれば紘一がすぐに俺についてきてくれるのを知っているからだ。

車に乗り込めば、番の、紘一のにおいがした。リュックをその辺に放る。緑色のマスコットごと転がっていくのを眺めつつも、腹の中が疼くのを止められない。
後部座席に杜撰に脱ぎ捨てられたシャツを手に取った。意外と紘一は、こういったところでズボラな面がある。

「後ろに乗りなよ。もっとあげるから」

言われるがままに後部座席に転がった。この時点で自分の理性が半ば溶けかけていたが、それに気づかずに紘一のにおいがするものにごろごろしていた。追加でもらったジャケットを顔を埋めていると、吐息交じりの笑い声が聞こえる。

「ああ、気にしないで続けてよ。ネクタイもあるけどいる?」
「…………あんま見ないでくれる」

前方の座席から、微笑ましそうにこちらを見る紘一がいた。ネクタイを奪うように受け取って、握りしめる。紘一のにおいで我を忘れてしまった自分の行動が、いまさら恥ずかしく思った。

ネクタイと一緒にキャラメルが手の中に転がり込んでくる。紘一がいつも持ち歩いているお菓子だ。口に含むとやさしい味がして、少し気が紛れた気がする。

紘一からもらったネクタイが宝物のように思えて、胸元に抱えていると、髪を梳かれた。そのまま頭を、項を撫でられる。大きな手に触れられるのが心地良い。

「俺のにおいで、発情したの?……いっぱいフェロモンでてるね」
「うん……」
「気持ちいいんだ?……家まで我慢できる?」
「うん……」
「いいこ」

いつもいつも自分ばかり余裕なくて悔しい。でもハンドルを握ってる俺の番、かっこいい……。

身動きしながら首元に触れば、首輪が指に引っかかる。

発情入りかけのとろとろの思考が一番苦手だ。紘一から無理やり視線を外して、息を吐く。このままどんどん馬鹿になってしまいそうな自分が嫌だった。

車が動き出す。寝転がって、流れる窓の外の景色を眺めた。

ヒートを共に過ごせる番がいるのは、オメガにとって最上の幸福だ。だというのに、満たされない。心も身体も満たされない。

こんなに大切にしてもらっているのに、思われているのに、彼は俺を愛していないのだ。

番になってから10年目、俺たちはまだ、セックスをしていない。
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